山陽自動車道に架かる極楽寺橋で極楽寺参道(廿日市参道)の橋だったが、現在開発中の平良丘陵開発のために通行止めとなっている。銘板によると昭和60年(1985)2月に築造されたようである。自動車道の上画像は上り方面で、下画像は下り方面で右端と左端の路線は宮島サービスエリアに出入りの路線である。極楽寺橋
旅のつれづれで訪れた芝居小屋・劇場を紹介しよう。愛媛県内子町にある内子座で国の重要文化財に指定されている。内子町の重要伝統的建造物群保存地区「八日市護国」から続く街並みの中にある芝居小屋で大正5年(1916))に内子町の有志によって建設されたようである。内子町内には当市と同じ地名で以前にも紹介した廿日市地名がみられるのである。(平成19年(2007)撮影)※当方「はつかいちぶらり」と放浪が出来ませんので、しばらくの間老化防止のためストック画像から更新しますので宜敷くお願い致します。芝居小屋・劇場-内子座
長野県佐久市にある西洋式城郭の龍岡城で、城内には当時の御殿の一部御台所が移転現存しているのみで他の部分は田口小学校の用地となっている。龍岡城は元治元年(1864)に着工して慶応3年(1867)に竣工したようであるが、周囲を廻ってみると石垣の簡略化や堀などの未完成部分もあるようである。(平成23年(2011)撮影)(下画像-GoogleEarth画像より)西洋式城郭-龍岡城
旅のつれづれで訪れた西洋式城郭を紹介しよう。北海道函館市にある西洋式城郭の五稜郭で、郭内には築造当時の兵糧庫が現存しており、かつての函館奉行所建物が部分復元されている。幕末に函館開港が決定し幕府は函館に函館奉行を設置して安政4年(1856)から奉行所(五稜郭)の工事が開始され元治元年(1864)に完成した。明治元年(1868)に江戸幕府が崩壊して奉行所の機能は終わったようである。(平成27年(2015)撮影)(下画像-函館博物館五稜郭分館図録より)西洋式城郭-五稜郭
愛媛県宇和島市にある宇和島城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり、国の重要文化財に指定されている。別名は鶴島城といわれているようである。現在の天守閣は、創建当時の天守閣が寛文2年(1662)から寛文11年(1671)に修築されたもののようである。(平成27年(2015)撮影)現存天守閣-宇和島城
早朝、田んぼを見るとカモのつがいであろうか2羽がいた。盛んに首を水中に突っ込んで餌を食んでいた。しばらくするともう一羽やってきてトラブルとなって三羽とも逃げ去ってしまった。田んぼにカモが!
愛媛県松山市にある松山城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり、国の重要文化財に指定されている。別名は金亀城、勝山城といわれているようである。創建当時の天守閣は宝永19年(1642)に改修され、天明4年(1784)に焼失後、安政元年(1854)に再建された三代目の天守閣のようである。(平成19年(2007)撮影)現存天守閣-松山城
昨日紹介した高知城内には城内の守護神として厳島神社などの四社が勧請され祀られていたようである。厳島神社は明治4年(1871)に吸江弘化台の山中に遷座されたようであり、現在城内社跡には小祠が祀られている。高知城内神社-厳島神社
高知県高知市にある高知城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり、国の重要文化財に指定されている。別名は鷹城といわれているようである。創建時の天守閣は享保12年(1727)に焼失し、延享4年(1747)に焼失以前のものと同じように再建されたようであり、小規模な本丸御殿も残されている。(平成28年(2016)撮影)現存天守閣-高知城
香川県丸亀市にある丸亀城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり、国の重要文化財に指定されている。別名は亀山城、蓬莱城といわれており、現存天守閣のうち最小の規模のようである。天守閣は江戸初期に山崎氏により再築されたものとみられている。(平成23年(1900)撮影)現存天守閣-丸亀城
松江市にある松江城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり、国宝天守閣5城の一つでもある。別名は千鳥城といわれている。天守閣内の柱に複製祈祷札2枚が取り付けられており、この祈祷札の墨書から天守閣の完成が慶長16年(1611)以前とみられ国宝指定の要因の一つとされたようである。(平成30年(2018)撮影)現存天守閣-松江城
岡山県高梁市にある備中松山城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり、国の重要文化財に指定されている。別名は高梁城といわれており、現存天守閣12城のうち唯一高い山上にある天守閣である。天和元年(1681)から天和3年(1683)にかけての大修築での天守閣のようである。(平成28年(2016)撮影・下画像の上側は昭和後期撮影)現存天守閣-備中松山城
旅のつれづれで訪れた現存天守閣を紹介しよう。姫路市にある姫路城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり、国宝天守閣5城の一つでもある。大天守、東小天守、西小天守、乾小天守などが国宝のようである。別名は白鷺城といわれており、現存五層天守閣は姫路城と松本城のみである。慶長13年(1608)に天守閣の上棟しており翌年に大天守、小天守などの工事が終わっているようである。(平成29年(2017)撮影)現存天守閣-姫路城
滋賀県彦根市にある彦根城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり、国宝天守閣5城の一つでもある。別名は金亀城といわれているようである。彦根城の築城時期については慶長8年(1603に着手して、元和8年(1622)にすべてが完成したようである。(平成29年(2017)撮影)現存天守閣-彦根城
広電の宮島口駅の移設工事の進捗状況を時折り紹介しているが、現在何の工事が行われているのか定かでない。一部のケ所にレールが敷設されているようである。看板表示によると工期は2023年3月31日までとなっているが、下画像のような従来の駅舎には見られないような斬新な駅舎が出来るようである。(下画像-広島電鉄サービス向上計画より)広電宮島口駅整備工事の今
昨日、「この木なんの木気になる木/日立の樹」を作曲した小林亜星さんの訃報が報道され、数日前に作詞をした伊藤アキラさんの訃報が報道されていた。平成26年(2014)に子・孫達とハワイ、オワフ島のモアナルア・ガーデンのモンキーポットの大樹を見に訪れたことが思い出された。公園内にはハワイ王国時代のカメハメハ5世の建てた別荘跡が残されていたが当時修復中であった。「この木なんの木気になる木/日立の樹」
田んぼの田植えも終わって陸稲の苗も畑植えした。陸稲の苗を貰ってから種籾を採って二度目の栽培であるが何の知識もなく我流でのまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-陸稲
今年の田植えは助っ人頼みで昨日やっと二便の田植えを済ませることが出来た。本日三便の田植え中であり、平良地区での田植えの大取りを勤めることになった。やっと代みて(泥落とし)となりそうだ。以前紹介した玄米から苗を育てた黒米と赤米の苗も片隅に植えてみた。田植えの大取り
福井県坂井市にある丸岡城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり、国の重要文化財に指定されている。別名は霞ケ城といわれている。丸岡城天守閣の築造についての確定的な資料はないようで、寛永年間(1624~1644)頃とみられている。天守閣の屋根瓦は以前にも紹介した笏谷石で作られた石瓦で葺かれている。(平成23年(2011)撮影)現存天守閣-丸岡城
長野県松本市にある松本城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり、国宝天守閣5城の一つでもある。別名は深志城といわれている。松本城は五層の天守閣で築造についての確定的な資料はないようで、竣工は文録4年(1595)説、慶長2年(1597)説、慶長5・6年(1600・01)説などがあるようである。(平成19年(2007)撮影)現存天守閣-松本城
旅のつれづれで訪れた現存天守閣を紹介しよう。青森県弘前市にある弘前城天守閣で、現存天守閣12城の一つであり国の重要文化財に指定されている。別名は高岡城といわれている。現在の天守閣は文化7年(1810)に棟上げをしているようであり、天守閣は現在石垣の修復工事のために別の場所に曳き移転されている。令和7年度(2025)に天守閣を曳き戻し、令和8~10年度(2026~2028)に天守閣の耐震補強・保存修理がされるようである。(平成27年(2015)撮影)※当方「はつかいちぶらり」と放浪が出来ませんので、しばらくの間老化防止のためストック画像から更新しますので宜敷くお願い致します。現存天守閣-弘前城
滋賀県近江八幡市にある旧八幡東学校(現白雲館)で、明治初期に建築された擬洋風建築の校舎で国の登録文化財に指定されている。正面玄関のポーチや2階バルコニー、六角塔屋、軒裏蛇腹など従来の日本建築にはみられない擬洋風建築である。(平成26年(2014)撮影)近代学校建築-旧八幡東学校(白雲館)
愛媛県西予市にある旧開明学校で、明治初期に建築された擬洋風建築の校舎で国の重要文化財に指定されている。伝統的な木造建築に洋風の半円型の窓を取り入れたもので和風色の濃い擬洋風建築である。(平成27年(2015)撮影)近代学校建築-旧開明学校
滋賀県長浜市にある旧開知学校で、明治初期に建築された擬洋風建築の校舎で国の登録文化財に指定されている。木造の3階建て玄関出入口の丸柱、扇型欄間の出入り口、上げ下げ窓と上下の花形レリーフ、屋根には八角塔屋など従来の日本建築にはみられない擬洋風建築である。(平成30年(2018)撮影)近代学校建築-旧開知学校
旅のつれづれで訪れた近代学校建築を紹介しよう。長野県佐久市にある旧中込学校で、明治初期に建築された擬洋風建築の校舎で国の重要文化財に指定されている。正面玄関ポーチやベランダ、2階バルコニー、八角塔、円柱で柱頭の繰型、繰型礎石、半円の窓上部な、丸窓など従来の日本建築にはみられない擬洋風建築である。(平成23年(2011)撮影)近代学校建築-旧中込学校
旅のつれづれで訪れた近代学校建築を紹介しよう。長野県松本市にある旧開智学校で明治初期に建築された擬洋風建築の校舎で国宝に指定されている。正面玄関部分のバルコニー上部の唐破風の屋根や雲文の手摺、龍の彫刻など和風とバルコニーや八角塔、天使像などの洋風が混在した従来の日本建築にはみられない擬洋風建築である。(平成19年(2007)・平成23年(2011)撮影)近代学校建築-旧開智学校
以前に紹介した熊本県和水町のトンカラリン方面に向かう道路の反対方面にある肥後民家村に対馬の石葺き屋根の倉庫が移築されている。(上画像-平成19年(2007)撮影)園内には数棟の民家や水車小屋などが移築保存されている。福岡県福津市にある宮地嶽神社民家村自然苑内にも対馬の石葺き屋根の倉庫が移築されている。(下画像-令和元年(2019)撮影)苑内には合掌造りや二棟造り、くど造り、鉤屋造りなどの民家が移築されているが維持管理がされてないようであり、ネット情報によると合掌造りの一棟が取り壊されたようである。移築された石葺き屋根の倉庫
石葺き屋根の倉庫平成30年(2018)に対馬を訪れ、佐須瀬・久根浜・久根田舎・上槻・椎根地区などに残されていた25棟の石葺き屋根の倉庫をみることができた。屋根材はかつて島内産出の砂岩を挟む地層(対州層群)の石材を使用したようで、小船越地区で下画像のような地層がみられた。※「はつかいちぶらり」と放浪が出来ませんので、しばらくの間老化防止のためストック画像から更新しますので宜敷くお願い致します。石葺き屋根の倉庫
平成23年(2011)に飛騨高山方面を旅行した時に飛騨民俗村(飛騨の里)を訪れた。園内にはかつて飛騨地方にあった榑(クレ)葺き屋根の民家が数棟移築保存されていた。当地では榑葺き屋根といわれているようである。ネズ、サクラ、カラマツ、ナラ、クリ材などを木の目にそって均等の厚さに裂いたものが榑板のようでこれを屋根に葺いているものである。板葺き石置き屋根の民家④
2015年(平成27年)に佐渡島観光で訪れ宿根木集落の路地を散策していたら2棟の板葺き石置き屋根の建物をみかけた。当地では石置木羽葺屋根というようである。現在、主屋や納屋の屋根約40棟が石置木羽葺屋根に復原されているようで、特徴的な景観のひとつとなっているようである。板葺き石置き屋根の民家③
2010年(平成22年)に中山道宿場跡の妻籠宿の町並みを訪れた時に2棟の板葺き石置き屋根の町屋がみられた。長い町並みを歩いてみたが高い位置に屋根があるのでこの2棟しか目につかなかった。宿場内には板葺きの屋根が数ヶ所残っているようで、建物の保存と葺き替え作業の伝承を目的に順番に屋根の葺き替え作業を行っているようである。板葺き石置き屋根の町屋②
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山陽自動車道に架かる極楽寺橋で極楽寺参道(廿日市参道)の橋だったが、現在開発中の平良丘陵開発のために通行止めとなっている。銘板によると昭和60年(1985)2月に築造されたようである。自動車道の上画像は上り方面で、下画像は下り方面で右端と左端の路線は宮島サービスエリアに出入りの路線である。極楽寺橋
従来の極楽寺参道(廿日市参道)は平良丘陵開発で消滅してしまった。現在は宮島サービスエリア上り線の側道を進んで107段のブロック階段を登っていくと従来の参道となる。ブロック階段脇には名も知れない(当ブログ主が知らぬだけかも)小さな花がたくさん見られた。107段のブロック階段
ソメイヨシノは葉桜となりつつあるが、ウォーキング途中では八重桜やウコン桜がみごろであった。また道中では白やピンクのハナモモや細い花びらの集合体花のベニバナトキワマンサクなども花盛りであった。春爛漫
ウォーキング途中の道端でみかけた花で上段は休耕地の田んぼに沢山のタンポポの花が咲いていた。中段の花は荒れ地に生えていたもので、Googleレンズで検索するとグラジオラストリスティスという長い名前の花のようである。下段の花はムラサキハナナのようである。路傍の花
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況で東側のコンクリート躯体工事はほぼ終わっているようで周辺整備が残っているようであった。コンクリート護岸の下流側で狭まっているのだろうか・・・市道堂垣内広池山線工事の今
上平良堂垣内地区にある速谷溜め池で昭和18年(1943)に築造されており、灌漑面積は5町(5ha)だったようである。現在流域は市街地化して田んぼはほとんどないような状態である。先日の新聞報道で災害リスクを無くするために2か所の溜め池を廃止していくとのことであったが、この溜め池はどのようになっていくのであろうか。速谷溜め池
ウォーキング途中、以前にも紹介したが道路脇の笹藪にある米国ゼネラルモーターズのキャデラックの現在の状態で注意して見ないと通り過ぎてしまいそうである。下画像は以前の状態であり見た感じでは朽ちかけたような状態ではなくレストアすればレトロな車で町中を走っていると振り向かれそうであるが・・・笹藪のキャデラックが!
ウォーキング途中で古い納屋を取壊しされておりそばに懐かしいメゴ(目籠)があった。親の時代には農作業の運搬に使用しており、メゴを制作していたのも覚えている。下画像は遥か昔にメゴ造りの詳しい方に教えて貰いながら、あずって作った直径25㎝の小さなメゴであるがどうやって作ったのかもう覚えていない。メゴ(目籠)が!
安芸高田市八千代町佐々井に祀られている厳島神社で、看板表示によると正和2年(1312)にはすでに鎮座していたようである。昨日紹介したように毛利氏は厳島明神を崇敬しており毛利輝元は木材を寄進して社殿を造営させているようである。ずらりと並んだ石燈籠は新しい時代に寄進されたものであるが圧巻である。各地の厳島神社㉘-佐々井嚴島神社
安芸高田市吉田町長屋に祀られている嚴島神社で、元就卿御教訓状に「・・・厳島を皆々御信仰肝要本望たるへく・・・」とあり、毛利氏は厳島明神を崇敬していたようで看板表示によると天文10年(1541)9月に毛利元就が勧請した一社のようである。本殿内には江戸前期の面影を残した玉殿が安置されているようである。各地の厳島神社㉗-長屋嚴島神社
先日訪れた吉田町の旧道沿いは現在シャッター通り化しており、かつての賑わいを彷彿とさせる胡子神社が先日紹介した高林坊近くの四辻に祀られている。また、胡子神社近くの町並みには本うだつが設けられている町屋がみられた。下画像は古い町屋の造りではないが見たことが無いような造りなので紹介する。吉田町の町並み
時折り紹介している上平良に祀られている河野原大歳神社の桜も満開であった。当社殿は画像ではしっかりしているように見えるが老朽化が進んでおり、氏子数も少なく信仰心の薄れた現在、修復の目処が立たないようであり先行きが危惧されるのである。※当ブログを平成18年(2006)6月22日に開設してから本日で6500日となりました。老化防止のために万人向けではないがもう少し続けていきたいと思いますので御来訪のほど宜敷くお願いいたします。河野原大歳神社の桜
ウォーキング途中にみられる桜でどこも満開であった。ふれあいライフ原(旧国立原病院)の門柱脇の古桜、ボンボリが吊り下げられた伊勢神社の桜の下ではお花見をされていた。原市民センター前の枝垂れ桜と立善寺の桜、元原村役場跡(現橋本集会所)の桜などどこも満開であった。ウォーキング途中の桜
吉田町の町並みの中にある高林坊を久しぶりに参詣した。本堂に架けられている喚鐘の銘文には「天保15甲辰年5月上旬・・・」「冶工廿日市山田氏」などと刻されており、現在判明している廿日市鋳物師山田氏の鋳造作品の中で最後のものである。高林坊の喚鐘
毛利元就の里、吉田に祀られている清神社に参詣したところ境内の桜は満開であり見頃であった。毛利元就の三矢の教訓に因んだ清神社守矢(サンフレッチェ)を授かるのが目的で参詣した。春休みで博多からの三人孫兄弟の一人が今日帰っていくので三矢の教えのように願って・・・吉田・清神社参詣
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事で久しぶりに訪れてみた。コンクリート護岸が築造されており橋脚との関連性が・・・堂垣内広池山線の予定地内にあった旧家が無くなっており先に見える民家も道路予定地内であろうか。市道堂垣内広池山線工事の今
厳島の島廻りの七胡子で当ブログ主が参詣した杉ノ浦神社、鷹巣浦神社、腰少浦神社、、須屋浦神社、御床浦神社を紹介した。大元神社の拝殿には島廻りをした記念に奉納さた絵馬が数多く掲額されている。厳島島廻り
厳島の島廻りが行われる七胡子のいわれる七浦にある神社のうちで平成28年(2016)3月20日に大野町の対岸に祀られている第六拝所である須屋浦の須屋浦神社、第七拝所の御床浦の御床神社に参詣したときの画像である。須屋浦までには開拓地跡などがあり途中大野瀬戸が見え隠れする長い道のりであった。(絵図画像-厳島名所しるべより)島廻り-七胡子③
厳島の島廻りが行われる七胡子のいわれる七浦にある神社のうちで平成22年(2010)4月24日に第一の拝所である杉の浦に祀られている杉の浦神社を参詣したときの画像である。(絵図画像-厳島名所しるべより)島廻り-七胡子②
厳島の島廻りが行われる七胡子のいわれる七浦にある神社のうちで平成22年(2010)4月24日に入浜にある鷹巣浦神社と腰少浦にある腰少浦神社を参詣したときの画像である。鷹巣浦神社は元鷹巣浦にあったが明治期砲台建設のために入浜に遷座されたようである。(画像-厳島名所しるべより)島廻り-七胡子
市吉和支所の駐車場脇に平成15年(2003)2月に吉和村が廿日市市へ合併した時に建立されたモニュメントがある。裏面をみると「2003-2023TIMECAPSULE」とあり、閉村から20年目にタイムカプセルを開封予定とされていたのであろうか。今年が20年目であり吉和支所(旧吉和村役場)も移転される節目であるが・・・吉和村閉村モニュメント
吉和地区の道路などの各所にスイセンが植えられており、もうスイセンの咲き時期が少し過ぎた所もみられたが、満開の見所ケ所もあちらこちらでみられた。車を走らせていると周りは緑の樹木の中に鮮やかな何の花だろうかと止まって近づいてみるとモミジであり、下の方は紅葉した頃のような色をしていた。水仙ロード
市吉和支所吉和市民センター吉和保険センター吉和歴史資料館以前に紹介した吉和支所複合施設整備の工事はほぼ終わっているようであり、新施設の供用開始は5月1日のようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所、吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約する施設のようである。吉和支所複合施設整備工事の今
愛媛県西条市三津屋の江戸期金毘羅参道沿いにある厳島神社で、愛媛県神社庁の資料によると延暦2年(804)安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているが定かなことは不詳のようである。明治期には村社であったようである。(2017.8.25撮影)各地の厳島神社⑭-三津屋厳島神社
平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。旧石州往還道を歩く-②
久しぶりに平良丘陵開発区域が行われる広池地区西側の菊ケ迫山から御棒杖山の尾根筋東側を通っていた旧石州往還道を歩いてみた。今は誰も通る人はいないけれど交通機関が発達する以前は廿日市~原~玖島~多田~吉和~匹見に通じていた往還道であった。旧石州往還道を歩く
平良丘陵開発区域内である広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、自動車置場の撤去によりよく見えるようになった。トンネル内を新幹線が通過している大きな音が時々孔口から聞こえる。この点検孔は五日市トンネルを掘削した時の土石の搬出口であった。地図を見ると孔口より離れた位置に線路があり長いスロープで接続されているようである。新幹線五日市トンネルの点検孔口
表題の整理事業区域内である広池地区にある作業場などの撤去作業が行われており、地域内にあった太陽光発電施設も撤去されていた。また用地内の山林の伐採が始まっているようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
平良小学校の平良っ子通りに平和の鐘と表示された鐘が吊り下げられていた。この鐘は当ブログ主が小学生低学年の頃2階建て校舎に吊り下げられ授業の開始や終わりの号鐘だったのではなかろうか。高学年になってからは大きなベルが設置されてから使用されることは無くなったことを記憶している。平良小学校-平和の鐘
昨日、平良小学校で選挙投票を済ませて帰り道に「さくらのおか公園」を通って帰った。公園内の桜はもう葉桜になりつつあったが、サトザクラの園芸品種と表示のある鬱金(うこん)と八重桜は満開であった。さくらのおか公園-鬱金(うこん)
白川郷の長瀬家を見学していると室内に講中膳と表示された膳が3セット並べられており、この地方でも当地方にあった講中と同じような互助組織があったのかと思った。ネットによるとこの地方は浄土真宗の信仰が厚い地域で11月下旬に親鸞上人をしのんで「報恩講」が執り行われ報恩講の『お斎』(料理)は朱塗りの膳、黒塗りの膳が用いられていたようである。講中膳
長良川鉄道の終着駅である北濃駅から長良川沿いの桜など見ながら観光列車ではなく普通列車で郡上大和駅までの列車旅をした。北濃駅は元国鉄の越美南線の終着駅だったようで当時の転車台が残されており、国の登録有形文化財に登録されているようである。長良川鉄道
上画像は郡上八幡の職人町・鍛冶屋町・柳町の町並みで、国重要伝統的建造物群保存地区に選定されているようである。吉田川を渡った伝統的建造物群保存地区の新町通り町並みにウダツある町屋が2棟みられた。中画像は水野家住宅、下画像は斉藤家住宅で何れも鉄板葺きの屋根で本ウダツが設けられている。今まで見てきた本ウダツとは異なり屋根勾配が緩くウダツ屋根も鉄板葺きのためよく見ないと気付かないようなウダツである。ウダツの町屋
飛騨高山の古い街並みから宮川に架かる柳橋を渡り本通り商店街にある山桜神社社殿の建屋上にある木造の火の見櫓である。嘉永7年(1854)に馬頭組により火消溜所が建てられたようで、大火で明治14年(1881)に再建され、昭和7年(1932)に現在地に移築されたようである。櫓内には明治14年(1881)刻銘の半鐘が吊り下げられているようで再建時のものとみられている。構造は江戸時代からの櫓建築の技法を踏襲しているようであり登録有形文化財(建造物)に指定されている。山桜神社の火の見櫓
高山市の県道89号高山上宝線(飛騨・そま街道)沿いで火の見櫓が見えたのでバス車中から撮影。グーグルアースで調べてみると高山市消防団丹生川支団第3分団消防車庫脇にある火の見櫓であった。火の見櫓は当地方では見かけることが無いが長野県や近隣地方には多く残されているようである。火の見櫓が!
古い街並みから少し離れた通りを散策していると、創業大正10年と表示のある老舗の薬屋さんに昨日紹介した下呂膏があったので購入した。店先には懐かしい人達のホーロー看板、ケロリンの洗面器などや店内には古い薬看板や置薬箱がずらりと並べられ、昔置き薬の中にあったような薬袋がみられどれもこれも懐かしいものばかりであった。飛騨高山-ミノワ薬店
宿泊地の下呂温泉には伝統の下呂膏があることを以前訪れた時に知っていたので、奥田又右衛門膏本舗を訪れてみたいと思っていた。しかし名神高速道路の渋滞で到着が遅くなり店舗はもう閉まっていた。下画像の膏薬は飛騨高山の薬屋さんで求めたものである。奥田又右衛門膏本舗-下呂膏
三次市十日市町に祀られている厳島神社で以前は巴橋近くにあったが(上画像)、昭和47年(1972)の水害で堤防改修が行われ昭和50年(1975)に現在地に遷座されたようである。石見銀山街道側の参道に石鳥居が、堤防道路側の参道に赤い木造の両部鳥居が建立されている。各地の厳島神社⑬-十日市厳島神社
飛騨高山の古い町並みを散策してから宮川沿いで開かれている朝市をぶらりと見て歩いた。なんと外国の人達の多いこと・・・飛騨高山・・・宮川朝市
体調不良をおして昨日は下呂温泉までやって来た。一行に迷惑をかけないようにしないと。本日は高山市方面に・・・下呂温泉に