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  • 慶長二年二月十日

    朝鮮への再度の出兵が行なわれた。 西国の諸将を中心に十五万ほどの軍勢が彼の地へと渡ろうとしている。 例によって殿下の御渡海はない。 それどころか、体調が非常…

  • 文禄五年九月二日

    伏見城が地震で倒壊したため、大坂城にて明の使節を迎えることとなった。 昨日、使節楊方亨と沈惟敬は、明国皇帝の国書、金印、冠服などを殿下に捧げた。 これを受け…

  • 文禄五年閏七月十八日

    戦の中多くの人足を要し建設された伏見城は、地震によって脆くも崩れたらしい。 前年、聚楽の第を徹底的に破却した後だけに、太閤殿下の自慢の建造物が相次いで破壊さ…

  • 文禄四年七月十八日

    関白、豊臣秀次様が高野山に蟄居、次いで切腹を命じられた。 こんなことが起きてもいいのかと思いながらも、起こるべくして起きた事だとも思える。 私が想像していた…

  • 文禄四年一月二十一日

    太閤殿下によって、入湯のために草津温泉に湯小屋の建設を命じられた。 昨年より取り掛かっていた伏見城の普請は、我らが向かったときには石垣を積むことぐらいしか残…

  • 文禄三年四月十三日

    太閤殿下から越後への帰国を許されていた我々に京への呼び出しが会った。 伏見に城を造るから普請せよとの事である。 海を越えた戦を行なっているというのに新たな城…

  • 文禄二年九月二十八日

    朝鮮出陣という無謀にも思える行為は、名護屋と現地との間の情報通達が最も重大な問題であった。 名護屋在陣中にも石田殿から内情を聞かされてはいたが、そもそも現地…

  • 天正十九年二月二十八日

    非常につらい役目を受けてしまった。 軍装にて参るようにとのことで、行ってみると、千宗易殿の邸を護衛するようにとの命である。 宗易殿は豊臣家の茶頭であり、参内…

  • 天正十八年八月九日

    関白殿下は会津に入られた。 伊達政宗が臣従を果たした今、わざわざ関白自ら奥州に向かうとは思っていなかった。 しかし、伊達政宗を油断ならないとみた殿下は自ら出…

  • 天正十八年七月六日

    これは戦なのか。 小田原を囲んでから幾日も経つ。 関白殿下は囲みながら城を作り、さらには側室まで呼び寄せ、戦の最中であることを忘れそうにもなる。 しかし石田…

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