横浜絵の代表的な浮世絵師の一人・歌川貞秀(五雲亭貞秀)。鳥観図を多く手がけたところから「空飛ぶ絵師」などとも称される。これまでの記事では「タンコブが特徴的な自画像」や「版元の要望を無視して彫師泣かせの密画を描く」「師匠・歌川国貞の後妻との折合いの悪さ」などのエピソードについて書いてきた。今回は貞秀の画業を中心にご紹介。
横浜絵の代表的な浮世絵師の一人・歌川貞秀(五雲亭貞秀)。鳥観図を多く手がけたところから「空飛ぶ絵師」などとも称される。これまでの記事では「タンコブが特徴的な自画像」や「版元の要望を無視して彫師泣かせの密画を描く」「師匠・歌川国貞の後妻との折合いの悪さ」などのエピソードについて書いてきた。今回は貞秀の画業を中心にご紹介。
浮世絵師の最大勢力・歌川派は明治・大正時代にはどうなっていたのか。歌川国芳から月岡芳年、水野年方、鏑木清方、伊東深水という昭和まで続く師弟の系譜が知られている。今回は師弟ではなく歌川派の血を直接ひいている女性日本画家・歌川若菜についてご紹介。
日本画家・鏑木清方は“口絵の黄金時代”を代表する画家として武内桂舟、水野年方とともに富岡永洗の名を挙げた。特に永洗については「あの時分に、もし口絵の人気投票があったとしたら、その高点を得るものは、恐らく富岡永洗であったろう。」と書いている。今回は富岡永洗について、都新聞の追悼記事と弟子・桐谷洗麟の著述を中心に紹介する。
幕末・明治に活躍した浮世絵師に落合芳幾がいる。同時期の浮世絵師である月岡芳年に知名度こそ劣るが、以前には両者のライバルとしての関係性について記事を書いた。今回は芳幾の末子・落合芳麿や芳幾没後に彼の功績を連載した劇評家・伊原青々園の証言を中心に、以前書ききれなかったことを捕捉。落合芳幾について改めて紹介する。
月岡芳年・豊原国周・落合芳幾をはじめ、歌川派の絵師が大きな勢力を占める明治の浮世絵界で、師を持たず独学で地位を築いた絵師がいた。その名は尾形月耕。今回は尾形月耕について、その生涯と逸話について紹介する。
江戸後期から明治にかけて活躍した浮世絵師たちの逸話を集めていくなかでみつけた「浮世絵師あるある」の第三弾。今回のあるあるは「大人げない悪戯(いたずら)しがち」。浮世絵師の行った悪戯について、これまで記事に書きそびれていた逸話をご紹介。
江戸後期から明治にかけて活躍した浮世絵師たちの逸話を集めていくなかでみつけた「浮世絵師あるある」。第2弾として「義理人情に厚いことしがち」をご紹介。
戦前の浮世絵専門誌『浮世絵芸術』のなかで、版木を彫る彫師の近親者が幕末明治期の浮世絵師・豊原国周(とよはらくにちか)について語っているインタビュー記事が掲載されていた。人気の役者絵と江戸っ子気質で知られた国周について、実際に接してきた関係者が語る逸話を紹介する。
浮世絵版画の彫師や摺師は浮世絵師のことをどう思っていたのだろうか?戦前の浮世絵専門誌『浮世絵芸術』のなかで光線画で知られる明治期の浮世絵師・小林清親と仕事をしたことのある摺師のインタビュー記事が掲載されていた。貴重な証言から小林清親の実像および光線画の制作現場にせまってみた。
浮世絵グルメシリーズ3回目は銀座天國をご紹介。といっても今回取り上げるのは浮世絵ではなく新版画。お店の歴史、新版画とは何かというところから笠松紫浪の紹介とともに銀座天國の天ぷらを食レポしてみた。
浮世絵グルメシリーズ2回目は日本橋弁松について取り上げる。今やデパ地下でも買える老舗の味として親しまれているが、やはり老舗だけあって店に歴史あり。弁松が描かれた浮世絵や逸話とともに弁松の味を食レポしてみる。
激動の幕末から明治期にかけて、狩野派から転身して活躍した浮世絵師がいた。河鍋暁斎と小林永濯である。今回は小林永濯について、その生涯と同時代の絵師との交流について紹介する。
浮世絵師・月岡芳年には四天王と呼ばれる高名な弟子がいた。今回は芳年四天王(水野年方・右田年英・稲野年恒・山崎年信)を逸話を交えてご紹介。
浅草周辺は絵師の墓が集中している。今回は南浅草・西浅草エリアを中心に、蔵前駅から上野駅までを歩きながら、絵師の墓碑を巡る散歩道を開拓してみた。
花鳥画の大家として近年注目を集めつつある、明治から大正にかけて活躍した絵師・渡辺省亭について、その生涯と逸話をご紹介。
菊池容斎 – 『前賢故実』を著した超大器晩成型絵師と逸話 –
幕末から明治初期にかけて活躍した絵師、菊池容斎。歴史画のバイブルとなった『前賢故実』の著者として名を馳せ、渡辺省亭、松本楓湖などの弟子を育てた。その生涯と逸話を紹介する。
明治期を代表する浮世絵師、月岡芳年の右腕的存在だった二代目歌川芳宗(新井芳宗)。そんな二代芳宗の経歴とともに父ゆずりのやりすぎエピソードをご紹介。
葛飾北斎の娘・応為や河鍋暁斎の娘・暁翠、歌川国芳の娘・芳鳥、芳女など父と同じ浮世絵師となった娘がいるなか、芸妓として生き、浮世絵になった浮世絵師の娘がいた。
岩佐又兵衛の手により描かれたとされる『山中常盤物語絵巻』。この絵巻物が又兵衛作とされるまでにはたいへんな論争があった。そんな『山中常盤物語絵巻』をめぐる又兵衛論争の経緯と収束についてご紹介。
明治期に衰退していた日本画に新しい変革をもたらした狩野芳崖。その生涯と逸話を弟子・岡不崩が著した『しのぶ草』を中心に紹介。
明治期に衰退していた日本画に新しい変革をもたらした狩野芳崖。その生涯と逸話を弟子・岡不崩が著した『しのぶ草』を中心に紹介。
明治期に「光線画」や「ポンチ絵」を描いた浮世絵師、小林清親。その生涯と逸話を清親自身が最晩年に半生を振り返った「清親自画伝」を中心に紹介。
[ad#ad-s1] 初来日の狂騒 喜劇王チャーリー・チャップリンは昭和7年(1932)5月14日に初来日を果たした。それまで何度かキャンセルとなっていた来日がついに実現したとあって、チャップリンは神戸港から東京へ向かう先々で熱狂的な出迎えを受けた。 当時の新聞も一面を使って、人々にもみくちゃにされている狂騒ぶりを報じている(画像参照)。 五・一五事件にニアミス [wc_row] [wc_column size="one-half" position="first"] [/wc_column] [wc_column size="one-half" position="last"] チャップリンは当時の首相、犬養毅と首相官邸で会見をする予定だったという。休養を優先させたいとの希望を持っていたチャップリンだったが、首相との会見のことは本人の知らないところで進められていたらしく、来日前の新聞でも報じられていた(画像参照)。 来日翌日(5月15日)当日の朝、日本人秘書・高野虎市から会見の予定を知らされたチャップリン。首相の息子、犬養健と会って会見を行うことを了解した。しかし、一緒に来日していた兄のシドニーが鞄を検査されたことに不快感を示すと、気分屋のチャップリンは会見の延期を申し出た。 [/wc_column] [/wc_row] 犬養健は会見延期を了承すると、チャップリンが希望していた相撲のチケットも用意してもてなしたという。もし、会見を行っていたら、海軍青年将校が犬養首相を襲撃する五・一五事件に巻き込まれて命を落としていたはずだった(事件調書によると、日米開戦の契機とするため、計画の途中まではチャプリンも襲撃対象に入っていた。しかし、首相との会見がいつになるかわからなかったためにターゲットから外されたという)。 浮世絵展へ そんな一大事に巻き込まれそうになっていたチャップリンは五・一五事件を知って、一時は帰国を早めることも考えた。しかし、事件翌日に上野の東京府美術館で行われていた東京浮世絵協会主催の第二回浮世絵綜合大展覧会へ出かけている。兄のシドニー、秘書の高野虎市とともに会場に現れたチャップリン。主催者側の浮世絵研究家・松本喜八郎の案内で説明を受けながら鑑賞したという。 当日のチャップリンの動向を当時の新聞はこう報じている。
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