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2005/07/12

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  • noteの記事もよろしく

    ご無沙汰しております。こちらのブロクにご興味のある方は、noteの方ももしよかったらご覧ください。申し訳ありませんが、noteのほうは有料記事とさせていただいております。https://note.com/madographos/n/n46253f09e353よろしくお願い申し上げます。noteの記事もよろしく

  • 流行りの教育書を読むな

    学校の先生方はとても素直でまじめな人が多いようで、教育書を書いて、マスコミなどで話題になる先生がいると、その実践がすばらしいものであるかのように思って感激し、真似しようとする。自分の学校に不満があったり、自分の実践に自信がなかったりすればなおさらである。私も若い頃にはずいぶんそういうものを読んだ。しかし、今では全部捨てた。若い先生方への助言だ。やめたほうがいい。時間の無駄だ。他の学校でやらない突飛なことをやって理屈をつければ、マスコミは食いついてくる。それは一過性のものだ。話題性があればマスコミは儲かるのだから。後のことまで責任をもっているわけではなかろう。それに、自分の実践を自分で書いて、客観的に書けるはずがない。だって、自分がよいと思ってやっていることなんだから。レトリックをロジックを駆使して、自分の...流行りの教育書を読むな

  • 学校における子供の主体性について

    主体的に学ぶとはどういうことだろうか。そもそも学校においては、学ぶ内容は決められている。それを学ぶ学習者は常に客体である。学ぶ内容に関しての主体性を学習者はもっていない。正確に言えば、現在、教育の世界で言われている主体性とは、与えられた課題に対する積極性、というほどのことに過ぎず、これは言葉を変えれば、能動的受動性とでもいうべきものである。簡単に言えば、「主体的に学べ」ということは、いやいや従うのではなく、進んで従え、ということに過ぎない。主体的な学びを学校が期待した段階ですでに、その学びは主体的ではないのである。子供は学校でも社会での主体ではありえない。だからこそ、子供は将来、社会の主体になるために、保護者には子供を学校に通わせる義務が課せられ、子供は国の決めたプログラムに従って学ばされているのである。...学校における子供の主体性について

  • アクティブラーニングと論理的思考をめぐって

    そろそろアクティブラーニングの限界が学校現場では見えてきていると思うが、未だにアクティブラーニングを信仰しているむきもあるようだ。とくに、アクティブラーニングが論理的思考力を育むと思っている方に問いたい。アクティブラーニングによって論理的思考力が育つ理由を論理的に説明していただきたい。西欧の教育の伝統をみていると、論理を教える際に必要とされるアクティブさというのは、精神の姿勢のことであり、教師の言うことをそのまま飲み込むのではなく、その理路を自分なりに明らかにしようとする意識をもって聴く姿勢を言っているようである。グループでディスカッションをすれば、論理が身につくわけではない。西欧の伝統的な教育では、まず文法に対する正確な知識が前提として要求され、その基盤のうえに論理に対する理解があり、それは握りしめた手...アクティブラーニングと論理的思考をめぐって

  • 現代の教育に足りないもの

    ここのところ、戦前の教科書などをいろいろと見る機会があったのだが、現代の教育にはやはり足りないものがあったのではないかと思うようになった。それは端的に言うと、教育の伝統の継承が行われていないということにある。まず何のために学ぶのか、という意味付けが現代の教育は弱いのではないかと思われるのである。日本の歴史をたどると、勉強や学問は人格の陶冶と直結している。学ぶのは己を人格的に鍛えるためである。そして、勉強の成果は、刻苦勉励の証とされていたように思える。すなわち、どんな人も人格の陶冶をめざして努力精進するそのことが大事だということである。昔の日本には、孝義録と言われるものがあった。そこには、名もない市井の人々の善行が集められており、功成り名を遂げた人物だけでなく、貧しくても能力がなくても善い行いをした人物が讃えられ...現代の教育に足りないもの

  • 筋違いな文法訳読法批判

    私は英語教育の専門家ではないが、どうも気になることがある。よく文法訳読法を批判する文脈で、この方法は西欧の古典ギリシア語、ラテン語の教育法に由来し、音声は重視されず、ただ、語彙の知識と文法を頼りに母語に訳せればよしとする教育法というような言い方をしているものをよく見かける。これは大間違いである。本来、文法訳読法は、テキストを正確に読むことから始まる。この場合の「読む」は音読である。確かに古典ギリシア語やラテン語が古代人によってどう発音されていたかについては、完全に解明されているわけではない。それこぞ膨大な研究成果があり、時代によって、あるいは教育者の考えによって発音の流儀は変わる。しかし、正確に発音することは極めて重要な学習要素であった。文法訳読を行う教師は、まず自らが流暢に範読でき、そして、学習者の発する音声...筋違いな文法訳読法批判

  • 国際数学・理科教育動向調査(TIMSS(ティムズ))結果報道の不思議

    2019年の国際数学・理科教育動向調査(TIMSS(ティムズ))の結果についての朝日新聞12月9日朝刊の記事を読んでいて、その分析に首をかしげてしまったので、久しぶりに投稿します。記事には、小学校4年生の理科の平均得点が低下したことを報じている。砂漠にラクダがいたりサボテンが生えていたりする絵を見せて、「絵にえがかれている生き物を2つ答えてください」「絵の中で、生き物ではないものを2つ答えてください」という問いに答える問題で、シンガポールが84%、アルメニアが79%、カザフスタンが71%正解で国際平均値が45%なのに対し、日本では37%しか正解しなかったというのだ。その記事には、「日常生活の言葉の力が落ちていることがうかがえる」とあり、「生き物という言葉に、虫も草も木も入るということが理解できていない」とある。...国際数学・理科教育動向調査(TIMSS(ティムズ))結果報道の不思議

  • 論理国語?

    「論理国語」という科目ができるそうだ。学習指導要領もここまで馬鹿げたものになってきたかと感慨深いものがある。そもそもネーミングセンスが壊滅的である。「論理」と「国語」をそのままくっつけるという国語センスのなさに呆れ返る。まあ、「生きる力」あたりからネーミングセンスは崩壊しているのであるから仕方がないとも言えるが、末期的である。一つだけ言えることは、漱石の作品を未読できる力のある人間が、取扱説明書とかマニュアルとか契約文書とかを読みこなせないなどということは想定できないということである。国語の場合、文学作品を通してでも日本語の論理は十分身につくはずであることは、しっかりと国語を勉強したことのある人間ならば当然、分かることである。そもそも、歴史的に見て、文学的な文章と論理的な文章は分けられるものではない。言葉で表現...論理国語?

  • 自己肯定感という病

    子供の自己肯定感の低さが問題にされることがある。だが、自己肯定感などを問題にする必要があるのだろうか。自分を知ろうとか自己分析しようなどというのは、現代人の病理にすぎないと私は思っている。そもそも、「自己」など肯定したり否定したりすべきものではない。とくに子供に「自己」など見つめさせるべきではない。子供にとって必要なのは、日々の生活の中で自分の前に立ち現れる問題に対して、なんとか解決策を考えようとする力を養うことであり、「自己」そのものについてどう思うかなどは問題にすべきではない。人間の思考は、もともと他者に目を向けるようにできている。「自己」を見つめれば見つめるほど自己に対して否定的な傾向に傾くのは、我が国の文化的特性であるかもしれず、そうなると、それを「改善」して自己肯定感を高めようとすることそのものが、自...自己肯定感という病

  • プログラミング的思考はいらない

    日常生活でプログラミング的思考をしている人などいるのだろうか?また、仕事でプログラミング的思考をしている人もいるのだろうか?まず、適切にプログラミングされたコンピュータが人間の及ばないような成果を出せるのは、「思考」の秀逸さによるのではなく「記憶」の面で、膨大な記憶容量があり、それらのすべてを迅速に誤りなく取り出せる能力がその基本にあるからである。「記憶」の面ではるかにコンピュータに及ばない人間は、プログラミング的思考を超えた思考力によって、人間としての特性を維持するしかないのである。コンピュータがどう考えているかを理解するために、プログラミングの仕組みやコンピュータの仕組みを勉強するというのなら話はわかるが、小学校の教科教育でプログラミング的思考などを意識した教育を本気で導入すれば、子供の思考力の鈍化と停滞を...プログラミング的思考はいらない

  • 「学び合い」という言葉のおかしさ

    「学び合い」という言葉をよく聞くようになって久しい。しかし、この「学び合い」という言葉はおかしな言葉だと感じている。「~合い」という言葉の「~」のところに入る動詞はふつう相手が想定されている動詞である。たとえば、「話し合い」という言葉は、「話す」という動詞そのものが、他者と言葉をかわすことを意味しているので、その行為を相互に行うことが「話し合い」という言葉である。ところが、「学ぶ」という言葉には2つの意味があって、ひとつは教えてもらって習うという意味、もうひとつは自分で勉強するという意味である。後者の場合は、他者が想定されていないので「学び合い」という言葉は使えない。前者の場合は、想定されている他者が教師なので、「学び合い」と言うと、教師と生徒が学び合うことになり、語義から言って矛盾が生じる。すなわち、「学び合...「学び合い」という言葉のおかしさ

  • 「生きる力」という表現はおかしくはないか

    いまさらだが、「生きる力」という表現はやはりおかしいのではないだろうか?この言葉が出てきたとき、変な表現だなと思ったのだが、普通に使われるようになってしまって、だんだんその違和感は麻痺してしまったのだが、やはり考えてみるとおかしいと感じてしまうのである。「生きる」というのは、もともと生命を保っている状態を指す言葉ではなかったか。当然、ここから生計を立てるといった意味が派生してくるのだが、「生きる」というのはもともとは、自分の力でどうこうできるものではなく、なにか人間の力を超えたものによって、それは自然かもしれないし、神と言う人もいるだろうが、そのようなものの力によって生かされているというのが、本当のところではないだろうか。私が中学校の時の校長先生が、しきりに講話などで「生かされる身の尊さ」というお話をなさったが...「生きる力」という表現はおかしくはないか

  • 学校では児童生徒は「主体的」ではあり得ない

    言葉は正確に用いるべきだと思うのだが、学校で児童生徒が「主体的」に学ぶというようなことがあり得るのだろうか。定められた教育課程を定められた仕方で、自分が選んだわけでもない教員に教えられている児童生徒が主体的であるはずはないのである。たとえば、アクティブ・ラーニングなどで、自ら「主体的」に発言することを求められ、それに応えて児童生徒が「主体的」に活動したとしても、それを主体的と呼んでよいのだろうか。これは、「主体的」であることを強いられているに過ぎないので、単に形を変えた強制である。これは、「主体的」などというよりも、せいぜい積極的という程度のことであろう。もし、自ら進んで強制されたことに積極的に従っていくことを「主体的」と呼んでいるとしたら、とても恐ろしいことである。非常に巧妙な管理体制であると言わざるを得ない...学校では児童生徒は「主体的」ではあり得ない

  • どんな本を読むべきか

    小生に対して、どんな本を読んでいるのかというご質問があったので、こちらでお答えしておきたい。私が好んでいるのは古い本である。やはり本というものは、100年ぐらいたたないと本当の価値が見えてこないのではないかと思っている。特に好むのは、2000年以上前の本である。教育に関する本も若いころはだいぶ読んだが、ほとんど手元には残っていない。もう歳を取ったので、古典的価値のないものを読んで、時間を浪費したくないとは思っている。では、学校教育について、どんな本を読めばよいかと考えてみると、とくに何を読むべきだということはないのではないかと思っている。大事なのは、目の前の子供から学ぶことであって、日々の実践の手掛かりは子供のなかにしかない。実践の中で必要だと思った本を読めばよいと思うが、大体の場合、本を読んでも答えは見つから...どんな本を読むべきか

  • 世田谷区教育委員会「新・才能の芽を育てる体験学習」が提起した問題

    世田谷区教育委員会主催の「新・才能の芽を育てる体験学習」の一環として行われたコンサート「日野皓正presents“JazzforKids”」において、日野氏が中学生に対して、体罰に相当する行為を行ったという報道がなされている。この問題に対して、どちらが悪いかというような視点ではなく、学校教育という観点から考えてみたい。最近、「チーム学校」ということで、学校外の有識者等を学校教育に関与させようとする考え方が取り入れられつつある。今回の「新・才能の芽を育てる体験学習」についても、学校ではないにせよ、世田谷区教育委員会が主催して「新学習指導要領を踏まえた学びを生かしつつ、5つのテーマ(探求、表現、体力・健康、国際理解、環境)の中から通常の授業にはない体験・体感ができる活動」をさせるもののようである。つまり、学校教育の...世田谷区教育委員会「新・才能の芽を育てる体験学習」が提起した問題

  • 「主体的・対話的で深い学び」を批評する

    「主体的・対話的で深い学び」という言葉が、次期学習指導要領のキーワードになりそうだ。まず、「主体的」という言葉から考えていこう。学校教育において、児童生徒が主体的であるとはどういうことを指しているのであろうか。冷徹に考えてみると、児童生徒が主体的であるとは、教師が児童生徒を「主体的」であるとみなしたとき、児童生徒が主体的であるということになるにすぎない。なぜならば、児童生徒は、学校における主体ではないからだ。児童生徒は、学校教育に関するあらゆる組織的あるいは教務的事項を主体的に決定する権利を有していない。さらに、児童生徒が主体としてふるまうことはそもそも期待されていない。したがって、児童生徒が主体的であるとは、教師が認める範囲内において、教師が望ましいと考える方向性において、あたかも主体であるかのようにふるまう...「主体的・対話的で深い学び」を批評する

  • 流行にとらわれるな

    不思議でならないのだが、どうして、アクティブラーニングとかICT利活用とかいったものにすぐに飛びついてしまうのだろうか?教科書を音読すること、黒板に書かれたことを正確にノートに書き写すこと、書き取り読み取りのドリル、計算ドリル、九九の暗唱、都道府県の位置と名称や県庁所在地、植物の生長観察の方法などなど、子供が強いられて学ばなければならないことは山ほどあり、長い学校教育の歴史の中で、それらの効果的な方法は教育現場で蓄積されてきていた。そして、その方法は、先輩教師から後輩教師へ受け継がれてきていたのである。アクティブラーニングにしても、その種の教育方法には初等中等教育には長い蓄積がある。いやアクティブラーニングは従来からあるものではないという学者がいるが、アクティブラーニングを新しいものと思わせようとするただの詭弁...流行にとらわれるな

  • プログラミング教育で論理的思考力は身につくのか?

    新学習指導要領の議論の中で、プログラミング教育が注目されている。プログラミング学習を通じて、コンピュータがどのように動いているのかを理解させるというのであれば、従来のソフトを使えるようにするような情報教育よりは実質的な意味があるだろうと思う。その場合は、プログラミング言語の学習を当然ながら伴うであろう。イギリスなどヨーロッパはこの方向性のように見える。しかるに、我が国では、プログラミング言語の学習ではないプログラミング学習を通じて、論理的思考力を身につけさせたいのだそうである。摩訶不思議である。プログラミングというのは、コンピュータという物分りの悪い機械に、コンピュータでも理解できる特別な言語を用いて、命令を理解させるための営みである。人間の用いている論理的思考力と、コンピュータでも理解できる論理とは似て非なる...プログラミング教育で論理的思考力は身につくのか?

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