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  • 【6月30日】

    八甲田山の雪中行軍大量遭難事故は、「無能な指揮官の命令によって、登山経験のない素人が準備不足のまま知らない山に登山した」ということでした。第5聯隊長津川は第31聯隊福島大尉の雪中行軍計画を知り、自分のメンツ保全から急遽雪中行軍を指示、しかし準備期間は全くなく、現地のことを知る人はなく、地図もなく地理も全く無案内で始めたもので、さらに同行の大隊長の雪山素人ぶりは目に余るものがあります。一方で31聯隊の福島大尉はルート上の村民に饗応を指示、さらに教導も強要します。どの将校もまともな判断をできる人たちではありませんでした。事故後陸軍は大甘の処分を下します。軍隊は一人のミスは上官のミス、その上官のミスとつながるのでどうしても処分が甘くなり、無責任体質となってしまいます。太平洋戦争でもこれが大いに発揮されてしまい、...【6月30日】

  • 【6月29日】

    今日はお出かけしたものですからゆっくりと活字に触れ合えませんでした。八甲田を少しだけ進めました。八甲田の雪中行軍は青森側の第5聯隊の大量遭難と退避して、弘前の第31聯隊が福島大尉以下少人数での行軍で死者を出さなかったことが退避され、映画ではそれを高倉健が演じ、冷静沈着なところを見せましたが、実際の福島大尉は鬼畜のようなヒトでありました。無傷で行軍を終えたのは、その背景に村人たちの止むにやまれずの支援があったからでした。特に道案内(教導)をさせた7人の人たちは、途中で用済みになると金を与え、自分たちで鉄道で帰れと置き去りにしたのです。そしてその7人には固く口止めをしたのですが、帰村後凍傷で悲惨な目に遭いました。映画と真実との落差は第5聯隊はそんなにないのですが、第31聯隊は酷いものですね。高倉健だからひどく...【6月29日】

  • 【6月28日】

    軍隊というところは階級社会ですから、上官からの指示は絶対服従です。ただ、下級者に指揮権が与えられていれば上級者も指揮者に従う必要があります。とはいえ、上級者がなにかものを言えば、忖度してしまいますね。八甲田山では指揮権限は中隊長大尉でしたが、大隊長の少佐が同行したので、少佐が事実上の指揮者のようになっていました。この少佐が現場判断が悪く、大量遭難に結びつきました。現代の登山でもパーティの指示者が重要な判断をすべき時があり、その判断でパーティの生き死にが決まることが多々です。有名なのが大雪山のトムラウシの遭難事故ですが、ガイドの天候への判断ミスで事故を起こしてしまいました。軍隊は何か変だなと思っても口には出せません。上官に命を預けています。上官(指揮者)の能力次第で自分の運命が決まってしまいます。そこは日頃...【6月28日】

  • 【6月27日】

    八甲田・・を読んでいます。当時の軍隊では冬装備というものがまともになく、大寒波に加えて貧装備が大量遭難に繋がりました。まず、足元は靴下を履いた足にわら靴です。当然足は濡れます。凍傷になってしまいます。また服も化学繊維がありませんから、ソリ引きで汗をかいて、下着が肌に張り付き低体温になります。現在は登山で綿シャツは厳禁です。またテントどころか天幕も用意されおらず、雪中に立って休息を取りました。雪も降らず陽射しがあればこんなことにはなりませんでした。【6月27日】

  • 【6月26日】

    隠ぺい工作という言葉がありますが、八甲田遭難においては、ずさんな行軍計画もさることながら、聯隊長の責任回避に目に余るものがありました。報告書を何度となく書き換えて(修正と言い逃れた)、自分には責任はないという態度を取り続けました。行軍計画もそもそも長い時間をかけて練られたものではなく、隣の弘前31聯隊の雪中行軍計画を知って、青森としては面目丸つぶれということで1週間くらいで急遽計画を立てるように指示したのです。31聯隊は夏からルートを検討し、当日も地元の案内人などを雇いました。それに引き換え青森5聯隊は誰もそこに行ったことはないという状況で検討されたのです。【6月26日】

  • 【6月25日】

    新田次郎の名作に八甲田山死の彷徨という作品があります。明治に起きた第五聯隊による雪中行軍での大量遭難を題材にしたものです。映画にもなり大ヒットしました。しかし、この作品はあくまでも著者のイマジネーションを含んだ物語であり、ノンフィクションではありません。作中で登場した人物はじつは美化されていた、あるいは軍部によって都合の悪い部分が思ってに出ていないということを含んでいました。この大量遭難事故の事実を掘り起こして書かれたものが、本書八甲田山消された真実です。著者は自衛隊の(名前は当時と同じ)青森駐屯第5連隊の伊藤薫氏です。【6月25日】

  • 【6月24日】

    dマガジンで山と渓谷を読んでいました。夏の日帰り登山の特集でした。もうすぐ7月ですが、7月はどこか山小屋にと思っていますが、8月はどこも混んでいるのでお休みかなと考えています。【6月24日】

  • 【6月23日】

    フォッサマグナを読み終えました。フォッサマグナは世界で唯一の地形だそうです。それがどうやってできたのか、説がいくつかありますが、結論は出ていません。明治に日本にやってきた地質技師ナウマンが発見したフォッサマグナは、日本海、日本列島の成因にもつながります。諏訪湖から北は北部フォッサマグナといい、日本海の拡大とともにでき、海がつながっていた時は深さが6000mという深海があったそうです。南は南部フォッサマグナといい、八ヶ岳から南に富士山をへて伊豆に連なる火山帯となり、これはフィリピン海プレートの北上によって、南から地塊が衝突してできたものです。丹沢山塊などはかつて南の火山島でしたが、列島に衝突して今の所にあります。これらが絡まってフォッサマグナができたようですが、正解は出ていません。研究が進んでいますからいつ...【6月23日】

  • 【6月22日】

    日本列島を東西に分ける糸魚川から静岡まで連なる構造線で知られる糸静線は、フォッサマグナの西端にあたります。東端はどこにあるかというとこれが判明していません。関東平野を含んでどこかに走っているのでしょう。そして西日本を南北に分けるのは中央構造線です。これが西からフォッサマグナにぶつかると不明瞭になって、再び関東山地で復活して千葉の北側あたりに伸びています。フォッサマグナは世界でもまれな地殻構造体と言われていて、研究が続いています。以前読んだブルーバックスのフォッサマグナという本を読み直しています。【6月22日】

  • 【6月22日】

    わが愛するワンコが心臓の腫瘍になってしまい、余命いくばくもなってしまいました。心臓周囲に水が溜まったり、食欲が落ちたり、動物医院にかかっていますが(費用もかかるし)、今日はそれで一日かかったので活字どころではありませんでした。あーーあ。またペットロス(3回目)が目前に迫ってきました。【6月22日】

  • 【6月20日】

    ビックコミックオリジナルを買ってまいりました。卑弥呼や昭和天皇物語、セシルの女王、深夜食堂が間違いなく面白いです。【6月20日】

  • 【6月19日】

    今日は月一登山の日で、百名山の四阿山と根子岳に行ってきました。菅平牧場の登山口から入って降りたのですが、菅平は長野県ですが、四阿山は群馬県なのですね。嬬恋村にあります。昨日の大雨が嘘のような大快晴で、360度の見晴らしで関東から北、南アルプス、富士山など主な山がほとんど見えたので感動でした。そしてうっすらと煙を吐く浅間山を北側(嬬恋側)から見るのも初めての経験でした。降りてきて食べた牧場のソフトクリームはとても美味しかったです。ということで朝3時過ぎに出発した往復560kmのドライブで活字は無しです。【6月19日】

  • 【6月18日】

    古新聞を廃品回収に出すのに久しぶりに雑誌も一緒に出したのですが、出す前につい特集を読みふけってしまいました。この頃は買わなくなった日経サイエンスの巨大火山とか宇宙分子とかの話を読んでから紐でくくりました。大昔のマンガ(サザエさんですね)に大掃除で畳をパンパンと庭ではたくのですが、畳の下に敷いた新聞紙に思わず見入ってしまうシーンがあったりします。それを思い出しました。【6月18日】

  • 【6月17日】

    物語イタリアの歴史Ⅱを読み終えました。全8話でなっていて、ハドリアヌス皇帝が霊廟を作ったところから始まります。この霊廟は今はカステル・サンタンジェロという名の城としてバチカンにつながる観光地となっています。西ローマ帝国がゲルマン民族によって壊滅させられ、イタリアは異民族に征服されます。霊廟は盛った土がはがされ、城として使われます。ローマ教会はコンスタンティ教会や他の教会と同じ地位にありましたが、権力を握ることでイタリアを支配しようとします。大教皇グレゴリウス、マローツア夫人とその息子、異端者アルナルド、教皇ボニファティウス、ロレンツォ・デ・メディチ、航海者コロンボ(コロンブス)、画家カラヴァッジョと物語が続きます。物語なので歴史が楽しく学べました。知らない人もいますしね。「物語イタリアの歴史Ⅱ」藤沢道男中...【6月17日】

  • 【6月16日】

    冨里スイカロードレースを走ってきましたが、今年は例年10キロのところ、去年熱中症でダウン多発だったので7キロに縮小された大会でした。今年は普通の6月の陽気だったと思いますが、それでも倒れていた人がコース中に見受けられました。まあ7キロくらいの大会でダウンするなら、日ごろの練習が足りないか、今日の体調が悪いかのどちらかで、レースに出てはいけません。恒例の美味しい冨里スイカはたっぷりといただいてきました。家に一玉買って帰りましたが(2500円)、重いこと重いこと。帰宅してからシャワーを浴びて、物語イタリアの歴史Ⅱを2章ほど読みました。【6月16日】

  • 【6月15日】

    今日もイタリアの歴史です。10世紀、13世紀の頃の話ですが、この時代はカトリックがいかに権威と権力を握ろうとしていたかという時代の流れになります。カトリック教皇は世襲ではなく、枢機卿という聖職の上位者たちの選挙で行われますが、もうすでにこの時代聖職者の腐敗は甚だしく、宗教改革の萌芽のようなものがすでに起きていました。カトリックに限らず、どの宗教にも権威と金、権力欲がついて回りますね。【6月15日】

  • 【6月14日】

    物語イタリアの歴史Ⅱは編年体で歴史を追うというよりも、時代の有名な人にフォーカスを当てて、時代全体を映すという書き方で、塩野七生のローマ人の物語のような物語形式になっています。これは著者が大学教授ではありますが、歴史学者ではなく歴史文学者であることによります。読む方は肩が凝らずに楽しいです。【6月14日】

  • 【6月13日】

    イタリアにいつか行くためにイタリア語も学びたいと思いますが、歴史も学んでおこうと思って新書を2冊手にしました。藤沢道郎先生の物語イタリアの歴史とそのⅡです。Ⅱの方が本が新しいので(両方とも古本で入手)活字と行間が大きいので読みやすく、こちらから読み始めました。ローマ帝国五賢帝のハドリアヌスとカトリック教会で二人しかいない大教皇の名を有するグレゴリウス一世の2章を読みました。【6月13日】

  • 【6月12日】

    dマガジンで時空旅人7月号を読んでいました。空海と真言宗の特集で、平安仏教で天台宗の最澄と並ぶ巨人です。個人的には最澄よりも空海の方が好きですね。最澄は比叡山に籠っていたのか、日本列島での逸話がありません。でも空海はここかしこに足跡のような伝説を残しています。多くは杖をトンと突くとそこから泉がでたとかいうものです。また真言密教の本尊は曼荼羅でそれも面白いです。【6月12日】

  • 【6月11日】

    林芙美子の渡欧は11月から5月までと冬が中心になりました。なので欧州独特の暗い冬を経験したわけです。1か月ほど倫敦にも滞在しましたが、夏目漱石と同じように鬱気味になってしまったのは、霧とこの日照時間にあるのではとも思います。すっかり日本が恋しくなってしまいました。欧州が輝きを取り戻す5月半ばにマルセイユから今度は船でスエズ運河経由、帰国の途に就きます。その後は樺太・道東を旅したり、伊豆の温泉に行ったりしました。樺太の様子はなかなか知ることがないので、この紀行文はとてもためになりました。「下駄で歩いた巴里」林芙美子岩波文庫【6月11日】

  • 【6月10日】

    巴里に着いた林芙美子は8ヶ月ほど滞在します。フランス語は日本で少しかじりましたが、片言の域を越えることはなく、でもなんとかフランス人とコミュニーケーションは取っていたようです。すでに作家として名を成していたので、日本人とも広く付き合えたというのもありました。3回アパートを変えたのですが、日々食事は手製で、フランスパンをかじり、鰯を食べていたようです。そして下駄の歯音を鳴らしながらモンマルトルなどを散歩していました。【6月10日】

  • 【6月9日】

    林芙美子は昭和9年11月巴里に向かいます。10日に下関を出て釜山に着き、朝鮮半島を縦断して満州鉄道から13日にシベリア(西比利亜)鉄道に入ります。モスクワに20日の夜着。三等寝台では色々な露西亜人に会います。すでにロシアではなくソ連になっていましたが、三等車に集う人は貧し気なプロレタリアートで、共産主義といいながらすでに貧富と階級があったことを看破しています。そしてワルシャワ、ベルリンを経由して23日夜明けに巴里到着です。二週間ほどの汽車の旅でした。約400円かかったといい、現在に換算すると100万円です。現代ではビジネスクラスに乗ってもお釣りが来ますね。よくそんな大金を見た目17歳(とみられていた)の女性が一人、トランクを下げて旅行できたものです。稼いだ印税で家を買うよりも旅に出るという主義で、あちこち...【6月9日】

  • 【6月8日】

    今日も林芙美子の紀行集です。文庫の前半は海外もの、後半は国内ものにまとめられていて、海外ものを読んでから後ろを開いて国内ものを読むという感じで5編ほど読みました、国内編は下田港、奈良、京都、大阪で海外は満州(哈爾浜ハルビン)です。昭和の初めの頃の話ですが、紀行ものとしてとても楽しく読めます。【6月8日】

  • 【6月7日】

    林芙美子の紀行集下駄で歩いた巴里から北京紀行と私の東京地図をパラパラと読んでいました。林芙美子が30歳前後の頃、アジアも欧州も大戦の風雲急を告げる頃、女一人、ボストンバッグと帰りの旅費無しで旅に出るという大胆なことをしました。北京を大変気に入って20日も滞在し、ふらふらと歩き回りました。アヘン、ヘロインの香る前門街の夜を歩くなんて、現代でもできない技ですね。【6月7日】

  • 【6月6日】

    コンスタンティノープルの陥落を残り半分、一気に読みました。再読のつもりで読み始めましたが、読んだ記憶が無いのですな。積読のまま本棚にしまったのでしょうか。こういう攻城戦というのは古今東西を問わず籠城する側と攻める側の人間模様が面白いです。特にコンスタンティノープルは東ローマ帝国の首都ということで、西欧人にとって特別な思い入れがある場所であり、正教会の本山でるためカトリックとは何回も公会議をもって合同を模索してきましたが、ついにかなわずということになりました。コンスタンティヌス帝の皇女がロシア公国に嫁いで、ロシアはローマ帝国の継承者と名乗りましたが、西欧は歯牙にもかけなかったようです。そもそもロシアは欧州ではないですからねえ。この物語は生き残ったベネチア人、ジェノバ人、ローマ枢機卿などが後に残した回想記を丹...【6月6日】

  • 【6月5日】

    ビックコミックオリジナルの日です。この頃は雑誌はコンビニですね。そのコンビニの雑誌置き場も三分の一が成人ものだったりして、雑誌の減少は肌で感じますね。セシルの女王が面白いですが、黄昏流星群も面白い展開になってきました。【6月5日】

  • 【6月4日】

    本棚にある塩野七生の作品、コンスタンティノープルの陥落を100P程進めました。1100年間にわたって東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都であったコンスタンティノープルはトルコに攻め落とされる頃にはほとんど都市国家になってしまっていました。攻め落とされた後は現在イスタンブールとなりトルコ最大の都市(欧州でも最大)となっています。世界史地図帳を眺めていた(高校)時代は東ローマ帝国が年代が下るにつれて、どんどん小さくなっていくのを見て不思議な思いで見ていましたね。【6月4日】

  • 【6月3日】

    一泊旅行の二日目。ホテルを出てからアウトレットに行ってそこを周回し、昼飯はハワイ飯を食べて帰ってきたら一日が終わりました。ということで今日も活字はなし。【6月3日】

  • 【6月2日】

    今日は家族で一泊旅行にでまして、アクアラインの見えるSPAホテルだったので水遊びしたりで活字は無しでした。【6月2日】

  • 【6月1日】

    ローマが好きで一度は行きたいのですがまだ行けていません。円安になったので航空券もホテルも高くなって敷居が上がっています。でも必ず死ぬまでに一度はと思っています。なぜそんなにローマに惹かれるのかというと、やはり古代ローマ帝国に惹かれているからでしょう。塩野七生のローマ人の物語の影響も大きいです。そのローマは東西分裂をしてから東ローマ帝国が生き残り、やがてビザンチン帝国と名を変えましたが、1000年以上に渡って生き長らえました。本棚にある塩野七生のコンスタンティノーブルの陥落を読んでいます。ローマ人の物語の完結と言うことです。【6月1日】

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