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一主婦の「正法眼蔵」的日々
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2019/01/13

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  • 「為すすべ」

    「為すすべがあるかないかで天地の差」最近気がついたことがあります。それは、ある瞬間に同時に一つ以上見ることができないということです。人間は昆虫の複眼のように同時にいろいろなものを見ることは出来ません。なので今見る一つを自分で選択します。それに反して自分でどうしようも出来ないことがあります。歳をとるというこは自分ではどうしようもなりません。だから歳をとることに為す術もなくただ不安しかありません。でも、歳をとるのは仕方の無いことだとして、常に誰かが何かがそばにいてくれたらどうにか耐えられるのではないかな、とずっと思っています。だから、誰かって何かって何なんだろうと、一番切実な問題としてずっと考えていました。その何かって、歳をとることはどうしようもないことだけれども、一瞬一瞬は何をみるか選択は自分に委ねられていると言...「為すすべ」

  • 「梅の花 何を言おうと してるかな」

    (梅の花何を言おうとしてるかな)福岡伸一氏の『世界は分けてもわからない』のなかに次のような言葉があります。生命を生命たらしめるバイタルなもの、それは「生気」である。生物はミクロな部分から成り立っている。そこにプラスαとしての「生気」が加わって初めて生命現象が成立する。名づけてバイタリズム。それは流れである。エネルギーと情報の流れ。生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報がもたらす効果にこそある。上記の解釈からすると、梅の花を例にとると、梅の花そのものに焦点をあてるのではなく、梅の花が私に与えた影響こそに焦点をあてるということではないでしょうか。梅の花に焦点をあてるのと、梅の花が私に与えた影響に焦点をあてるのではどう違うのでしょうか。目の前にある梅の花は一つですが、その...「梅の花何を言おうとしてるかな」

  • 「何を言おうとしてるのかな」

    (梅の花何を言おうとしてるかな)福岡伸一氏の『世界は分けてもわからない』のなかに次のような言葉があります。生命を生命たらしめるバイタルなもの、それは「生気」である。生物はミクロな部分から成り立っている。そこにプラスαとしての「生気」が加わって初めて生命現象が成立する。名づけてバイタリズム。それは流れである。エネルギーと情報の流れ。生命現象の本質は、物質的な基盤にあるのではなく、そこでやりとりされるエネルギーと情報がもたらす効果にこそある。上記の解釈からすると、梅の花を例にとると、梅の花そのものに焦点をあてるのではなく、梅の花が私に与えた影響こそに焦点をあてるということではないでしょうか。梅の花に焦点をあてるのと、梅の花が私に与えた影響に焦点をあてるのではどう違うのでしょうか。目の前にある梅の花は一つですが、その...「何を言おうとしてるのかな」

  • 香りの力

    (梅の花香りがすべてを異次元へ)今は梅の花の満開の時期です。私は桜の花より梅の花がすきです。なので梅の花について何か書きたいとずっと考えていました。梅の香りがなんとも言えず好きです。視覚的に梅の花びらを思い浮かべるよりも香りを思い浮かべるほうが、すっと別の世界があることを気付かせてくれます。私がいくらいろいろな面で頑張っても梅の香りに比べたら、まったく取るに足りません。その取るに足らない例として洋服作りの件があります。私は貧乏性で、洋服を自分で作ったほうが節約できるから作ろうと作りだしました。でも、そのとき梅の花の香りを思い浮かべたのです。そして気がついたのです。梅の香りがあれば充分ではないか。梅の香りに添うような、清潔な部屋や身体やこころにしておけばそれでいいのではないかと。洋服を作っていてそれらが出来ればい...香りの力

  • 「ネガティブ・ケイパビリティー」

    (念仏のように唱える言葉あり)昨年から念仏のように唱えている言葉があります。それは、「ネガティブ・ケイパビリティー」です。意味は、答えの出ない事態に耐える力だそうです。今のようにコロナ下であまり外に行けない・人に会えないとかで寂しいなと落ち込んでいると、その言葉を念仏のように唱えてご飯を作ったりお風呂に入ったりしています。この言葉は私にとってやりたくないことをやるのに劇的に効果があります。毎日の生活はやりたくないことばかりです。掃除をしていたら棚の上の植木鉢が落ちてきてあたりが水だらけ土だらけになって、なんでただでさえやることがあるのにこんなに仕事が増えるの、とうんざりするけれども、「ネガティブ・ケイパビリティー、ネガティブ・ケイパビリティー」と唱えてなんとか掃除をします。今思うに、もっと若い頃にこの言葉を知っ...「ネガティブ・ケイパビリティー」

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(日常のルーティーン)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないということに気がついたことがあります。(ルーティーンは日の出日の入りと一緒だよ)仏教を勉強して、私は仏教というのは宇宙のエネルギーに焦点をあわせて言っているのではないかと思っています。そして宇宙のエネルギーといった場合、まず筆頭に太陽があります。でも太陽というのは、生まれて以来当たり前過ぎて無視していたのです。日常のルーティーンをどうしようかと...カーネーションの花びらが束ねられている一点(日常のルーティーン)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(お茶)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという出来事が今日ありました。(なしとげた仕事後のお茶はおいしいな)昨年の終わり頃に急ぎの仕事がはいってしまいました。その仕事のめどがようやくつきました。成し遂げた満足感とともに飲むお茶は格別です。それまでは、仕事のことが気になってなにをやっていてもうわの空でした。仕事を成し遂げてなんでこんなに満足感があるのかと考えてしまいました。おいしいもの...カーネーションの花びらが束ねられている一点(お茶)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(おしるこ)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという出来事が今日ありました。(あずき煮てやさしいかおり包まれる)今日ユーチューブでお汁粉を作る動画を見ていたら私も作りたくなって作りました。そうしたら、小豆を煮ているあいだとてもやさしい香りに包まれました。香りを期待して作った訳ではないのに思いがけず気持ちよいひとときが味わえました。その日は寂しくてなんかつまんないなと思っていました。そうした...カーネーションの花びらが束ねられている一点(おしるこ)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(小鳥)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという出来事が今朝ありました。(白黒のことりプレゼントかな窓辺の訪問)今朝なにげに窓辺を見ていたら白黒のつがいの小鳥がいました。それを見て気持ちがパーッと明るくなりました。それに似た小鳥が2・3年前につがいでうちの近くの電信柱の穴ぼこに巣をつくって雛を育てていました。何分かおきに代わる代わる雛に餌を運んでいました。一日明るいうちに何十回と餌を運...カーネーションの花びらが束ねられている一点(小鳥)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』第六章貪りと貪る者)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという内容が龍樹の『中論』の「貪りと貪る者との考察」と名づけられる第六章のなかにありました。「貪り」というのは「執着」と同義語です。この章は「執着」と「執着する者」とのセットの関係性について考察しています。そして、どうもこのセットには「時間の概念と空間・場所の概念は入らないよ」と、言っているらしいのです。普通私がなにかをセットで捉えるとき、時間...カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』第六章貪りと貪る者)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』第4章色(物質)を考察)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという内容が、龍樹の『中論』の「集合体(五蘊)の考察」と名づけられる第四章のなかにありました。五蘊というのは、物質・精神を五類に分けたもので、この章のなかでは代表として色(物質)をとりあげて書かれています。そして、この色(物質)を因果関係から考察して、果のない因だけの色(物質)はない、因だけの果のない色(物質)はないといって、どんな色(物質)も...カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』第4章色(物質)を考察)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』是故去去者所去処皆無)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという内容が、龍樹の『中論』の観去来品第二章のなかにありました。その章は運動について考察する章です。読んでみると、歩くことを一例として否定し、そのうえ、とどまっていた状態から歩くことを開始すること、歩くことをやめて立ち止まることなどを否定しています。でも普通に考えたら、歩き始めるとか歩くことを止めて立ち止まるというのは、当たり前のこととしてあり...カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』是故去去者所去処皆無)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』自らより生ぜず)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという言葉が、龍樹の『中論』の観因縁品第一章第三偈のなかにありました。その偈とは以下のとおりです。「諸法は自らより生ぜず亦た他より生ぜず共ならず無因ならず是の故に無生なりと知る」この偈のなかの「自らより生ぜず」についてどんなことだとうと考えていると、最近おこったあることが思い浮かびました。ここ数日のあいだにいろんな人間関係に変化があって落ち込ん...カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』自らより生ぜず)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』自らより生ぜず)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという言葉が、龍樹の『中論』の観因縁品第一章第三偈のなかにありました。その偈とは以下のとおりです。「諸法は自らより生ぜず亦た他より生ぜず共ならず無因ならず是の故に無生なりと知る」この偈のなかの「自らより生ぜず」についてどんなことだとうと考えていると、最近おこったあることが思い浮かびました。ここ数日のあいだにいろんな人間関係に変化があって落ち込ん...カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』自らより生ぜず)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』自より生ぜず)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという言葉が、龍樹の『中論』の観因縁品第一章第三偈のなかにありました。その偈とは以下のとおりです。「諸法は自らより生ぜず亦た他より生ぜず共ならず無因ならず是の故に無生なりと知る」この偈の「自から生ぜず」とはどういうことをいっているのかと考えを思い巡らしていたら、最近おこったあることが思い浮かびました。ここ数日のあいだに人間関係の変化があって落ち...カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』自より生ぜず)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』の帰敬偈の戯論)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点にシュッと束ねられているというのに関係するかもしれないという言葉が、龍樹の『中論』の帰敬偈のなかにありました。その偈とは以下のとおりです。「不生亦不滅不断亦不常不一亦不異不来亦不出(不生にして亦た不滅不常にして亦た不断不一にして亦た不異不来にして亦た不出なる)能くこの因縁を説き善く諸々の戯論を滅す我稽主して礼す仏を諸説中第一なりと」このなかで龍樹は(戯論)を滅するためにこの『中論』を説くといってい...カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』の帰敬偈の戯論)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』の帰敬偈

    『中論』の帰敬偈ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点に関係するかもしれないという言葉が、龍樹の『中論』の帰敬偈のなかにありました。その偈とは以下のとおりです。「不生亦不滅不断亦不常不一亦不異不来亦不出(不生にして亦た不滅不常にして亦た不断不一にして亦た不異不来にして亦た不出なる)能くこの因縁を説き善く諸々の戯論を滅す我稽主して礼す仏を諸説中第一なりと」不生不滅というのは、なにも生ぜずなにも滅しないということでしょう。すべて幻想・イル...カーネーションの花びらが束ねられている一点(『中論』の帰敬偈

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(作「さ」)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点に関係するかもしれないという言葉が、『中論』の注釈書の『プラサンナパダー』のなかにありました。それは「作(さ))」という言葉です。「作(さ)」という名詞の元になる動詞の語根の意味は、(作る・為す・形成す・構成す・実行す・履行す・生ず・顕す・示す等)となっています。この「作(さ)」に関連して次の文が『プラサンナパダー』にでてきます。「すでに見られているものは見られない。いまだ見られていないものは見ら...カーネーションの花びらが束ねられている一点(作「さ」)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(作「さ」)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。この一点に関係するかもしれないという言葉が、『中論』の注釈書の『プラサンナパダー』のなかにありました。それは「作(さ))」という言葉です。「作(さ)」という名詞の元になる動詞の語根の意味は、(作る・為す・形成す・構成す・実行す・履行す・生ず・顕す・示す等)となっています。この「作(さ)」に関連して次の文が『プラサンナパダー』にでてきます。「すでに見られているものは見られない。いまだ見られていないものは見ら...カーネーションの花びらが束ねられている一点(作「さ」)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(根と根眼)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。花びらが一点にシューッと束ねられているのを見るとスッキリするのに関連して反対論者の次の文に目がとまりました。『中論』(「眼等なる根を考察すること」と名づけられる第三の章)の第一げに次のように書かれています。「眼・耳・鼻・舌・身・意という、六つの根力が存在する。これらにおいては、色・声・香・味・触・法の六つの境が存在する。」ここで眼等が存在するといってないで、眼根等が存在するといっていることに興味がわきまし...カーネーションの花びらが束ねられている一点(根と根眼)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(自と他)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。潔さとか簡潔とかに関連して『中論』の第三章(眼等なる根を考察することと名付けられる第三の章)の第二偈の言葉が関心をひきました。「実に、それ、〈見るもの〉は、ほかなるそれこそを、すなわち自らのアートマンを、見ない。〔自らの〕アートマンを見ないもの、それは、どのように、他なるもろもろのものを見るであろうか。」「眼(根)等は自らを見ない。自らを見ることができないもの、それはどうして他を見ることかできるであろうか...カーネーションの花びらが束ねられている一点(自と他)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(刹那消滅)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。なんで一点にシューッと束ねられているのを見るとこころが落ち着くのかと考えていたら、ああそういうことかと思いつきました。それは、この宇宙もビッグバンの一点からでてきたといわれていますし、私たち生物も最初は一個の細胞から細胞分裂してできています。また、一個の電子がいろいろな形、りんごや恐竜や魚や両生類に生り変わりしているといわれています。このようにある一点から規則性をもっていろいろ広がっているから、その起源の...カーネーションの花びらが束ねられている一点(刹那消滅)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(あたたかいこころ)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。ある一点にシュッと束ねられているというのはこういうことではないかと以下に書いてみようと思います。まず、以下のようではないかと思った発端はネコのクーちゃんのネットを見てからです。ネコのクーちゃんが認知症の柴犬のムギちゃんに寄り添っていろいろ助けてやっているネットです。犬のムギちゃんがよろよろ歩こうとすると倒れないように支えになろうとします。またいつも寄り添って添い寝をしてあげます。ネコのクーちゃんは義務感で...カーネーションの花びらが束ねられている一点(あたたかいこころ)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(本質機構)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。一点にシューと束ねられていることをあれこれ考えていたら次の言葉に出会いました。ハイデガーの『存在と時間』に次のように書かれています。「「存在」は意のままになる概念としてではない。「存在」を問いたずねる場合、問う者であるわれわれが、存在者にほかならない。この存在了解内容は結局は現存在自身の本質機構に属するわけである。」また道元の『正法眼蔵』(現成公案の巻)に次のように書かれています。「仏道をならふといふは、...カーネーションの花びらが束ねられている一点(本質機構)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(流れあうもの)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。その一点をみていたら、こんな疑問がわきました。意識・精神と目の前に見えているものは一点に束ねられるかどうかということです。それに関連して『正法眼蔵』の(即心是仏の巻)に次のような文がでてきます。「此の身は即ち生滅有り。心性は無始よりこのかた未だかって生滅せず。身生滅するとは、龍の骨を換ふるが如く、蛇の皮を脱し、人の故宅を出づるに似たり。即ち身は是れ無常なり。其の性は常なり。南方の所説、大約此の如し。」「我...カーネーションの花びらが束ねられている一点(流れあうもの)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(向きあうもの)

    ダイニングテーブルの上にカーネーションの花が挿してありました。それを何気に見ていたら、花びらが一点にシュッと束ねられていることを気持ちいいなと感じている自分に気が付きました。一点に絞られているというのは潔さとか簡潔とかを連想させて、自分の中に潜在的にこうなりたい願望があるからいいなと感じるのかもかもしれません。そこで自分が一つに束ねられるのはどういうことなんだろうかとふと思いました。そのことを考えていたら、そのことのヒントになる言葉がある本のなかに書かれていました。「『自分が自分が』と自分自身のことをまるで確固としたもののように言う人がいますがそんな確固とした自分の核なんてあるんでしょうか。少なくとも世間でいう『自分』などというものは、単なるキャラクーであり、役どころのようなもので、そのようなものは関係性の変化...カーネーションの花びらが束ねられている一点(向きあうもの)

  • カーネーションの花びらが束ねられている一点(コア)

    ダイニングテーブルのうえにカーネーションが挿してありました。そのカーネーションをみていたら、花びらを束ねている一点に目がとまりました。その一点を見ながらなにげにいろいろ思い巡らせていたら、これはコア・核心といえないこともないなと思いました。コアというのはどんなことを言うのかと考えてみると、たとえば私が毎日の食材を買いに行った場合何のコアもないと、これも安いからこれも食べたいから買おうと買っていきます。でも何らかコアがあるとこれこれの基準のもとに買い物をして、一ヶ月いくらいくらで食費を納めようとすることです。コアがないと何基準に買い物をしたらいいのかわからなくてパシッとしません。そういう点に関連して、龍樹の『中論』の註釈書を読んでいて、私はこれがコアというのに今まで気がつかなかったという点がありました。それは以下...カーネーションの花びらが束ねられている一点(コア)

  • カーネーションの花の中心(ゼロ)

    カーネーションの花をなにげに見ていたら、花びらを束ねられている一点に気をとられました。ある一点に花びらが納められてられているのを見るとなぜか安心感を感じます。そんなことを感じながらある一点をみながら、これって「ゼロ」と関係あるんではないかとふと思いました。なんである一点にすべてが納められているのに「ゼロ」と関係あるんだろうと思いますが、仏教でいう「ゼロ」というのは、私たちが目の前にものがあるかないかの「ゼロ」とは違って、あるものとの相対関係で「ゼロ」とします。たとえば電車が走っている速度と電車の外の景色が同じ速度で動いていれば、こころが気を取られるものがないので「ゼロ」とします。また、綱引きで左右どちらも同じ力で綱を引けば、綱の中心は動かないのでこころが気を取られるものは何もありません。そのように互角の力がある...カーネーションの花の中心(ゼロ)

  • カーネーションの花の中心(虚妄)

    カーネーションの花びらはある一点から出ているのと、アットランダムにあっちこっちから出ている差を考えていて、こういうことではないかとふと思いました。ある一点から出ているということは、ある一つのものがいろいろに変化して他のもののように見せて別個なものだと私たちをだましているけれども、実は根っこは同じだということです。昨日寝ながらふと考えてました。うちの猫は二匹とも死ぬときは本当に身ひとつで死んでったよな、と。それと、カーネーションの花びらがある一点からでているのとなにか関係があるような気がしてその関係を明らかにしてみたくなりました。猫は、目にみえない根っこの一点を見据えていて、その一点がいろいろ変化していて私たちをだまそうとしているのに気がついていたから、その変化しているものは無視してある一点をジーッと観じていたの...カーネーションの花の中心(虚妄)

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