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2019/01/07

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  • Haridimos Hatzidakis

    Souvenir de ses yeux bleus comme l’Egée

  • Aleš Kristančič – MOVIA

    詳しくは投稿をご覧ください。

  • Aleš Kristančič – MOVIA

    詳しくは投稿をご覧ください。

  • Comando G

    Fernando García & Daniel G. Jiménez Landi – Comando…

  • 同時に…

    白黒にも変化が。

  • 今更ながら…

    新たな作風に臨んでいます。

  • 板さんの寄り合い所 – ガブマル食堂

    高松に滞在している間に一番足を運んだお店、それは何と言ってもダントツで「ガブマル食堂」。毎日毎日、しげしげと通ったお店だ。名前からして行き易い、なんたって「食堂」だもの。おまけに寿司中川の並び、徒歩1分、さっさっさっさっさと歩いて行ける。が、初めてお店の前まで来た時、「うーん、これが食堂?」と、ストリート・アート並みに描(書)き込みされた木枠のガラスの引き戸に、もろ「平成」の違和感を感じる。少なくとも「昭和」の香りがそのまま「食堂」のイメージの私には、完全にはみ出した世界だ。 辛うじて悪戯描きの中に「ガブマル食堂」の文字をを見つけ、そのドアを開けると、これまたレトロな食堂とは裏腹に、いきなり「あーっ、カウンター!」ハイカラで、またまた昭和のイメージがぶち壊される。おまけにそのカウンターの上には、「何だこれ?パエリェーラ(パエーリャ用の薄鍋)じゃん!」と、大きさの異なるものが色々かけてある。とすると、ここはメゾン(MESÓN)?つまり、スペインの古風な居酒屋や料理屋のことだけど、メゾンを日本語に訳したら、やっぱり「食堂」、であるか。 ドアを開けて一瞬のタイムラグの後、「はい、いらっしゃい!」とターボ全開で、絵文字の笑い顔のような満開の笑みがひょっこり現れた。昨年スペインで初めて出逢った高松CHAVALSの一人、通称「ガブちゃん」こと、ドゥエンニョ(主)の有村和彦さんだ。でも、見慣れぬものが…。胸元で金バッジならぬソムリエ・バッジが眩い。「知らなかった、ガブちゃんはソムリエなんだ。」このお店、ネット上でよく、「高松一敷居の低いソムリエのお店」と紹介されている(実はお店の入り口の上の大看板にそう書いてある)。もしかして、食堂じゃなくて飲み屋なの? いずれにせよ、確かに敷居は低い、と言うよりも、「敷居なんてあるのかい(ない!)」というくらい、気さくなお店だ。なにしろ、店主のガブちゃんがカウンターの裏にいることなど、殆どない(少なくとも私たちがいた時はそうだった)。いつもこちら側にいて、みんなとワイワイギャアギャア、和気藹々とやっている。だからと言って、単なる呑んべい親父のお店とは違う。

  • 酒肴 天馬 – 天将 雅子

    天馬が見つからない。百間町を行ったり来たりするが、ない…。何度か通り過ぎた末に、「もしかして、ここ?」と、看板も何もない、ただ戸の開け放たれた入り口の中を覗いて見ると、「あっ、いた。」酒肴天馬の女将、馬渕雅子さんが、カウンターの中で何かゴソゴソやっている。「こんにちは。探しましたよ、もう。」「ええ、そうなんですよね、うちはのれんしかないから。」 なるほど、のれんか。確かに、かかっていなかった。まぁ、のれんは開店している時にかけるもの。閉まっている時は無用で、それで場所が分からなくても関係ない。正論だ。そもそもその日、天馬は定休日だった。ただ中川さんが「鯛鍋をやろう」と、それで休みの天馬が閉店稼業状態になったわけ。ありがとう、中川さん。お休みの日に、どうもすみません、雅子さん。 そののれん、黄地(和色の黄支子色?)に黒の跳ね馬。となれば、フェラーリの格好良い跳ね馬を連想するけど、ここのはちょっと小太りのペガサス(翼のある馬=天馬)。のれんの唄い文句「酒と旬魚とうまい時間」でほろ酔い加減か、赤いほっぺが可愛いらしい。なんとなく、グレイスフル(みやび)! お鍋は最初雅子さんが用意し、途中からガブマル食堂の有村さんが見張り番。そろそろいけるとみんなでつまみ出したところに中川さんが現れて、「喝!」順番が違うぜと、新若布(これが美味しい!)から入れ直し、次に二つに割った鯛のお頭を両方ともドカッ、しばらくして煮立ったらできあがり。豪快で滅茶コクのあるお鍋は、さすがです! 鯛鍋を食したところで連れが、「明日のための連絡を入れなければ」と、訪問先に電話を入れると、なんだか明日の朝7時に鳴門へおいで、と言われているみたい。「いいよ」と気安く受けたが後で駅探で調べると、「えっ…」(また)「ない。」明日の朝7時に鳴門にいるには、今晩21時に高松を出るしかない。はてさてどうしたものか。う~ん、もうレンタカーしかない! でも、そこでハタと気がついた。「早朝、レンタカー会社は閉まっているよね。」つまり、今日中に借りるしかない。そしてその時、ヨーロッパでは思いもよらぬことが頭の中をよぎった。「もしかして、私、飲んでる?ヒェー。」すると雅子さんが、「うちの若い子に頼んであげる」と電話で「代行」を交渉。おまけに、レンタカーまで予約してくれた。助かった、本当にありがとう!

  • ソムリエ・バッジのシェフ Cantonese 楓林

    長いヨーロッパ生活の中で、私は10年ほどパリに住んでいた。正確には、そのほとんどをパリから15mのところで、そして最後の3年を13区の中華街のすぐ横で、暮らした。13区に住んでいる時は、時間が不規則なコーディネイトの仕事のせいで、朝6時から真夜中過ぎまで開いている中華街が、とても重宝した。そして本場から来た人たち(と言っても華僑が多い)の同胞のために作る料理が美味しかった。 たまに日本へ戻ると、よく母と中華を食べに行った。母が中華が好きだったからだ。しばしばホテルや銀座のお気に入りの有名店に、連れられて行ったものだ。が、何を食べたか、今はうろ覚え。どんな高級な店の料理も、さして美味しいと思ったことはなかった。 それに比べ、パリの中華街の味はよく覚えている。美味しいし、早いし、安い。当時の私には、全てを兼ね備えた料理だった。もっとも、パリは10年も住めばもう十分な街。一度離れてからは、滅多にパリを訪れることはないが、行けば必ず中華街に足を運ぶ。これが私にとっての中華だ。 さて昨年の高松CHAVALS来西の折、Cantonese 楓林の関幸志さんは、残念ながら来られなかった。だから、ここ高松が初対面となる。と言っても、すでに一緒に大岡さんの所へ行っていた。それで、ヘア・スタイルに凝ったニヒルな関さんは、飲むのが好きな人だと分かっている。だからお店には「あれ」を携え、意気揚々に入ったが、「あら、ない。」目の前に広がるお洒落な空間には、(中華=)赤いテーブルが一つもなく、私の偏見、先入観は見事に打ち砕かれた。それどころか、なんとじょかーれ(GIOCARE)同様、カウンター席があるではないか!「うわっ、カウンター中華。やるじゃん、高松CHAVALS!最高だ。」 実際に座ってみると、とりあえず厨房側と仕切るために色々なものが置かれていて、ちょっと邪魔(失礼!)な気もする。が、それでも桜の蕾や壺等の合間から、関さんの作業が垣間見え、楽しい。あの馬鹿でかい中華包丁が図体に似合わず華麗に舞い、丸い中華鍋が大きく踊るのに、ついつい見とれてしまう。ただ一つ可笑しいのが、関さんの左胸で輝くソムリエ・バッジ。何故料理人が、と思うけど、まぁいいや、ここは日本、見逃そう。 次の瞬間、左のグラス棚に「Catherine

  • じょかーれ!よかーれ!GIOCARE!

    昨年7月、スペインに高松CHAVALS(「高松若大将連」とでも言っておこうか)がやってきた時、中川さん以外は全員初対面だと思っていた。が、違った。以前、高松で入った高知料理の店が酷過ぎて、飲み直しならぬ食い直しに中川さんの店へ行った時、「おっ、外したな。うちに連チャンで来た人、初めてや」と笑いながら食べさせてくれた後、「一緒に飲みに行こう」と連れてこられたのが酒肴天馬、馬渕雅子さんの店だった。また別の機会に、「うちのイタリア料理の店へ来てや」と、中川さんの自宅一階にあるレストランへ招待された時、シェフの上野賢司君とも会っていた。でも、(ゴメン!)記憶が混在していた。 上野君のお店「GIOCARE」のドアを開けると、カウンター席が目に飛び込んでくる。それも全8席、全てカウンターだ。「最高だ。」食は作り手との対話さ。私たちにとって、カウンターで過ごすことほど至悦な時はない。ただこの日本では当たり前の文化も、ミラノで自らのレストランを立ち上げ中の玄ちゃんが、「イタリアはまだ、カウンターでシェフと差しで食事というレベルじゃない。やっても採算がとれないでしょう」と言う通り、宮廷料理思考から抜け出せない人たちには、難しすぎるのだろう。フランスの巨匠の一人、故ジョエル ロビュションが数寄屋橋次郎の影響を受け(?)、ラトリエというオープン・キッチンの店を開いた程度だ。だから私たちにとって、「イタリア料理」でカウンター席というGIOCAREのスタイルは、とても新鮮で、衝撃的だった。それにしても一人で仕切るには、やはり8席というのは本当にギリギリ(最高限)の数、大変だろうなと思う。 席に着き、最初に出てきたお通し(?)は、瀬戸内のニシガイと菜の花のマリネ。スライスしただけでなく、細かく包丁が入ったニシガイの口当たりがたまらなくいい。おまけにヴィネグレットが全然嫌らしくなく(失礼、実は私、お酢があまり得意ではないのです)、いける。 次の皿は、瀬戸内渡り蟹とガスパチョのサラダ仕立てだ。名前だけ見ると、もろイタリアン(いや、半分エスパニョル=スパニッシュか)だが、やけに凝ったトマトソース(ガスパチョ)がくどくなく、塩茹でした蟹と良く合う。

  • 二刀流に憧れて – れんげ料理店

    大岡さんと別れた後、岡山で寄り道したせいで、高松へ戻るのが遅くなり、その日はお昼を食べずに終わった。しかも午後から雨になり、ちょっと憂鬱。夕食は八時半なのでまだ時間はあるが、雨は止みそうにない。今晩行くれんげ料理店は、ホテルからちょっと離れている。どうしよう。歩こうか、それとも、タクシーにしようか。 結局、八時を過ぎても雨が止まず、ホテルを出てすぐにタクシーを拾う。が、それがちょっと裏目に…。正確な住所を伝えると、タクシーはちゃんと裏道まで行ってくれたのに、レストランらしきものが見えない。どこだろうと、タクシーを降りた後、人間(それとも私?)の習性か、前へ進み探すがみつからない。そうするうちに、雨の中、結局その区画を歩いて一回りする羽目になった。そして元の場所へ戻り、小さな看板に気がついた。えっ、ここがレンゲ料理店?一軒家(?)なんだ。タクシーが5mオーバーランしてるじゃないか。 ドアを開けると、いきなり熱気が伝わってきた。滅茶苦茶賑わっている。連れによると、高松で人気の居酒屋だとか。これじゃぁ、「隠れ家的で分からなかった」なんて言えそうにない。そうか、ここが昨年中川さんと一緒にスペインにやってきた「憧れ」の阿部隆彦君の店か。やっぱり人気があるんだ。その阿部ちゃんが、「いらっしゃい。どうぞ」と、入り口側のカウンターの後から、笑顔で声をかけてくれた。 何が「憧れ」かと言うと、実は私、阿部ちゃんの包丁さばきに惚れこんじゃったんだ。とにかく凄くて、見とれちゃう。昨年、ジョアン・ラモン エスコーダのレストラン、トッサル グロスでのことだった。牛の生肉ステーキを作ろうと私が肉を切り出した時、阿部ちゃんが「やりましょうか」と言ってくれた。それじゃお願いしますと頼んだら、二刀流と言うよりはまるで二丁拳銃をぶっ放すように、両手に持った包丁でダダダダダッとまな板を引っ叩き、肉を切りだした。そしてあっという間にカルネ クルーダ バッテュータ ア コルテッロ(二刀流だから「コルテッニ」か)ができあがった。うはぁ~、早い。いやはや、その凄まじさに、呆気にとられる。よくプロとは?と尋ねる人がいるけど、アマとの違いは、絶対に仕事の速さですよ。

  • うわぁー、O O O KA さん

    高松二日目、私たちは中川さんたちとドライブに出た。行き先は岡山。フランスで「Hirotake」の愛称で親しまれていた大岡さんが、突然日本に引き揚げ、岡山にワイナリーを開いて、すでに久しい。大岡さんとは、ある真夏の日、ローヌの井戸底の気温14度のカヴで、Tシャツ1枚、4時間も話し込んだ想い出がある。その大岡さんに会いに行く。 最初は、私たち二人で電車で行こうと思っていた。そのことを中川さんに告げると、一緒に行きたいと言う。おまけに、奥さんが運転する車で。勿論、問題はない。取り敢えず、岡山空港まで迎えに来てくれると言っていた大岡さんにその旨を伝えるが、ガブマル食堂の有村さんと風林の関さんも参加することになり、結局6人で行くことになった。 瀬戸内海を車で渡り、岡山市に入り郊外の山道へ。順調にナビに従い進んで行くが、最後でズレる。ヨーロッパではよくあること。酷い時にはナビが、とても車が通れぬ細い道や階段を、或いは人のうちの中(私有地)を突っ切れ、なんて言ったりする。だから慣れっ子だが、日本でそうなることが可笑しくて、黙って見ていた。 結局、電話を入れ場所を確認した後、来た道を少し戻り別の道に入りるとほどなく到着。ワイナリーのある農業倉庫の前で、大岡さんが待っていてくれた。が、先客と思しき人と一緒だ。よく見ると、あれ、外人さん?誰かと思えば、フランス人の造り手、ルシオン地方のドメンヌ デュ ポッシブルのロイック ルールだ。 凄いな、大岡さん。外国からの訪問者もいるんだ(まぁ、私たちもそうだけど)。そう言えば一年ほど前に、やはりフランスのBIOのビールの造り手から、「日本で大岡さんを訪ねたいので連絡を取って欲しい」と頼まれたっけ。でもあいつらは、実際に来たのだろうか。 中に入ると、早速大岡さんがワイナリーの構想を話してくれた。まず第一に、立ち上げに当たりできるだけ費用をかけないこと。だから、周りにある機材は殆ど全て中古、ヤクオフ(?)などで手に入れたそうだ。そして樽はフランスの自分の蔵で使っていたもの。よくもまぁ、これだけ寄せ集めて、(ある種の固定観念からすれば)全くドメンヌらしからぬドメンヌ(失礼!)をつくったものだ。その上そこで、とんでもないワインを造っている。全く驚異だ。

  • 一生一代の衝撃、寿司中川

    小豆島を後に、さぁ、高松入りだ。高松と言えば、言わずと知れた寿司中川。もう何年になるだろう。ずいぶん前に、金毘羅山の麓にある酒蔵「悦び凱陣」を訪れた際、「美味い寿司屋があるから」と蔵元の丸尾忠興さんに連れられて来たのが、最初だった。その日丸尾さんは酒の仕込みの最中で、「中川さん、後はよろしく!」と私たちをおいてすぐに帰られた。今でも忘れられない出来事が起こったのは、その後だ。 先客がいるカウンターにつきボンヤリ眺めていると、中川大将がなにやらこしらえている。「ああ、軍艦巻きか。それにしても大層豪勢なウニの盛方だなぁ。」すると突然、大将がウニの板を手にとり、逆さにひっくり返し残りのウニを軍艦の上に全部ぶっかけた。「うわぁー、誰だ。こんなもの頼むのは」と辺りを見回していると、「はい、お待ちどうさん」と、いきなりその軍艦が私たちの前に突き出され、「ヒェー!」と本気でぶっ飛んだ。 我が人生、寿司屋でこれ以上の衝撃の出逢いなし。 断固断言する。以来、岡山(備前焼)方向へ来れば、そのままマリンライナーに乗って高松へ、と何度か通うようになった。もう、私の中では次郎も水谷もない。寿司なら中川の中川大将、そして築地(豊洲は行かない)の大和の入野大将と決まった。

  • 島宿真里、「聞こえるかい、海の音」

    フェ 松山からは電車で高松まで行くことになった。そしてフェリーで小豆島へ。当初は時間に余裕をみて、池田港行きのフェリーに乗ろうと思っていたが、ATMを探しているうちにフェリー乗り場へ来てしまい、草壁港行きのフェリーにまだ間に合うと言うので、そのまま乗ってしまった。船上から電話を入れると、真渡寛君が迎えに来てくれると言う。 実は今回の一時帰国、高松へ行くことが大きな目的だった。と言うのも、昨年のH2O Vegetal試飲会(7月29日と30日)に、高松から6人のシェフがやって来て、和食の会を開いてくれた。そのご縁で、今度は彼らのお店を回ろうということになったわけ。ただ、その中の一人が実家の旅館の別館開業のために小豆島に戻っていた。最初は高松の後に寄ろうと思っていたが、週末は予約で一杯、全く空きがないと言う。そこでまず、小豆島の島宿真里へ行くことになった。でも一体、どういうところなのだろう? 港に迎えに来てくれた寛君は、旅館のユニフォームの出で立ち。様になっている。早速宿へ案内してくれるが、見るからにシックな外観。館内に入ると、木調の新旧の調和が美し造りに見とれてしまう。しかも堅苦しさを全く感じない、暖かな雰囲気だ。そして部屋に通されて、ビックリ。「うわぁ、豪勢!広~い!」と思ったら、「こちらは一番小ぶりのお部屋ですが…」だって。唖然。 私たちはヨーロッパを旅する際、食べ物(レストランなど)には(金の)糸目を付けないが、その分、ホテルはかなりはしょっている。宿泊施設付きのレストランは数少ないし、そもそも一晩限りの仮の居、それで十分だ。だから尚更、突然こんなところへ不時着すると、「いいの、こんなところへ泊まって?」となる。まぁ、なるようにしかならないが、でも、本当にいいのかな? 夕食時、前もって予約した食堂のカウンター席へ案内される。その黒調ベースの落ち着いた空間で、カウンター越しに黒のサムイ姿のスタッフを見た時、謎が解けた気がした。ここはもしかして料亭旅館?それなら私、大好きなんだけど。とにかく、私が嫌いな旅館の作り置き料理ではなさそう。期待しちゃおう。

  • 連帯のグルメ、ん?「さかな工房 丸万」

    フランスにいる時は、結構YouTubeで日本のテレビ番組を観ている。中には当然グルメ番組もあり、「孤独のグルメ」もその一つだった。松重豊が演じる井之頭五郎のお話は、結構楽しく観ているけれど、それじゃ実際に「行ってみたい」と思う処は、意外とない。そんな中、松山にある「さかな工房 丸万」だけは、絶対に行きたかった。 その松山は広島の対岸。となれば、船で渡るしかないじゃん。広島からはスーパージェット(高速船)もあるが、高い。それじゃぁ、ゆっくり瀬戸内海を眺めながらとクルーズフェリーにしたら、あいにくの雨模様でほとんど何も観ることなく対岸についた。まぁいい、道後温泉で一風呂浴びて、丸万へ行こう。 と呑気にしていたら、あらら、道後温泉にはあまりタクシーがいない。ようやく空車に乗り込み行き先を告げると、「祇園町?どのへんや?」知るわけないじゃん、初めてなんだから。「たぶん、あそこやと思うんやけど…。わしら地元の人間は瀬戸内の魚やないとあかんから、行ったことない。あそこはいろんなもんだしてくれますよ。」えっ、なんじゃ、それ。 戸を開けると、土間?踊り場?何かわけの分からない空間があって、その向こうにカウンターが見える。その上に、これでどうだとばかり魚が並べられている。その後ろで、大将の丸山さんが一人で魚をさばく。さらにその奥の厨房では、奥様らしき人が揚げ物などを用意する。 私たちが魚の真ん前の指定席に着くと、早速大将の丸山さんが、「うちじゃ、おまかせでもいいし、ここの魚のどれかを指差して、それ何じゃ?どうやって食べるんじゃ?でもええし、この魚、焼いてくれ、炊いてくれ、どうしてくれでも、何でもありだから。」と説明してくれる。「それじゃ、お勧めは?それから、穴子のたたきを食べたいな。それに鯛丼!」ここで大将、ニヤッとすると、「えーと、今日は穴子、あります。穴子は鍋も美味いけど、どうする?」このアナゴ鍋、「こんなに美味い穴子は今まで食べたことない」と思わず叫ぶほどの絶品だった!本当に美味い。そして鯛丼、「孤独のグルメでみた、あれや!これを食べなきゃ、ここへ来た意味がないぜ!」 ところで丸万さん、元々仕出し屋さんらしい。そこで明日の朝食昼食用に2食x2人分=4つのお弁当を作ってもらったら、「あらまぁ、なんと豪華絢爛なことでしょう!」

  • さかもと屋市兵衛

    「大丈夫、一時間に一本バスがある。なにせうちはメインストリートに面しているから」と、ヒトミワイナリーの岸本代表が笑いながら言った一言が、忘れられない。これって凄いんだ。今まで車で40万キロ以上もヨーロッパのワイナリーを巡っていて、こんなこと、一度も考えたことがなかった。なにしろ、飲みすぎなければ、常に運転していたから。その点日本は、(特に東京での乗り換えのための早歩きや階段の登り降りを除けば)なんて楽なんだ。 バスの時間を気にしたのには、理由があった。その日の夕刻までに、広島に行かねばならなかったから。朝、東京を新幹線で出て、米原(JR東海道本線)近江八幡(近江鉄道八日市線=何十年ぶりかで再会した「硬券」に感激、記念にもらってきた!)八日市(近江バス)ヒトミワイナリーに着き、ここからは近江八幡まで戻り、JR東海道本線で新大阪に出て、新幹線に乗り換える。広島にはどうしても行きたい寿司屋があった。 舟入中町のさかもと屋市兵衛の直吉大将は、ちょんまげおやじとして有名な、カウンター越しのエンターテイナーだ。YouTubeで大将のことを知って以来、是非一度会って見たいと思っていた。その思いが、フランスを出る前に購入したJAPAN RAIL PASS(「のぞみ」と「みずほ」を除けばJR全線乗り放題)のお陰で、叶ったわけ。 日本に戻って最初の本格的なお料理は、「うん、瀬戸内の幸は美味しい!」の一言で始まり、そしてその一言で終わる。お通しからお造り、酢の物、焚き物、焼き物、握り(一体全部で何品出たんだ?)と、江戸前のコハダに涙した大将の仕事はさすがだ。一品一品に(エンターテイナー以上の)芸がこもっている。ただ、中でもビックリしたのは、魚もさることながら、出される野菜の美味しさ。「ウワァ~」とつい口をつく。ここまで野菜に凝る寿司職人は、あまりいないだろう。喝采、喝采。 一方お酒の方は、最初からほぼ私たちの口に合わないのが分かっていたのだから、言及しまい。それでも、私たちが漏らした「自然派が好き」の一言に、直吉大将がピーンと反応。裏から持ち出した雨後の月の「残りもの(澱)」には、気を取られた。にごり酒(?)の上澄みだけを飲んじまった後、残り物を冷蔵庫の中に放ったらかしておいたらしい。真っ白でドロドロ、でも、これが結構いけた。ただ自然酒でないぶん、やはり後はちょっとこたえたけど。

  • 信楽採酒使

    ヒトミワイナリー - 岸本邦臣&石本隼也 今回の一時帰国、私たちはほとんど地方で過ごすことになった。丸一日東京にいたのは、買い物で初めて豊洲市場を訪れた2月28日だけ。それにしても豊洲はなんと味気のないところか。築地という日本の文化が、また一つ葬り去られた。この事実は否めまい。何故、時の流れを止めずに、変わらぬ夢を流れに求めないのか。残念というよりも、悔しい。 反面、3月2日に訪れたヒトミワイナリーでは、そんな夢を見させてもらった気がする。信楽焼でのワイン造り、信楽茶壺仕込み、なかなか妙味な話だ。すでに十年も前からやっていると言う。それどころか、発掘された1200年前の焼き物の破片に葡萄がこびりついていたという、なんとも想像を掻き立ててくれる話もある。ああ、知らなかったのは私たちだけ。世界のVoyage en Amphoreを掲げるには、まだまだ役不足のようだ。 ネット検索で、茶壺仕込みとして、Sindo Funi TsuBo 2014が出てくる。Sindo Funi「身土不二」とは、「地のもの食べると長生きできる」という意味らしい。データを見ると、滋賀県産マスカットベリーA 100%使用、天然酵母での自然発酵でアルコール10度と、いかにも飲み易そうなワインだ。ちなみに2018年の茶壺仕込みは、白がデラウェア+ソービニョン ブラン、赤がシラー+カベルネ フラン。ボトル詰め間もないが、口当たりよくいける。 ヒトミワイナリーでは、元々にごりワインを謳い文句に商品化しているが、日頃澱満杯のワインを飲み慣れている私たちにとってはむしろ綺麗なワインであり、これに疑義を呈する輩がいるなら、その心中が図りかねる。個人的には願わくば、全房でもっと長期浸漬の、或いは日本固有の山葡萄で、いわば縄文風茶壺仕込みに挑戦してみてもらいたい気がする。

  • 十割日本!- 寺田本家

    久しぶりの日本、久しぶりの超えた味 約三週間ぶりの投稿。久しぶりに、本当に久しぶりに、日本へ行っていた。四年半ぶりの一時帰国。その間フランス(ヨーロッパ)とはずっと音信不通のまま、だからFBもブログもみんなお休みして、「十割日本」を楽しんだ。そもそも、家を出たらナヴィ(+日本では駅探)以外、基本的にモニター(スマートフォンやノートブック)なんて見たくない。だってもったいないもの。小さな画面には収まりきらない、目の前で起こっている面白い色々なできごとを見逃すなんて。そのために、自由でいたいんですよ、自由で。囚われの身にはなりたくない。まぁ、小さな世界に縛られるのも、その人の自由だけど。 さて今回は、もう十年以上(?)乗っていなかったAF(エールフランス)で、パリ経由の成田着。個人的にはトルコ航空の方が好きだけど、AFがとにかく安かった。おまけに成田到着が朝。つまり、空港から直接寺田本家へ行ける。寺田優さんとは、毎年スペインやジョージアで再会していたけど、お蔵はやはり四年半ぶりの訪問だ。 いつもの板間で、初めて醍醐の泡を飲む。「仕込んで日が浅いので、まだ泡が出ていかも…」との優さんの心配をよそに、僅かに発泡しだしたお酒がやけに美味しい。グイグイいけてしまい、「おう、よいよい、いけるよ、これ、優さん」と、駆けつけ四、五杯でようやく本題へ。「優さん、ところで例のもの、どうですか?」、「じゃぁ、やりますか」、「やりましょう、やりましょう」と表に出る。 さて例のものとは、備前の大徳利に入れ地中に埋めて寝かした醍醐の雫のこと。もともとは、トリノで隔年に開催されるスローフッドのサローネ デル グスト2014年大会で、2002年以来続けてきた私たちの研修会の集大成のテーマ「かめ壺熟成」用に、優さんに頼んで14ヶ月熟成させてもらったものだ。これが滅茶美味しくて、是非同じものをと再び埋めてもらったが、結果的にその後私たちが一度も一時帰国することなく、そのままずっと地中で眠っていたものを、「掘り出そう」ということになったわけ。でも、自然はすごい。五年も放っておくと、「こんなにも根が張って…」と、優さんが四苦八苦しながら、なんとか掘り起こす。とりあえずかめ壺の表面の土を洗い流すと、口からほんのり香りが…。「これは、あっ、あれだ。」

  • 粘土団子を知ってるかい?

    Alessandro Sgaravatti - Castello di Lispida 皆さんは、福岡正信先生の名をご存知だろうか。不耕起、無肥料、無農薬、無除草の自然農法を提唱された方だ。また、ギリシャやスペインを初めタイ、ケニア、ソマリア等、世界十数カ国で、様々な種を混ぜ込んだ「粘土団子」での砂漠緑化を実践されたことでも知られ、海外では非常に高名だ。が、日本ではあまり知られていない。実は当初私たちも、イタリアの造り手から話を聞くまで、先生の名すら知らずにいた。仮にも「自然」を口にする「日本人」として恥ずべきことだと思う。 残念なことに、私たちがお目にかかる機会を得る前に、2008年、95歳で亡くなられた。その福岡先生のことを最初に教えてくれたのが、カステッロ ディ リスピーダのアレッサンドゥロ スガラヴァッティだった。元々医学部の学生だった彼は、葡萄栽培醸造を始めるにあたり、福岡先生の哲学を学んだと言う。実際に来日して、福岡先生を訪ねている。 今思えば、私たちはとてももったいないことをしたと思う。当時私たちは何の準備もできておらず、馬鹿だった。なにも福岡先生のことだけではない。実はリスピーダの地下蔵には、その時すでにかめ壺が埋められていたのだ。でも当時は、それに興味すら示さなかった。かろうじて、スペイン製のティナッハで、確かヨスコ グラヴネールからもらった、と言っていたと思う。 でも、その時の私たちときたら、「ヨスコって誰?」といった具合。ああ、恥ずかしや、恥ずかしや、壺があったら入りたい。結局、この程度の私たちだったから、(?)かめ壺ワインを試飲させてもらっていないと思う。まぁ、できの悪い奴には出さんというのも、仕方のないことか。もっともそのお陰で、私たちは後にクヴェヴリ グヴィノへ一目惚れ。ただならぬ思いを抱くことになった。これまた人生、楽しからずや。

  • バルベーラ

    Rosemarie Bernhard & Giulio Viglione - A.A. Viglione 初めて耳にする人の名に何故か懐かしさを覚えることがあるように、それまで聞いたことのなかったワインの名でも、最初から好みのワインのような気がすることがある。バルベーラがそうだった。ドルチェートよりも、またネビオーロよりも、その名を聞くだけで心が弾み、幸せになったような気がした。そして実際に飲んでみると、その通りだった。知りもせずにバルベーラが好きと言い、教えてもらったのが、このヴィリオーネだった。 約束の日、モンフォルテ ダルバの指定の場所へ着き電話を入れるとすぐに、白のサムライ(海外向けスズキのジムニー)が飛んで来た。そして降り立ったのは、その場の雰囲気からおよそかけ離れた、個性丸出しのローズマリーだった。挨拶もそこそこに、彼女についてカンティーナへ向かうと、ジュリオが迎えてくれた。見るからにローズマリーとは対照的な、ピエモンテの郷人だ。その二人が、やけに綺麗なティーシャツを着込んでいる。 理由は簡単だ。勿論、撮影のため。が、その目論見(?)は見事に外れた。「まぁまぁまぁ、一杯飲もうや」とのジュリオの誘いに応じて、普段は撮影が終わるまであまり飲まない私が、その時は勧められるがままにバルベーラを口にした。すると、これがいける。「やっぱりバルベーラは美味しいんだ!」と嬉しくなり、「写真はこの次でいいや」とばかり、その日はそのまま宴会へ突入。後日改めて出直し、撮影することになった。 しかし二回目も、また宴会で始まることになる。それでも、今回撮らないわけにはいかない。そこで宴会の途中、たってのお願いと撮らしてもらったのがこの写真だ。ローズマリーとジュリオの二人合わせて300%、個性むき出しの傑作になった。そのご褒美ではないが、二度目の宴会の最後に出てきたのは、なんとバルベーラ1985年。ピエモンテの真髄はネビオーロと言うけれど、そうかなぁ。私にはバルベーラの方が輝いて見えるけど…。

  • フォトジェニック

    Denis Montanar - Borc Dodòn Triple Aの造り手の中で、アリアッナ オッキピンチと並んで出世頭と言ったら、ボルグ ドドンのデニス モンタナールかもしれない。当時から葡萄栽培(及び醸造)専門農家というよりも、葡萄以外に向日葵(油)等を作っていたが、今では小麦にトウモロコシ、大豆(なんと豆腐用!)等々、幅広い農作物を手がけている。 そのデニス、初めて会った時は、スキンヘッドのせいか、滅茶苦茶強烈な印象だった。視線が突き刺すように鋭い。おまけに、動作はとてもスマートとは言い難い無骨さがある。それ故に、尚更人を圧倒する雰囲気だ。するとデニスが、何やら準備を始めた。どうやら、畑へ行くらしい。まず特製ベルトを腰に巻き、それに木の蔓を束ねたものをさし、剪定バサミを持って襟を正して準備完了。いざ出陣だ。デニス様のお通りだ。 着いた畑は、緑の中に黄色のタンポポが眩しいほどに自生しているところ。記憶に間違いがなければ、確か当時の彼のラベルのデザインはタンポポだったはず。つまり、このタンポポは彼のご自慢だったわけだ。 畑に入ると、すぐにデニスが上手に蔓で葡萄の枝を留め始めた。「それじゃぁ、撮らせてもらいましょうか」と体勢を低くするが、何か様にならない。右へ、左へと移ってみてもダメ。結局、「ええい、面倒だ!」とばかりに地べたにどっかり座り込んだ。そしたら急に、デニスの表情が変わった。まるでこちらの本気度が伝わったのか、真っ向から対抗してくるかのように、勢い良く作業を始めだした。その仕事の一瞬の合間の写真がこれ。自分でも結構気に入っていたのだけど…。 実はこの写真が元で、しばらくの間デニスとの関係がギクシャクしてしまった。版権の問題だ。まぁ、よくある話だが、著作権と肖像権、及び使用権の関係が、一般には分かりづらいところがある。著作権は当然私たちに、肖像権はデニスでも、使用権はTriple Aの写真を依頼したVelierにある。それだけならさほど問題は起きないのだが、某輸入業者が勝手にこの写真を使ったせいで、ややこしいことになったのだ。

  • シチリアのさそり

    Arianna Occhipinti - A.A. Arianna Occhipinti ステファノと同時期に、私たちの名が売れるきっかけとなったもう一枚の写真がある。以前、リーデル用の撮影でSBMのジェナーロにイタリアの生産者を紹介してもらった時、彼のリストにはアルジオラスの名があった。シチリアの有名な生産者だ。行こうと思って何度も計画を立てるが、いかんせんシチリアは遠い。その度に何処かで不都合が出て、行かずじまいになっていた。そうこうしている内にTriple Aの仕事が始まり、アルジオラスの名は消えた。代わりに登場したのがアリアッナ オッキピンティだった。 それでもやはりシチリアは遠い。そんな時、サンレモのレストラン、パオロ&バルバラのご夫妻から、一緒にシチリアへ行こうと誘われ、同行させてもらうことにした。車ではなく、飛行機でジェノヴァからカターニャに飛び、そこからレンタカーだった。以前は、リーデルのソムリエ・シリーズを持ち歩いていたので、空路は交通手段の対象外だったが、もうその必要もない。話は簡単だった。 車でカターニャからヴィットリアに移動し、初めてアリアッナの開墾途中の葡萄畑を見た時、ここはアフリカかと思った。大地の色、乾いた空気に灼熱、正に北アフリカを彷彿させらる土地だった。そこで、長い豊かな黒髪を無造作に束ねたアリアッナが、鍬を振り上げては振り下ろし、地面を耕していく。やがて手を休めると、「新しいトラクターを買ったら、すぐ盗まれた。だからもう買わない」と、真っ白な歯を丸出しで笑いながら言いた。そしていきなり、地べたに這いつくばった。褐色に近い肌がピィーンと張りつめ、黒い瞳がきらきらと閃光を放っている。うわっ、さそりだ!「そうよ私はさそり座の女、さそりの毒はあとで効くのよ、さそりの星は一途な星よ」とばかり、当時、EUの青年対象の支援制度を利用して建設中だったカンティーナは、今では場所も建物も変わり、立派な農場主の家と蔵になっている。私が知る限り、アリアッナはTriple Aの中の出世頭だ。そんな彼女にかめ壺の話をすると、「コンクリートがいい」と興味がなさそう。まぁ、いいか。叔父さんのジュスト(COS)が沢山やっているから、放っておこう。

  • 陸のポセイドン

    Stefano Bellotti - Cascina Degli Ulivi ステファノ ベロッティとは、もうゆうに十年以上の付き合いだった。Triple Aの造り手の中でも最初に撮影した一人だ。その時のこの「陸のポセイドン」のような彼の写真で、私たちの名がヨーロッパの自然派ワイン界で知られるようになった。ところであのイメージ、何処から降って湧いたのだろう。あの時目の前にいたステファノは、もっと土の香りがする野生児(?)で、それでいてどこかメルヘンチックな人だった。 まずは彼のボトルのラベル。愛娘が描いたというお気に入りのラベルは、まるで童話の幻想の世界で、彼の自然界に対する憧憬を、彼の生き方を写しだしていたのだろうか。彼が造ったワインは、いわばその夢の世界と現実を結ぶ架け橋だったのか。それに対し、後に出たVINOのラベルは、以前のものと比べ、ステファノの夢の投影には程遠い、背景にある販売戦略が見え見えの味気ないもだっだ。 昨年、ステファノの死を知った時、ショックというよりもそうだろうな、と思えた。年初めにバルセロナで会った時の彼の様体が、あまりにも芳しくなかったから。その後一度、ジェノヴァで再会した時には、少し持ち直したかのように見えたのだが…。ただ、「病院で膵臓癌と診断された。でも自然治療医が違うと言っている」と耳にして、これは危ないと思った。そしたら案の定、逝ってしまった。 ステファノが何を信じていたのか、私は知らない。何かあれば、今なら私も自然療法を選ぶだろう。ただよく分からない。去年一年で、ソリコ(アワ ワイン)、エルネスト(コスタディラ)、ステファノ(カシーナ デリ ウリヴィ)、アンリ(プリウレ・ロック)と、Triple Aの造り手が四人も亡くなっている。しかもみな五十代の若さだ。他にもVini Veriのベッペ(リナルディ)や、その前にはスタンコ(ラディコン)がいた。 何故、みな若くして死んだのか。分からない。自然派であることって、一体何なんだ。

  • 楽園

    Famiglia Guerrini-Fortunata - A.A. Paradiso di Manfredi モンタルチーノには、私たちの癒しの場があった。パラディーゾ ディ マンフレディ、マンフレディの楽園、昔ながらのやり方を変えないという約束で婿入りしたフロリオの楽園、そしてそれを受け継いだ娘ジョイアの楽園だ。昔からずっと「手」で守られてきた、海抜330mの北東向きに位置する僅か2,5hの畑だ。その収穫は当日の朝に決められ、その日の内に、私たちが家から520キロをすっ飛ばし辿り着く前に、終わってしまう。だから今まで一度も見たたことがない。 もっとも、マンフレディには別の収穫があった。それはフォルチュネータお婆ちゃんのご自慢の菜園での収穫。私たちが行く度に、野菜を獲ってきて、色々とご馳走してくれた。それがこの楽園の流儀だった。そのフォルチュナータお婆ちゃんも、数年前に天寿を全うされ、もういない。が、パラディーゾのおもてなしの心は、今も続いている。南イタリアへ車で行く時には、寄れるなら是非寄って行きたい、素敵な場所だ。 ところで、同じモンタルチーノには、ブルネーロ好きにはたまらないカーゼ バッセがある。どちらもサンジョベーゼの土地柄なのに、その雰囲気は異なる。そして両者には、たわいのない違いが一つ。それはマンフレディがボトルを寝かして保管するのに、カーゼ バッセはボトルを立てて置くこと。些細なことかもしれないが、でも意外とこれが決定的な違いだったりして。 フロリオは歴としたモンタルチーノの土地っ子で、義父との約束により昔ながらのしきたりをがんと守っている(だから、かめ壺醸造を頼めなかったけど、今のジョイアならOKかも)。一方のジャンフランコは、トゥレヴィーゾ生まれのミラノ育ち、北の出だ。そして北の造り手は、ボトル内の再発酵を恐れてか、よくボトルを立てたまま保管している。それをそのまま、ジャンフランコがモンタルチーノへ持ってきた。そして北と南の違いが、そのまま両者の違いとなっている。

  • 合掌

    Gainfranco Soldera - Case Basse 昨日、モンタルチーノの巨匠、カーゼ バッセのジャンフランコ ソルデラが亡くなった。突然の訃報に接し、哀愁の意を表したい。 私たちがカーゼ バッセを訪れたのは2010年、今から九年前のことだ。高名な名だけを頼りに、恐る恐る訪問した私たちを手厚く迎え入れてくれ、色々と素敵な写真を撮らせてもらった思い出がある。中でもこのジャンフランコの屈託のない素敵な笑顔が好きだ。今その写真を前に、合掌。

  • ナイティンゲール!

    Tomaž & Franc Vodopivec - Slavček 初めてのスロヴェニアの旅では、もう一人別の造り手を訪問した。スラウチェックだ。場所はドルネンベルク。先に登場したチョッターから15kmも離れていない。スロヴェニアはそもそも小さな国だ。四国よりも一回り大きいくらいで、人口は200万人程。四国や元同じURSS構成メンバーのジョージアの半分強といったところ。そんな小国だけど、多様性がある。そもそも、MOVIAに比べれば、ここは全然イタリアナイズされていない。 スラウチェックは、教会の記録によると、スラウチェヴィフ(ナイティンゲール)の名ですでに1769年に登場し、以後何世代にもわたりワイン造りをしているという。現在の当主の名はフランク ヴォドピヴェック。妻と息子と共にワイナリーと民宿を経営、全て彼らの手作りショップならぬ農家だ。ワインもテロワールを守り、伝統的な技法で醸造、その品質を保っている。また、滅茶苦茶に美味しい桃のジュースも作っていて、こちらもTriple Aに指定されている。 フランク自身は、「ソビエト製で頑丈だ」というご自慢のジープ同様、どことなく無骨な印象があるが、とにかく率直で誠実な人なのだろう。あらゆるところに込められた嘘のない率直な彼の思いが、ひしひしと伝わって来る。そして、撮影後の最後の一言が大傑作。 「俺、赤ら顔なので、なんとかしてくれ!」 はぁ?ご心配なく。デジタルですから。それにそもそも白黒なんだよね、私の写真。

  • 林檎酢!!!

    Aci Urbajs スロベニア第三弾。今度は、イタリア国境から遠く離れて、反対側、オーストリア国境に近いアッチ ウルバイスを訪れた時だ。 山道を登って行くと、高台に一軒家が見えてきた。脇で誰かが手を振っている。近付くと、「よく電話で道を尋ねずにここまで来たね」と、アッチが開口一番に英語で話しかけてきた。そりゃ、昔取った杵柄、WRC(世界ラリー選手権)の追っかけ取材をやっていたからね、人里離れた造り手を訪ねるなんてお安い御用。ただ問題は、あーっ、英語。私達は通常、英語を話す気が全くない。でも嬉しいことにアッチは、英語でもいいから話しをしたい、と思わせる人柄だった。 そしてアッチの開口二番、「ちょっとお腹がすいたから、一緒に何か食べよう」と、樽から直出しのワイン(こんなことする人は、それまで見たことがなく、初めて!)を持ってくる。チーズをつまみながらそのワインを飲む。なかなかおつなものだ。大体、アッチのワインには真にアッチの香りがある。これこそ家付き酵母の成せる技、ですよね。 そんなことを、使い慣れない英語で四苦八苦しながら話していると、アッチが突然、「リンゴ酢も造っているんだ」と言い出した。うへぇ、お酢かぁ。苦手だけど、ここは一丁「飲んでみようか」と試飲することに。「水で薄めて飲めば飲み易い」と言うアッチの声を尻目に、原酢をそのまま口にしたら、「あら、これ、美味しい!このままいける」とゴクンと飲んだその時、アッチの澄んだ瞳が輝いた。石灰をも溶かすお酢のお蔭で、「頭の中がショートした」元ハイテク青年との間合いが、一気に狭まった瞬間だった。 ある日、コンピューター関係の仕事に従事していると、頭の中が真っ白になり、それで仕事を辞め、葡萄作りの世界に入ったそうだ。たった2ヘクタールだが、山の中にある斜面の畑は、全て自分一人で管理するという。小さな花が咲き乱れ、周りの木立から小鳥のさえずりが聞こえる、気持ちの良い畑を歩き回りながら、ビオディナミ用の材料を採取するアッチ。全てそこで補えると、ご自慢だ。そして、あの極美味のお酢の原料となる林檎が獲れる畑も、青々と美しい。金儲けのための葡萄専業者とは違い、地球を守る人がここにもいて、嬉しくなる。

  • スロベニア的新墾

    Branko & Vasja Čotar - Vina Čotar スロベニアでは桁外れなことが続いた。なんと50cmの盛土で開墾ならぬ「新墾」した人たちがいた。イタリアのトゥリエステの丘陵丘カルソ地区の延長上、国境から五分ほどのクラスにあるチョッター ワインのブランコとヴァッシア親子だ。彼らによって客土された赤土はトラック一万台分(?)に及ぶと言う。そこに植樹し、葡萄畑を作ったのだ。 もっとも、レストラン経営が本業だったチョッター家が、無分別にこのような大規模な土地改良(?)計画を実行し、現在の本業である葡萄栽培醸造を始めたわけではない。この地方には元々、土を掘り、その掘った土で盛り土をし栽培する伝統があるのだ。ただ、通常なら穴を掘ったすぐ横に盛土をするところを、別の場所に土を移したのである。その採土場へ足を運ぶと、アスパラガスの群生の中に巨大な円錐形の穴がポカリと開いていた。 現在7hを有し、主に土着品種のテッラーノ(地方名レフォスコ)とマルヴァジア(マルヴァジア イストゥリアナ)を栽培。この赤土で獲れた葡萄が運ばれ醸造される蔵が、また凄い。醸造後の熟成に使われるセーラーは二段重ね、そう、石造りの地下二階建てだ。そこで十分に寝かされた後、独特な「指紋付き(デザイン)のラベル」で世に出される(SO2無添加のワインもかなりある)。個人的には、将来テッラーノをかめ壺で醸造してくれればありがたいのだが、さて、どうだろうか。

  • BUONO、PURO E GIUSTO

    Aleš Kristančič – MOVIA 私にとって、アレッシュ(MOVIA)の閃きを聞くのは大きな楽しみだ。今までに何度となく、上り詰めた者の「悟り」の体験を言語化しその境地に導くかの如く、「これはいける」と言うようなことをよく語ってくれた。その一つが次の抜粋内容。以前、日本のスローフード季刊誌に寄稿したものだ。 スローフードのスローガンは、果たして正しいのか。スローフード・スロベニアの総裁、アレシュ クリスタンチッチが鋭く切り込む。 「BUONO、PULITO E GIUSTO(おいしい、きれい、ただしい)と言うが、果たして本当にPULITOで良いのだろうか。確かにPULITOと言えば聞こえは良い。でも見方を変えれば、それはPURO(生粋)でなくなったものともなる。例えば濾過されたワイン。見た目は奇麗だが、本質を失った見せかけのものだ。そんなものがVERO(本物)であるはずがないし、本物でなければ、結局、美味しくも正しくもないはずだ。」 現在MOVIAが提唱するのは、生粋な、元の形を残したワイン。その代表がPURO(プーロ)とLUNAR(ルナール)である。父ミルコから引き継いだ伝統のワイン郡に、アレシュが新たに投入した銘柄だ。前者は、三年間樽熟成させたワインに同じ畑で穫れた新しい葡萄の絞り汁を加え再発酵させた発泡性のワイン(シャルドネ主体の白とピノ・ノワール主体のロゼ)で、澱切りをせずに出荷。後者は、白のリボッラ種の葡萄を表皮ごと樽に詰め込み醗酵、八ヶ月間の熟成後に無濾過でボトル詰めする。両者は、元々異なる構想の下に生まれたワインだ。その位置関係は百八十度の対角線上ではなく、一つの円上で隣り合う点と点のようなもの。言わば「最も近くて遠い仲」となる。その接点が、アレシュが言う「生粋さ」である。 このような始めから澱がたっぷりと入った生粋の自然なワインを口にした時に、皆さんもきっと私たちのようにホッとするのを覚えられるはずだ。それは、残留農薬等が検出される飲食物を本質的に「きれい」だと思う心が誰にもないように、「おいしい、きれい、ただしい」世界の必要条件が自然派であることを、無意識の内に皆さんの体が知っているからである。(以上抜粋) 最後に、最近アレッシュの口から出た一言で、私に大きな閃きを与えてくれたこと、それはGRAND VINとBON

  • なんたってMOVIA

    Aleš Kristančič - MOVIA リーデル用の撮影でVie di Romansを訪問するために初めてフリウリへ行った時、適当に走り回っていたら予定外にスロベニア国境に出くわし、慌てて引き返したことがある。その後2006年、その国境を超える機会が、ようやく私たちにやってきた。MOVIAの訪問だ。ただ当時はまだ、EU加盟国にも関わらず、他所の国からやって来る不法移民対策の名目で、スロベニアとイタリアの間には検問所が残されており、地元住民以外は幹線道路の国境を通過しなければならなかった。 それが2007年12月22日に撤廃され、名実共に誰でも自由に行き来できるようになった。MOVIAからわずか200mの所にあった検問所を、地元の人の車に同乗せてもらいサングラスをかけて通過した話や、小さな石柱で示された畑の中の国境線上にいると監視のヘリコプターが頭上に飛んできた話も、これでやっと過去のものとなった。ただ、イタリア側から国境を超えた瞬間にナヴィが消える状況だけが、汚物のようにしばらく続いた。 ことMOVIAに関しては、その扉が以前から大きく開け放たれていた。初めて訪れた時には、その凄さに度肝を抜かれたものだ。小奇麗な淡いピンクの館に入ると、音楽が鳴り響く。見れば、煌々と灯りが灯された室内の壁の至る所に現代絵画が掛けられ、正面の円形階段の横には自家製の生ハムやクルミが並び、半階上の広間には五十席にも及ぶ食卓が準備されている。一瞬、「何処かのレストランに迷い込んだ」と思ったほどだ。 それだけではない。その日の客(団体)はなんと夜の十一時に到着した。そして、アペリティフを済ませ、蔵見が始まったのが真夜中の十二時過ぎ。その後宴会は、朝の四時まで続いた。当然、すぐ上階の貴賓客で寝ていた私たちにとってはたまったものではなかったが、それにしても他では考えられない凄まじい受け入れ態勢だ。その御陰か、小国スロベニアを代表する社交場として、MOVIAには度々国賓級の来客もある。 全く、上には上がいるものだ。イタリアに来だした頃は、フランスに追いつけ追い越せの姿勢に感服したものだが、一度、足を踏み入れると、スロベニアはそれ以上の国だった。

  • トゥラモンターナ

    Cyril Fhal - Clos du Rouge Gorge 世の中には一度聞いただけで忘れられない、そして気になって仕方のない名がある。Clos du Rouge Gorgeもその一つだった。そしてシリル ファルの名も。理由は分からない。でも初めてこの名を耳にした時から、すぐにでも行きたいという衝動に駆られた。そして約束の日、ピレネー山脈の麓に位置するラトゥール ドゥ フランスは、ゆうに風速30メートル/秒(時速120km)を越えるTramontana(トゥラモンターナ=北北西の強風)に見舞われていた。 本当に吹けば飛ばされるような(実際に軽く跳ねたら着地位置がずれていたし、また撮影中にカメラを持ったまま押し倒されもした)風の中、L'Ubacの丘の中腹で、シリルは明るく笑いながら鍬を振り下ろし、そして言った。「初めて自分の葡萄畑を手に入れた時、嬉しくて嬉しくてさ。それで住む家がすぐに見つからなかったもので、4ヶ月間、畑の中の物置小屋で寝泊まりしてしまったよ、ハハハハハ。」 葡萄栽培農家の出ではない一人の若者で、自らの畑をこれほど愛している者はなかなかいない。「広くなりすぎたら葡萄作りを楽しめなくなるだろう、フフフ」と、相手の目を見つめながら軽く言い流すシリル。そんな彼が、自らが情熱を傾けヒポトピアを目指すご自慢の畑の中を歩く姿を目にした時、Closの中が一斉に生き生きと輝いて見えたのは、単なる目の錯覚だったのだろうか。 Triple Aの撮影を始めて以来、シリルは、イタリアはシチリアのアリアッナ オッキピンティと並ぶ、フランスで一番の出世頭だと私は思う。そんな彼が、こともあろうに、近年Hors Champsというネゴシアンを立ち上げた。雹害にあった経験からで、仕方のないことかもしれない。が、個人的には、ちょっと残念に思う。シリルの二酸化硫黄に対する考え方同様に。

  • ヨイヨイヨイヨイ

    Henry-Frédéric Roch - Domaine Prieuré-Roch 毎年春、イタリアのヴェローナで開催されるVINITALYのOFFの一つでVINO VINO VINOの前身、VINI VERIの会場ヴィラ ボスキでのことだった。某出展者が、「有機農法で葡萄栽培をしているが、醗酵がうまくいかず、醸造時に二酸化硫黄添加で制御している」と言う。納得できず、外で談笑していたアンリ・フレデリック ロックと、クリスティアン ビネールに、その疑問をぶつけてみた。するとアンリが、 「葡萄が醗酵しないのには、二つの理由が考えられる。一つは、農薬等化学薬品を投入し、畑から酵母が消えた場合。もう一つは、酵母のいないところに畑を作った場合。どちらも酵母がいないのだから、醗酵しない。その点、先人は偉いよ。そういったことをちゃんと弁えていたのだから。今畑があるところには酵母がいる、少なくともいたわけだ。だからワインができた。」 と言った。そしてクリスティアンが引き続き、 Christian Binner - Domaine Binner 「そうさ。土地の酵母があってからこそ、そこのワイン、テロワールを語れるワインができるんだ。農薬散布で酵母がいなくなれば、ちゃんと醗酵するわけがないし、そこで二酸化硫黄を入れ一度全ての命を絶ち、培養酵母で無理矢理醗酵させる。そんな化学工業製品はワインじゃない。」 と、締めた。さらに付け足す様に、 「よく、葡萄の樹は根を地中深くまで張るって言うだろう。冗談じゃない。植樹した時から農薬や肥料を使用してきた畑なんて、化学薬品を使わずに手入れしようとトラクターで耕したら、大変なことになる。葡萄だって人間と同じように怠け者なんだよ。農薬のせいで、地中には栄養分なんてありゃしない。そこで人間様が地表に肥料を撒いてくれれば、『おお、楽だぜ』って、下に行くはずの根が、肥料を求めて皆上に向かって伸びてくる。そこをトラクターでガガガガーとやっちまったら、根が切れてみんな死んじまうさ。」 なるほど、もっともである。と言うことは、つまり、「葡萄の根は岩盤をも突き破って地中深くに…」等というよく耳にする話は、これだけ化学農薬や肥料が蔓延した現在、ほぼ迷信ということか。確かにニコラ ジョリも、 Nicolas Joly - La Coulée de

  • 回転のススメ

    Christian Binner - Domaine Binner 一般的にはAOCを落しても、大抵の場合、ラベル変更でことは足りるのだが、ただ例えばアルザスはちと事情が異なる。ドメンヌ ビネールを訪問した時だ。クリスチャンが、 「アルザスのボトルを知ってるだろう。あの細長い特徴あるボトルは、アルザスAOC用のボトルなんだ。だからAOCを落とすと、面倒なんだよな。あのボトルをVdFに使えないので、折角ボトル詰めしてあるワインを別のボトルに詰め直さなければならなくなる。そうなったら、本当にヒェェー、だ。」 と、言っていた。そして、未だラベルの無しのゲヴェルツトゥラミネールのボトルを手に、 「これもまだなんだよなぁ(AOCを通っていない)。まぁ、何時ものことだけどさ。」 本当にご苦労様です。 さて近年、ワインの造り手の間で、ネゴシアン(ワイン商)の立ち上げが流行っている。理由は、冷害や雹害などでの収穫減による損失危機管理管理のためだと言う。まぁ、分からないでもないが、買い葡萄では、小規模生産者の醍醐味が薄れて、好きではない。その点、クリスチャンが最近若い造り手たちと始めた取り組みは、ちょっと趣を異にする。 彼らの取り組み、Les Vins Pirouettes (レ ヴァン ピルエットゥ)は、小規模生産者の弱体化につながる従来のネゴシアンと違い、多数の造り手で一つの販売戦略を共有することで、販売網の拡大を図ろうとする。その最大の利点は、情報を共有し技術的に向上しつつも、各々の個性を保ちながら生産でき、多彩なワインを展開できる点だ。現在のメンバーは、Stéphane Bannwarth、Julien Albertus、Hubert & Christian Engel、Olivier Carl、Claude Straub、Eric Kamm、Raphaël, Catherine & Daniel (Domaine de l'Envol、Jean-Luc & Michèle Shaeringer (Wymann)、Jean-Marc Dreyerの9名で、Christian Binnerが指揮をとる。

  • ありがとう

    Olivier de Moor - Domaine Alice & Olivier de Moor AOCにまつわる話は色々とある。愉快な処では、この世で一番美味しいアリゴテを造ると言われるシャブリのアリス エ オリヴィエ ドゥ モールが、2007年にAOCから落とされた時の逸話がある。AOCから落ちれば、ラベルにアリゴテの名は表記できない。そこでアリスとオリヴィエは考えた。そして、新たなラベルを作成した。そのラベルには、グラスに縄がかかったデザインが施され「A 〝LIGOTER〟」と記されていた。因にLICOTERとは「縄で縛る、束縛する」といった意味だ。つまり、AOCに束縛されて「ALIGOTE」と表記できない、と皮肉ったわけだ。正に、オーレ!。 ところが、話はそこで終らなかった。2008年に再びAOCを落とすと、今度は「A 〝LIGOTER〟」から「A 〝L〟IGATO-O」へ変更。意味はもろに「ありがとう」だ。そして裏ラベルに名前入りでの協力者への謝意(MERCI)を表明、忌々しい国フランスに対する最大限の皮肉を込め、「ALIGOTO-O」は日本語の「ARIGATO」の発音に最も近いフランス語表記だ、とやらかした。ブラボー!が、オリヴィエたちの輸入元は「これはまずい(って何が?)」と、ラベルを張り替えてしまった。心算無視の営利優先、ああ嫌だ、情けない。 私は、日本語の「ありがとう」の啓蒙運動をしている。日本人が日本語で「ありがとう」と謝意を表して何が悪い。THANK YOUなどと言う必要など、どこにもない。それに「ありがとう」の認知度はすでに結構高いし、「ありがとう」と言われて嫌がる人はいない。勿論、私たちは自分のいる場所次第で、「メルシ」、「グラシア」、「グラーツェ」、「オブリガード」、「フヴァーラ」、「エフカリスト」、「マドゥロバ」等々、各国の言葉は使い分けるけど、英語は極力避けている。そもそも、何故英語を使うんだ?私たちは英語圏にいるわけじゃないんだ。 公私で世界中を駆け巡り、後々私たちを自然派へ導くことになるルカの三つの原則、 「人生は美しい」 「問題ありません」 「ありがとう」 この三つを現地の言葉で言えば、何処でも誰とでもうまくいく、というのが彼の信条だ。全くその通りだと思う。口先のLOVEなんて誰も必要としていない。

  • AOC Le Puy?

    ドメンヌ バラル同様、あの「神の雫」に選ばれたシャトー ル ピュイもまた、今までに何度も(例えば2005年や2006年)AOCを落としていることを、ご存知だろうか。「落とす」と、AOCコート ドゥ フランとしての認定を受けられずその名が消え、それだけで、直ぐに販売の三割減に繋がる。悪いのはブランド志向の消費者なのだが、そうは言っても、減益は痛い。どうすりゃいい? ワインの場合、AOC認定は、その地区毎の審査員の試飲結果で決められることになる。つまり、その地区のワインとして「ふさわしくない(と審査委員が言う)」ものが、人為的に外されるわけだ。勿論、その根拠となる理由は文書で生産者に告げられる。そして、その決定に不服であれば、生産者は二度の再審(合計三度の審査)を請求できるが…。 当然、シャトー ル ピュイも再審を求めるが全て不合格。しかも、毎回「異なる」理由付けでのAOC不授与となった。言葉を返せば、明確な根拠無しでの不合格。問題があるとしたら、他のワインと違い美味しいこと。要は、その旨さ故に危機感を持った地区委員会によって、落とすために落とされたわけ。この酷い仕打ちには、温厚なアモローさんも激怒し、直訴した。結果はシャトー ル ピュイ側が勝訴し、INAOの不十分な管理体制が露見した。 よく私たちに、自分はル ピュイで色々なことを実現せねばならぬ運命にある、と言われていたがアモローさんもすでに八十。今までに、本当に色々なことをなさされてきた思う。あと残ったことがあるとしたら、アモローさんの最後の大仕事は、たぶん、AOC Le Puyの確立だ。それさえ実現すれば、二度とケチをつけられることはない。留目の一発だ。大いに期待しよう。

  • サクランボ

    Jean-Pierre Amoreau - Château le Puy 私たちは、ロマネ・コンティに始まり、モンラッシェにとり憑かれての、紛れもないブルゴーニュ派(だった)。もっとも、ブルゴーニュ派になる以前から、私はボルドー嫌いだった。90年代初頭、日本のM社のコマーシャル撮影の仕事でボルドーを訪れた時に始まったこと。とにかく嫌いなんだ、あの体質。ネクタイ族にプリムール、パーカー好みのフレンチ・コーラ(ボルドーの赤)等々、みんな嫌。だから、飲まない。 でも、例外がある。シャトー ル ピュイ。サン・テミリオンの裏(表?)、コート ドゥ フランで1610年から続く老舗だ。後に「神の雫」として世に名を馳せる前から、私たちは出入りしていた。例の如く、Triple Aの仕事で訪れたのが最初だった。その時に、ジャン・ピエール アモローさんが語ってくれた、彼のお祖父さんの話を良く覚えている。「以前は村まで馬車で行ったもんだ。ある日、祖父のお供で行った時のことだ。途中道端に蹄鉄が落ちていてね、それを見つけた祖父が、私に拾って来いと言う。でも幼かった私は嫌がった。そしたら祖父は自分で拾って村へ持って行き、売って、そのお金でサクランボを買った。そして私の手の上にサクランボをおきながら、言ったんだよ。お前は蹄鉄を拒んだけど、サクランボは拒まないだろう、って。」 一見無意味に見えるものでも、見方を変えれば価値が出る。そんな知恵の伝授か。「ここ(サン・シバールのシャトー)にいると、毎日がバカンスのようだ。みんな、疲れをとるためにバカンスに出ると言うけれど、実際には旅先で色々やり過ぎて、かえって疲れて家に戻ってくる。それじゃ、主客転倒だろう。バカンスに出なくともうちには色々と楽しいことがあるし、それだけじゃなく、皆がエネルギーをもらいにやってくるんだよ。ここに来ると気持ちがいいって、元気になるって。ほら、あそこにストーンサークルがあるだろう。ここは昔からエネルギーの高い場所で、エコシステムも充実しているんだ。」 後にアモローさんに見込まれて、私たちはシャトー ル ピュイの仕事を引き受けることになった。写真のモンタージュで作るビデオ制作。物の見方を変えてみた(私は動画嫌い)瞬間だった。そして同時に、銀盤からデジタルへ移行した。銀盤に拘りたければ、そうすりゃいいさ。私はどっちでもいい。写ってい

  • ラルーの前で

    「うちはまず赤から、白は最後に試飲して頂きます。あなた、もう赤は試されましたか。」 と、自らワインを注ぐマダム ルロワをよく試飲会場で目にする。素直に彼女の言葉に従えばいいのに、中にはいるんですよね、彼女の言葉を無視して先に白を要求するへそ曲がりの阿保が。勿論、注いではもらえるけど、その後で赤などと言おうものなら、 「うちは赤からと言ったでしょう。欲しければ、会場を一周してから出直して来なさい。」 そこで初めて彼女の言葉に従っても、もう手遅れ。会場を一回りするまで、ルロワのワインが残っているわけがない。なにしろ、マダム ルロワがグラスに注ぐ量は彼女同様寛大で、それを沢山の人が待っているのだから。 2011年、ルネッサンス デ アペラシオン試飲会場でだった。「あら珍しい。ミシェル ベタンヌ(仏の著名評論家)が自然派の会場にいるなんて」と思いきや、マダム ルロワと物議を醸していた彼が、次の瞬間、「あっ。」グラスのワインを吐き壷に捨てた。 本来なら目くじらを立てる程、マダム ルロワが嫌がることだ。が、ベタンヌの前で、見て見ぬ振りをし黙っている。しかもベタンヌは次のワインを大目に要求し、グラスを一振り、二振り、香りを確かめるように鼻元へ近づけると、そのまままたグラスのワインを吐き壷に捨てた。無言…、じゃすまされない。 「随分、敬意の無いことをしますね。」 私が口火を切ると、ベタンヌは「えっ」と、ポカンとしている。 「口も付けずにワインを捨てたでしょう。あなたには、敬意というものがないのですか。」 ようやく事の次第が分かったベタンヌは、 「そんなことを言っても、私は仕事なんだ。」 「いや、仕事とかそういう問題じゃない。造り手に対する敬意の話ですよ。」 そこでマダム ルロワが、とりあえず、 「いいの、いいの。かまわないから。」 と、割って入るが、小さくウィンクしてくる。「私は一日中、仕事でワインを試飲しているんだ。こうでもしなければ、死んじまうよ。それとも死ねって言うのかい。」 と、言いながら、ベタンヌは私のプレスカードを食い入るように覗き込んでいる。ははぁ、上からの圧力で、私を潰す気でいるんですか。面白いじゃん。やってみい。 「名誉の戦死、プロなら本望でしょうが。」 このままケツ下がりの車の運転手で終わるなんて、みすぼらしすぎる。

  • きいて

    Lalou Bize-Leroy - Domaine Leroy ヴォーヌ・ロマネには、DRCの他に、忘れられない人のドメンヌがある。その人は、マダム ルロワ。ただ彼女とは、なかなか逢う機会がなかった。色々と噂を聞いていたが、両極端な話が多かった。それだけ個性の強い人なのだろう。安易に会いに行くのは避けようと思っていると、友達のジャン・ミシェル ユエさんが、個人的にマダム ルロワをとても高く買っている。彼の言葉を信じ、それならと、ランデブーを取ってもらうことにした。 約束の日、目の前に現れたラルーからは、和らぎ以外の何も感じられない。部屋に通されすぐ、以前ジャン・ミシェルが飲ませてくれたミュジニ 1985の話になった。するとラルーは席を立ち、そのボトルを持って来て、躊躇いなく開けてくれた。ジャン・ミッシェルの言葉通り、とても寛容な人のようだ。 雑談が進む中、馬鹿な質問だとは思いつつも思い切って、「お好みのアペラシオンはなんでしょうか」と、尋ねてみた。すると、意外にも即答が返ってきた。「シャンベルタン 1955。」 驚いた。まさか私の憧れのシャンベルタンの名がでるとは。しかも1955年。いや内心、「ワインはみな我が子のようだから…」という、極ありきたりの答えを想像していたので、脳天をかち割られたような気分だった。いやぁ、他の人とは全然違う。改めてラルーに魅入っていると、彼女は立ち上がり、席を離れた。そして一本のボトルを手に戻ってくると、徐に栓を抜いた。なんと、そのシャンベルタン

  • チンピラソムリエ

    Bouchos du Montrachet D.R.C. - イメージは、直接テキストと関係ありません。 ロマネ・コンティのことで、一度憤りを覚えた出来事がある。グラン ジュール ドゥ ブルゴーニュでのことだ。みなさんもたぶんご存知だろう。今でこそかなり形態が変わりつまらないものになったが、元々はブルゴーニュ中を移動しながら各村毎にご当地ワインを試飲して回ったスケールの大きな催しを。1998年、私たちはその存在すら知らずに、偶然開催時期にブルゴーニュへやってきていた。そこで知り合いのつてで、テロワール ドゥ コルトンに参加した。 会場の一つアロックス・コルトンでは、村のあちこちにカヴォー(ドメンヌが場所を解放)が設けられ、訪問者が村を闊歩しながら試飲している。私たちも、まずコルトン・シャルルマーニュを求め、グラスを片手に村を回り始めた。そして二つ目のカヴォーを訪れた時のこと。雑誌で写真を見たことのあるボルドーで名を成す日本人ソムリエが、目の前を歩いていた。そこで、声をかけてみると、 「あれっ、何処かでお会いしましたっけ。」 「いえ、雑誌でお顔を拝見したことがあったので。すみません、お忙しいところ。それで、どうですか、試飲の方は。」 「あっ、そう。うん、まぁまぁだね。ところでさ、今、ロマネ・コンティに行って来たところなんだ。」 「あら、そうですか。それでどうでした?」 「色々試飲したけど、ロマネ・コンティは、まぁ、いいテーブル・ワイン、てとこだな。」 「(はぁ?)…。」 「ところで君たち、観光なの。」 「いえ、私たち、南仏に住んでいます。」 「(えっ、とビックリ)、そう…(まずい、と見え見え)。それじゃ…(もじもじ)、試飲を続けなければならないので。」 と、そのソムリエは慌てて逃げ出した。 あーあ、みっともない。なんて貧相なの、あの後ろ姿、まるでチンピラじゃない。イキガって、馬鹿が、(同胞に)格好をつけて。そんな奴に限り、どうせフランス人にはへいこらしているくせに。ヨーロッパで最も嫌らしいタイプの日本人、名前も出したくない。でも、あんな奴に騙される(と言うか、そんな奴を崇める)日本人て、一体何なんだ。それに、ボルドー党って、あそこまで酷くなくとも、みんなあんな感じなのだろうか。

  • ル ドメンヌ

    Aubert de Vilaine & Henry-Frédéric Roch - Domaine de la Romanée-Conti 初めて「ル ドメンヌ」(人はDRCをこう呼ぶ)を訪れたのは、1998年にモンラッシェの撮影でオベール ドゥ ヴィレンヌ氏に会った時だった。そして二度目は2001年1月。ニースのロマネ・コンティの卸元メゾン ベッシの若旦那ローランたちと一緒に、総員八名で訪れた。ル ドメンヌは、基本的にこの人数で訪問することになっているという。ちょうどボトルを一本開けられる数だ。 到着すると、早速ベルナール ノブレ氏が奇麗に管理された蔵を案内してくれ、樽(99年)からの試飲の後、蔵の奥にあるカヴォー(試飲所)に通される。そこでまず、リシュブルグ98年が開けられた。次にグラン エシェゾー90年、ロマネ サン・ヴィヴァン87年、ロマネ コンティ75年、リシュブルグ64年と続く。 そしていよいよモンラッシェ。ル ドメンヌに到着した時、モンラッシェの撮影ですでに顔見知りだったシュヴァリエール氏が、「ケイコ&マイカ用のデザートを忘れずに」と、笑顔でベルナールに声をかけてくれていた。そのモンラッシェがグラスに注がれ、口の中でワインを転がす音が響き、「ウーン」とか「ハァァ」と皆が呟く。その時、ケイコがベルナールを見つめながらポツリと言った。 「これ、納得できない…。」 皆が唖然として振り返る。ブッショネでもなんでもない74年のボトルだ。が、半べその彼女を前に、ベルナールは大いに焦りまくっていた。 「えぇぇ、ダメなのかぁぁぁ。」 「…、ダメ…。」 その瞬間、ベルナールは「ちょっと待ってて」と、別室にすっ飛んで行った。後はご想像の通りである。カヴォーの中で「うわぁっー」と歓声が上がり、ケイコは皆からキス攻めにされていた。鶴(にしては立っ端が足りない?)の一声で、普通なら出ないもう一本(98年)が出てきたのである。

  • AOCなんていらない

    Didier Barral – Domaine Léon Barral ディディエ バラルのワインと言えば、可笑しな逸話がある。元々フランスのワインはAOC(APPELLATION D'ORIGINE CONTRÔLÉE=原産地呼称統制)でその「格付け」が決まるが、自然派のワインの造り手たちの中には、よくそのAOCを落とす者がいる。ディディエもその例外ではなかった。 それではAOCを落とすとどうなるか。具体的には、ワインの扱いが「AOC何某」から「ヴァン ドゥ フランス(以前のヴァン ドゥ ターブル)」となる。それにより、ラベルからAOCの名と、そして醸造年も消える。 もっとも、AOC落第常習犯は、そんなことで臆しない。そこはそこ、皆知恵を搾って、算用数字以外の表記方法で、「分かる人には分かる」ように年を入れている。例えばディディエは、「うちの客はAOCなんか付いていない方がいいと言っている」と涼しい顔で、とりあえず生産年が分かるように、ラベルに鴨の親子を描いていた。まるでダンス デ カナール(鴨鴨ダンス、フランス人なら誰でも知っているお祭りの時の踊り)、それともカナール アンシェネ(鎖につながれた鴨、フランスの週刊風刺新聞の名前)か、とにかく皮肉っぽさ満載の可愛い鴨たちだった。 ところがだ。世界中でディディエのワインの人気が高まりだし、フォジェールで一番有名なワインになると、今度は同地区委員会が態度を翻した。実に、「おら達もバラルの名に肖んべぇ」と、それまでつまはじきにしてきたディディエのワインを審査で通そうと、躍起になりだしたというからお笑いだ。 結局、AOCって何なんだ。自分たちの好みでどうにでもなるのか。以前の落第生が今日の優等生、基準さえ変わるのか。もう、単に葡萄の穫れた場所を証明する「原産地」以外、AOCの品質保証など、今や売り手側の都合、金儲けの道具でしかなく、意味がない。拘るのは誰?騙す人?それとも騙される人?

  • ビオトープ

    Didier Barral - Domaine Léon Barral ブルゴーニュ以外の赤ワインで私たちを最初に魅了したのは、ドメンヌ レオン バラルのヴァロニエールだった。理由など全く分からないが、あのどうしようもない不完全の中の完璧さに、私たちは仰天した。それ故、ラングドックで私たちがまず最初にディディエの処を訪れたのは、至極自然なことだった。 到着早々、ディディエは私たちを畑に連れ出した。初めてのラングドックの畑を歩きながら、ブルゴーニュの畑に慣れた目には、ディディエのゴブレの畑は荒れ果ているようにすら見える。が、とにかく土が柔らかい(後年来日したディディエは、東京は路面が固くて膝に負担がかかり痛いと漏らしていた)。その頃はまだ、自然派の観念などなく、色々とディディエに笑われたものだ。彼は、 「有機だって。そんなの新しい言葉じゃないか。俺のところは、昔ながらの農法をやっているだけだ。春先、葡萄が芽吹く前に家畜を畑に入れ、雑草を食べてもらい、肥料となる糞をしてもらう。この良い循環でビオトープが形成され、良い葡萄が穫れる。ほら、この下を見てごらん。色んな生き物がいるから。」 と、乾いた牛糞をひっくり返した。すると、沢山のミミズやヤスデが動き回っている。ああ、本当だ、生きている。命が輝いている。 そうやって畑の中をを歩き回っている時だ。高台からヒョイと駆け下りたディディエに、迂闊にも軽い気持ちで私は続いた。が、「ひぇ、止まれない」と下の道を横断、そのまま先の小川を「うわっ」と飛び越えることに。そして着地したはずが「グキッ」という音とともに、私はその場に倒れ込んだ。ディディエが何事かと呆気に取られていたが、左足首捻挫、全治3か月の大怪我だった。 それでも蔵に戻り、晩年の土門拳の如く、椅子に座りディディエを撮影。後々、この一連の騒動が、ディディたちとの語りぐさとなった。それにしても、おお恥ずかしい。きっとあの時、ビオトープの宿るあの柔らかな土壌での私の醜態を見て、蟻やミミズなど多くの生き物たちが、草むらの陰で大笑いしていたに違いない。

  • ぎうら ぎうら ごこうの…

    Gerardo & Marcella Giuratrabocchetti - Cantine del Notaio 「じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょの すいぎょうまつ うんらいまつ ふうらいまつ くうねるところにすむところ やぶらこうじのぶらこうじ ぱいぽ ぱいぽ ぱいぽのしゅーりんがん しゅーりんがんのぐーりんだい ぐーりんだいのぽぽこぴーの ぽんぽこなーの ちょうきゅうめいのちょうすけ」のイタリア版、には遠く及ばないにも、カンティーネ デル ノタイオの頭首ジェラルドの名字は、ギウラトゥラボッケッティと、忘れられない程に、いや、覚えられない程に長い名字で、忘れられない人だ。しかも、ジェラルド自身のおとぼけ具合も最高だ。約束の場所がわからず街中をウロウロしていた私たちに、待ちくたびれ門先に出て待ってい彼が道の反対側から、「シニョーレ ジャポネーゼ、シニョーレ ジャポネーゼ(訳せば日本のご夫人方なのだが…)」と、声をかけてきた。長年ヨーロッパにいるが、こういう声のかけられ方をしたのは初めて。珍しい。 しかも、ノタイオという名から察するに、行政書士関係の仕事に携わる家系かと思いきや、本人は元々獣医だという。これまた何か不思議な組み合わせだ。おまけにビオディナミをやっていると言う。それなら畑へ行こうと急行。畑で写真を撮り始めたのだが…。 うまく行かない。コチコチに強ばっていて絵にならない。これじゃ、かかしをを撮った方がましでっせー。うーん、どうしようと思っていると、奥方のマルチェッラが現れた。そこで、ちょっと一緒に入ってと頼むと、あら不思議。ジェラルドの表情が一転して、デーレデレェェェ。その見事な変身ぶりに感心してシャッターを切っていると、今度はジェラルドが乗りに乗って、止まらなくなった。 結局、予定の倍程撮って彼等の家に戻ると、何故か机の上においてあった手紙に目をやったジェラルドが、突然蒼白になった。 「どうしよう、マルチェッラ。この表彰式、今日だったんだ。あと二時間で始まっちゃう。折角賞を貰えるのに、どうしよう。ローマまで車で三時間かかるよ。どうしよう。」

  • ジロ・デ・イタリア

    Luciano Sandrone - Angelo Gaja - Domenico Clerico - Enrico Scavino イタリアに行きだして、残念なことが一つあった。それは当時、ピエモンテを除く他の地方の多くの生産者が、ボルドー・タイプのワインを目指していることだった。 Giampaolo Motta - Fattoria La Massa それを反映してか、リーデルのソムリエ・シリーズの中でもボルドーの大グラスに人気が集中していた。ブルゴーニュから巣立った私たちにとっては、やはりショックな現実だった。 Elisabetta Foradori - Foradori それでもイタリアでは、見るもの聞くもの、全てが目新しい。毎回毎回、何か新しい発見があり、楽しい撮影旅行を繰り返していた。イタリアに来るようになってから作風に変化が現れたのも、単なる偶然ではないだろう。その場の雰囲気がそうさせたのかもしれない。 Antonio Caggiano - Cantine Antonio Caggiano とにかく当時は、イタリア人がフランスに追いつけ、追い越せと頑張っているのを見るのが、楽しかった。何かと刺激が多いし、それに、生産者達が立派なグラスを使っていることに敬服した。なにせブルゴーニュでは、少なくとも当時、皆、みみっちくINAOの安グラスだったから。その点、イタリアは皆粋で、格好よかった。 Federico Carletti - Azienda Agricola Poliziano ジェナーロの人選の見事さも、私たちのイタリア行きに拍車をかけていた。勿論、彼の個人的な好みでの選択で、今の私たちの好みとはまるで違うが、当時の時の人を確実に押さえていた。 Romano dal Forno - Azienda Agricola Dal Forno Romano 皆、強烈な個性の持ち主で、第一線を歩んでいた。その人たちを全員撮るために、北から南まで、東の端に至るまで、何百キロ、何千キロ走ったか分からない。 Maurizio Zanella - Ca' del Bosco

  • 心を込めて

    Roberto Voerzio - A.A. Roberto Voerzio リーデル用の初めての外国(フランス以外)での撮影にあたり、イタリアの生産者との調整はジェナーロ イオリオに頼んだ。例の、私たちをスロー・フードに引き込んだSBMの仕入れ部長、イタリア・ワインに滅法詳しかった。その彼がまず挙げたのがロベルト ヴォエルツィオ、そしてルッチアーノ サンドゥローネ、パオロ スカヴィーノ、ドメニコ クレリコ、ジオルジオ リヴェッティ、アンジェロ ガイアと、ピエモンテの大御所たちだが、「あああ、殆ど知らない…。大変だ。」ただ、ロベルトの名が気になって、気になって、手紙を出した。すると、「葡萄栽培家は本来畑にいるものだ。ネッビオーロの最終収穫日は9月25日。その前に畑で会おう」と、2003年早秋、すぐに一通のメールが届いた。面白そう。どんな田舎の、無骨で頑固な親父が現れるのか、楽しみだ。 ピエモンテまでは、家から車でざっと二時間半の距離だ。ブルゴーニュに比べればお隣、大したことはない。が、まだ行ったことがない。高速でサヴォナからトリノへ向かうA6号線に乗り換え、カッルーで降り、タナーロ川沿いにバローロ、ラ モーラ方面へ。そしてノヴェッリョの登り坂を過ぎた時、私は思わず息をのんだ。「うわぁ、何、これ…。」 眼下に広がる初めてのピエモンテの景色に、完全に圧倒されていた。箱庭に納められたような幾つもの丘陵。その合間の斜面を埋め尽くす無数の葡萄、葡萄、葡萄…。あまりにも衝撃的な光景だった。感動とは違う、殆ど恐れにも似た驚愕だった。「凄過ぎる。ブルゴーニュなんて大したことない…。」 ロベルトのカンティーナへ着くと、鉄格子の扉が閉まっている。中では作業人がペンキ塗り…。えっ、今、収穫中じゃぁ?なんて、のんびりしているの、と呆れつつ(?)、呼び鈴を鳴らし中に入り待つこと五分。すると金髪のチリチリ頭の男が現れた。「はっ、これがロベルト?オー、粋じゃん。」 後で聞いたのだが、どうも以前は長髪で、ロック歌手さながらだったらしい。おまけに人懐っこうそうな奇麗な目をしていて、見つめられるとゾクゾクする。ただ笑顔とは裏腹に、どことなくドスの効いた声。押しは強そうだ。そして言葉の端々から、静かな熱い個性のかたまりであることが、ひしひしと伝わってくる。ロベルトはそんな男だった。 早速、畑へ行くことに

  • 月の光

    Pablo Alvarez - Bodegas Vega Sicilia 「誰もが入れるボデーガではない」と、宿の旦那ナッチョが言っていた通りだ。リベエラ デル ドゥエロで、いや、スペインでもっとも有名なボデーガ、ヴェガ シシリアの入り口には門番がいた。名を告げると内部と連絡が取られ、戸が開けらる。中に入ると、駐車場の脇に和風に似せた庭園が…。が、屋内は石造りの半円形の通路風の事務所で、まるでスパイ映画の秘密基地を思わせる。その一角の応接所に、隣の部屋から太い男の声が響いていた。やがて大柄な声の主が現れる。代表取締役、パブロ アルヴァレス・メスキリスだ。彼の低く響き渡る声には、壮健で濃縮されウニコの香りがした。 早速ボデーガを案内してもらう。近代的なそのウニコの郷は、大病院の滅菌室の如く、塵一つ無く完璧に管理され、冷たくも圧巻だ。ただ照明だけが、やけに暖かい。イタリア製の照明器具、中でも「太陽」に似たものが気に入った。するとパブロが「月だ」と言う。どうなのだろう、ヴェガ シシリアのイメージは?音の響きからすると、やはり月の光か。まぁ、どちらでもよい。その黄色の灯が、やもすると見落とされがちなパブロの繊細で澄んだ眼差しを、ウニコ グラスに映していたから。 Alejandro Fernandez - Bodega Tinto Pesquera

  • ククルーチョ

    スペインでは、リベエラ デル ドゥエロの生産者の訪問が一番多かった。その中でも特に思い出の残る場所が一つある。ヴィリャクレセスだ。約束の日、フィンカに着くと、車の中から手を振る人がいた。指示された通りに回り込み車を停めると、すぐ傍にその人も車を停めた。細身の、一見神経質そうな紳士が降り立った。党首のペドロ クワドラド・ガルシアだった。挨拶もそこそこに、彼は私達を建物へ導いた。入り口の脇に、一人の老人が腰掛けている。そして側まで来て、ハッとした。銅像だった。何故か胸が熱くなり、涙がこぼれた。 銅像は実存した人物だった。背が低く、生涯ククルーチョ(小鳩)と呼ばれた老人。冬の間毎朝そこに座り、目の前に登る暖かい太陽を待っていた、という。そしてペドロが六歳の時に、亡くなった。ヴィリャクレセスの番人だった。いや、今も番人だろうか。ピーター シセックが初のピングスを醸造するにあたり場所を借りたヴィリャクレセスは、私たちの訪問後に、ペドゥロの手を離れた。ククルーチョの思い出は今何処、それが気になる。 Pedro Cuadrado - Finca Villacreces Peter Sisseck - Dominio de Pingus

  • スター

    Álvaro Palacios - Álvaro Palacios S.L. スペインには、他の誰より会ってみたい人がいた。ただその人を、みんなが「スターだ」と言っていた。ミイハア嫌いの私は一人、「どうしよう」と迷っていた。その時だ。「痛い!」と、思わず手を引っ込めた。見ると、右手首の上で蜂がもだえている。なんとトルトッサのパラドール(ホテル)で、朝食中に、蜂に刺されたのだ。とっさに払うが、痛い。その強烈な痛みで完全に目が覚さめた。これからアルヴァロに会いに行くんだ。 車でグラタリョプスの村に近づくと、「あれだ」と私には分かった。左手の小高い丘の上に立つ近代的な建物、あれがアルヴァロのボデーガに違いない。その予想は的中した。ただ私たちは、何故か裏口に車を停めてしまった。すると、ガラス張りの建物の中を、一人の男が慌てて走って来る。その走り樣がまるで「ルパン三世みたい」に私の目に映った。それがなんと、アルヴァロ自身だった。彼は満面の笑みで、私達を迎え入れてくれた。 事務所に入ると、片隅にカポーテ(闘牛用ケープ)がおいてあった。アルヴァロは無類の闘牛愛好家だ。観るだけではなく、自らもアレーナ(闘牛場)に立つ。おまけにフラメンコ・ギターを弾き、声を枯らしてカンテ・フォンド(フラメンコの歌の一種)を歌う。そこには誰も真似のできない彼の美の世界がある。究極の美を求める男の生き方がある。そんなアルヴァロがグラスを手に、「なにかもっともっと精神的なもの、神に近づくものを目指したいんだ。」と、言った。その時、確かにグラスの中で何かが起こっていた。大宇宙にも似た渦巻きだ。そして自らの意志でビッグ・バンを起こすかのように、その大きな波動を宙に突き上げながら、エルミータの神童がまた口を開いた。「今までになく、自分がヴィニェロン(葡萄栽培醸造家)だと強く感じる。」 彼が世に送り出すワインには異を唱えたいものもある。でも人間として、この日以来、この誇り高き男は私を魅了して止まない。

  • 時間がない

    Pepe Rodriguez - Adegas Galegas 私にはアンダルシアの良い思い出があまりない。でも、スペインは嫌いじゃない。以前はイタリアが好きで憧れていたけれど、意外と義(義理ではない)に欠ける彼らの側面を知り、俄然スペインの方がよくなった。エミリオ的時間の感覚で生きられたら、もう最高だろう。もっとも、スペインにも「時間がない」人はいた。エミリオのいるリベイロからほど近い、リアス バイシャスのアデーガス ガレーガス当主、ペペ ロドリゲスだ。 その日ぺぺは、十二時の飛行機に乗ることになっていた。ただ、前日の約束に私たちが来られなかったので、わざわざ蔵に顔を出し、待っていてくれたのだ。ギャングのボスか、帽子を目深にかぶり見つめるペペに、撮影の準備をする手が焦った。時間が「あまり」ではなく「全く」ない。部屋の中に緊張が走る。 ファインダーを覗くと、怖い、と言うか、硬い。どうしよう。とりあえず「好きなこと」でも尋ねてみよう。するとペペが「写真だ」と言う。一瞬ギクッ、と逆にこちらが凍りつきそうになるが、「でも時間がない」と言われ、ホッ。いや、時間がないことを思い出す。そこへペペが、今度は「政治も好きだ」の連打。しかし再び「旅が多くて、時間がない。」 旅か。それじゃ、「旅グルメはどう」と尋ねると、彼の顔にポッと赤みがさした。そして水を得た魚のように、表情がみるみる緩むと、「そりゃ、勿論さ」そして、それまでのかしこまった髭面に万遍の笑みが込み上げて、 「八つ目ウナギの料理をご存知か。うなぎの稚魚じゃない。こんなに太いやつ、ここの名物なんだ。次回はそれを御馳走するから、一緒に食べよう。是非、また来てくれ。」 と、まるで魔術師を前にした子供のように目を輝かせながら、ことのほか上機嫌で言った。 見事、「食い気」が「飲み気」を制すなり。どうやらこの頃から既に私は、「食い気」の道へ舵を切り始めていたようだ。「たかがワイン」さ。「されどワイン」だなんて、ちゃんちゃら可笑しい。そもそも、食を正さず自然派ワインなど、全くのお笑い種でしょう。

  • 時間、ある?

    Emilio Rojo ワイン生産者の中には、意外と脱サラ組、それも元IT(コンピューターや通信)関係の仕事に携わっていた人が多い。最近ではジョージアのジョン オクロやアルチル ナツヴリシュヴィリがそうだし、Triple Aの仕事を始めた頃にスペインの出逢った自然派かめ壺酸化防止剤無添加のラウレアノ セレス、スロヴェニアのアチ ウルバイスもそうだ。そして私たちが最初に出逢ったITからの転職者は、リベイロのエミリオ ロッホだった。 彼は元々、スペインの首都マドリッドで通信関係の仕事に就いていたが、故郷の葡萄の収穫を手伝ううちに、こちらが本業となった。そんな彼との待ち合わせは、何故か高速の出口。さて、何処へ行くのかしら?車で走り着いたのは山中のカフェだった。そこで常連たちに「オラ、ケ タル?(やあ、元気?)」と声をかけ、私たちを紹介。満足気にコーヒーを一気に飲み干すと、 「ティエネ ティエンポ、ヴェルダ?(時間、あるよな。)」 と、今度は今来た道を逆戻り。やがて畑に着くと、「マットレス持参で昼寝しながら」と夏の酷暑の中での葡萄栽培をとくとくと語り、 「ティエネ ティエンポ、ヴェルダ?それじゃ、一杯飲みに行こう。」 と、近くの街へ。観光ガイドさながらに街を闊歩し、行きつけのバールで一杯ひっかけ、 「ティエネ ティエンポ、ヴェルダ?うちのボデーガへ行こうか。」 と、ようやく醸造所に案内される。そこで早速、ボトルを一本開け試飲を始めるが、運悪く雨が降り出す。本降りになる前にとりあえず写真を一枚撮らさせてもらうと、今度は、 「ティエネ ティエンポ、ヴェルダ?何か旨いものを食べに行こう。」 そこは「飲み気」より三大欲の「食い気」、 「シ、シ。ヴァモス、ヴァモス(うん、行こう、行こう。」 と、車に飛び乗り向かったレストランは、地方色豊かな格別の味の店で、私たちは大満足。が、こと連れのブルーノ スカボ(日本で開催されたソムリエ選手権に登場したブルガリア代表のジュリアの未来の旦那様)は、 「これだけ時間をかけ、たった一本か…。」 と、不満気だ。長い付き合いの良い友達だけど、ソムリエってやはりこんなもの? 「ティエネ ティエンポ、ヴェルダ?」 「ソロ パラ ベベール(飲むための時間ならね)」だと、ちょっとつまらない。

  • アンダルシアの大黒様

    Antonio Barbadillo - Bodegas Barbadillo もう一人のアントニオは、サンルーカル デ バラメダにあるボデガス バルバディーリョの頭首だった。人はみな、彼のことをトトと呼ぶ。この親しみ易い響きに、会う前から親近感を覚えていた。そして約束の日、ヴィネクスポ東京で知り合ったベルトゥラン ヌエル(当時バルバリーリョ海外販売部長)に連れられ、フェリア(祭り)の会場に赴いた。一際賑わいをみせるバルバディーリョのカセータ(小屋)で、渡されたマンサニーリャを味わっていると、やがて中の一角が一段と華やぎを増した。「トト」の登場だった。 トトの周りに大きな人垣ができる。その中で、身の丈の高い者に囲まれながらもトトは、その恰幅のよさで周囲を圧倒している。そして、まるで少年が間違ってそのまま老齢期に入ってしまったような、何とも言いようのない人懐っこい面影で、周囲を引きつけている。マンサニーリャの帝王は、正にアンダルシアの大黒様のような人だった。 フェリアの会場はお祭り気分の人々でごった返し、撮影どころではない。そこで、後日改めて彼をボデーガに訪ねることにし、私たちはその場を後にした。撮影の日、トトの仕事部屋に入ると、そこは何故か、博物館長室を思わせるような装いだった。簡素な室内には扇風機が置かれ、エアコンはなかった。テーブルの上にはボトルとカラフが並べられ、部屋の片隅にバケツと洗面器が置かれていた。なんと、トト専用のグラスの洗い場だ。 「今はあまり飲まなくなった」と言いつつ、味わい深げにグラスを傾けるトトは、私たちを退屈させまいと、知る限り日本のことを話題にした。ところが、実は彼はまだ一度も日本へ行ったことがなかった。そんな八十歳の少年の愛らしい気遣いと謙虚さに、私たちは自然と頭が下がる思いだった。正に、「人生とは年齢ではなくどう生きるか」であると、しみじみ教えられる出逢いだった。 トトはその後亡くなられたが、逸話が残っている。ある日、フェリアで大いに飲んだトトは、帰り道で警察の検問にひっかかった。当然、アルコール・テストとなるが、 「はい、吹いて。…。おかしいな、出ない。別の風船でやってみよう。それじゃ、もう一度これを吹いて。もっともっともっと。…。うーん、またでない。それじゃ、署に戻ってやってみるか。同行願います。」

  • 蔵の守り主

    Antonio Sanchez Romero - Bodegas Toro Albalá ゴビーに立ち寄る前に旅したスペインには、印象的な二人のアントニオがいた。奇しくも両者共アンダルシアの人。一人はアントニオ サンチェス・ロメーロ、アモンティーリャードで有名なトロ・アルバラの頭首だ。彼のボデガは、アンダルシア地方のコルドバから南へ約五十キロ、アギラール デ ラ フロンテーラの街にある。ここはまた、アンダルシアのフライパンの異名をとる極暑のエシハから東へ約五十キロの地点でもあり、灼熱の地であることは言うに及ばない。 が、トロ・アルバラの薄暗い蔵に一歩踏み入ると、そこは冷んやりと肌に心地がよい。救われたように階段を下りて行くと、半地下の蔵の上部に開けられた丸い天窓から、信じられなような美しい光が溢れている。そして日溜まり…、半闇に眠る無数の樽の合間に、天から降り注ぐ数条の光に照らし出されポッと浮き上がった空間。この光景、どれだけの人が目にできるだろう。もしかすると、明日の陽ではもう見られないかも。ああ、これは天から与えられた瞬間だ。 その中に、アントニオが立っていた。が、ほんの一瞬だった。詩人のような潤いを秘めた彼の笑顔が光に浮き上がるや否や、沙羅双樹(ナツツバキ)の如く、スッと闇の世界に吸い込まれた。自然に、そしてあまりにも美しく消えていった。そしてその中から、しきりに神秘的なことを語りかけてくる。 「このカヴには大切な住人がいる。」 蜘蛛だった。三種類が住みつき、外敵の蚊や蛾から大切な樽を守っているという。近づいても怯むことのない小さな用心棒達。そんな頼もしい住人たちに優しい視線を投げかけ挨拶をするかのように、アントニオは蔵の中をゆっくりと歩き回っていた。そして一つの樽に辿り着くと、その前で黙って立ち止まった。よく見ると、樽に封印がされている。 「以前、日本人の某画家が訪ねて来てね。」 と、アントニオが口火を切った。 「その時に、彼の作品と交換ということで、この樽に封をしたんだ。それからずっとここに置いてあるんだが…。あの日以来、彼がまだ来ないんだよ。」

  • 香りの特攻隊

    Gérard Gauby - Domaine Gauby リーデルのグラスで有名どころの生産者を撮る。そのために私たちはリーデル社からソムリエ・シリーズ一式、ボルドー・グラン・クリュ、ブルゴーニュ・グラン・クリュ、ティント・レゼルバ、マチュア・ボルドー、ラインガウ、ロゼ、エルミタージュ、モンラッシェ、リースリング・グラン・クリュ、ロワール、ソーテルヌ、アルザス、ヴィンテージ・シャンパーニュ、グリュナー・フェルトリナー、シャンパーニュ、シェリー、ヴィンテージ・ポート、コニャックXO、コニャックV.S.O.P.を提供された。ただ、使用グラスを各生産者に選ばせるという前提のせいで、実際に使用したグラスはかなり限られた。みな、概して大型のグラスを使いたがったのだ。 そもそも何故、ボルドー・グラン・クリュとブルゴーニュ・グラン・クリュだけが馬鹿でかいのだろう。一種の至上主義なのか。他のグラスももっと大きければ、みながもっと使うのでは…。そんな思いと共に旅を重ねるも、私たちが行き着いたのは全く別の答えだった。実は、旅の最中のある出来事で、私たちの中のリーデル神話が崩壊し出したのだ。 スペインからの帰り道だった。初めてムンターダの名を耳にした時から、ずっと行ってみたかったドメン ゴビーを訪れた時だ。その日、当主のジェラールはティント・レゼルヴァ(スペインの品種テンプラニーニョ等用)を選んだ。ただ、どうせなら飲み比べようと、エルミタージュ(グレナッシュやムルヴェードゥル、シラー等用)にも同じようにワインを注いでいだ。そして、しばらくおしゃべりに興じた後のことだ。突然、ジェラールが、 「おい、見ろよ、これ。」

  • Vignerons au Verre (VV)

    Giampaolo Motta - La Fattoria la Massa リーデルのグラスを使用して有名どころの生産者を撮る。この企画は、当時のリーデル社欧州マネイジャー、ヤイール ハイドゥの案によるものだった。ヤイールとは、2001年にニースのオテル ネグレスコでコートゥ・ダジュール初の日本酒の試飲会を私たちが開催した折に、リーデルの大吟醸グラスを貸し出してもらってからの縁だった。その彼が「Le Montrachet」の写真をえらく気に入ってくれ、後に2003年にパリで再開し、この話が決まったのである。 内容は、リーデル社がソムリエ・シリーズを一式提供、私たちがそれを持ってフランス、イタリア、スペイン、ポルトガル等の生産者を訪問、グラスを持った彼らを撮影するというもの。Vignerons au Verreだ。但し、使用グラスは各生産者が選ぶ、これがヤイールの提案だった。私たちは気軽に受け入れ、事実興味深い方法なのだが、これが後に問題になるとは…、その時は誰も想像しなかった。 ある程度の撮影を終え、再びヤイールと再開するためパリに登った時、リーデル社の大御所ゲオルグ リーデル社長に引き合わせてもらうことになった。そて面会の日、コンコルド広場のオテル クリオンで、早速社長に撮影した作品を見せると、にわかに社長の顔色が変わった。そしてヤイールと何やら低い声で話し、言った。「使いものにならない。」 理由は至極単純だった。そこに写っている生産者の多くが、リーデル社が薦める各々の地方用のグラスを選んでいなかったからである。この事実をどう受け止めるか、それは各自の自由だ。ただ生産者たちは、己のワインに合うグラス形状を、誰よりもよく心得ていた、と私は思う。幾度もそれなりの体験(異なるグラスでの比較試飲等)をさせてもらった上での、私なりの結論だ。勿論、企画自体は流れた。が、井の中(ブルゴーニュ)から大海へ飛び出したばかりの私たちは、この撮影の旅で本当に色々なことを学んだと思う。

  • 首吊り(吟醸酒)行者

    故三盃幸一大杜氏(能登杜氏) 満寿泉 桝田酒造 私たちは、実際にTriple Aと関わりを持つまでに、二つの異なる道程を歩んでいた。まずは、「モンラシェ、モンラッシェ」と喚く私たちに嫌気がさしたのか、日本の友人が「他にも旨いものがある」と飲ませてくれた満寿泉のせいで吟醸酒の虜になり、結果、押掛女房的に蔵見を決行、そこで偶然知り合った山形の番紅花の山川さんに感化され、「首吊り」行者の旅へ。多くの蔵元を訪ねるのと同時に、2001年、南仏とブルゴーニュで初の日本酒試飲会を開くこととなった。 当時は、桝田酒造に泊まり込み、蔵人と寝起きや食を共にし撮影。三盃幸一大杜氏と共に、将来アラブの王様にこのお酒を飲まそうと、夢見ていた。こんなに凄いものなら、是非世界に広めたい、そういう気持で一杯だった。ただ、日本の蔵元の海外出張は、日本酒普及という名目で堂々と外国へ遊びに行くのが目的、と聞かされた時、心が折れてしまった。2004年の研修会後、すぐのことだった。 今日、インターナショナル・ワイン・チャレンジSAKE部門で何某などと身内で騒ぎ、皆を煽り立てようとしているが、よくよく見れば日本酒鑑評会がロンドンへ移動したようなもの。これこそ日本の蔵元の海外出張。全くの笑い種だ。私だって、あの当時はそれなりに真剣に取り組んだし、今でも個人的にはワイン以上に日本の自然酒が好きだ。が、「いわゆる」日本酒が真のワインと肩を並べる水準になったなどと、間違っても思わないでもらいたい。厚顔無恥も甚だしい。 この日本酒でのちょっとした道草の間に、別の道が現れた。リーデル・グラスと共にヨーロッパの有名どころの生産者を撮影する企画だ。元々、日本酒の試飲会でリーデルの大吟醸グラスを使用したのがご縁で持ち上がった話だが、折しも「Le Montrachet」刊行後、出版社や共著のソムリエとのゴタゴタで、ブルゴーニュに愛想をつかし出していた私たちにとって、これが古巣から飛び出す絶好の機会となったことは間違いない。

  • サローネ デル グストで

    Triple A 創設者、ルカ ガルガノ 今思えば、2002年は生動の年だった。ニューヨークでの試飲会の前に、イタリアで開催されるサローネ デル グストにも招かれ、新たな世界が展開し初めていた。同会は、二年に一度十月に、スロー・フードがトリノで開催する味のサロンだ。イタリア国内のみならず、諸外国から色々な食品生産者が出展する、いわば食の見本市。対象は一般消費者で誰でも入れる。おまけにブースに並ぶ食品は即売され、トリノやその周辺のおばちゃん達も買い物籠車を引っぱりやってくる。早い話が巨大な室内市場、楽しい催物だ(った)。 その中の企画にラボラトリオがある。講習を聴きながら着席での試飲試食、この食の研修会のために、私たちにお声がかかったわけだ。仕掛け人はアラン デュカス(モナコのルイ一五世等世界的に有名なシェフ)が名誉会長を務めるモナコ・フランス東南部地区スロー・フード協会会長ジャン・ピエール ルー(元ルイ一五世給仕長)氏と、SBM(モナコ公国社ソシエテ ドゥ バン ドゥ メール)の仕入れ担当部長ジェナーロ イオリオ。お題は、勿論モンラッシェだ。本番にはブルゴーニュからマルク コランやギ アミオ等が応援に駆けつけてくれ、その年もっとも高額だった研修会は好評のうちに無事終了した。 ただ、私たちにとって最大の利は、一般会員としてではなく、スローフード本部と直接関係ができたこと(初年を除けばスローの会員だったことはない)。そしてなにより、そのサローネの会場で、あの人と出逢った。Triple A創始者ルカ ガルガノだ。もっともその時の彼は、自らが輸入するラム酒(彼はラム酒のスペシャリスト)で「かなり」のほろ酔い加減で、面を通す程度。実際にはその二年後、モンラッシェに続き私たちの主導で満寿泉を研修会で紹介した2004年に、サローネの会場でルカと再開、それが大きな転換点となった。それこそ、私たちが自然派に足を踏み入れる、大事な大事な出逢いだった。

  • Le Montrachet

    これだけやれば、ちいとは「モンラッシェ」のウンチクも言えるさ。(写真=リシャール フォンテーヌ) 写真展を終え、癌から生還、さて次に何をしようか。あとはモンラッシェを追い続けた三年を形に残すこと、Le Montrachetの刊行だった。でも実際に出版されたのは2002年5月。更に二年の月日を要したことになる。そして現実は、共著のソムリエが報酬を主張するもろくな仕事をせず、本は完璧には程遠かった。おまけに、私たちは一銭の印税も手にしていない。まぁ、いいさ。色々と良い思いはさせてもらったから。おまけで、誰にも負けずにウンチクを言えるくらいにはなれた。 2002年10月、ニューヨークのレストラン モンラッシェで、モンラッシェの試飲会が催された。私たちは「Le Montrachet」の著者として招待される。神様からのご褒美か。なにしろ一人当たり1500ドル(当時18~19万円)と、会費がべらぼうに高い食事付きの慈善試飲会、おまけに超満席だ。 会が始まると、ワインが出される度に会場に鐘が鳴り響き、誰かが前にしゃしゃり出てウンチクを述べる。これが全ての銘柄で繰り返され、ゆっくり味わう雰囲気など微塵もない。結局、食事が終るまでに35銘柄が出され、その全てがモンラッシェだった。 以前、ドミニック ラフォンが言っていた。「モンラッシェが全ての人のためのワインでないことは明白だ。また単に金持ちだからといって容易に飲むものでもない。本来、モンラッシェを飲むこと自体が本当に特別なこと。だから、モンラッシェのボトルを手に入れる機会に恵まれ、何時の日かそれを開けられる人たちは、それが本当に名誉ある特別なことだと、しっかり分かっていてもらいたい」と。 彼の思いもこの人たちには馬の耳に念仏か。ああ勿体ない。無駄、無駄。9.11があり、貿易センタービルが消えた。そして一年後、35X2(或は3?)本のモンラッシェが消えた。そして今、会場だったレストラン モンラッシェももうない。結局、残ったのは?あの日に出されたモンラッシェのリストだけ? フォンテンヌ・ガニャール 2000 ブラン・ガニャール 2000 シャトー ドゥ ピュリニ・モンラッシェ 2000 ミッシェル クトゥ 2000 ヴァンサン ジラルダン 2000 アンリ ボワイヨ 2000

  • 生還

    マルク コラン - 最初に撮った生産者の写真の中で好きな一枚。 2000年7月。 「大丈夫か。これでも飲んで消毒しろや。」 と、マルク コランがボトルを一本差し出して言った。「よかったな。」 そんな彼の心遣いが嬉しかった。私はもらったボトルに、写真展からその日までの重みを感じていた。実はあの後、体調を崩して日本に一時帰国し、入院、8ヶ月もブルゴーニュから遠ざかっていた。そして久し振りに舞い戻り、まずマルクに会いに来た。彼のモンラッシェ同様、何処までも寛大で繊細な人柄に、他の誰よりも先に触れたかったから。 とにかく、酷い目にあった。冬場のスペインの生ハム作りの祭典でギフエロを訪れ、主催者の祝宴へ招待されるが、そこでケイコの「私、肉を食べない」のとんでも発言に一同唖然。えー、こんなところで他に何があるんだよ、と次から次へと出てくる豚肉料理がダブルで約二十品、私の前に集合する。そのご馳走に大喜びしたのは私よりも悪玉菌達。奴らはバリバリに栄養を取ると、その夜大暴れで、私の腹部の一部を異常な程に腫れ上がらせた。ああ、痛い、苦しい! まるで時限爆弾のスイッチが入ったかのような、急激な病状の悪化だった。それでもなんとかフランスへ戻り検査を受けるが、誰も結果をちゃんと教えてくれない。そんな中、私の体力の衰えを見かね、ジャン・ジャック ジュトゥーが慌てて私をモナコのプランセス グレース病院へ連れて行くが、ここも病院側の態度がはっきりしない。結局、業を煮やし、私は免責書に署名し、出てきてしまった。そして日本へ戻ることを決めた。後は友人の手配に従い、診察を受け、告知された。 「癌です。すぐ手術しなければ助からない。」 でも、さほど驚きも慌てもしなかった。ただ手術が嫌で脱走したかっただけ。が、結果的に救われた。それにしても、フランスの医療関係者の対応は、一体何?。あのままフランスにいたら、私はきっと死んでいた。告知しないなんて、思い上がりの偽善がとる行為だ。患者に対する敬意がない。後にマダム ルロワに会った時、彼女も言っていた。 「私の主人は今闘病中。医者は癌であることを知らせるなと言ったけど、五十年も連れ添った人よ。隠すなんてできなかった。」

  • モンラッシェを知らない?…

    写真展に遅れたのは、ドゥニとフィリップだけではなかった。シャルル ボンヌフォワがやって来た時のことは、一生忘れられない。 シャルルはシャサーニュの葡萄栽培家で、マルキ ラギッシュ(ドゥルーアン)のモンラッシェの畑を請負で管理していた。毎日自転車で畑に出て来て、手仕事でコツコツ手入れをしていく。ある時、そんな彼が言った。 「昔はきつい仕事、例えば葡萄の幹や根を引き抜く仕事なんかを終えた後なんかに、みんなでそこの畑のワインを一本空けたものだ。でも最近は、そんな習慣もなくなったよ。」 彼は会場にも自転車でやって来た。そして、 「写真展と試飲会をやっているって聞いたんだけど…。」 と、静かな笑みを浮かべながら、控え目に言った。でもその言葉は私たちにとって予想外の、あまりにも困惑するものだった。なにしろ彼が来たのは、開会式の翌日だったのだ。 「…。そうか、昨日だったのか。」 そう言って会場を一周すると、彼は静かにその場を去った。今まで長年重いものを背負い続けた肩をガックリと落とし…。そんな彼の後ろ姿をなす術もなくただ見送るのは、堪え難いものだった。 モンラッシェは確かに希少なワインだ。あまりにも数が少ない。それ故、手にできる人は本当に限られている。それにしても、実際に現場で働く人が全くモンラッシェを知らないなんて、想像のできないことだった。 「飲んだことがないけど、モンラッシェって本当に旨いのか。」 と、ブシャール ペール エ フィスの畑を管理していた栽培家も言っていた。信じられるか?一年中手入れをしている畑のワインの味を知らないなんて。年に一度、彼らの労をねぎらうために一本のボトルを分かち合うことに、なんの不利益になるのだろう。 人は「ワインは分かち合うもの」と言う。確かに、一人で飲むより誰かと飲んだ方が楽しいし、想い出に残る。でも、金持ちのワイン愛好等がこぞってワインを持ち寄り飲み比べているのを見ると、どこか違うような気がする。感謝を感じないんだ。もし、ワインが金のために造られ、金で買われるだけのものなら、あまりにも飲むのも忍びない…。 モンラッシェに出逢い、ブルゴーニュに通い始めて二年。この写真展で、とりあえず探し求めていた答は見つかった。が、同時に、新たな疑心暗鬼の始まりともなった。

  • 星の王子さま

    ディディエ自身が自慢した私が撮った世界一の彼の写真です。 トゥトゥンとくれば、ディディエ(ダグノー)のことを思い出す。二人は無二の親友で、いつも一緒に楽しい時間を過ごさせてくれた。 私たちがディディエを初めて「観た」のは、犬ぞり競技のテレビ中継だった。ただその時は、競技に参加している彼が誰なのか知る由もなく、ただ長髪で髭むじゃらな顔が印象に残っていた。後日、ワイン雑誌で彼の写真を目にし、「あっ、この前テレビに出てた人」と、初めてヴィニェロンであることを知った。 約束の日にディディエを訪ねると、何故か樽業者との超真面目な試飲中。お付き合いしてみるが、難しすぎてついていけない。おまけに長引きそうなので、翌日もう一度出直すことにした。次の日、目の前に大きく広がる平野を見下ろす高台で、トラクターから降りたったディディエが言った。「昨日はご免な。写真はポーズは取らないから勝手に撮ってくれ。じゃ、畑に行こうか。」 そのまま彼の車で畑へ向う途中、私はたわいのないことを尋ねてみたくなった。「どうしてASTEROIDEのラベルは星の王子様なの。私が一番好きな物語なんだけど。」 すると、ハンドルを握るディディエの顔に一条の光明が差し、微笑みながら言った。「あの時、ちょうど読んでいたんだ。」 長髪と髭の合間から優しく輝く目が覗く。初めての笑みだった。そしてフラン・ピエの畑に着くと、おそらく今まで他の人には言ったことのない、思いもかけぬことを口にした。「レオン、一緒に写真を撮ろうや。」 一瞬の出来事だった。一秒たりとも待たせられない。露出を測る暇もなく、無我夢中でシャッターを切っていた。ディディエが息子を抱き上げていたのは、ほんの十五秒位のこと。それが永遠の間のように思えた。 私はいつも、ディディエこそが星の王子様だったと思う。そしてこの写真を観る時、あの日私たちはASTEROIDE B612にいたんだ、って。絶対に。 でもディディえはある日突然、私たちの前からいなくなってしまった。名残惜しいに決まっている。あんな形(ULMの事故)で消えちゃうなんて…。ただ、もしかしたらそれが最も彼らしかったのかも…、と思う。 でも死んだのはディディエだけじゃない。シャンベルタン、いや、シャンボール・ミュジニの貴公子ドゥニ(モルテ)も逝ってしまったし。今日までに何人が亡くなっただろう。

  • フィリップとの出逢い

    もう一枚もっと好きなフィリップの写真があるけどソニアと一緒。だから出せなくて残念。 写真展「ル モンラッシェ」は、新たな出逢いをプレゼントしてくれた。試飲会の半ば、二人の男が大慌てで飛び込んで来た。そして、「テェリーの馬鹿野郎。どうせ時間通りに始まらんとか言うから、あっ、ボンジュール。」と、ちょっとご機嫌斜めの様子。ドゥニ モルテだ。遅れを弟のせいにしているが、一緒にいるのは…?弟ではない。とりあえず、ドゥニの後ろに控えているが、はみ出している。「うん?この人、知ってる。会ったことないけど、あのチリチリ頭、体系、絶対に知ってる。でも、誰…」と思っていると、ドゥニが、「あっ、これ、友達のフィリップ シャルロパン。よろしくね。行こう、フィリップ。ああ、もう、半分なくなってるじゃないか。まったく、ティエリーの奴…、ブツブツブツ。」 トゥトゥン(フィリップの愛称)との出逢いは、想い出との再会にも似た、不思議な感覚だった。ずっと待ちわびていた人がヒョコっと目の前に現れたような、忘れていた縁が突然蘇ったような、どこかちょっと懐かしくて嬉しく、うまく行くような気がする、そんなワクワクするものだった。そして私たちは、後々色々とこのトゥトゥンの世話になることになる。ブルゴーニュのドン、アンリ ジャイエールに引き合わせてくれたのも彼だった。 その時の話。アンリー爺さんがいきなりエシェゾーのボトルを開け、飲み会が始まった。「フィリップ、お前とは何年になるんだ。初めてお前の家に行った時、お前のワインを飲んで『ダメだ、こんなの』と言ったら、お前のかみさんが偉い剣幕で食って掛かってきたんだよな。ああ、おっかねぇかみさんだ。それで、とにかく除梗しろと言ってやった。けど、その後どうした、フィリップ。」「ああ、言われた通りにやったよ、師匠。」「嘘つけ、全部やったのか。」「いや、25%だけ。」「だめだ、そんなの。全部やれと言ったろう。そしたらこいつ、次の年の収穫の時、また飛んできてな、除梗をした、した、した、と言いおる。それで、どれだけやったんだ?」「50%。」「全部だって言っとるのに。次の年もまたやった、やった、と言いにきて、それで?。」「75%。」「だめだ、全部、全部、全部。それで?」「へへへ、結局四年かかったよ、師匠。」「それで、全部やってどうなんだ。かみさんはまだ怒っているのか、ハハハ。」 以

  • これがモンラッシェ!

    1999年11月。オスピス ドゥ ボーンヌを木曜に控えた第三週のブルゴーニュは、寒波に見舞われていた。私たちの写真展「ル モンラッシェ」の初日は大雪となり、会場のシャトー ドゥ ピュリニー・モンラッシェは、辺り一面真っ白な雪で覆われた。おまけに寒い。しかし会場には、襟をすくめ白い息を吐きながら、地元の人達が大勢集まって来た。そこでシャトーの主(社長)クロードゥ シュネイデール氏が開会を宣言する。 「ピュリニーとシャサーニュの人達が、これほど一同に会したことは今までにない。歴史的なことだ。ケイコとマイカに感謝したい。それでは皆さん、試飲会場へどうぞ。」 拍手が渦巻く中、皆が続々と隣室に移って行く。そして各生産者のモンラッシェを端から順に試飲…、とはいかなかった。皆、お目当てのボトルの前に直行し、一斉にグラスを突き出す。しかし、20X2本程のモンラッシェで150人ともなると、誰だって足りるとは思わない。会場は押し合いへし合いの大騒ぎとなった。そんな中、ギ アミオが叫んだ。 「凄い。これだけのモンラッシェが一同に会するなんて、夢のようだ。世紀の試飲会だ。」 私たちは、そんな周囲の騒ぎを他所に、たった一本置かれたボトルの前に立っていた。すでに中身は殆ど残っていない。そのボトルを静かに持ち上げ、最後の雫をグラスに注ぐ。「うちには取り置きがあまりないので、これしか出せない」とジャン・マルク ブランがくれたボトルだ。それを徐に口にし、私は目を見開た。そして、ケイコを探した。予想だにしなかった、吹き出すようにこみ上げてくる感動を、早く伝えたい。一方、ケイコも同じ衝動で、私たちは互いに振り返り鉢合わせするような格好で、顔を見合わせた。 あまりにも衝撃的。ただただ繊細で、微細で、優しく、優雅に振る舞うモンラッシェに心底驚嘆、感動した。「真の王は己の力を見せびらかす必要などない。寛大な懐の深さで接するもの」と教えられた気がして、頭が下がった。ああ、これこそがSEIGNEUR(セィニュー=領主様)。それが分かったことに感謝した。そのモンラッシェは、 ドゥラグランジュ・バシュレ 1988年 正に二年前、ラムロワーズでドゥプレさんが出してくれたモンラッシェと同じ造り手。あれから二年、雲谷をさまよい、山頂付近でいきなり霧が晴れ、一気に360度、見て取れた気がした。これがモンラッシェなんだ。

  • モンラッシェって、何?

    モンラッシェを求め駆け回った時期に出逢った生産者の方々。後にこれらの写真をもとにLe Montrachetの刊行に至る。 「モンラッシェは、出逢った人の人生を変える。オー、モンラッシェよ。お前はなんと夢を見させてくれることか。」 オリヴィエ ルフレーヴ(オリヴィエ ルフレーヴ フレール) 「初めて出逢うモンラッシェは、他のワインとは異なる多くのことに気付かせてくれる。著しい違いではないが、よく注意を払えば、全く独特な均衡の中に存在する豊かさを見いだせる。それを人は『モンラッシェする』と言う。」 ピエール モレイ(モレイ・ブラン) 「モンラッシェは、気付いてもらえることだけを望んでいる大のはにかみ屋さ。だから、こちらから探しに行かなければ見つからない。」 マルク コラン(ドメンヌ マルク コラン エ フィス) 「不思議なものだ。モンラッシェの力強さと優雅さの共存は、まるで魔法だ。」 ドミニック ラフォン(ドメンヌ デ コントゥ ラフォン) 「果たして、この神秘の産物と同質のワインを何時か何処か他の所で造れるか…。それは無理。モンラッシェは唯一のものだから。」 ローランス ジョバール(メゾン ジョゼフ ドゥルーアン) 「モンラッシェは雄大且つ、逸品だ。」 (ルネ&ニコラ フルーロ、ドメンヌ ルネ フルーロ エ フィス) 「そして何と優雅なものか。ル モンラッシェは荘厳だ。」 ジャン・マルク ブラン(ドメンヌ ブラン・ガニャール) 「モンラッシェは、数あるシャルドネィの中で至上のもの。」 ルイ ラトゥール(メゾン ラトゥール) 「そう、モンラッシェはやはり最高のもの、精華だ。」 ジャン・ミシェル シャルトゥロン(シャルトゥロン エ トウレビュシュ) 「だからモンラッシェは完璧以上のものでなければならない。驚異的でなければいけないのだ。」 ルネ ラミ(ドメンヌ ラミ・ピヨ) 「モンラッシェは、かつて人がシャルドネィを植えたことで、このフランスの片田舎の一角を昇華させ、忘れ難いものとし、神話にまで祭り上げたものだ。」 マルタン プリウール(ドメンヌ ジャック プリウール) 「素材と構造を産み出す粘土質と、繊細さや優雅さを醸し出す石灰質の釣り合いが申し分のない、選ばれた土壌から産み出される選ばれたワイン、それがモンラッシェ。」 ジェラール ブード(エティエンヌ ソゼ)

  • 混沌の始まり

    ラムロワーズは、コート ドゥ ボーンヌとの境目の街、コート シャロネのシャニーあるミシュランの***レストランだ。実はモンラッシェとの出逢いの後、DRCの収穫を観てみたくなり、ブルゴーニュ再訪を考えていた時、ここのリストにモンラッシェが載っているのを知り、宿泊がてら予約した。「モンラッシェをお望みの方ですね。」と、恰幅がよくどこかドーンとし、それでいてなかなか機敏なシェフ・ソムリエが言った。そこで私たちがDRCの名を出すと、丁寧に、「私どもではああいったワインは扱っておりません。私どものでよろしければ…」と、一度奥に下がりボトルを手に戻って来た。 ル モンラッシェ ドゥラグランジュ・バシュレ 1985 彼が掲げるボトルからは、不思議とDRCのような威厳を感じない。それでもモンラッシェだからと、頼むことに。やがて「どなたが?」との問いに、ケイコが名乗りをあげ、一口試すとすぐにOKを出す。が、何処か様子が変だ。それじゃ私もと口にし、えっ…。 嘘、これが、本当にモンラッシェ?なんて線が細いの。DRCの時の、あの頭を殴られるような強烈な印象は、あの体の中から抉られるような官能的な刺激は、何処に? 正に、DRCとの出逢いが「衝撃」だとすれば、こちらは「困惑」としか言いようがなかった。後で思えば、ドゥプレさんにまんまとしてやられたわけだが、かくして、私たちの5年に及ぶ混沌の、始まり始まりだった。

  • 化け物に遭遇

    レストラン中央のテーブルで、DRCのモンラッシェを丁寧に開栓した若いソムリエは、自らのグラスに注ぎ一口試飲すると、目を大きく見開き、天を仰ぐようにフーッと息を吐き出した。そして、至極ご満悦気に言った。 「どこかの星まで吹っ飛ばされそうですね。」 なかなか粋なセリフだ。ただその時に、それが実際に起こるなんて、誰が予想しただろう。私たちを陶酔させたモンラッシェは、なんとその夜、ケイコを初の幽体離脱へ送り出したのだ。翌朝、興奮気味にケイコが言った。 「なんかね、大空に舞い上がって、下を見ると山と山の間に川が流れている。するといきなり急降下して、谷間を地表ギリギリにビューンと飛んで、次の瞬間に急上昇。そのまま大気圏に飛び出しちゃって、わぁ、星が綺麗。そしたら今度は下の方に青い地球が見えて、またまたヒューンと急降下。そんなことを繰り返して、一晩中飛び回ってたのよ。こんなの初めて。高いところも全然怖くなかった。」 昨夜のモンラッシェは、本当に凄かった。まるで「化け物」。何か食べようとすると、奴が嫌がる。そんな気がして、頼んだ料理を殆ど食べられずに終わった。ありえないことだった。でも事実。本当に「とんでもないもの」に出逢ってしまった。どうしよう。 「あの衝撃が、あの内からくすぐられるような官能的な刺激が、忘れられない…。」 何かをしなければ…、と逸る心で、私たちは二ヶ月後の秋、ラムロワーズにやって来た。

  • ビロードの貴公子

    1996年6月29日、エルブスコ。 私たちはマルケージのテーブルについていた。その日はケイコの誕生日で、初めからワインを2本頼むと決めていた。1本目はイタリアのもので2本目はフランスのものを。でも、誰もイタリア・ワインに精通していない。結局面倒なので、ソムリエに任せることにした。すると出てきたバローロ(マスカレッロ?)が美味しいのなんのって…。結果、フランス産を自分たちで選ぶことができなくなる。そこで再びソムリエに頼むと、にやつきながら、「この後にフランスのワインを飲むのなら、これしかない。」と、彼が指差したのは、 Romanée-Conti 1971/1973 アハハハ、笑わせてくれるじゃん、ソムリエ君。いくらなんでも、ロマネ・コンティが高いのは周知の通り、買えるわけがない。案の定、リラ(当時1円=15リラ位?)表示の価格は0の羅列だ。ほら1つ、2つ、3つ、4つ、あれっ、間違えたかな。1つ、2つ、3つ、4つ…、嘘。正確な金額は覚えていないが、どうでもいい。とにかく2000フラン以下。つまり4万円しない。うわっ、ここで逃げたら食い道楽の恥。もう頼むしかない。 ソムリエもシェフに交代し、厳かな抜栓の儀式の後、徐ろにグラスに注がれたロマネ・コンティを一口口にしたケイコは、 「ああ、こんなビロードのような飲み物があるなんて、一体あなたは誰、ロマネ・コンティ様!」 と、もうぞっこん。その名を心に刻み込んだ。

  • 君(奴)の名は…

    えっ、あったって何が? すると「ほら、これ」と、ケイコがニコニコ顔でワイン・リストの1ページ目を指差している。そこには、 Montrachet 1984 DRC の名が…。 素直に言って、その時、モンラッシェが何であるかすら知らなかった。ただその値段を見て仰天した。えっ、昨夜のシャンパン2本分よりも高いの…(当時2500フラン=約5万円。でも以後他のレストランで見かけたDRCのどのモンラッシェよりも安かった)。 うーん、あまり気乗りがしませんけど…。えーっ、どうしてもこれだって言うの?うーん、確かにこの旅はケイコのために組んだけど、でもやっぱり高いよ。えーっ、うーん、あぁ、どうしよう…。どうしよう…。 で、結局頼むことに。あーあ、知らない。どうにでもなれ。ただ今更ながら、あの時にあんなものを飲まなければ…、です。良しにつけ悪しにつけ、あまりにも強烈な、人生の変わり目となる出逢いだっtた。 もっとも、この時に全てが始まったわけではない。既に一つの流れの渦の中にいて、なるべくしてなったこと。だって、そうでしょう。そうでなければ、何故、ケイコがモンラッシェの、DRCの名を知っているの?当然、そこにつながる事件が、その前に起きていた。それは、更に一年前のこと。スペインから移り住み一年半が経つのにフランスに馴染まないケイコの誕生日に、イタリアへ美味しいものを食べに行った時のことだった。

  • 導かれて

    そこを曲がると、ホテル ル モンラッシェだった 今でこそ素肌のワインに拘る私たちも、最初はお「導き」による某ワインとの出逢いが全ての始まりだった。まずは、自然派へ至るまでの私たちのお話に、しばしご辛抱を! 忘れもしない1997年7月19日夕刻、ブルゴーニュを縦断する国道74号線を下り、ピュリニー・モンラッシェに着いた時だった。「次の角を左に曲がると右手に広場があり、ホテルは左手の駐車場の前」と、いきなり目の前にヘッド・アップ・ディスプレイが現れたかのように、脳裏に道順が浮かんだ。以前、白山を旅した際に白峰温泉で同じように道が分かり、スペインのグラナダからアリカンテへ向かう途中、ロルカ辺りの道が見えたこともある。またもデジャ・ヴュ…?幸先良し? 目的のル モンラッシェは、ミシュランの赤ガイドで*付きの併設レストランが気になり予約したホテルだ。しかし、えらく到着が遅れた。前夜ランスでのシャンパン・ディナーで羽目を外し、この様だ。参った、参った。 それにしてもクレイエール・ボワイエールは、パリやブリュッセル、リュクサンブルグの恋人たちの逢引の隠処のようで、ロエデールのクリスタル ロゼが格段にお似合いの館だった。気持ち良く飲みすぎ、朝の目覚めは派手な頭痛で、ああ、起きれない。それでもなんとかリセイ経由でピュリニーへ到着。早速レストラン中央の席に通され、席に着き一息と思いきや、ケイコが突然、頭が割れんばかりの奇天烈な声を上げた。「あった!」???

  • 浄化 – Purification

    Sergio Arcuri - Cirò Marina 話は遡ること10数年、ある秋の夕暮れ時。 …。この前と同じだ。目の前のボトルが半分残っている。シャサーニュ・モンラッシェ レ カユレ 1999は綺麗に熟成し、手に入れた時より状態は良くなっているはずなのに、二人で一本を飲めずにいる。しかも、これで続けて二度目だ。つい数日前もそうだった。夕食後、ラ シャトニエール(サン・トーバン・プルミエール・クリュ)1999も、結局、半分残った。 どうしたのだろう。前回は旅疲れのせいにしたけれど、今回はそんなことはない。それじゃ何故、こんなことになるのだろう。今までにはなかったこと。あれほど恋い焦がれたブルーニュのシャルドネイなのに、どうして? もったいないなぁ。飲む?うーん、いや、ちょっと無理。飲めない。どうしよう…。 ここ半年、VELIERのTriple Aの造り手を撮りに、ヨーロッパ中を旅していた。その間、外食で体調を崩さぬよう、休足のために家では一切ワインを飲まずにいた。ただそれだけ、他には何も変えていない。勿論、訪問先では造り手たちと一緒に飲んでいたけど。当然、彼らのワインをね、自然派の。それが違いと言えば、唯一の違い…。 えっ、もしかして自然派のせい?で、慣例農法ワインが飲めなくなった?ということ。つまり、それって体内浄化?体が洒掃されたわけ?!それで、頭じゃなく体が飲むのを拒絶しているだ。すっごーい!

  • 西方見聞6666

    Udo Hirsch & Hacer Özkaya - Gelveri 2011年9月、初めてジョージアの地に降り立った時、「終着地に辿り着いた」気がした。震撼するポリフォニーに包まれ、素肌のワインに触れ、浮かれていた。でも終わりだなんて、とんでもない。それこそ真逆、全ての「は・じ・ま・り」だった。ただ、この青天の霹靂は、お隣トルコでやってきた。 そして今日の私たちがいる。 ジョージアはもう終わり。再興クヴェヴリ・グヴィノの父、ソリコが亡くなり、一つの時代に幕が降りた。アンコールの声はまだ続くけど、終焉は終焉さ。今更ジョージアに来るなんて、散った桜の花見に行くようなもの。そこには、消え去るものの美しさもない。 ソリコにイアゴ、そしてカパノや他のお仲間たち、本当にありがとう。素敵な時代にあなた方の「う・た・げ(宴)」に加えてもらえ、正に光栄です。私たちは東方見聞を中断し、西へ戻ります。思いきりUターン!飛んでイスタンブール!果てはポルトガル! 今はもうヨーロッパ、増え続けるアンフォラ。知らん顔して、人が飲まなくても、私はかまわない。アンフォラが好きだから。美味しくて、楽しくて、止めはしないよ。 うわっ、えらいことになった 本物探しに明け暮れて WAWを始めてしまったよ。 またまた時代の先を突っ走る 自力先行逃げ切り人生の 始まりだ始まりだ

  • ジョージアに乾杯!

    Kapano - Our Wine - うわぁー、何これ。なんて感覚なの…。とろけて自分の中に吸い込まれていくよう。どこまで落ちていくのかしら。 今までに、ワインをこんなに身近に感じたことなど、一度もなかった。いつも何処か気取りがあって、とげとげしていて…。でも、これが本当のワインなのね。 何処かでもう出逢ったような気がする…。気のせいかな。よく分からないけど、なんかとても懐かしいような…。 昔は南方思考だった。でも結局、西へ赴いた。ただ、今は東へ向かっている。ほら、どんどん夜が明けているでしょう。その内に、日本が見えてくるかな。ずいぶん前に飛び出しちゃったけど…。 今、確かにそっちへ向かっている。ところで、ここは何処…。 収穫の終わりに仲間が集うスプラ(ジョージア式晩餐会)。タマダ(進行役)の音頭とりで、官能的なポリフォニー(多重層合唱)が美しく響く。決して玄人ではない、先程まで畑で葡萄を穫っていた人たちの歌だ。誰かが歌い始めると、みながそれに合わせ、ハモる。三重にも、四重にも。見事というしかない。その素敵な調和に、得体の知れない感動が体を駆け抜ける。すると細胞の核で、ドブロクのようなワインがはしゃぎ出した。 私は酔っている。いいさ。この感慨を誰かに伝えられれば…、それでいい。

  • Mémorandum 2018 – 新年を前に

    2019年はWAWの年 になります! (ように)

  • Mémorandum 2018 – 20 ans déjà

    « V » comme « Vie », como « Vida », come « Vita » この人生で出会いと別れを繰り返し、愛に生き義に死ねたら、あとはもう、どうでもいいや。 Sur ce chemin, j'ai rencontré des gens une après l'autre puis les ai quitté, si je pouvais vivre pour l'amour et mourir pour la loyauté, enfin le reste, JE M'EN FOUS. En este camino, encontré a las gente una después de la otra luego las dejé, si pudiéra vivir por el amor y morir por la lealtad, por fin el resto, ME DA IGUAL. Su questo camino, ho incontrato delle persone una dopo l'altra poi li ha lasciate, se potessi vivere per amore e morire per lealtà, infine il resto, NON MI INTERESSA. On this way, I met people one after the other and left them, if I could live for love and die for loyalty, finally the rest, I DO NOT CARE.

  • Mémorandum 2018 – 20 ans déjà

    「一期一会」 « Ichi-go Ichié » 今日が最期と思い、そのつかの間の時を大切にし、誠心を込めおもてなしすること。この二十年、あなた方に逢えてよかった。みんな、素敵な一時をありがとう。幸せは出逢いで始まる。乾杯。 C'est de soigner chaque instant de rencontre, d'entrer en contact avec la personne en face en toute sincérité et de lui donner « Omotenashi (hospitalité) », comme si c'était la dernière fois. Je suis contente de vous avoir connu pendant ces derniers vingt ans. Merci à tous pour des moments conviviaux. Le bonheur commence par la rencontre. Tchin-tchin! Es cuidar cada instante de encuentro, entrar en contacto con la persona que tienes enfrente con total sinceridad y conceder « Omotenashi (hospitalidad) », como si fuera la última vez. Estoy contenta de haberos conocido a lo largo de estos últimos 20 a.os. Gracias a todos por los buenos momentos compartidos. La felicidad comienza con el encuentro. ¡Salud! È prendersi cura di ogni istante di incontro, entrare in contatto con la persona di fronte in totale

  • 夏に向かって、乾杯!

    Iago Bitarishvili, Keiko Kato & Giorgi Kipiani à Chardakhi ローマ帝国時代、12月25日(冬至)にはナタリス・インウィクティと呼ばれる祭典があった。この祭典は、ソル・インウィクトゥス(不敗の太陽神)の誕生を祭るものである。このソル・インウィクトゥスとミトラスの関係をミトラス教徒がどう考えていたかは、当時の碑文から明白である。碑文には「ソル・インウィクトゥス・ミトラス」と記されており、ミトラス教徒にとってはミトラスがソル・インウィクトゥスであった。ミトラス教徒は太陽神ミトラスが冬至に「再び生まれる」という信仰をもち、冬至を祝った(短くなり続けていた昼の時間が冬至を境に長くなっていくことから)。Wikipediaより 注)今年の実際の冬至は12月21日でした。WAW!(この乾杯は12月19日のものです。)

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