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  • 【6月30日】

    引き続き千葉一族の歴史を読んでいます。千葉県に住んでもいない限り、千葉一族に興味を持つことはないと思うのですが、本当に全国に系譜や伝承が広がっていることがわかります。前5千円札の新渡戸稲造も千葉氏の末裔だそうですよ。【6月30日】

  • 【6月29日】

    千葉常胤は千葉六党と呼ばれる本宗家と庶流を生みました。本宗家は北条氏についていたので、小田原合戦で秀吉に敗れ滅亡しましたが、三党は大名として残ることができました。一つは名前を伊達と変えて伊達家の重臣として大名になり、一つは相馬中村藩として伊達に対峙しつつ大名となり、一つは東氏の流れをくむ郡上八幡で初代の藩主となった遠藤氏で、藩主の妹は有名な山内一豊の妻となりました。その他には徳川の重鎮土井利勝が佐倉藩主となってから旧千葉氏の一族は仕官がなり、身と徳川家も積極的に千葉氏を引き受けたのですね。【6月29日】

  • 【6月28日】

    桓武平氏の流れをくむ千葉氏は千葉常胤の時に大きく発展します。常胤は頼朝に大きな信頼を得て父のように慕われたそうです。常胤は多くの庶流を生み、日本各地に領地をもらい、のちにそこに土着するようになります。土着した先でも千葉氏はそれなりに繁栄をして、へえという感じです。【6月28日】

  • 【6月27日】

    鎌倉時代から戦国時代まで存在感があった千葉氏のことを読んでいます。ずばり、千葉一族の歴史です。千葉氏は桓武平氏の流れで、平姓を桓武天皇からもらった高望王(桓武天皇の孫、または曾孫)は平高望と名乗りました。桓武天皇には大勢の子供がいたので、高望王は将来の出世や収入が望めないと考えて、臣籍降下し関東に下り関東を地盤として栄えたということです。その子は8人兄弟ですが、平良文の流れが千葉氏の流れになります。ちなみに良文の兄である良将は将門の父です。【6月27日】

  • 【6月26日】

    雑誌東京人が江戸川乱歩邸の特集をしていたので読みました。江戸川乱歩邸は池袋の立教大学の敷地にあります(邸そのものが立教大学に譲られました)。大正関東地震の頃に作られた家なので痛みが激しく、大改修が行われこの5月に完成しオープンされました。有名な土蔵の書庫は外からしか伺うことはできませんが、住まいの方は尋ねることができます。色々な乱歩にまつわる話も載っていて面白かったです。ちなみに、乱歩の孫の平井憲太郎氏は鉄道模型雑誌とれいんの代表者です。【6月26日】

  • 【6月25日】

    図書館の書棚を眺めていたら地下水の本。ちょっと面白そうだったので借りてきました。地下水・湧水の疑問50というタイトルです。水は淡水と塩水がありますが、淡水は2.5%でしかなく、そのうちの70%は氷河などの氷で人類の利用できる水の99%が地下水だそうです。地下水はどこからくるのか、どこへ行くのか、どこにあるのか、地下水の全てが書いてあります。【6月25日】

  • 【6月24日】

    知行取り以下の武士は拝領屋敷を分割して借地経営や畑を作ったりしていましたが、大岡忠相(大岡越前守)の与力の屋敷を借地した一人の儒学者が青木昆陽で、それが大岡の知るところとなり、そのことでサツマイモが関東に広まることになったのだそうです。維新後の徳川家は800万石から70万石の静岡藩に縮小されましたが、3万人近い幕臣は新政府に仕えるか、自分で商売農業をするか、無報酬で静岡藩に仕えるかと選択があったのですが、思いの外に新政府に仕えるものが少なく(武士の意地ですな)、さりとて静岡藩も5000人ほどのお抱え余力しかなかったので、大変だったそうです。「鬼平の給与明細」安藤優一郎ベスト新書【6月24日】

  • 【6月23日】

    江戸時代の武士の給与模様が書かれた鬼平の給与明細を読んでいます。鬼平(長谷川平蔵)は池波正太郎の小説で有名ですが、どのような所得があったのかは作品には書かれていません。平蔵の父親は大阪西町奉行まで進みましたが、ある意味でできる人だった平蔵は妬まれたのか火盗改メまでしか進めませんでした。時の老中首座松平定信の覚えも悪かったようです。平蔵は小説にもあるように若い頃はヤンチャな遊びで江戸下町界隈をならしていて、その経験で悪世界を知っていたというのは事実のようです。金も使い方を心得ていたようですが、さすがに破産寸前までいったようです。でもうまく乗り切ったのは事実らしい。平蔵は旗本の中でも決して石高の多い人ではありませんでした(400石)。それでも知行取り(領地を持っていた)だったのでうまくやって行けたのですが、そ...【6月23日】

  • 【6月22日】

    一昨日届いた(街の本屋さんではなくアマゾン)ビックコミックオリジナルを読んでおりました。太田垣康男のSFが面白かったです。現代の司法調査官が江戸時代にタイムスリップした公事師の弁も面白くなってきました。【6月22日】

  • 【6月20日】

    地上に星座をつくるは石川直樹が雑誌新潮に毎月掲載したエッセイで、2012年から2019年までのものからセレクトされています。ヒマラヤとカラコルムに通い、8000m峰全座登頂したのは記憶に新しいです。ユーコン川をカヌーで下ったり、北海道の流氷がオホーツク海で生まれるところを見に行ったりとなんでも見てやろうという精神が旺盛です。子供達と写真を通しての交流を深めることもやっています。写真でも土門拳賞を受賞しています。ヒマラヤでの目標が一段落して、これからの行動に注目する写真家です。「地上に星座をつくる」石川直樹新潮文庫【6月20日】

  • 【6月19日】

    南アルプス北岳と仙丈ヶ岳の間の谷を刻む野呂川に両俣小屋があります。一人で切り盛りする小屋番の星美智子さんは今年で45年になります。43年前の1982年8月に台風10号が日本列島に大きな爪痕を残したのですが、この時両俣小屋は完全に増水した野呂川に飲み込まれてしまいます。当時は大学のワンダーフォーゲル部が元気で、この小屋にも5つの大学がテントを張っていました。台風が来ることがわかっていても、合宿の完遂が彼らの目標だったので、もっとも山深い小屋に来てしまったのですね。孤立した小屋からの脱出記なのですが、小屋番の星さんの頑張りで、小屋を捨てて3000mの山を超えて安全な小山で避難することに成功しました。そのドキュメントですが、現在、最も行きずらいところにある山小屋だと思いますね。できた時は南アルプス林道を使えば、...【6月19日】

  • 【6月18日】

    41人の嵐を読んでいます。南アルプスの両又小屋の有名小屋番が1982年の小屋番2年生の時に経験した台風の記録です。山の中で暮らしたいと志願して両又小屋の小屋番になり、電気もない当時の小屋での暮らしは本人(女性です)の満喫するものでした。大学のワンゲル部が夏合宿に訪れ、小屋周辺で幕営し賑やかな山となったある日、台風10号が中部山岳地帯を直撃しました。その本人によるドキュメントです。【6月18日】

  • 【6月17日】

    4時に起きて4時半に小屋を出て鳳凰三山(地蔵岳、観音ヶ岳、薬師岳)を縦走し加えて高嶺という山も登ってきました。山を降りてから、ノベル賞を取った大村先生が地元(韮崎市)に恩返ししたいというので温泉を掘って、それが日帰り施設になっているのでそこに寄って汗を流しました。露天風呂からは茅ヶ岳や奥秩父の山が見えてゆったり浸かってきました。そこには蕎麦屋も併設されているのでそれもいただいてきました。ということで今日は活字お休みです。【6月17日】

  • 【6月16日】

    南アルプスの鳳凰三山に登るべく、今日は地蔵岳手前の鳳凰小屋に泊まっています。登山の小屋泊ではKindleを持って行って読みます。山小屋は電灯が暗いので紙の本を持って行っても読めないのですね。なので電子ブックに限ります。登山中には木暮理太郎の著作集を読んでいますが、今日は読み終えました。明治終わりから大正昭和の登山家です。東京の浅草に通称12階という日本一の高層建築がありました(関東大震災で壊れてしまいましたが)。ここに登って関東平野を巡る山々を観測して山座同定していました。高層建築などない時代で、空気も澄んでいるので、とんでもなく遠い山々が見えているんですね。「木暮理太郎著作集」Kindle【6月16日】

  • 【6月15日】

    石川直樹は高校2年生の時、独りでインド、バングラディシュを旅行し、一浪後に東京芸大に入り博士課程を出て美術の博士号を持っているという写真家にしては変わり種の経歴です。よくあるのが雑誌社の写真部、有名写真家の弟子から独立なのですが、博士号を持っている写真家っていないのではないでしょうか。写真を撮るためにヒマラヤ8000m峰を14座登ったわけですが、だからと言って山岳写真家というのでもないのですね(勿論登山家でもない)。麓の少数民族の祭礼とか日常を撮ったりなど、民俗学的写真も多いのです。日本でも沖縄、知床、能登などを巡ってその土地ならではの写真を撮っています。6×7というほとんど使われない中判写真は石川直樹ならではの世界に満ちています。【6月15日】

  • 【6月14日】

    写真家石川直樹のエッセイ集、地上に正座をつくるを読んでいます。石川氏は今どき珍しいフィルムオンリーの写真家で、かつプラウベルマキナ670というもうとっくに製造していない(つまり中古になります)中判カメラです。ヒマラヤの8000m峰に登るときはサブとして防水型の写ルンですを持って行くそうです。機械は壊れるので単純なこのカメラがピンチを救ってくれるそうで、これで撮った写真集もあるので、写ルンです恐るべしです。【6月14日】

  • 【6月13日】

    過日山陰を旅行した時に倉吉に立ち寄ったのです。倉吉はSLと古い町並みで有名なところだので寄ったのですが、里見氏終焉の場所ということを知って驚いたのです。なんで安房の里見氏が山陰で?と不思議に思いました。里見氏は秀吉の全国覇権の中で、上総を切り取られ安房一国9万石の大名として残ることになり、安房を守るために必死に秀吉につくし、関が原でも頑張った結果鹿島3万石を加増され12万石になったまでは良かったのですが、嫁を貰った将軍家宿老の大久保忠隣失脚に伴って伯耆に転封となり、そのままなし崩し的に縮小され最後は滅亡となってしまいました。幕府にとって江戸湾入り口に外様大名がいるということが不都合であり、北への守りとしての鹿島に領地があるのも不都合というのはわかりますが、伯耆にまで追いやって最後は無くしてしまうという理由...【6月13日】

  • 【6月12日】

    戦国房総史の本にはまっていますが、図説戦国里見氏で小弓公方の次は安房の雄、里見氏の興亡です。南総里見八犬伝で名前が全国区になっていますが、最後は悲劇の大名家となります。でも秀吉の小田原征伐までは安房だけではなく、上総、下総東部を領域にして北条氏と戦い続け、水軍で江戸湾や香取の海(当時は霞ケ浦から常磐川(利根川の前、鬼怒川など)、印旛沼、手賀沼がつながっていました)の覇権ももっていました。もともとは鎌倉公方の重鎮で足利御一門という格でもあります。【6月12日】

  • 【6月11日】

    小弓公方の本を読み終えました。副題は戦国北条氏と戦った房総の貴種。とにかく戦国時代というのは内訌(うちわもめ)が実に多いですね。食うか食われるか、下克上の戦国時代は兄弟でも寝首を掻かれる時代です。自分を転覆しようとしていると感じたら即行動して、先に命を奪うというのはしょっちゅうで、信長も政宗も弟を殺していますよね。現代から見れば一族みんなで頑張ればと思いますが、感覚が全く違います。ヒトは有史以来権力のために血を地で争ってきたのですね。足利義明も兄に対する反抗で古河公方に対して小弓公方となるのですが、最後は国府台合戦で古河公方方の北条氏綱に打ち取られます。内房線の八幡宿駅の近郊には義明が一時御所とした場所(現在は八幡宮がある)があったり、墓があったりと郷土史を読むと身近なところにある歴史の面白さに触れること...【6月11日】

  • 【6月10日】

    先週は戦国の房総の話を読みましたが、そこに出てきた小弓公方が気になって、図書館から本を借りてきました。小弓公方足利義明という本で、戦国北条氏と戦った房総の貴種という副題です。小弓というのは現在の京葉線の終点蘇我駅の南方向にあった地名で、今はおゆみ野、生実という地名で残っています。城跡は宅地開発で発掘作業後壊されてしまいました。ここに、16世紀中葉に古河公方足利高基の弟、足利義明が小弓公方として対立したのです。そして関東をまとめて鎌倉公方に成り立とうと燃えていました。結論から言えば北条氏に滅ぼされてしまいます。ところがこの義明の孫は生き延び、古河公方と血を一つにして、徳川家康にその貴種性で取り立てられ(なんといっても足利尊氏=源氏の流れですから)、喜連川藩を起こしたのです。5000石でありながら10万石格と...【6月10日】

  • 【6月9日】

    図書館に行ったら、技術特集コーナーがあって、潜水艦の本があったので借りてきました。歴史群像の別冊図解ものでその歴史、構造、兵器などが順追って解説してあります。地上戦では昨今のウクライナ戦争でドローン攻撃がすっかり従来の戦闘を変えてしまいましたが、潜水艦はしばらくは革新的な変革は起こりそうになく、深く静かに潜行してその時が来るのを待つというのは変わらないでしょう。「歴群[図解]マスター潜水艦」白石光ワン・パブリッシング【6月9日】

  • 【6月8日】

    今日は積読の中から2冊をピラピラとめくってさわりを読みました。一冊は写真家の石川直樹のエッセイ集地上に星座を作るです。彼は(登山家としてではない)写真家として初めて8000m14座を登った人です。登山の過程でネパールやインド、バングラディシュの人たちを撮ってきました。もう一冊は世界文学の名著、デカメロンです。訳者の平川祐弘氏によれば、デカメロンは砂時計のくびれにあたる作品なのだそうです。ギリシャ・ローマなどの古典のエッセンスを集約し、近代文学への転換をもたらしたものという意味だそうです。それは過去から現在への砂の流れであるというのですね。【6月8日】

  • 【6月7日】

    また図鑑ですね。先日は面白地形図から3D地形を作った図鑑を読んだばかりですが、こちらは地学的な観点からの地形図鑑です。列島の成り立ち、地質のことも解説しているので、日本列島の勉強にはこちら方が楽しいと思います。何冊も似たような本を読んだおかげで、ようやく日本列島の成り立ちが理解できるようになってきました。やはり文章だけではなく、3D図鑑は役立ちます。「3D地図でわかる日本列島地形図鑑」高田将志監修成美堂出版【6月7日】

  • 【6月6日】

    旅行の間にアマゾンから届いていたビックコミックオリジナルを読みました。アマゾンでもビックコミックオリジナルは電子版が出ていて、かなり昔ものも読めるんですね。今どきほとんどの人は電子版なのかもしれません。でも紙版がいいなあ。【6月6日】

  • 【6月5日】

    往復1000kmも走って1泊旅行なんてちょっと忙しかったです。せっかくなんで三陸でもう1泊したかったですね。ということで今日は活字は休養日です。【6月5日】

  • 【6月4日】

    気仙沼まで来ております。初めての気仙沼です。休暇村に泊まっています。家から500km近くのドライブです。震災伝承館に行って3・11のことを改めて学んできました。気仙沼は津波でほぼ街が壊滅しましたが、その後復興され、特に道路はきれいに整備されています。夕食後ホテルの読書室で3・11の写真集を眺めていました。【6月4日】

  • 【6月3日】

    戦国の房総と北条氏を読了。この本は岩田書院というところが出していますが、マンションの一室で社長一人で全てをこなしている出版社です。日本史中堅どころの研究者の成果を本にしている会社です。書籍が売れなくなって、こういう学術系の本はますます苦しいですね。社長も歳を取ったので、在庫を(処分価格で)処分して、倉庫費用を抑えつつ今しばらく頑張るというところだそうです。城取合戦と内訌に明け暮れた上総と下総東部の国衆達は、北条氏と里見氏が手打ちをしたことで、北条氏傘下に入ることでつかの間の平和を得るところとなります。しかし、秀吉の小田原攻めで全ての国衆は敗者となり、領地は(徳川に)召し上げとなりました。多くの国衆は土豪というよりもそれなりの家系を持っていたので、一部ですが後に徳川旗本として家は残ったようです。最後に、家康...【6月3日】

  • 【6月2日】

    戦国時代(概ね天文年間)の房総半島での大名、国衆達の動きの話は、あちらの陣営に付いたりこちらの陣営に付いたり、かと思えば一族の内訌があったりで、房総だけの話ではないのですが、目まぐるしく動きます。あちらこちらに城跡がありますが、江戸時代のものはわかるのですが戦国時代のものはほとんど知らなかったので、これはこういう流れで在った城なのかと改めて勉強になります。【6月2日】

  • 【6月1日】

    地元の地誌という感じで戦国の房総と北条氏を読んでいます。不明を恥じるのですが、下総の千葉氏、安房の里見氏は知っていましたが、上総にいたのはだれなのかというのを知りませんでした。甲斐武田の庶流である真里谷武田氏と庁南武田氏なのですね。両家とも甲斐武田から鎌倉公方の重鎮としていたのですが、鎌倉府が永享の乱で衰亡したことで古河公方に認められ上総に移ってきたのだそうです。その後小弓(おゆみ)公方を立てて房総支配を目指しましたが、真里谷武田氏はその後衰えていきます。一方庁南武田氏は戦国時代にふるいませんでしたが、上総に根を下ろし、医術で生き残り、現代も甲斐武田の父系男系を唯一保った(甲斐武田氏の祖から32代目)家が病院などを経営しているそうです。千葉って武田だったんだあと思いました。【6月1日】

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