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保津川下りの船頭さん https://blog.goo.ne.jp/hozugawa/

保津川下り・噂の船頭はっちんが、京都や保津川のこと、芸能界やグルメの話題を提供します。

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2006/02/10

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  • ももいろクローバーZ春の一大事2024 in 亀岡⭐️ 保津川下り記念チケット販売!

    ももいろクローバーZ春の一大事2024in亀岡⭐️🎉開催記念🎉2024年(令和6年)4月13日(土曜日)、14日(日曜日)、亀岡運動公園でアイドルグループ「ももいろクローバーZ」による音楽イベント「ももいろクローバーZ春の一大事2024in亀岡」が開催されます。その開催を記念し保津川下り乗船記念チケットを販売いたします。期間限定各色限定100枚!!!販売期間:2024/4/13(土)〜2024/4/30(火)※但し、チケットがなくなり次第終了致します。時間:平日8:45〜15:00土日祝8:45〜16:00支払方法:現金またはカードおひとり様4枚までとなります。シリアル番号は完全ランダムとなります。詳しくは、保津川遊船企業組合📞0771-22-5846みんなで亀岡を盛り上げましょう!!#京都#亀岡#保津川...ももいろクローバーZ春の一大事2024in亀岡⭐️保津川下り記念チケット販売!

  • 終局の時、リアルな夢できづくこと。

    昨日、私は死んだ。夢の中で。とてもリアルな夢で、その時の情景や自分が死の淵で考えていることがはっきりわかる夢だった。記憶があるうちに文字にして記録しておこうと思う。床に伏して終焉の時を迎える姿、家族が枕元にいるのがわかった。まるで映像をみているようだった。その時の自分の心境や考えていること意識できた。その時、頭に浮かんで言葉は「なんと楽しき人生だったことだろう。」「これまで出会った人々、得たもの、出来事など全てに恵まれていた。悔いはない。」という心境だった。もちろん「みんなと別れるの辛いな~できることならもう少し生きていたい~」という気持ちも頭を過っていたのも確か。私たちって、生まれてきた限りは必ず死ぬもの。そして、それはいつ来るかわからない。終焉の時を迎えた時、人は「人生」を考えるものだ。そして、その時...終局の時、リアルな夢できづくこと。

  • 京都島原のきんせ旅館で「ERiKA⁵⁺」がXmasLIVE。

    【保津川エンターテインメント倶楽部】LIVE情報。◑京都島原のきんせ旅館で「ERiKA⁵⁺」がXmasLIVE。日本三大遊郭のひとつに数えられる京都随一の花街・島原。その一角に今も残る元「揚屋」のきんせ旅館。江戸時代後期の建築で、推定築年数250年の魅惑漂う美しい空間で「ERiKA⁵⁺」のクリスマスコンサートが開催されます。この旅館に入るだけでも旅情ムード漂う素敵な場所ですが、本来、貸し出しなどはされない建物でのLIVEはレアすぎる!もう一つの京都の歴史を感じながら「ERiKA⁵⁺」のメンバーの素敵な音楽で、年末の夜をお楽しみ下さい。🔴12月17日(日)X’masPrivateLive17:00オープン17:30スタートチャージ2,000円きんせ旅館(島原、京都)http://kinseinn.com/a...京都島原のきんせ旅館で「ERiKA⁵⁺」がXmasLIVE。

  • 保津川エンターテイメント倶楽部 ばんばひろふみLIVE

    【保津川エンターテイメント倶楽部情報】2024年1月14日(日)亀岡水辺公園・川の駅ツキヨミルームで開催いたします「BANBAN528(ばんばひろふみ・エイコンヒビノ・岡本博文)」の新春ライブ!LIVEのお申込みフォームを作成しました。限定40名のレアなコミュニケーションライブです。ノスタルジーに浸りながら新春を迎えたい方、下記の予約フォームからお申込み下さい。https://forms.gle/z1dcLUEW95pP1cYs7会場はJR嵯峨野線千代川駅から徒歩2分という最高のアクセス!https://bbq.hozugawakudari.jp/(川の駅・亀岡水辺公園HP)インスタグラムhttps://www.instagram.com/p/C0dLYzkLbCu/保津川エンターテイメント倶楽部ばんばひろふみLIVE

  • 嵯峨清滝のはなしをします。

    10月21日(土)京都府立京都学・歴彩館1F小ホールで嵯峨清滝の魅力について語ります。ご興味のある方はぜひ、お越しください。嵯峨清滝のはなしをします。

  • 千年の都・京都に潜む「京都異界散策」桓武天皇の都

    学生の頃からミステリーチェイサーを自認する私が、京都の不思議・ミステリ―の視点から調査し、案内をするシリーズ「京都の異界散策」794年、京都に新たな都・平安京を造営した桓武天皇は、遷都計画の途上で数々の天然災害や疫病,飢饉に見舞われ、母や側近など愛する人々を次々に失います。これら幾多の不幸や災難の原因は自らで罰した弟「早良親王」の怨霊のなせる祟りだと思い込むようになり、その祟りをとても恐れていた云われています。天皇は都を設計する際、風水思想の四方の神「四神」に頼り、東は青龍・西は白虎・南は朱雀・北は玄武とそれぞれに「守り神」を配置し中心に「大将軍」に守護させ、鬼や怨霊の通り道である鬼門に社を建立し霊的結界を張り巡らせたのです。いま風にいうと「霊的防御システム」といったところでしょうか?その中心として内裏の...千年の都・京都に潜む「京都異界散策」桓武天皇の都

  • 秋の保津川下り 原田龍二のニンゲンTVと京都編コラボ!

    秋の保津川下りタイアップ企画原田龍二のニンゲンTVと1000年の都・京都の裏の姿「魔都・京都」を調査します。地元亀岡では「出雲大神宮」を紹介しました。霊験あらたかな「磐座」を訪れ、その謎に迫ります。また京都と亀岡を結ぶ旧街道にある「老ノ坂峠」にある廃墟「ホテルサンリバー跡」や廃村永谷集落の調査へと続きます。保津川下り編では、龍二さんと降魔師阿部さん、私の三者で、保津川や京都の不思議はなしや嵯峨野の伝説なども紹介しながら、船下りをしました。さて、原田龍二のニンゲンTV「魔界・京都編」をお楽しみに!#魔界#保津川下り#京都#嵯峨野#廃墟#コラボ#原田龍二#ニンゲンTV#出雲大神宮#ミステリーツアー秋の保津川下り原田龍二のニンゲンTVと京都編コラボ!

  • 国民を想う・・・民のかまどの心はあるか?

    まあ、あまりネガティブなことを考えると「運気」が逃げていくと信じる私ですが、なにやら、またまた緊急事態宣言が発令されそうな雰囲気ですね。コロナ禍が起こり1年半が経った今も、繰り返される緊急事態宣言。これまでに何か打つ手はなかったのだろうか・・・なんともやるせない思いで一杯です。そして、この緊急事態宣言が発令されることで、どれだけの人々の生活が、人生が変わるのか・・・想像するだけで只々、悲しくなります・・・・古墳時代という遠い昔のことです。第16代天皇だった仁徳天皇は、高台に登って集落を見渡すと、人家の「かまど」から炊煙が立ち上っていないことに気づかれます。皆、貧しくて御飯が食べられないのか・・・そこで天皇は租税を免除し、民の生活が豊かになるまでは、お食事も着るものも倹約され、さらに雨漏りしている宮殿の屋根の葺き...国民を想う・・・民のかまどの心はあるか?

  • イギリスの貿易商のアーサー・H・クロウがみた保津川下り。

    1881年(明治14年)イギリスの貿易商のアーサー・H・クロウは、二千二百トンのイギリス汽船・メタビディア号で神戸港を目指しました。今回、二度目となる来日の目的は京都を再訪問することと、そして保津川の急流を下ること!その時の体験を自身の著書「HighwaysandbyewaysinJapan:Theexperiencesoftwopedestriantourists.(日本の公道と間道ー二人の徒歩旅行者の体験(日本内陸紀行」の中で、克明に書き残しています。也阿弥ホテルを出発し、人力車で老ノ坂峠を越え、亀岡入りして保津川の舟下りに乗船されています。「狭い岩だらけの峡谷に入り、崖はほとんど垂直に切り立っている。川幅は20ヤード以上はあるまい。深さはまったくわからない」と保津川の第一印象を述べています。「急流は全神経...イギリスの貿易商のアーサー・H・クロウがみた保津川下り。

  • 江戸時代の数学が開いた日本の近代化と角倉一族

    日本では小学校2年になると算数の時間にかけ算を学びますね。そして、かけ算の勉強といえば「九九」の暗唱です。「ニニンガシ、二サンロク~ククハチジュウイチ」で終わる暗唱方法。皆さん、子供の頃、覚えさせられましたね~でも、この暗唱を覚えたおかげで、実社会のあらゆる場面で役立っていることは間違いないところです。九九を学んだ事だけでも、教育の大事さがよくわかります。どうやら日本ではこの「九九」という計算方式を平安時代の教育に取り入れています『口遊』(970年源為憲)貴族の子弟はみなこの「九九」を暗唱して覚えていました。とはいえ、庶民にはまだまだ馴染みのなかった数式で、それが「和算」と呼ばれ庶民の間に普及したのは江戸時代からでした。そして、その和算の普及に大きく貢献したのが、角倉一族の一人吉田光由(みつよし)でした。光由は...江戸時代の数学が開いた日本の近代化と角倉一族

  • 観光・保津川下りの発祥の地・京都亀岡・山本浜

    透き通る際な空と澄んだ清らかな川の流れ。ここは京都亀岡の保津峡の入口・山本浜。1881年(明治14年)にこの山本浜から、英国ビクトリア女王の孫であるアルバート・ビクターと弟ジョージ(のちのジョージ五世国王)が保津川下りをされています。(英国皇孫接待一件から)その後も1893年(明治26年)にオーストラリア皇太子フランツ・フェルディナントが保津川下りを楽しんでいるなど、数々の海外VIPが好んで、この山本浜から保津川下りをされています。彼らは、帰国すると未知の極東の国・日本について語り、また紀行記にまとめて紹介していますが、必ずその中で、保津川下りについても言及され、美しい保津峡の景色とともに船頭の操船術を絶賛されており、その様子を克明に記載されています!あるVIPなどは「こんな高度な下船術と屈強な肉体と精神力を備...観光・保津川下りの発祥の地・京都亀岡・山本浜

  • 歴史の都・京都の非日常空間・保津峡を楽しむ。

    京都観光も少しづつ本来の佇まいを取り戻しつつありますが、由緒深き神社仏閣で学びの旅を終えたら、」ちょっと解放的な気分で自然に触れたくなりませんか?そんな気分の時、京都には大峡谷・保津峡があります!「嵯峨野トロッコ列車&保津川下り」というアクティブな体験が楽しめるのが京都・保津峡です。嵯峨嵐山からトロッコ列車に乗って亀岡まで、自然が溢れる保津峡の絶景を上から眺めたら、次は亀岡からは嵐山までの12キロを保津川の船で下り、高くそそり立つ保津峡を川から見上げれば、そこは非日常空間。雄大な峡谷美と緩やかな流れや激流織りなす保津川。岩と岩の間をすり抜けるとスリルも満点です。江戸時代の船と明治時代の鉄道が行き交うのも歴史の都・京都ならでは。残り少ない夏。「トロッコ列車」と「保津川下り」で違った京都を感じて下さい!歴史の都・京都の非日常空間・保津峡を楽しむ。

  • 歴史の都・京都の非日常空間・保津峡を楽しむ。

    京都観光も少しずつ本来の佇まいを取り戻しつつありますが、由緒深き神社仏閣で学びの旅を終えたら、」ちょっと解放的な気分で自然に触れたくなりませんか?そんな気分の時、京都には大峡谷・保津峡があります!「嵯峨野トロッコ列車&保津川下り」というアクティブな体験が楽しめるのが京都・保津峡です。嵯峨嵐山からトロッコ列車に乗って亀岡まで、自然が溢れる保津峡の絶景を上から眺めたら、次は亀岡からは嵐山までの12キロを保津川の船で下り、高くそそり立つ保津峡を川から見上げれば、そこは非日常空間。雄大な峡谷美と緩やかな流れや激流織りなす保津川。岩と岩の間をすり抜けるとスリルも満点です。江戸時代の船と明治時代の鉄道が行き交うのも歴史の都・京都ならでは。残り少ない夏。「トロッコ列車」と「保津川下り」で違った京都を感じて下さい!歴史の都・京都の非日常空間・保津峡を楽しむ。

  • 球磨川から届いた新聞記事 川とともに生きるとは?

    球磨川下りを運営する(株)シークルーズの瀬崎社長から、水害に見舞われた人吉市を取材した地元新聞の記事を紹介いただきました。先月、九州熊本県を襲った記録的な豪雨は、人吉市を始め流域集落へ壊滅的な被害を与えました。しかし、記者の取材に地元の人々から出た言葉は「球磨川は悪くない。自分たちが油断していた」と、多くの恩恵を与え続けてくれた球磨川への愛情であり、自然とともに暮らした長い歴史の中で培われた川への謙虚さでした。この心情は、毎年のように保津川の洪水と向き合っている私にとって、全く共感するもであり、感動しながら読ませて貰いました。自然と、川といきる者は決して自然を恨んだり、恐れたりしない。それ以上に受けている恩恵を忘れることはないのです。気候変動が予感される自然状況の現在だからこそ、多くの人たちに気づいてほしい、自...球磨川から届いた新聞記事川とともに生きるとは?

  • ほどこされたら ほどこし返す 恩返しだ! 保津川エコラフティング!

    エコラフティングでペットボトルを削減し川への恩返し!川の恩恵で生きている我々のプロジェクト。「ほどこされたら、ほどこし返す、恩返しだ!」保津川遊船企業組合では、「保津川エコラフティング」にチャレンジを始動!世界を代表するドイツの浄水器メーカー・BRITAJAPANさんと保津川下りがタッグを組んで進める「川への恩返し」エコラフティング・プロジェクトとして、ラフティング参加者にBRITA浄水機能付き携帯ボトルのプレゼントしています!ボトルをプレゼントする際には、海洋プラごみと川の漂着プラごみの関係性や亀岡市が推進している使い捨てプラスチックごみゼロの取り組みもショートに解説し、BRITAさんが作成されている啓発パンフレットもお渡し、自然を守る意識を高めてもらうきっかけつくりになれば嬉しい。キャンペーン期間は今シーズ...ほどこされたらほどこし返す恩返しだ!保津川エコラフティング!

  • 《京都伝説紀行 愛宕山に棲む大天狗・愛宕太郎坊》

    保津川下りが出航して最初に説明するのが「愛宕山」です。標高924m。京都市内最高峰の高さを有し、山頂には愛宕神社が鎮座しているこの山には、飛鳥時代より摩訶不思議な伝説に彩られています。平安京から怨霊や魑魅魍魎が出入りする「天門」と呼ばれる西北の方角にそびえることから「妖怪鬼神の棲む所・神門」として恐れられていました。その妖怪鬼神を束ねるのが、仏の命により3000年以前から愛宕山に棲みついている「大天狗・愛宕太郎坊」なのです。時は飛鳥時代、大宝年間(701~704)に、修験の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)と愛宕山開山の祖・泰澄が、山裾の清滝から愛宕山を登ろうと十七町(約300m)にある大杉の前で祈祷をしていると、にわかに天地が広がり、天竺(インド)の大天狗・日羅(ニチラ)や中国天狗の首領・是界(ゼカイ)とともに、...《京都伝説紀行愛宕山に棲む大天狗・愛宕太郎坊》

  • 《エコラフティング第二弾キャンペーン!BRITAJAPAN]の浄水機能付き携帯ボトルをプレゼント!!》

    保津川の自然を守るため「エコラフティング」にチャレンジしている保津川下りは、第二弾キャンペーンとしてラフィティングツアー参加者に「BRITA]の浄水機能付き携帯ボトル(1本2000円相当)をプレゼント致します!激しい急流を下るラフティングでもノドは乾きます。そこで「ミニカラビナ」に続いて、あの世界ブランド「BRITA」の浄水器機能付き携帯マイボトルを差し上げ、ラフティングを楽しんで貰いながら、脱プラごみへも取り組んでみませんか。保津川の雄大な渓谷美を満喫できる“ラフティング”。その要である自然環境を守るため「BRITA]・JAPAN」のマイボトルを使用して貰うことで、世界規模の問題である「プラごみ問題」にも関心を持って貰えれば嬉しいです!亀岡市とBRITAJapan株式会社は。さる6月30日に「亀岡市とBRIT...《エコラフティング第二弾キャンペーン!BRITAJAPAN]の浄水機能付き携帯ボトルをプレゼント!!》

  • 脱プラで川への恩返し。保津川でエコラフティングにチャレンジ!

    本物のエコラフティングで保津川へ恩返し!保津川遊船の運営するラフティング事業からのお知らせです。保津川のプラごみゼロを目指し、マイボトル&マイカップ持参された方全員に、「ミニカラビナ」をプレゼントする「保津川エコラフティングチャレンジ」を23日からスタートします!激しい急流を下るラフティングでもノドは乾くもの。そこで「ペットボトル」を持ち込むのではなく、マイボトル&マイカップを持参し、脱プラへと取組みます。まさに「プラごみゼロ宣言」を掲げる亀岡市だからこそ、できる身近なことから始め、世界初の本物のエコラフティングにチャレンジします!美味しい「亀岡の水」をマイボトルに入れて、いざ、嵐山まで。ぜひ、この夏の思い出に、エコで楽しい、ラフティングにお越しください!※よろしければ宣伝をお願い致します。脱プラで川への恩返し。保津川でエコラフティングにチャレンジ!

  • 京都再発見の旅 古代京都の遺跡・嵯峨嵐山編

    京都らしさを最も感じれる場所と聞かれたら、私は迷うことなく「嵯峨嵐山」と答えます。これは私の仕事場に嵐山が入っているから・・・ではありません。この地こそ、京都を京都たらしめた場所だと思っているからです!この地に都・平安京が築かれるずっと前。当時の首都・奈良から見てこの地は山々の裏「山背(やましろ)」と呼ばれた原野でした。(諸説あり)5世紀末にこの地に移住していた古代豪族「秦氏」は、氾濫を繰り返す暴れ川「葛野川(桂川)」を当時最先端の土木工法を駆使して治めます。そして今の渡月橋のやや上流部に堰堤を築きました。これが「葛野大堰」で、今も嵐山の水風景を形成している「一ノ井堰」です。さらに、この大堰の下流部に「中島」を築き、川の流れを本流と用水に分流させ、川の水位を高めて多量の水を灌漑用水としてを原野に注ぎ込み、嵯峨や...京都再発見の旅古代京都の遺跡・嵯峨嵐山編

  • 大枝山に棲む酒呑童子を探しに・・・

    スポーツ新聞を読んでいると「原田龍二、自宅で怪奇現象続々!」という記事が目に留まりました。TV「世界の何だコレ、ミステリー」で座敷わらし調査始めてから、頻繁に不思議な現象が起こるとのこと。近年の人々が妖怪や怪異への関心は異常に強くなっています!このミステリーチェイサー原田龍二さんが探索する妖怪・座敷わらしシリーズもTVの人気コーナーです。そんなご時世ですが、私の地元亀岡と西京区の境に位置する大枝山の頂上には、つい先日まで日本妖怪研究の第一人者・小松和彦先生が大将を務めた国際日本文化研究センターがあるのも何かの因縁でしょうか?そう、この大枝山の老ノ坂峠には、昼でも不気味な霊気が漂う「首塚大明神」が祀られています。ここに祀られているのが、日本三大妖怪と呼ばれる「酒呑童子」です。平安時代に丹波大枝山を棲み家としていた...大枝山に棲む酒呑童子を探しに・・・

  • 川ごみにまみれる連休初日。

    今年も保津川大橋下で「海ごみ探偵団」の活動が行われました。これは「川と海つながり共創プロジェクト」の環境教育・啓発活動の一環で、亀岡市内の小学生を中心に川のごみと海のごみの調査を通じて、その関係性を実践活動で理解していこうというもの。今年は舞鶴の海岸のごみ調査を夏に、保津川調査を秋に実施し、7年目となる活動です。条件のいい年は、保津川下りの船で保津峡内で現地調査をしているのですが、今年は昨年来の度重なる台風・洪水の影響で、足場の悪い箇所もあるので工程を変更し、平坦で川ごみの拾い易い、河原で行いました。それでも、先日の台風19号や20号の大雨で漂流してきた、ペットボトルや食品トレイなどプラスチック系のごみが多く点在していました。回収したごみの中には、海でマイクロプラスチックになる農薬の玉が多くあり、子どもたちは「...川ごみにまみれる連休初日。

  • 命を賭ける仕事とその遺産

    「人生は50年ともいう。もう、いつ命が尽きてもおかしくない歳になった。しかし・・・まだ、自分は人生で成すべき目的を果たしていない気がしてならない。否、自分はその目的を果たすことができるのに、力を出し尽くしていない!」朱印船貿易に成功し、商売、一家を潤わせたにもかかわらず、50歳を前にした角倉了以は日々、自問していた。「今ならできる。前人未到の大事業を!いや、今やらねば、死して後悔を残す。」立ちはだかる断崖絶壁、行く手を遮る巨岩や奇岩、うねり落ちる滝。険しい大峡谷へ挑んだ了以以下角倉一党。岩の除き、川底を掘り、川の流れを変え、新しい航路をつくり、天下人ですらなし得なかった巨大プロジェクトに成功し、和船通行を可能にし、地域を潤わせ、国を潤わせた。あれから413年、昨日も世界各国から2000人の観光客が、了以の作った...命を賭ける仕事とその遺産

  • 先人の思いを乗せ~保津川筏再現イベント

    保津川の筏流し再現イベント。「保津川(桂川)流域の象徴として」筏を復活する!2007年、私の発案により始まった保津川の筏流し。まだ、存命でおられた筏士さんの家を訪ね、その玄関先で「復活に賭ける意義とその思い」を熱く説き、何度も足を運んだ。とうとう、根負けされた筏士さんに認めて貰った。筏を復活することで筏の組み方や流し方を教わることはもちろん、山国庄の上流から嵯峨嵐山や梅津、桂など下流地域と繋がる「産業記憶」を甦らせたかった。それは戦前に筏を流していた亡き祖父への思いもあった。それが今も、引き継がれていること。嬉しく思う。1300年の歴史ある「川と人の記憶」技術だけでなく、その厳しい自然に対峙した人たちの精神も含め、日本の遺産として、これからも途切れることなく、次世代へ受け継いでほしい。筏を見るたびに、颯爽と筏を...先人の思いを乗せ~保津川筏再現イベント

  • "2億年の地層が迫る京都最大の峡谷・保津峡‘

    "2億年の地層が迫る京都最大の峡谷・保津峡‘’三畳記からジュラ紀にかけて、海底で層状された地層が隆起し、激流に侵食されて生まれた大深谷だ。悠久の時を刻む地球の歴史と繋がる地層の壁岩に、400年間、竹竿を差し続けた船頭たちが削った「棹の跡」その深さは10cmにも満たない。保津峡・・・それは・・・地球の自然と人が織りなす、歴史・b景観に他ならない。"2億年の地層が迫る京都最大の峡谷・保津峡‘

  • 桂川水運・裏ものがたり

    明治34年(1901)の1月、京都千本三条の交差点南側の家に「千本組」という金看板が掲げられた。正業は「材木運送業兼人夫出し業」つまり桂川(保津川)の筏流しと運搬業務、それに関わる人夫手配業だ。以来、約40年に渡り京都の運送業や土木業界にその名を刻み、確固たる地位を築いた千本組。千本組は博徒の一家となり季節労働者や日雇い労働者などを束ねる。つまりはかたぎやくざだ。かたぎやくざは町内の治安を守り、消防団も兼ね、祭も仕切っていた。全盛期には祇園祭の御輿を3基も任されていた。この千本組の組長・笹井末三郎。この末三郎率いる千本組が後に日本映画の黎明期に重要な役割を果たすことになる。江代々の檀家であった嵯峨の法界寺が廃寺になっているので、詳細な家系図等は残ってないだ、江戸時代・文化・文政の頃、すでに嵯峨で手広く材木運搬業...桂川水運・裏ものがたり

  • 亀岡市が国内で初めて「プラスティックごみゼロ宣言」!レジ袋の使用禁止へ。

    12年前、雄大な保津峡の片隅で、たった2人から始めた小さな、小さな動きが、日本をガラリと変えるかもしれない。そんなニュースが12月13日、亀岡市から発信された。川のごみを拾っても世の中は変わらない!自分の仕事場を掃除するのは当たり前!イタチごっこ、いつまで続くやら…生活ごみの処理でも大変なのに、わざわざ川のごみまで拾って…川の漂着するごみを回収する活動をボランティアで始めた時の周囲から聞こえてきた冷ややかな声。大量の漂着ごみをいくら回収しても、目に見えて減ることがない、川ごみの前にして、立ちすくみ、こんな活動していて、いつか報われる時がくるのかな…??いつも自問自答しながら、悪臭を放つごみを川から掬い上げていた日々。しかし、そんな小さな私達の活動を見捨てず、支えて下さった方々の手により、川ごみの大半を占める、使...亀岡市が国内で初めて「プラスティックごみゼロ宣言」!レジ袋の使用禁止へ。

  • 秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 宝筐院

    嵯峨嵐山で一番、紅葉がきれい!と呼び声高い宝筐院。平安時代に白河天皇の祈願によって建立された勅願寺で建立当初の名は善入寺といいいました。鎌倉時代までは代々皇族が住職を務める寺院でしたが、南北朝時代に南朝と北朝の争いに巻き込まれ、廃寺同然に。その後、夢窓疎石の高弟・黙庵周諭禅師(もくあんしゅうゆぜんじ)が臨済宗の寺院として復興させました。黙庵に深く帰依していた室町幕府・二代将軍の足利義詮は、寺院の伽藍再興整備に尽力しました。また、同寺に、四条畷の合戦で北朝の大軍と戦って討ち死した楠木正行(くすのきまさつら)が眠っていることを知り、政敵ではあったが、人柄を尊敬していた義詮は、自分の死後、正行の隣に葬って欲しいと遺言を残します。その遺言はかなえられ今も並んで境内に眠っています。赤に朱、橙など色とりどりの紅葉を回遊式庭...秋の京都奥嵯峨を歩いてみませんか?宝筐院

  • 秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 愛宕念仏寺

    愛宕とかいて「おたぎ」とよむこのお寺は、奈良時代末期、聖武天皇の娘・称徳天皇が京都・東山の地に愛宕寺として創建しました。しかし、平安時代初期に近くを流れる鴨川の洪水ですべてが流失し、廃寺になっていたものを醍醐天皇の命により天台宗の千観内供(伝燈大法師)が復興しました。いつも念仏を唱えていた千観は民衆から「念仏聖人」と呼ばれていたことから「愛宕念仏寺」となりました。空也上人との邂逅を得て「何ごとも身を捨ててこそ、仏道」との言葉を授かり、その後、民衆の苦難に対し、身を捨てて救済にあたりました。お寺は大正時代に嵯峨の地に移築されました。その寺の再興を祈念して「境内を阿羅漢の石像をで満たそうと、昭和54年から信徒や参拝者からの寄贈により、10年かけて1200体の阿羅漢を集め、平成3年に「千二百羅漢落慶法要」を厳修しまし...秋の京都奥嵯峨を歩いてみませんか?愛宕念仏寺

  • 秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 大覚寺

    平安時代初期、嵯峨の地をこよなく愛した嵯峨天皇が、成婚を期にこの地に「離宮嵯峨院」を建立した大覚寺。鎌倉時代にはここで政治を執行したこともあり「嵯峨御所」と呼ばれています。弘法大師・空海を宗祖とする真言宗大覚寺派の本山で、以来、代々天皇や皇族が門跡(住職)を務めてきた格式高い寺院です。境内にある大沢池は、約1200年前に造られた日本最古の人工池で、月が綺麗に見える池ことから「日本三大名月鑑賞池」として有名です。最近では時代劇の撮影現場としてもお馴染みです。室町時代に角倉了以の本家が大覚寺境内で土倉(金融)を営み、後年にその勢力を嵯峨一帯に拡大していく拠点となったのもこのお寺です。いけばなの家元でもある雅な風前と近世の経済構造の変革に大きく寄与した活力が混在する大覚寺。紅葉の美しさと嵯峨の歴史を感じて下さい。秋の京都奥嵯峨を歩いてみませんか?大覚寺

  • 秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか? 小倉山二尊院

    小倉山麓に建つ二尊院は、天台宗の寺院で、正式には小倉山二尊教院華台寺(おぐらやまにそんきょういんけだいじ)といいます。創建は平安時代初期、嵯峨天皇の勅により慈覚大師が建立したと云われています。鎌倉時代に法然の高弟だった湛空らが再興した後、応仁の乱で全焼した本堂を公家・三条西実隆が再建しました。本尊の「発遣の釈迦」(人の誕生時に現れる)と「来迎の阿弥陀」(人の寿命が尽きるとき極楽浄土へ迎えに来る)の二如来像を、伽藍で並び拝することから、二尊院の名前で呼ばれています。総門から入り、参道をもみじの木々が覆っている風景は「紅葉の馬場」と呼ばれ、紅葉の名所として知られています。この総門は、慶長十八年(一六一三)に伏見城にあった薬医門を、角倉了以によって移築・寄進されました。山腹には角倉了以をはじめ角倉(吉田)一族の墓があ...秋の京都奥嵯峨を歩いてみませんか?小倉山二尊院

  • 秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?嵯峨鳥居本

    お伊勢に七たび熊野に三たび、愛宕さんには月まいり」と江戸時代の民衆にうたわれた京都・愛宕山。その山頂にある愛宕神社へ参道を「あたご道」といい、愛宕詣りへ向かう人で賑わう街道でした。あたご道沿いには行き交う旅人をもてなす宿や茶店が軒を連ねていたと伝わります。その400年前の風情を残す地域が奥嵯峨・鳥居本です。「一ノ鳥居」が建つ鳥居本地域には「鮎茶店・平野屋」さんと「鮎の宿・つたや」さんが、今も当時と変わらぬ佇まいでお店を構え、観光客のおもてなしをされています。平野屋さんでは愛宕名物の蒸し菓子「しんこ団子」が人気です。米粉に熱湯をかけて練り、砂糖入れて蒸す親指くらいの小さな団子。両方の端を指でつまみ‘ひねり’を付けるのが特徴です。愛宕山の参道がつずれ折れの曲がりくねった道であることから、このひねりが付いたと云われて...秋の京都奥嵯峨を歩いてみませんか?嵯峨鳥居本

  • 秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?化野念仏寺

    京都には「野」がつく地名が多くありますが、古い京都本によると「野」のつく地名の場所は「葬送の場」だったといいます。奥嵯峨にあるこの「化野(あだしの)の念仏寺」もそのひとつ。元々古来より葬送方法は風葬…つまり遺骸をそのまま、この野原に捨てていました。嵯峨小倉山麓の地、愛宕山の参道沿いのこの野に、約千百年前に野ざらしになっていた土葬仏を弘法大師が智山如来寺という寺を建立し、埋葬して石仏を作って死者の霊を慰めました。その後、法然上人の常念仏道場となり、念仏寺と称されました。散乱し埋没していた多くの無縁仏の石仏は明治36年ごろに境内に集められ、賽の(さい)河原に模して「西院の河原」と名付け現在の姿になったといわれています。ちなみに我が家先祖の墓も‘この念仏寺’にあります。あだしの」って珍しい呼び方は、儚さ、虚しさの意味...秋の京都奥嵯峨を歩いてみませんか?化野念仏寺

  • 秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?清涼寺

    「嵯峨釈迦堂」の愛称で親しまれる清涼寺は、源氏物語の主人公・光源氏のモデルと言われる源融が建立した山荘・棲霞観(せいかかん)の跡地であり、物語の中で「嵯峨野の御堂」として登場します。光源氏は、紫の上の目を盗み、大堰川のほとりに住んでいた明石の君との逢瀬を楽しんでいました。以前、明石の夜に弾いた琴の音としらべを聞きながら、「あの頃と変わらず愛おしい」と詠んでいます。数々の女性と浮名を流した源融は、晩年この「嵯峨野の御堂」で過ごし、生涯を終えました。稀代のプレイボーイ・源融の墓は多宝塔の裏にひっそりと立ち、悠久のときを見守っています。釈迦堂の呼び名の由来は「インド-中国-日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」が釈迦に生き写しとされ「生きているお釈迦様」が祀られていることから付いた名です。秋の京都奥嵯峨を歩いてみませんか?清涼寺

  • 秋の京都 奥嵯峨を歩いてみませんか?落柿舎

    のどかな田園風景の中にポツンと佇み、鄙びた藁葺屋根がなじむ素朴な草庵が落柿舎です。往時の風情が感じられる、なんとも心が安ぐ庵ですが、もともとは京の富豪が建てた豪華な別荘を、松尾芭蕉十哲の弟子の一人向井去来が1686年に譲り受けたもの。その後、別荘を取り潰し、簡素な隠棲所にしました。昔、庵の周囲を40本の柿の木が覆っていて、ある商人が立木ごと柿を買い取ろうとしたところ、夜中に風が吹いて全ての実が落ちて破談になったことから「落柿舎」と名づけられたそうです。去来は「柿主やこずえはちかきあらし山」と詠みました。今は柿の木も少なくはなりましたが、紅葉にまじり、実る柿の木を愛でながら去来への思いを馳せてみるのもいいですね。1691年(元禄4年)春、この庵に松尾芭蕉が滞在して「嵯峨日記」を著しています。のんびりと物思いに耽る...秋の京都奥嵯峨を歩いてみませんか?落柿舎

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