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  • 伊東静雄ノートⅡ-3

    原田は次のように述べる。「だが、なぜ、それを詩のなかでやらなかったのだろう。藤村だけではない。日本の詩人は,伊東のやってくまで、『冷たい場所で』うたうことこそ、詩の任務であることに思い及ばなかった。朔太郎はそれを識っていた稀な一人で、さればこそ伊東を発見し,高く評価しえたのだ。」原田のように「冷たい場所」を詩の任務としてつまり詩人の身の置き所としてとらえているようだが、先述の富士正晴の文章には伊東の詩の理解度が深く刻まれているようにみられる。「現在の日本の詩壇の人で真に確乎とした世界を生きていると思われる人はあまり多くないよう思う。〈略〉その人の性の規律がひとつであるような人こそ詩人という名で呼ばれるべきだ。伊東静雄詩集『わがひとに与ふる哀歌』を偶然の機会で人から借りて読むことが出来私の心の中に詩人を一人くわえ...伊東静雄ノートⅡ-3

  • 〈鶴彬〉ノート-反戦川柳作家の〈淋しい影よ母よ〉

    鶴彬(つる・あきら)は、石川県高松町(現、かほく町)に生まれた。一九〇九年一月一日のこと。(実際には前年一二月といわれている)ー一九三八年九月十四日没)わずか二十九歳の生涯、日本のプロレタリア文学の影響を強く受けた反戦川柳作家といわれている。手と足をもいだ丸太にしてかへしもう綿くずも吸えない肺でクビになる屍のゐないニュースで勇ましい「そうなのです。戦争中にこのような川柳を発表し、若くして獄中病死したのが鶴彬という川柳人でした。『ツルは偉い、口を閉ざされた民衆に代わってわずか十七文字の川柳で戦った。よくやった』。鶴彬に対する評価はこれもあなたの自由です。ただ川柳の流れのなかに、このような人のもいいたのだということ記憶してくださばよいと思います。」と、これは川柳作家・時実新子の「鶴彬」評である。また、作家の田辺聖子...〈鶴彬〉ノート-反戦川柳作家の〈淋しい影よ母よ〉

  • 大手拓次再読6

    拓次が詩を志したといわれるのが明治三十八、九年だとすると、明治三十八年には上田敏の訳詩集『海潮音』が刊行されている。この詩集の出現は当時、新体詩から近代詩へと歩み始めた多くの詩人に驚くほどの影響を与えたと言われている。この詩集の序文には「伊太利亜に三人、英吉利に四人、独逸に七人、プロヴァンスに一人、而して仏欄西に十四人の多きに達し、さきの高踏派と今の印象派とに属する者其大部分を含む」というように上田敏はそのフランスサンボリズムの詩人達(ボードレール、マラルメ、ヴェルレーヌ等)の解説を書いている。その解説は次のようである。「近代の仏詩は高騰派の名編に於いて発表の極に達し、彫心鏤骨の技巧美に燦爛の美をほしいままにす、今茲に一転機を生是無場あらざるなりマラルメ、ヴェルレーヌの名家之に観る所ありて清新の機運を促成し、終...大手拓次再読6

  • 寺山修司私論6田中勲

    そら豆の殻一せいに鳴る夕べははにつんがるわれのソネット国土を蹴って駆けゆくラクビーのひとりのためにシャツを編む母と言った母についての少年時代の短歌は、すべて事実ではなかった。「私と母とは、私が小学生のとき生き別れになり、ついに一緒に暮らすことはなかった。したがって、母とのエッセイおすべて、は私の作りものである。」寺山修司はなぜありもしないことばかりかいてきたのか。寺山自身、母について書く度に「いつのまにか、勝手に筆がすすんでしまう」ということを奇異に思わぬわけにはいかなかった、と書いている。母を深く愛していた証しだろう。寺山は、「一度、自分の〈思い出を捏造する〉習癖を分析してみよう、と思い立った。それが、『田園に死す』の動機だというわけである。「未来の修正は出来ないが、過去の修正なら出来る、実際に怒らなかったこ...寺山修司私論6田中勲

  • 瀧口修造の美術評論について

    瀧口修造は戦後まもなく美術評論を再開。新人作家の支援にあけくれたり、五ヶ月間の渡欧旅行で、ダリ、デュシャン、ブルトンらに会う。ところで私には瀧口氏の履歴を読みながら、なぜ詩をかかなくなったのか。なぜ詩から遠ざかったのだろうという疑問がずっとあった。詩集では『寸秒夢』(思潮社刊、七五年二月)『三夢三話』(書肆山田刊、八〇年二月)が刊行されたが、書法も当然初期の詩とは違ったものであった。『三夢三話』のなかの最後の夢の中では、二十歳前に二度ほど黒部の上流の鐘釣あたりにきたことが書いてあるが、これもどこまでが事実かわからない。ただ、造形作家の戸村浩夫妻の最初の子供の名付け親になって「虹」となづけたが、区役所で「人名漢字」にないということで断られることから「虹の石または石の虹」という夢によって償われたという作者のおもいこ...瀧口修造の美術評論について

  • 寺山修司私論5田中勲

    寺山修司は他人からあれこれと批判されることが大嫌いなひとだったという。寺山修司は家族のことをよく書いている。寺山の父は警察官でアル中の対面恐怖症でどうしょうもない男だった。此も真実かどうかあいまいなのだが、「父は酔っては気持気が悪くなると、鉄道の線路まででかけていって嘔吐した。…私は車輪の下にへばりついて、遠い他国の町まではこばれていった「父の吐瀉物」を思い、なんだか胸が熱くなってくるのだった。」と書いている。このネット上の文章はまた「小学生担った頃、自分のへその緒をみせてもらった。貝殻のようなへその緒の入っている木の箱は、二月二十七日付けの朝日新聞につつまれていて、二・二六事件の記事のすぐその下には「誰でせう?」と大きな見出しの広告があり男装の麗人の写真が載っていた。二・二六事件の犯人は水の江滝子に間違いない...寺山修司私論5田中勲

  • 立原道造ノート③

    立原道造ノート(三)短歌から詩へ立原道造が短歌の道をすて口語自由律短歌をえらんだのはなぜか。彼の詩意識が、短歌形式そのものをのりこえて己表現をなしおえようとする方向にはすすまなかった、といえよう。短歌の季節から、やがて、ソネット形式の西洋詩を踏襲していくのだが、詩という形式上の移行というより言語規範の移行といってよいだろう。このことは郷原宏がその長編評論でさっらと述べている。つまり「文語定型という規範のかわりに口語自由律という規範を選らんのであって、古い形式を捨てたのでもなければ、新しい形式をつくりだしたのでもなかった。形式などというものは他者がつくればいいのであって、それは彼の仕事ではなかった。というより、他者が作った形式に寄りそって、その中で精いっぱい自己表現をはかることが、彼にとって唯一の表現形式だったの...立原道造ノート③

  • 中原中也ノート22

    名詞の扱ひにロジックを忘れた象徴さ俺の詩は宣言と作品との関係は有機的抽象と無機的具象との関係だ物質名詞と印象と関係だ。ダダ、つてんだよ木馬、つてんだ原始人のドモリ、でも好い歴史は材料にはなるさだが問題にはならぬさ此のダダイストには《以下省略》右のダダの詩は通常の言葉の理論など無視して無機的世界の永遠性を直感的な印象としてとらえればよいというのである。歴史的説明によって認識される世界とは本質的に違うという主張でもあった。中原中也ノート22

  • 中原中也ノート21

    恋いを知らない街上の笑ひ者なる爺やんは赤ちゃけた麦藁帽をアミダにかぶりハッハツハツ「夢魔」てことがあるものかその日蝶々の落ちるのを夕の風がみてゐました思ひのほかでありました恋だけは――恋だけは「想像力の悲歌」とだいされている。恋を知らない「笑ひ者なる爺やん」とからかわれているのは永井で、「蝶々」である泰子を手にいれた恋の勝利感を唄ったものか。併し二人の関係はそれほど安定したものではなく、泰子の元に撮影所関係の男が出入りし、中也は嫉妬に苦しめられることになる。「ノート1924」で恋愛詩よりも重要なものとして注意すべきは、ダダ主張を書きつけたと思われる幾編かの詩編がある。中原中也ノート21

  • 中原中也ノート⒛

    京都に来て、その年の暮れに、バイオリンを弾きながら全国を放浪していた永井伯叔に遭遇。中也から声をかけて下宿に招く。永井をきっかけに長谷川泰子に出合うわけだが二人の同棲生活が始まるのは大正十三年四月である。泰子は中也より三歳年長であり、当時マキノ・プロダクションの大部屋女優であった。広島女学校卒業、当時広島にいた永井に同行し女優になるため上京。併し関東大震災に遭い、永井と共に京都に移ってきていた。永井は余り詩史には現れることはないが、キリスト教的無政府主義系統の詩人でその頃は『大空詩人』と称し、マンドリンを弾きながら、あちこちの盛り場を流して歩く一種の名物男であった。(大岡昇平解説より)中也は前年の暮れ路上で永井を知り親しくなり、泰子を紹介されたという。中也からダダの詩の書きためたノートを見せられて、泰子は「ダダ...中原中也ノート⒛

  • 中原中也ノート19

    タバコとマントが恋をしたその筈だタバコとマントは同類でタバコが男でマントが女だ或時二人が投身心中したがマントは重いが風を含みタバコは細いが軽かったので崖の上から海面に到着するまでの時間が同じだつた神様がそれをみて全く相対界のノーマル事件だといつて天国でビラマイタ二人がそれをみてお互いの幸福であつたことを知つた時恋は永久に破れてしまつた。(「タバコとマントの恋」)({ダダ手帖}所収。*現存せず。川上徹太郎の著書に引用して残った詩。)後の手帖で注目したのは「恋の公開」{(恋の世界で人間は)」「(天才が一度恋をすると)」「幼き濃いの回顧など、恋愛詩が多いことである。中原中也ノート19

  • 中原中也ノート18

    帝都東京を中心とする文化が、関東大震災でいったん崩壊した。それまでの文壇で権力を持っていた人々も無名の若者たちも、瓦礫の上では横一線に並んだ風景を想像させてくるれるだろう。中原中也が「ダダ手帖」と読んでいたノートがあった筈だが(二冊)現存しない。だが京都時代の作と推定されている未発表小説「分からないもの」に「夏の晝」がまた川上徹太郎の評論{中原中也の手紙」(「文学界「昭和十三年十月号)に「たばことマントの恋」「ダダ音楽の歌詞」の二編が引用されている。ほかに中也の〝ダダ時代〟の詩編は「ノート1924」二八ページに残っている。ウハキはハミガキウハバミはウロコ太陽が落ちて太陽の世界が始つたテッポーは戸袋ヒョータンはキンチャク太陽が上つて夜の世界が始つたオハグロは妖怪下痢はトブロクレイメイと日暮が直径を描いてダダの世界...中原中也ノート18

  • 中原中也ノート17

    中也の「詩的履歴書」には「秋の暮れ寒い夜には丸太橋際の古本屋で『ダダイスト新吉の詩』を読む、中の数編に「感激」と書いている。高橋新吉の『ダダイスト新吉の詩』の「ダダイズム」とは第一次大戦渦中の一九一六年頃から戦後に架けて興った文芸運動で、それまでの価値観を覆す先鋭的な主張は、チューリッヒに端を発しヨーロッパの各都市とニューヨークに連鎖したとされている。「イズム」と名付けられているが主義主張があるわけではなく、芸術の側から既成の価値観を否定しようとした、いわゆる半芸術、半文学の表現運動ととらえる方がいいかもしれない。スイスのチューリッヒ、トリスタン・ツアラを中心とする前衛芸術家たちが幼児言葉の「dada」({お馬}を意味するフランス語)を発見し自分たちの言語破戒の表現運動の名称したもの。この表現運動は詩にだけでは...中原中也ノート17

  • 中原中也ノート16

    一ページを作品の引用に資したようだが、唯一の散文詩と言うことでゆるしていただきたい。それにしても今号は中也が大学に行くまでの作品の紹介におわりそうだが、むろん大方の批評は書かれおり目あたらしいものなどなにもないのだから、こうして京都で過ごした短い間の思い出を書いた作品を読み返す。新しい場所での学生生活が不安と希望に満ちていたことがよく分かる詩である。大正十二年九月一日、関東一円をマグ二チュウード七・九の激震が襲った関東大震災の日である。首都としての東京は横浜とともに壊滅的な打撃を受けた。首都東京が完全に回復するのは帝都復興祭(昭和五年)まで待たなくてはならない。中原中也は、当時京都の立命館中学の三年生。この震災には直接であってはいないが、この未曾有の大混乱である関東大震災は、当時十六歳の中也には大きな転機をもた...中原中也ノート16

  • 中原中也ノート15

    ゆきてかへらぬー京都ー僕は此の世の果てにゐた、日は温暖に降り酒ぎ、風は花々揺つてゐた。木橋の、誇りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を附けた乳母車、いつも街上に停つてゐた。住む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体ではないその蜜は、常常食すに適してゐた。たばこくらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけにぼくとしたことが、戸外でしかふかさなかつた。さてわが親しき所有物は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、布団ときたらば影だになく、歯刷子くらゐは持つてもゐたが、たつた一冊ある本は、中に何にも書いてはなく、時々手にとりその目方、たのしむだけのものだつた。女たちは、げに慕わしいのではあつた...中原中也ノート15

  • 中原中也ノート14

    中也が一九二二(大正十一)年、中学の先輩と防長新聞の若手記者との共著で合同歌集「末黒野」を刊行。ここには(初版本、部数二〇〇部、頒価二十銭。)中也が二年二学期から三学期にかけて制作した作品二八首を「温泉集」と題して収録する。学校の成績はすっかり落ちて、ついに山口中学三学年を落第という結果になるのだが。(一家が一時、騒然とし、やがて沈鬱になったと、弟がのちに述べている。)それでも落第した当人は「ひと月読んだらわかる教科書を、中学校というところは一年もかかって教える、そんなばからしい勉強はせん」といって学校へはいかないという、そんな中也に、父の謙助がもと家庭教師の京大生(井尻)に京都へ連れて行ってくれるように頼んだという。一九二三(大正十二)年四月、京都・立命館中学校に補欠合格、第三学年に編入が決まり、中也は山口を...中原中也ノート14

  • 中原中也ノート13

    さらに{防長新聞」短歌欄に掲載された歌をここに記していきたい。この頃はまだ定型とは出合っていなかった。三年後の定型詩と出合う前の短歌を拾い集めてみる。(およそ一九二十年から二十三年にかけての歌)子供心菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ小芸術家芸術を遊びごとだと思つているその心こそあはれなりけれ春の日心にもあらざることを人にいひ偽りて笑ふ友を哀れむ日去年今頃の歌一段と高きとこより凡人の愛みて嗤ふ我が悪魔心いずれの歌も中学生が自己の内面を見つめようと、真剣できまじめな姿がよみとれるであろう。晩年の詩《曇天》が発表されたのは昭和十一年七月。先にそれを書き写したい。ある朝僕は空の中に、黒い旗がはためくを見た。はたはたそれははためいてゐたが、音はきこえぬ高来がゆゑに。手繰り下ろうとぼくはしたが、...中原中也ノート13

  • 中原中也ノート12

    中也が三歳の記憶を二十代の終わりに書いているが、子供の頃は親の期待に応えようと、何でもよくやった優等生でそして早熟だったようだ。前回につづき子供の頃の中也について小学生の頃から中学生の頃について、みていくことにする。一九二〇(大正九)年、小学六年の時には雑誌や新聞に短歌を投稿。{婦人画報二月号)に次の歌を自薦として掲載。「筆捕りて手習いさせし我母は今は我より拙しと云ふ」。地元の「坊長新聞」二月十七日に短歌三首が掲載。しかし両親は中学入試の勉強に集中させる。中也は「大正四年のはじめの頃だったかおわりころであったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を唄ったのが抑抑(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。」と〈詩的履歴書〉に書いている。一九二〇...中原中也ノート12

  • 中原中也ノート⒒

    「私が金沢にゐいたのは大正元年の末から大正三年の春迄である。住んでいたのは野田寺町の照月寺(字は違ってゐるかも知れない)の真ン前、犀川に臨む庭に、大きな松の樹のある家であった。其の末の樹には、今は亡き弟と或る時叱られて吊り下げられたことがある。幹は太く、枝は拡がってゐたが、丈は高くない松だつた。」(中略)ーさらにつづける。「金沢に着いた夜は寒かった。駅から旅館までの俥の上で自分の息が見知らぬ町の暗闇の中に、白く立昇つたことを夢のやうに覚えている。翌日は父と弟と祖母とで、金沢の町を見て廻つた。威勢よく流れる小川だけがその日の記憶として残っている。十日ばかりして家が決まると旅館を出てその方へ超した。それが野田寺町の先刻云つた家であつた。夕方弟と二人で近所の子供があつまつて遊んでいる寺の庭に行つた。却却みんなちかづか...中原中也ノート⒒

  • 中原中也ノート⒑

    中也のふるさとは古くから温泉地としられている山口の湯田である。医院であった中也の生家は現在後をとどめていない。生家があったところに近い井上公園には詩碑が建っている小林秀雄の筆によって中也の詩「帰郷」からとった詩句がきざまれている。私は二十数年前に一度ある研修会で当地を訪れそれを拝見した。当時はさっととおりすぎただけだった気がする。これが私の古里ださやかに風も吹いているあゝおまへはなにをして来たのだと吹き来る風がわたしにいふ原詩は昭和五年の「するや」第五集と昭和七月の「四季」第二刷とに二度発表され、詩集『山羊の歌』の「初期詩編」に収められている作品だが、四節十四行の後半部分によっている。「さやかに風も吹いている」の次に「心置くなく泣かれよと/年増婦の低い声もする」の二行があるが、小林の配慮だろうか、削除されている...中原中也ノート⒑

  • 中原中也ノート8

    中也は、生まれて半年後には旅順に渡り柳樹屯へ移っ後、山口に半年ほどいて広島へ行く。二歳になるすこし前のことである。軍医である父謙助は広島の病院付きになったからである。「その年の暮れの頃よりのこと大概記憶す」と後年語っている。記憶力のいい人だと思うが、先に記した詩編では、「なんだか怖かったと」当時を振り返っている。一九一一(明治四十四)年四歳、で広島の女学校付属幼稚園(現広島女学院ゲーンズ幼稚園)に入園。「幼稚園では、中也はみんなから好かれたようです」と母フクは語っている。翌年、父健助の転任によって金沢にひっこすことになったとき、幼稚園で別れを惜しみ、先生や友達とともに泣いたという感受性の強い子だったのだろう。金沢に向かう途中汽車のなかでも「広島の幼稚園は良かったね」と中也は母フクに語っている。「あのころ、中也は...中原中也ノート8

  • 現代詩「泥む、脳髄」(ナズム、ノウズイ)

    泥む、脳髄ー入江まで(ナズム、ノウズイ)……許せないことがある許すべきだという人がいて不遜の傷みに強靱な憤りは抑えがきかない夢なら時またずして醒めるはずが喉の奥深く滞留し泥む、脳髄がある……入江のひと(たち)よその苦悶を代弁するのではないが許せざるものの根拠は排砂の滞積によるものかどうかおそらく比類のないダムの死に水の答えなき循環性にも泥む、魚群の屍があるというのか渚にしかしそれでもうさん臭い異界からの漂流物は椰子の実ばかりではない洗剤用のポリの容器にバケツすり減った歯ブラシや破れたポーチ必死で脱出する意志を波打ち際にひけらかされ男はひとりあてない海沿いの仮定空間という波間の霧ふかい夢隣りを走ってみることは愚の骨頂なんだとまるで行旅死亡人になりそこなって惜しまれるばかりの夜行列車「北陸」や「能登」号が急に冥土に...現代詩「泥む、脳髄」(ナズム、ノウズイ)

  • 詩集の表紙に使えそうなので、

    群星の写真です。詩集のタイトルにつかえそうなので取り出しました。詩集の表紙に使えそうなので、

  • 伊東静雄ノートⅡ-2

    「伊東君の抒情詩には、もはや青春の悦びは何処にもない。たしかにそこには藤村氏を思わせるやうな若さとリリシズムが流れて居る。だがその『若さ』は春の野に萌へる草のうららかな若さではなく地下に堅く踏みつけられ、ねじ曲げられ、岩石の間に芽を吹かうとして、痛手に傷つき歪められた若さである。……これは残忍な恋愛詩である。なぜなら彼は、その恋のイメージと郷愁とを氷の彫刻する岩石の中に氷結させ、いつも冷たい孤独の場所で、死の墓のやうに考え込んで居るからである。」この、詩評をてがかりのように、原田憲雄は「伊東静雄私記」のなかで、「冷たい場所で」にうたわれている〈昔のひと〉とは藤村であるという独自の視点を展開した。(このことをはじめてしったのは、「詩人伊東静雄」小高根次郎〈新潮選書)によるものであることを記しておかなければならない...伊東静雄ノートⅡ-2

  • 伊東静雄ノートⅡ-1

    「彼は詩集を出す時、いつも題名に非常に苦心するのが常だった。『夏草』のもとの名は「朝顔・その他」だし、河出書房の現代詩人全集に入れる時、考えた名は「光耀」「拒絶」「夜の葦」である。」と、述べているのは富士正晴である。伊東のよき理解者でもあった富士氏が簡単な年譜を書いている。ここで写しておきたい。伊東静雄は明治三九年一二月一〇日長崎県の諫早に生まれ、昭和二八年三月十二日国立大阪病院長野分院で死亡した。その著書は詩集『わが人に与ふる哀歌』(昭和一〇年一〇月コギト発行所)詩集『夏草』(昭和十五年三月子文書房)詩集『春のいそぎ』(昭和十八年九月弘文堂書房)詩集『反響』(昭和二二年一一月創元社)以上が生前、そして生前に出るようにと思ってはいたが、彼の死が先立ったものに『伊東静雄詩集』(昭和二八年七月創元社))これですべて...伊東静雄ノートⅡ-1

  • 立原道造ノート②

    立原道造ノート(二)習作期の短歌のころ立原道造が四季派の詩人と喚ばれることもあるがこの系統は、鮎川信夫によれば「永年にわたり伝統詩によってつちかわれた私的情操を基底としたものだが、本質的な隠遁主義だとおもう。」隠遁というのは俗世界から逃れるという意味もあるのだろうが、「なるべく『人間臭くない』方向、あるいは『人工的文明から少しでも遠ざかった』方向へと向かっていこうとする傾きがみられる。」ということだが、一般にいわれる詩の純粋性の譬えか、それとも時代の風の影響によるものだったのだろうか。ここに四季派といわれた詩人の作品をならべてみる。この詩に至るまでの立原道造の詩的出発が短歌であったことからはじめたい。あはれな僕の魂よおそい秋の午後には行くがいい建築と建築とがさびしい影を曳いていゐる人どほりのすくない裏道を〈立原...立原道造ノート②

  • 立原道造ノ-ト①

    再掲になります。(以前に投稿した文章です。)立原道造の詩に初めてふれたときに感じた「哀切」なもの。その裏側には滅びの予感が漂っていて、死のにおいに敏感な若い頃は、一時夢中で読みながらもいつしか離れていった。時間に縛られた読者の身勝手さは誰にも咎める事は出来ないが、あらためて詩集を読んでみることはけっして無駄な行為ではないだろう。あの頃には感じなかった詩の裏側にはりついている死のにおいや残酷な生の苦悩について、ここで見つめ直してみたいと思う。それは一編の詩のまえで立ちすくんだかつての不本意な意志が重なり合って囚われるものかげであれ、いつかは消えゆく儚い現象のものかげであれ、その喪失の輪郭を抱きしめるというのではない、しかし、夭折した詩人の短期間に開花したまぶしい光芒を感じるとき、己の失った若さをいとおしむこともあ...立原道造ノ-ト①

  • 上村萍論(詩集「野がかすむころ」)①

    上村萍と『野がかすむころ』(1)高島順吾の前衛詩誌「骨の火」は富山県下の若い詩人をあっという間に火につつんだ。はじめは故里保養園(国立療養所)から上村萍が「SEIN」を創刊。ついで石動町(現小矢部市)の埴野吉郎が「謝肉祭」を、魚津の島崎和敏が「BUBU]を、滑川町(現滑川市)から神保恵介が「ガラスの灰」を続いて発刊する。後に、上村、埴野、神保は「VOU」に入る。中でも著しい活動を展開したのが、上村萍(1928ー1975)であった。上村は下新川郡山崎村(現朝日町)の生まれで父は医師。上村は武道専門学校に学ぶ。昭和24年に胸を患い国立療養所の故里保養園にはいり、そこの文芸サークルに関わり、詩誌「三角座「SEIN」などを主宰する。そのあとはデザインの仕事に就きながら詩活動を展開する。昭和37年富山県現代詩人会が発足す...上村萍論(詩集「野がかすむころ」)①

  • 山村暮鳥の初期詩編をめぐって④

    明治四十二年に自由詩社から「自然と印象」が創刊。人見東明の「酒場と夢見る女」が発表され、その第九号には暮鳥の作品が掲載されている。福田夕咲「春の午後」、今井博楊「Deatyonly日の歿しゆく時」にならんで、暮鳥の「航海の前夜」の総タイトルのもと四編の詩が掲載されている。そのうちの二編を次に掲げる。鉛の如(やう)に重く、ゆく方無き夕べの底。織りは大(おほひ)なる悲哀に飛廻り、さ迷ふ。三階の窓よりsよおまえの胸にもたれて滅びゆく日のかがやきを見た。五月、その五月の青い夕べしずかに静かに黄昏れゆく。(「病めるsに」部分)秋風よ、わが師のためにその弾奏の手を止め。聴くに堪へざる汝の悲しい恋歌見よ、野の鳥の歓楽を泪ぐませほろほろと夢より憂愁の落葉をすべるさては悲しいわが秋風よ。ああ、やせ衰ふけれども心あるものに弾奏の音...山村暮鳥の初期詩編をめぐって④

  • 山村暮鳥③ー初期詩編まで

    山村暮鳥が群馬での生活を離れて東京築地聖三一神学校に入学したのは明治三十六年。入学の経緯については曖昧ながら、親しかったウオールの世話であったようだ。本人の「半面自伝」によれば「(進学校に入るまで)に自殺を図ること前後三回。学校では乾燥無味なギリシャ、ヘブライの古語学より寧ろ文学の方面により多くの生けるものを感じ、その研究に傾いた。」と述べている。暮鳥は明治三十七年に岩野泡明、前田林外、相馬御風が創刊した短歌雑誌「白百合」に短歌を発表。これが文学活動の第一歩をしるすことになる。当時は木暮流星の筆名で掲載していた。その作品を右に記してみる。さらば君白衣さきてわれゆかん野にはいなごの餓のあるまじ名は知らず柩かく人髪白く泣く子にしむき竹の杖とるうけたまへわが霊神よかへしまつる落穂に足らふ鳥もある世ぞ秋が乗る天馬にやら...山村暮鳥③ー初期詩編まで

  • 伊東静雄ノート2

    「発想は暑く烈しく無ければなりませんが表現においては沈着暢達でなければいけないと思います。〈略〉私自身『わがひとに与ふる哀歌』から『春のいそぎ』へたどった道を思い浮べ個性の宿命といふのを不思議なものに思っております。「読書新聞」というのに『春のいそぎ』を評して「作者の温厚篤実な人柄のままにうたはれた云々」とありましたが、哀歌の当時誰が渡しを温厚篤実だなどと評しましたらう。〈略〉」これは戦争も敗色の濃い真木昭和十九年に、伊東を私淑している一女性に当てた詩集のお礼と思われる手紙の一部分である。ここでかれは発想を語り、その詩業をかえりみている。詩的出発は伊東のことば通りであろう。たしかに熱く烈しかったが、晩年にちかづくにつれてれて沈着暢達へと深く沈んだ表現をとった。というよりも、たぶんとらざるを得なくなってしまってい...伊東静雄ノート2

  • 伊東静雄ノート①

    今日から伊東静雄について連載になりますが始めます。よろしくご愛読ください。伊東静雄の詩業が近代詩の流れの中でどのような位置におかれているのか、について私はしらない。で、始まるかなり古い文章(一九七九年三月発行・「ルパン詩通信」)がみつかったので、今回はそれをここに書き移したいとおもう。今年になって書いた詩人論で山村暮鳥①②、立原道造①~④、大手拓次①、の小さな論文に比べて、少し言葉も古いが、それほど考えは変わっていないようにも思えるので、あえて書きうつそうとおもう。そのまえに次の詩についてここに挿入しておきたい。堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。この水中花はわたしも夜店で見た記憶がぼんやり浮かんでくる。このことに関して菅谷規矩雄は「わが国の近代における「市井の詩」のさいごの残照でもあるだろう。伊東静雄が水中...伊東静雄ノート①

  • 中原中也ノート13

    前回は一ページを作品の引用に資したようだが、唯一の散文詩と言うことでゆるしていただきたい。それにしても今号は中也が大学に行くまでの作品の紹介におわりそうだが、むろん大方の批評は書かれおり目あたらしいものなどなにもないのだから、こうして京都で過ごした短い間の思い出を書いた作品を読み返す。新しい場所での学生生活が不安と希望に満ちていたことがよく分かる詩である。大正十二年九月一日、関東一円をマグ二チュウード七・九の激震が襲った関東大震災の日である。首都としての東京は横浜とともに壊滅的な打撃を受けた。首都東京が完全に回復するのは帝都復興祭(昭和五年)まで待たなくてはならない。中原中也は、当時京都の立命館中学の三年生。この震災には直接であってはいないが、この未曾有の大混乱である関東大震災は、当時十六歳の中也には大きな転機...中原中也ノート13

  • 中原中也ノート11

    さらに{防長新聞」短歌欄に掲載された歌をここに記していきたい。この頃はまだ定型とは出合っていなかった。三年後の定型詩と出合う前の短歌を拾い集めてみる。(およそ一九二十年から二十三年にかけての歌)子供心菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ小芸術家芸術を遊びごとだと思つているその心こそあはれなりけれ春の日心にもあらざることを人にいひ偽りて笑ふ友を哀れむ日去年今頃の歌一段と高きとこより凡人の愛みて嗤ふ我が悪魔心いずれの歌も中学生が自己の内面を見つめようと、真剣できまじめな姿がよみとれるであろう。晩年の詩《曇天》が発表されたのは昭和十一年七月。先にそれを書き写したい。ある朝僕は空の中に、黒い旗がはためくを見た。はたはたそれははためいてゐたが、音はきこえぬ高来がゆゑに。手繰り下ろうとぼくはしたが、...中原中也ノート11

  • 中原中也ノート⒑

    中也が三歳の記憶を二十代の終わりに書いているが、子供の頃は親の期待に応えようと、何でもよくやった優等生でそして早熟だったようだ。前回につづき子供の頃の中也について小学生の頃から中学生の頃について、みていくことにする。一九二〇(大正九)年、小学六年の時には雑誌や新聞に短歌を投稿。{婦人画報二月号)に次の歌を自薦として掲載。「筆捕りて手習いさせし我母は今は我より拙しと云ふ」。地元の「坊長新聞」二月十七日に短歌三首が掲載。しかし両親は中学入試の勉強に集中させる。中也は「大正四年のはじめの頃だったかおわりころであったか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を唄ったのが抑抑(そもそも)の最初である。学校の読本の、正行が御暇乞の所「今一度天顔を拝し奉りて」といふのがヒントをなした。」と〈詩的履歴書〉に書いている。一九二〇...中原中也ノート⒑

  • 中原中也ノート9

    これが私の古里ださやかに風も吹いているあゝおまへはなにをして来たのだと吹き来る風がわたしにいふ原詩は昭和五年の「するや」第五集と昭和七月の{四季」第二刷とに二度発表され、詩集『山羊の歌』の{初期詩編」に収められている作品だが、四節十四行の後半部分によっている。「さやかに風も吹いている」の次に「心置くなく泣かれよと/年増婦の低い声もする」の二行があるが、小林の配慮だろうか、削除されている。古里のさわやかな風を唄い、後の二行では東京での無為無頼の生活を自責する可のようにつらい思いを風にたくしている。いま、私が中也ノートをつづっているのも、別段新しい発見や多くの著書に対する個人的な主張があるというわけでもない。学生の頃に近代詩を読むようになってから中也を知ったのだから、その魅力に引かれたのは年齢的にもおそい方なのかも...中原中也ノート9

  • 中原中也ノート8

    ここに「一つの境涯」の抜粋をかきうつしていきたい。一つの境涯=世の母びと達に捧ぐ==寒い、乾燥した砂混じりの風が吹いている。湾も港市――其の家々も、ただ一様にドス黒く見えてゐる。沖は、あまりに希薄に見える其処では何もかもが、たちどころに発散してしまふやうに思はれる。その沖の可なり此方と思はれるあたりに、海の中からマストがのぞいてゐる。そのマストは黒い、それも煤煙のやうに黒い、――黒い、黒い、黒い……それこそはあの有名な旅順閉塞隊が、沈めた船のマストなのである。(中略)つまり私は当時猶赤ン坊であつた。私の此の眼も、慥かにに一度は、其のマストを映したことであったろうが、もとより記憶してゐる由もない。それなのに何時も私の心にはキチッと決つた風景が浮かぶところをみれば、或ひは潜在記憶とでもいふものがあつて、それが然らし...中原中也ノート8

  • 中原中也ノート7

    このノートでは中原中也の晩年から(千葉寺の入院)書きはじめたので(①、②で)あらためて幼い頃の記憶をもとに書かれたという詩等と生い立ちについてみてゆきたいと思う。数え年満二歳で山口に居た頃の中也は「その年の暮れ頃よりのこと大概記憶ス」と、自身で記してもいるのだが、中原家の中庭には大きな柿の木があったという。先の詩の「三歳の記憶」の初出は{文芸汎論」一九三六(昭和十一)年六月号。たぶん二九歳頃の作と推定される。三歳の記憶縁側に陽があたつてて、樹脂が五彩に眠る時、柿の木いっぽんある中庭は、土は枇杷いろはえが唸(な)く稚厠の上に抱えられてた、すると尻から蛔虫(むし)が下がった。その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので、動くので、私は驚愕(びっくり)しちまった。あゝあ、ほんとに怖かったなんだか不思議に怖かった、それでわたしはひ...中原中也ノート7

  • 中原中也ノート6

    雨がふるぞえー病棟挽歌雨が、降るぞえ、雨が、降る。今宵は、雨が、降るぞえ、な。俺はかうして、病院に、しがねえ暮らしをしては、ゐる。雨が、降るぞえ、雨が、降る。今宵は、雨が、降るぞえ、な。らんたら、らららら、らららら、ら今宵は、雨が、降るぞえ、な。人の、声さえ、もうしない。まくらくらの、冬の、宵。隣の、牛も、もう寝たか。ちつとも、藁のさ、音もせぬ。と、何号かの病室で、硝子戸、開ける、音が、する。空気を、換へると、いふぢやんか。それとも、庭でも、見るぢやんか。いや、そんなこと、分るけえ。いづれ、侘しい、患者の、こと、ただ、気まぐれと、いはば気まぐれ、庭でも、見ると、いはばいふまで。たんたら、らららら、雨が、降る。たんたら、らららら、雨が、降る。牛も、寝たよな、病院の、宵、たんたら、らららら、雨が、降る。(了)中也は...中原中也ノート6

  • 中原中也ノート5

    自戒(戒律ヺ守ル)五悪十悪十前の戒律身・口・意二悪ガアル身(折衝、偸盗、邪淫)口(悪口、両下、綺語、妄語)意(食欲、䐜恚、愚痴)精神衰弱の治療方の一環なのだろうが私にはまったく意味がわからない。どんな効果があって筆記させるのかも。だから中也はどんな思いでノートにかきうつしていたんだろうとおもう。「雑記」には中也自身によって病因を分析し、報告する形をとっている。*中也が三十歳の若さでなくなるのだが生前と死後に出版された詩集が二冊あるだけだが、どうしてこんなに昭和詩人の中では一流の抒情詩人と評価され読み継がれているのだろうか。私の単純な疑問は鮎川信夫の文章で(「日本の叙情詩」)でおおよそ納得できた。「『先日、中原中也が死んだ。夭折した彼が一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬...中原中也ノート5

  • 中原中也ノート4

    前略、ご無沙汰しました實は最後におあいしたましたあと神経衰弱はだんだん昴じ、「一寸診察して貰ひにゆかう」といひますので従いてゆきました所、入院しなければならぬといふので、病室に連れてゆかれることと思ひて看護人に従いてゆきますと,ガチャンと鍵をかけられ、そしてそこにゐるのは見るからに狂人である御連中なのです。頭ばかり洗ってゐるものもゐれば,終日呟いているものもゐれば、夜通し泣いてゐるものも笑っているものもゐるといふ風です。ーーそこで僕は先づとんだ誤診をされたものと思ひました。子供を亡くした矢先であり、うちの者と離れた、それら狂人の中にゐることはやりきれないことでした。{四月六日安原喜弘への書簡)中也が千葉寺療養所に入院したのは一月七日。千葉県にある中村古峡療養所であった。友人の安原に差し出した手紙からは精神病とは...中原中也ノート4

  • 伊東静雄ノート5

    私が愛しそのために私につらいひとに太陽が幸福にする未知の野の彼方を信ぜしめよそして真白い花を私の憩いに咲かしめよ昔のひとの堪え難く望郷の歌であゆみすぎた荒々しい冷たいこの岩石の場所にこそ(「冷たい場所で」全行)みぎの「冷たい場所で」は、「わがひとに与ふる哀歌」のすぐ後に書かれた作品である。「曠野の歌」までは、すこし距離があり、詩臭『哀歌』の中では、かなり異質な作品であるといえる。太陽は美しく輝きあるひは太陽の美しく輝くことを希ひ手をかたくくみあはせしづかに私たちは歩いて行った(「わがひとに与ふる哀歌」部分)「わがひとに与ふる哀歌」の相愛の仮構の作品とくらべるまでもなく「冷たい場所では一転して愛するもののための自己犠牲を、それは片恋の真実を提示するかのように歌っているここでは愛の苦行のように冷たい岩石の場所に自ら...伊東静雄ノート5

  • 伊東静雄ノート4

    いかなれば今歳の盛夏のかがらきもうちにありて、なほきみが魂にこぞの夏の日のひかりのみあざやかなる。夏をうたはんとては殊更に晩夏の朝かげとゆふべの木末をえらぶかの蜩の哀音を、いかなればかくもきみが歌はひびかする。いかなれば葉広き夏の蔓草のはなを愛して會てそをきみの蒔かざる。會て飾らざる水中花と養はざる金魚をきみの愛するはいかに。(「いかなれば」全行)「いかなれば」という詩にも仮定の以外の負性のようなものを感じられるだろうか。そしてそれは日本の近代詩が負性のようにかかえている,言い換えれば詩人を取り巻く宿命のようなものの側面を時代的にとらえているものではないかと思えてしかたがない。いま伊東のやってくるまでの詩人に思いをいたしてみよう。伊東以前の詩人自らがその思想を詩のなかで表現というよりも、そこには時代的な大きな壁...伊東静雄ノート4

  • 伊東静雄ノート3

    川村二郎はあるところで、なぜ伊東静雄に惹かれたかと云えば認識を追求する詩人という印象が、認識を追い求めるというその姿勢によってだと語っていたのを読んだ記憶がある。伊東静雄ほど鋭い形では現れているものがほかに見当たらなかったということらしかった。いづれにしろ『哀歌では』〈意識の暗黒部との必死な戦い〉によって、かれの〈個性〉が現実と激しく切り結ぶところに拠ってあったが、『春のいそぎ』の〈平明な思案〉は現実とほぼ重なり合ってしまうのである。〈あゝわれら自ら孤寂なる発光体なり!〉の純白の世界へはもはや帰れないのでありあまりにもみじかい期間をはげしく燃焼しつくしたその一瞬の光芒のような〈個性〉のうちに、抒情詩の成立する根拠を問うことができるかもしれない。いま、伊東の熱く烈しく燃焼させた表現主体の根拠とはどこに求められたの...伊東静雄ノート3

  • 伊東静雄ノート②

    伊東静雄の詩集は『わがひとに与ふる哀歌』と『夏花』のうちの数編を頂点とし、戦争詩とみなされる七編の作品を含む『春のいそぎ』を詩的達成とは別に、底辺に置くとするおおかたの評言に異論はないとおもう。およそ昭和七年から一八年に至るその間の三つに詩集は、ゆうまでもなく戦争期と重なっており、その時代の精神の刻印を明瞭に認めることができる。伊東のことばでいえば〈意識の暗黒部との必死な格闘〉により一時代の抒情詩の可能性を極限へとのぼりつめたといっていい、そのゆるぎない諦念(=凝視)と情念(=拒絶)を貫く抒情への意志(=表現)によって、近代詩以降の日本の抒情詩に不滅の痕跡を残しているとも言い換えうる。わが死せむ美しき日のために連嶺の夢想よ!汝が白雪を消さずあれにはじまり緊迫して機密度の高さで〈わが痛き夢〉をひとすじに歌い上げた...伊東静雄ノート②

  • 伊東静雄ノート①

    伊東静雄ノート①伊東静雄の詩業が近代詩の流れの中でどのような位置におかれているのか、について私はしらない。で、始まるかなり古い文章(一九七九年三月発行・「ルパン詩通信」)がみつかったので、今回はそれをここに書き移したいとおもう。今年になって書いた詩人論で山村暮鳥①②、立原道造①~④、大手拓次①、の小さな論文に比べて、少し言葉も古いが、それほど考えは変わっていないようにも思えるので、あえて書きうつそうとおもう。そのまえに次の詩についてここに挿入しておきたい。堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。この水中花はわたしも夜店で見た記憶がぼんやり浮かんでくる。このことに関して菅谷規矩雄は「わが国の近代における「市井の詩」のさいごの残照でもあるだろう。伊東静雄が水中花に眼をとめたことは、ひとつには全く彼の個性的な必然であっ...伊東静雄ノート①

  • 中原中也ノート3

    前略、ご無沙汰しました實は最後におあいしたましたあと神経衰弱はだんだん昴じ、「一寸診察して貰ひにゆかう」といひますので従いてゆきました所、入院しなければならぬといふので、病室に連れてゆかれることと思ひて看護人に従いてゆきますと,ガチャンと鍵をかけられ、そしてそこにゐるのは見るからに狂人である御連中なのです。頭ばかり洗ってゐるものもゐれば,終日呟いているものもゐれば、夜通し泣いてゐるものも笑っているものもゐるといふ風です。ーーそこで僕は先づとんだ誤診をされたものと思ひました。子供を亡くした矢先であり、うちの者と離れた、それら狂人の中にゐることはやりきれないことでした。{四月六日安原喜弘への書簡)中也が千葉寺療養所に入院したのは一月七日。千葉県にある中村古峡療養所であった。友人の安原に差し出した手紙からは精神病とは...中原中也ノート3

  • 現代詩「水月」

    *今日は詩集にも収めた「水月」を掲載します。水月水に映る透明な真夜中の月影は見えるのではなく感じるだけやぶれかぶれの感情を引き延ばし揺れて、ちぎれて半透明のくらげのいのちをみすかすかのように世界滅亡を叫ぶ予言者が降ってでるから迷惑な植民地のひとびとは遙か遠く想像だけの水の中月影に揺れる逃走や闘争の無駄な氾濫にしったかぶりの心痛は恥の上塗りにちがないけれど生きるが勝ち夕べみた夢からのがれられず揺れて、よじれて水底に眠る小石などを砕き舞い上がる白い煙と月影に曇る思案がおよそ礼儀知らずのまだ青く不機嫌な坂の上の果実におびえている現代詩「水月」

  • 中原中也ノート②

    中也が三十歳の若さでなくなるのだが生前と死後に出版された詩集が二冊あるだけだが、どうしてこんなに昭和詩人の中では一流の抒情詩人と評価され読み継がれているのだろうか。私の単純な疑問は鮎川信夫の文章で(「日本の叙情詩」)でおおよそ納得できた。中也が三十歳の若さでなくなるのだが生前と死後に出版された詩集が二冊あるだけだが、どうしてこんなに昭和詩人の中では一流の抒情詩人と評価され読み継がれているのだろうか。私の単純な疑問は鮎川信夫の文章で(「日本の叙情詩」)でおおよそ納得できた。「『先日、中原中也が死んだ。夭折した彼が一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもからいろいろなことを言われ乍ら、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。(後略)』と小林秀雄は中也が死んだときに書いていま...中原中也ノート②

  • 中原中也ノート①

    ①千葉寺での詩作など中原中也が二度目の精神衰弱が起きるのは昭和十一年である。太宰治がバビナール中毒により東京武蔵野病因に収容されたのが同年の十月、その翌月の十一日に、溺愛していた文也が小児結核で急死。やっと築きかけた幸せな生活が崩れ去る。文也の遺体は中也が離さず、上京した母フクに説得されてやっと棺にいれたという。しかし元の生活は望むべきもなかったようだ。彼は文也の死後、一日に何回ものその霊前に座ったが,口からしばしば「正行」の名が漏れるの家族は聞いている。〈略〉弟亜郎への追悼と文也へのそれが二重写しになり,時空の混乱が生じたのである。「御稜威を否定したのは悪かった」いいながら叩頭を繰り返すようになった(時代は天皇の権威の増大と、戦争に向かいつつあった)。そのために文也が死んだ、という自責が生まれる。二階の座敷に...中原中也ノート①

  • 寺山修司私論④

    寺山修司が短歌の世界で精力的に活動したのは『チェホフ祭』でのデビューからの十年あまり、ほとんど三十歳までのあいだということになる。なぜ寺山は歌を捨てて二度と帰ることはなかったのだろう。歌の世界で、寺山修司が打ち出したのはわたしのことばにかえていえば歌の「仮装する私の世界」或いは寺山が言う「メタフィジックな私」を、わが国の短歌界では異端されつづけられて、たぶん寺山の世界観を認める者がいなかったということになるおのだろうか。おそらくそのことが寺山修司を短歌から手を引かせたことのひとつの要因だったのではないか。それともそんな単純なものではなかったのだろうか。本人の不在ないまそれを問うことは出来ないが、短歌から興味が消え失せていったのは、「私とは何か」という唯一の問いを短歌以外に向けていったのだというほかない。そうであ...寺山修司私論④

  • 寺山修司私論③

    寺山修司は二十九歳の時生い立ちの悪夢を永い叙事詩にまとめた。{地獄変と題したこの作品は、ほぼ二年がかりで四千行を超えるものになって、短歌の部分だけはまとめ歌集「田園に死す」として出版。詩の部分は再度整理しこの仕事にのめり込むことになる。三十才の時には次のような詩を書いた。血が冷たい鉄道ならば/はしり抜けてゆく汽車はいつかは心臓をとおることだろう。同じ時代の誰かれが/血を穿つさびしいひびきをあとにして/私はクリフォード・ブラウンの旅行案内の/最後のページをめくる男だ/私の心臓の荒野をめざして/たったレコード一枚分の永いお別れもま/いいではにですか/自意識過剰な頭痛の霧のなかをまっしぐらに/曲の名はTaketheA-train/そうだA列車で行こうそれがだめだったらはしってゆこうよ寺山修司が死の前年「朝日新聞」に発...寺山修司私論③

  • 寺山修司私論②

    寺山修司の歌集からの連想が〈非在のふるさと〉に思いを馳せることになる。寺山修司は「私は一九三八年十二月十日に青森県の北海岸の小駅で生まれる。しかし戸籍上では翌三六年一月十日に生まれたことになっている。」(「汽笛」)と書いているが、信じていいかどうかわたしの疑いははれていない。この二つの誕生日をあちこちで書いていてどれが本当なのかわからない。そのうえくりかえし書きつづる「少年時代」を読むたびに当時はとまどっていたが、嘘も真実の一部だと思い知るまでもなく、またたくまに映画や演劇、「天井桟敷」など、寺山修司の疾風怒濤の時代の波にまかれていたのではないかと思う。寺山修司は新宿の「きーよ」(ジャズ喫茶)によく行っていたというが私は新宿でも「汀」が多かったので出合うことがなかった。残念な気がするが、いや、どこかで出合ってい...寺山修司私論②

  • 再び、寺山修司私論 ①

    (一)寺山修司が出現する一九五四年までの歌壇は、「沈滞を進化と勘違いするほどに長老が絶対権を持った部落であった。」と言う中井英夫が見いだした寺山修司の出現は「まさに青春の香気とはこれだといわんばかりにアフロディテめく奇蹟の生誕であった」といわしめている。それからの四十七才でこの世を去るまでは、まるで約束されたような病身でありながらの孤独のランナーとして、俳句、短歌、現代詩をはじめ、映画、演劇、ときに競馬、ボクシング、そして「天井桟敷」とあらゆる文化芸術を網羅するようにサブカルの世界もつきぬけていった一瞬の偉大な旋風であったといいかえてもいいだろうか。十二、三歳で俳句を作りその後、短歌へとすすんだ寺山修司の才能の開花はそれを発掘したという中井英夫の力ばかりとはいえない気がしてくるだろう。森駆けてきてほてりたるわが...再び、寺山修司私論①

  • 山村暮鳥の初期詩編をめぐて②

    暮鳥の詩論である「言葉に非ず、形象である。それが真の詩である。」を引用しながら朔太郎はそこに疑問を呈している。「私はこの説似たいしては七分通り賛成三分透り反対である。」と暮鳥の詩論が進みすぎているということに賛意を保留したとみた方がいいようである。「最もよく詩の特質を発揮した詩編」として「だんす」を揚げて、その詩について読みを試みている。あらしあらししだれやなぎに光あれあかんぼのへその芽水銀歇私的利亜はるきたりあしうらぞあらしをまろめ愛のさもわるに烏龍茶っをかなしましむるかあらしは天に蹴上げられ(「だんす」全行)なんとなく優雅な姿態を駆使した若い女性の軽快な舞踏の場面を想像させるが、この作品については朔太郎の懇切丁寧な解説にあたっていただく方がいかもしれない。よく知られている詩としては、「風景純銀もざいく」があ...山村暮鳥の初期詩編をめぐて②

  • 山村暮鳥の初期詩編をめぐって

    *この文章はもう五年ぐらい前に書いた文章です。きっと堅くてよみずらいと思いますが、よろしくご判読ください。又連載になりますが、引き続け宜しくお願いします。山村暮鳥が、萩原朔太郎、室生犀星と「人形詩社」を設立したのは大正六年三月のこと。『文章世界』の紹介によると、「人魚詩社」は「詩、宗教、音楽の研究を目的」としていた。暮鳥が、朔太郎、犀星との詩の世界でむすばれていたのは北原白秋への敬慕ということからでもあって、お互いの作品を認めあっていた。のちに暮鳥の詩第二詩集『聖三両稜玻璃』が当時金澤の室生犀星の所から「人漁詩社」として発行される。http://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/#私はこの三人詩人の出会いに不思議な命運というものを感じてしまう。言葉が連想をあおるからか、想像的な誤解さえ...山村暮鳥の初期詩編をめぐって

  • 大手拓次再読5

    大手拓次の作品は詩集として四冊を数えるのみであったが、いずれも彼の死後に友人の逸見亨によってあまれたもので、生前に発刊された詩集は一冊もない。昭和和十一年に『藍色の蟇』{アルス社)。昭和十五年に詩画集『蛇の花嫁』(竜星閣)。昭和十六年に訳詩集『異国の春』(竜星閣)。昭和十八年『詩と日記と手紙』{竜星閣})。以上であったが、昭和四十六年に白鳳社版『大手拓次全集、別冊一巻』にまとめられ、ようやくここにその全貌を見ることができるようになった。明治四十年、早稲田大学予科時代から死の寸前までのおよそ二十七年間{作品数、二三七九遍)に及ぶ作品を網羅している。この全集に拠れば、大手拓次の最初の作品は河合酔名主宰の詩誌『詩人』に掲載された「昔の恋」である。昔の恋わが胸のにしきの小はこ。そと開くさみだれのまど。朧(おぼろ)なると...大手拓次再読5

  • 大手拓次再読4

    二冊目に出版された詩集『蛇の花嫁』の「まえがき」は、詩的想像力によって自らが救われてきたことを意識するかのように書いている。「この苦闘の縁にありて吾を救ふは何者にもあらず。みずからを削る詩の技なり。さればわが詩はわれを永遠の彼方へ送りゆく柩車のきしりならむ。よしさらば、われこの思ひのなかに命を絶たむ」と、記している。大手拓次が詩を書き続けることの苦しい胸の内をあからさまに語ったと受け止めるには、保留したい。というのもこの「まえがき」は、編集者の手によるものだから、その詩作の苦労を伝えるためにのみその役割を果たさせる為であるといえるのではないか。なにかしらとほくにあるもののすがたをひるもゆめみながらわたしはのぞんでゐる。それはひとひらの芙蓉の花のやうでもあり、ながれゆく空の雲のやうでもあり、私の身をうしろからつき...大手拓次再読4

  • 大手拓次再読3

    前号の続きです。陶器製のあをい鴉なめらかな母音をつつんでそひくるあをがらす、うまれたままの暖かさでお前はよろよろする。(「陶器の鴉」)神よ、太洋をとびきる鳥よ、神よ、凡ての実在を正しくおくものよ、ああ、わたしの盲の肉体よ滅亡せよ、(「枯木の馬」)ある日なまけものの幽霊が感奮して魔王の黒い黒い電動の建築に従事した。(「なまけものの幽霊」)かなしみよ、なんともいへない、深いふかい春のかなしみよ、やせほそつた幹に春はたうとうふうはりした生き物のかなしみをつけた。(「春のかなしみ」)もじゃもじゃとたれた髪の毛、あをいあばたの鼻、細い眼が奥からのぞいてゐる。(「笛をふく墓鬼」)灰色の蛙の背中にのつた死が、まづしいひげをそよがせながらそしてわらひながら、(「蛙にのつた死の老爺」)わたしは足をみがく男である。誰のともしれない...大手拓次再読3

  • 現代詩の作品依頼

    昨年は「現代詩手帖」の年間作品の掲載依頼があったが今年はなかった。だが別の詩誌から作品の依頼があった締切は2月だから時間的余裕はあるが、最近は詩は書いていない、その気になればいつでも書けると云う自信はあるが、近頃は俳句の世界にはまっていて…、どうなることやら。…現代詩の作品依頼

  • 大手拓次再読2

    近代詩人論は最近は余り活発ではない。いま、詩人論は時代から外れてしまってみむきもされなくなったのかもしれない。でも、続けていくと決めているので、宜しくお願いします。森の宝庫の寝間に藍色の蟇は黄色い息をはいて陰湿の暗い暖炉のなかにひとつの絵模様をかく。太陽の隠し子のやうにひよわの少年は美しい葡萄のような眼を持って、行くよ、行くよ、いさましげに、空想の狩人はやはらかいカンガルウの網靴に。(「藍色の蟇」全行)この詩は萩原朔太郎との感覚的な類似を思い起こす。あえていえばこのことは朔太郎自身が自らの詩集『黒猫』には彼からの啓示によるところが多いことを認めている。この「藍色の蟇」のスタイルの特異性は作者の特異性というか、内面の生活自体の特異性に基づいているようである。他人との接触を好まないという性格は、終生なおらなかった模...大手拓次再読2

  • 大手拓次再読1

    夢想とは夢の中に神仏の示現のあること、心に思うあてのないこと。だから夢想は一瞬の儚い揺らめきを、あるいは一連の恒久的持続を要求したりするものなのか。わたしには他愛ない空想からとびだす希有な歓喜の一瞬さえも、他人のことばでしか見えない世界があった。ひさしぶりに大手拓次の詩集を読んで、もう三十年前に初めて呼んだ頃とは違って全くつまらないと思って通過していものが、急に足止めにあう。あの頃はなぜか、萩原朔太郎の詩と比べても内閉的で特異な情感と意味の通らないグロテクな感覚についていけなかったのかのしれない。大手拓次が詩を書き始めた頃の同時代的、世相をふりかえると、昭和七年いわゆる「坂田山心中」が社会的な話題になり、慶応大学理財科三年在学中の調所五郎が恋人の湯山八重子と大磯の通称八郎山で心中した。当時の新聞によると心中事態...大手拓次再読1

  • ことばの墓場という辞書?は、

    「闇から牛」と書いて、「やみから牛」か「くらやみから牛」と読むほかに、「くらがりから牛」という、昔からの伝統的な読みが、あることを教えられて、「闇」は「くらがり」と読むのだと、はずかしながら知った記憶がある。今度、「広辞苑」の新版がでたと云うが、まだ見ていないからなんともいえないけど、手元にある「広辞苑」で調べてみると「暗・闇」として(くらやみ)と別立てで(くらがり)の引用があった。「大辞林」では「暗・闇」から牛を引き出す。とあって「広辞苑」と同じだが、「暗がり」からという表記になっていた。そこで手元にある角川の「新類語辞典」でしらべて、なんと親切なことには「闇」くらやみ)は、世の中のが乱れて見通しが立たないことにたとえられる」という。言葉がそえられていて、先の辞典よりは、ずっととわかりやすかった。「暗がり」は...ことばの墓場という辞書?は、

  • 同人誌という詩神~舟川栄次郎論(富山昭和詩誌の流れ)

    あけましておめでとうございます。今日は以前に書いた朝日町の詩人舟川栄次郎について、地元の人もあまりにも知らなすぎるので、以前の文章を再掲します。(今日は序文のみですが機会を見計らって以前に書いた文章を、掲載できたらとおもっています。)富山の昭和詩史の流れの中で同人誌という詩神ー舟川栄次郎論(1)いま、詩を書くとはどういうことか。「詩などどこにもない場所」で、しかも「求められもしない詩」をただ、あらしめようとする詩とは何か。詩人とは何か。一つの躓きに踵を接しながら、世界の全体的な必然性を越ええないと言う諦念の見えない、薄い皮膜に覆われているわが国の時代感情にあえて反することは意味のないことだろうか。どんなに自由に振る舞ってみても、言葉に纏わりつくものから、詩は免れることは出来ない。そのような詩の居場所を訪ねるため...同人誌という詩神~舟川栄次郎論(富山昭和詩誌の流れ)

  • 大晦日に

    今日は大晦日。昨日はいろいろあってなにもかわったことはかなかったけど。今年は初めて俳句を作って見ました「10月から)。また俳句の本と言うものを初めて読んで俳句についての考えをあらためて知った感じである。「金子兜太の「俳句の作り方」おもしろいほどわかり本。と、岸本尚樹の「俳句の力学」「自句字解ベスト100の「岸本尚樹」。計三冊初めて俳句の本を読んでその難しさと楽しさが少し解ったような気がしている。といったら多くの俳人から罵声が飛ぶかも知れない。「何をわかったことをいうな」と。商業誌からは現代詩の注文もあったりして、来年からは両方を書いていくと云うことになるのか、それとも、今年初めてと云う俳句に傾倒していくのかわからいが、来年もよろしく!大晦日に

  • ビートたけしと「上海帰りのリル」(再録)

    ’(2007年の記事を再録しました。10年前の私の記事です。若い人にはピント来ない文章かも知れません))松本清張の不朽の名作といわれる文壇デビュー作でもあった「点と線」が、ビートたけし主演のTVドラマとして、二夜連続で放映された。端的な感想をいってしまえば、、ビートたけしが扮する鳥飼刑事役が見事にはまっていたように思う。有名な東京駅の13番線から15番線が見通せる時間がわずか4分という、空白の時間帯が小説ではキーポイントであったが、テレビではどのように表現されるのかにも興味があった。ビートたけしの鳥飼刑事が戦前から戦後の間もない時代を生きぬいた男の心情のようなものが、片時も離さないしわくちゃの帽子に象徴されていたように思う。(日本が高度成長期へと向かうもっとも輝いていた時代でもあったろうか。)それは上海で出逢っ...ビートたけしと「上海帰りのリル」(再録)

  • 立原道造ノート6

    立原道造ノート6「(大学三年の夏、)追分を訪れるがその途中、汽車の中で偶然、一少女と知り合う。彼女は近く結婚する身であることを告げて軽井沢で下車してしまうが、別れに肌につけていた十字架を彼に与えた。追分では、例の恋人の到来を待つが、彼女も東京から別れの手紙をよこし、なかなか姿を現さない、やがて彼女を垣間見るのだが、ついに言葉を交わすこともできず、別離は決定的なものになる。これらの重なる別れを味わった彼は心の痛みに耐えかね、夏の終わりに追分かららひとり飄然と近畿に旅立つ」やがて旅先で車中にもらった十字架も別れの手紙も勝浦あたりの海に捨てる。この詩はそのときのものなのかどうかわからないが、傷心の旅であったことはたしかなようだ。恋人を思う夢はもはやそこまで。ありもしないふるさとの風景だから本質にはたどり着けない。観念...立原道造ノート6

  • 立原道造ノート5

    立原道造ノート(詩をめぐり)立原道造が詩を書くようになるまでに短歌の時代について書いてきたが、詩を書くようになったのは堀辰雄に出ってからになるのだろうか。室生犀星やリルケ?夢中で読み、また三好達治の詩?好んだともいわれているが、添えにしてもわたしにしては啄木の影響がおおきかったのではないかと思われる、それは内面の問題として無意識のように浸透していったのではないかと思う。啄木の「ふるさと」にであって彼の詩への考えは変わっていったのではないか、かわるとうよりも、詩の核となるものが生まれたのではないか。次の詩は「日曜日」の中の一編である。裸の小鳥と月あかり郵便切手とうろこ雲引き出しの中にかたつむり影の上にはふうりんそう太陽と彼の帆前船黒ん坊と彼の洋燈昔の絵の中に薔薇の花僕はひとりで夜がひろがる大正末期のどこかモダニス...立原道造ノート5

  • 立原道造ノート4

    立原道造ノート4ここまで立原道造の短歌習作期の歌をあれこれみてきたが、やがて詩と物語(小説)への契機が同時に訪れるというのも珍しいのではないかとおもう。その前の見ておきたいのは、自らの歌に「実相に観入して自然・自己一元の生写す」という斉藤茂吉の歌論を自らの歌の定義にしようとしていることは注目に値する。内面の真実と外部に現実とを一つの対象として、それは同時に把握する支店を宮中するリアリズムの優位をみとめながらも、淡い夢とほのかなあこがれの気分とを、短歌における「通有性」と認められるものに支えられていることにたいしての、自らの歌へのひそかな自負の念を披瀝しているきがする。後年数年のうちに立原道造はめざましい技巧の進歩と開花を見せることになるが、そのことの予感でもあったろうか。さらにさかのぼって、昭和二年の中学時代の...立原道造ノート4

  • 立原道造ノート3

    立原道造ノート(三)短歌から詩へ立原道造が短歌の道をすて口語自由律短歌をえらんだのはなぜか。彼の詩意識が、短歌形式そのものをのりこえて己表現をなしおえようとする方向にはすすまなかった、といえよう。短歌の季節から、やがて、ソネット形式の西洋詩を踏襲していくのだが、詩という形式上の移行というより言語規範の移行といってよいだろう。このことは郷原宏がその長編評論でさっらと述べている。つまり「文語定型という規範のかわりに口語自由律という規範を選らんのであって、古い形式を捨てたのでもなければ、新しい形式をつくりだしたのでもなかった。形式などというものは他者がつくればいいのであって、それは彼の仕事ではなかった。というより、他者が作った形式に寄りそって、その中で精いっぱい自己表現をはかることが、彼にとって唯一の表現形式だったの...立原道造ノート3

  • 「夢の舟」はいづこ

    久しぶりに現代詩を投稿します。この作品は近岡礼さんの編集発行による詩誌「氷見」に掲載のものです。長編なののじっくり読んで頂けると嬉しく思います。(田中)「夢の舟」はいづこー瀧口修造「星と砂とー日録抄」を読みながら(1)古書店で見付けた、まさに夢の本であった。浅草と新宿というふたつの街だけが夢みる現場のように現れる。銀座や渋谷ではないふたつの限定された場所あたかも取りかえしのつかない未生の夢が降る街だから作者の創造の現場をうつしだすのだろうそこには「星と砂と」いう物質の夢。鳥や植物という儚い命がかがやく夢。「現れる自然、消える自然」の中で必死に生きぬく人間たち。私たちの綱渡りの「存在証明と不在証明」の接線にその可能性を問うのだけれど。作者は「あの頃は、カミナリ・オロシが空へ舞いあがったものだ」と懐かしい夢から覚め...「夢の舟」はいづこ

  • 今日は現代詩です

    影の悲劇(Ⅱ)影は、透明な物体の悲哀である影は、不透明な物体の真実である真実にまとわりつく哀しみはぼくには見えない存在の深い影をやどしているから懐かしい明日への思いがけなくそのみずみずしい怒りの葡萄のひとふさを握る手はただ昏いだけの悩みの深さも語らず歎かず世界は昏い喉元を過ぎて恐怖に襲われる不安に充ちている影は、内面から沸き起こる命あるものの本質的な怒りに狂おうと光りに変わることは決してないそれが唯一のあきらめとは云わない影の、影の存在がたとえ古代の密書を手にいれようと緻密で膨大な策略にみちあふれた虚偽という真実の迷路にまよい地球空洞説に耳を傾けながらもこの地上のぬくもりを渇望する天使たちのか細い声の欺瞞に目をそむけるように満月に隠れる影は、不穏な身体の悲鳴である影は、不謹慎な身体の忍耐であるむしろ、常に未完性...今日は現代詩です

  • 昨日の俳句です。

    全く自信の無い俳句を掲載するのはどうもいまひとつ気が乗らない、というよりも恥ずかしと言ったところが正直な気持。実は、富山県朝日町の俳誌「森」の主宰である森野稔様に俳句を見ていただいたとき、ほとんど俳句になっていない状態だったと思います。今年の10月から初めてまだ一カ月、今度朝日町での句会に参加させていただいて、今後のことを決めようと思う。(一人前の俳句と言われるまでには4,5年はかかるのかもしれないが。~少し頑張ってみようかなとも考えている。)恍惚の棘が命の冬野薔薇赤蜻蛉運の悪さは生まれるつきあきらめを咲く意志もなし紅椿虫かぎの中から秋が逃げていく礼節を求める水に沈む月昨日の俳句です。

  • しばらくの休暇でした。

    突然ですがしばらくの休暇ですみませんでしたが、ふたたび開始したいと思います。俳句は全くの素人ですが、じこりゅうで、何とか掲載していきます。おかしいところがあったらご指摘してください。十一月1日裏山は今が盛りのきのこ映え白ワイン葡萄は罪の色でなし白乳でもぎとる指を噛む無花果雨の中さだめに黙す桔梗かな恍惚の棘がいのちの冬の薔薇あきらめに咲く意志もなく紅椿燃えながら終焉(おわり)あること知る紅葉後悔が残る日記を焚く夕べしばらくの休暇でした。

  • 再刊「天蚕糸」7号が来週発売です!!

    7号執筆者愛敬浩一連載エッセイ「わたしの知っている、いくつかの詩」田中勲「立原道造ノート①」館路子詩「虹に遭い、しかも虹は見ず」田中勲「影の悲劇」野海青児「田園に」支倉隆子「発酵ん」林秋穂「瀞」樋口武二「縛られて日が暮れた」宮井徹「考えて」(7号頒価500円)再刊「天蚕糸」7号が来週発売です!!

  • 立原道造ノート(四)詩をめぐり

    立原道造が詩を書くようになるまでに短歌の時代について書いてきたが、詩を書くようになったのは堀辰雄に出ってからになるのだろうか。室生犀星やリルケヺ夢中で読み、また三好達治の詩ヺ好んだともいわれているが、添えにしてもわたしにしては啄木の影響がおおきかったのではないかと思われる、それは内面の問題として無意識のように浸透していったのではないかと思う。啄木の「ふるさと」にであって彼の詩への考えは変わっていったのではないか、かわるとうよりも、詩の核となるものが生まれたのではないか。次の詩は「日曜日」の中の一編である。裸の小鳥と月あかり郵便切手とうろこ雲引き出しの中にかたつむり影の上にはふうりんそう太陽と彼の帆前船黒ん坊と彼の洋燈昔の絵の中に薔薇の花僕はひとりで夜がひろがる大正末期のどこかモダニストが書くような詩である。言葉...立原道造ノート(四)詩をめぐり

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