史上名高い「ファルサロスの戦い」はカエサルの戦略により、圧倒的な勝利となりました。カエサル側の戦死者は約2百人、対して敗れたポンペイウス軍の戦死者は約6千人、捕虜が2万4千人を超え、中には、かのマルクス・ブルータスも含まれていました。敗走したポンペイ
たまには書籍紹介などもしていこうかなということで、この「カエサルのローマ」を紹介します。「英雄カエサルの波瀾に満ちた生涯を追いつつ、都市国家ローマの中心フォロ・ロマーノをはじめイタリア各地に魅惑の歴史舞台を探訪する。」「ふくろうの本 世界の歴史」
歩兵4万7千、騎兵7千の合計5万4千人の軍勢を持つポンペイウスと歩兵2万2千、騎兵1千の合計2万3千人のカエサル軍は、ファルサルスの地でついに決戦の時を迎えました。これはローマ帝国の真の支配者を決める戦いでもあり、共和政という政体を続けるか、カエサルが新しく始
カエサル対ポンペイウス・・・ローマ帝国を代表する二人の英雄が雌雄を決する戦いがまさに行なわれようとしていました。前哨戦ともいえるドッラッキウム包囲戦は、カエサル軍の2万で6万の軍を包囲するという戦いとなりました。しかし戦いの結果は包囲戦という特性上、ポ
カエサルがルビコン河を渡ったことによって始まったローマの内戦は、カエサルがイタリア、ガリア、スペイン、シチリア、サルディニアを制覇し、次の局面へ移っていました。前49年1月5日、カエサル軍はポンペイウスが待ち受けるギリシャの地へ上陸を果たしたのです。
前49年12月カエサルはついに独裁官(ディクタトール)に就任します。これでカエサルは執政官不在のローマで最高の独裁権力を公式に得ることになります。独裁官としてカエサルがまず行なったのは、翌年の執政官選出の市民集会を開くことでした。そして当然のことながら当
前49年4月、ローマを制圧したカエサルは一路スペインを目指して進軍を開始していました。スペインにいるポンペイウス配下のアフラニウスとペトレイウス、ヴァッロの率いる軍、約9万の軍勢をたたくためでした。対するカエサル軍は約3万でしたから、約3倍の敵を相手に戦う
前49年3月17日、ポンペイウスは執政官2名他、五個軍団と共にギリシャへ撤退します。このことは、カエサルのイタリア本国での内戦決着の望みもむなしく、内戦の長期化を意味していました。なぜこうも早い段階で、ギリシャへ撤退することを決意したのかについてですが、カ
「カエサルのルビコン超え」、この時はだれも気がつかなかったかもしれませんが、これはローマ共和政約460年間の終焉の始まりを意味するものでもありました。国境であるルビコン越えをしたカエサルの行動は速いものでした。カエサルの現時点での総兵力は第十三軍団のみと
ガリア戦を終えた後のカエサルを最終的に追い詰めたのは「元老院最終勧告=セナートゥス・コンスルトゥム・ウルティムム」でした。この「元老院最終勧告」とは一種の非常事態宣言で、元老院の決定に従わない者は国家の敵となるというものでした。この勧告に対して
新ブログ開設しました!!第1回目はガリア戦後のカエサルからいきたいと思います。「執政官にみられる君主政(モナルキア)の利点と元老院にみられる貴族政(アリストクラツィア)の利点、市民集会にみられる民主政(デモクラツィア)の利点を持つ理想的な政体」といわれた
「ブログリーダー」を活用して、romanusさんをフォローしませんか?