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物怖じしない国際人を育てるヒント集BLOG https://blog.goo.ne.jp/amazon-japon

自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか

1歳から80歳あまりの自分史を大正・昭和・平成の近現代史を織り込んで記録する。 近現代史のテーマは戦傾化の解明。 自慢は謎解きのオリジナル。 ①樺美智子さん死の真実 ②田中上奏文の真実 ③狭山事件の真実(未完)

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2015/01/27

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  • 皆既日食/Londrina で幼時に体験

    皆既日食Londrina1947.5.204月6日の朝日夕刊に、「北米縦断皆既日食フィーバー」と題する記事が掲載された。8日昼前からメキシコとテキサス~ニューヨークの各州で観測されるとNASAが発表した。大勢の人の移動に伴う混乱が懸念されている。記事を見て幼い時の記憶がよみがえり、古い写真をひっぱり出した。その裏に父の筆跡で地名と日付が書かれていた。私が日食を観たのは8歳の時だということが判った。ブラジルでも観測フィーヴァーがあった。ニュースの入らない田舎生活の私でも日食があることを知っていた。「南方」の空の高い所で日が欠けていき、夜のように暗くなった。明るくなりはじめると雄鶏があちこちで時を告げていた。今回の下調べで私は自分の不安定だった位置・方向感覚をいくらか正常化することができた。私は8歳の時ウチの...皆既日食/Londrinaで幼時に体験

  • 鵬翔高校サッカー場落雷事故で回想

    4月3日午後2時半過ぎ、宮崎市にある鵬翔高校サッカー場でピッチサイドに落雷があり、熊本から試合に来てウオームアップ中の鹿本高校の選手18名が負傷して救急搬送され、9人が入院、このうち、1人が意識不明の重体となっている。「その場の天候は、雨がぱらついてきたというくらいの状況だった。落雷音が全くしなかった。いきなりドンと(雷が落ちた)」2日午後4時ごろから県内全域に雷注意報が出ていた。鵬翔高校教頭先生のインタヴィユー記事mrt宮崎放送4/4(木)19:02配信鵬翔高校サッカー部といえば、わたしが高槻フットボールクラブの監督をしていたころ、ウチの卒業生が毎年入部していた。2013年には全国高校選手権で優勝実績がある強豪校である。これも因縁か、わたしは2013年の8月18日に、その17年前の1996年に高槻市営グ...鵬翔高校サッカー場落雷事故で回想

  • 「正義の戦争」と抵抗部族の根絶 ブラジル1550~1650

    16世紀後半、総督によるキャピタニア回収、統治により砂糖キビのファゼンダ(先進のペルナンブーコを中心とする)が軌道に乗ると植民地の奴隷不足が発展のネックになった。黒人奴隷の輸入が始まっていたが本流になっていなかった。大農場主(ファゼンデイロ)は先住民の奴隷化を望み、総督(カピタ~ン・ジェラウ)は洗礼を受けていない先住民の奴隷化を認めて先住民に改宗をせまった。イエズス会は改宗者を保護した(布教所が「駆け込み寺」になった)が奴隷化の流れに抗しきれない。しかも移民の数は増える一方で、移住者が持ち込んだ伝染病で先住民集落の人口が激減したこともあって、力関係が逆転した先住民は、服従(改宗と定住)するか蜂起して逆襲するか、ほかに選択の余地がない窮地に陥る。抵抗した主要部族は、ペルナンブーコのカエテー族をはじめとして、...「正義の戦争」と抵抗部族の根絶ブラジル1550~1650

  • 背中を寝違えたような痛み/寝ていて発症

    胃もたれが治ったと思ったら、間を置かず、寝ていて突然右肩に激痛が走った。右腕を動かすと痛くて力が入らない。左腕一本では起き上がることができない。寝返りしようにも肩と腕が痛くて動けない。寝不足のまま朝を迎えた。右足で蹴ってマットの左側に転がって、残りの肢(てあし)を使って起き上がった。立った状態では、ふつうに体を動かすことができた。幸いにもその日は通院予定日だった。自転車をこいで病院に行った。まず胃カメラの受付に行った。消化器内科主治医に症状を告げると、救急に行くレベルだから、と予定の変更を提案された。わたしも不安だったのでそうすることにした。次に飛び込みで循環器内科の診察を受けた。肩の痛みが心筋梗塞の前兆(放散痛)ではないか、と心配だったからである。いろいろ調べて、頸椎が圧迫され、首筋の筋肉が緊張している...背中を寝違えたような痛み/寝ていて発症

  • 胃もたれ・胃下垂・腸閉塞/食物繊維とりすぎ・消化不良

    ここ2週間ほど、夜間にお腹がすかなくなった。食事の量が増えたわけでもないのに体重が2kgほど増えた。上腹部、臍から上方が肥満して突き出ている感じになった。パートナーが以前からそうなっていたのを冷やかしていたが自分がなるとは思いだにしなかった。妻は胃が弱く長らく食事制限をしている。孫たちを放課後迎えにいって母親の仕事が終わるまで世話をしている(土日だけ休み)ので過労でダウンしてしまった。内科医の診断は胃下垂だった。それがわたしの自己診断のヒントになった。わたしの場合、お腹がすかなくなったのと同時に胃もたれでえずくようになった。昨晩目が覚めてから眠れなくなって、いろいろ思考をめぐらして原因を探った。妻と違って胃腸が丈夫な私が胃下垂らしい症状になるとすれば食べ過ぎによる消化不良しか考え付かない。一昨年の大腸癌発...胃もたれ・胃下垂・腸閉塞/食物繊維とりすぎ・消化不良

  • ブラジル史初期のレジェンド/ポルトガル人・先住民・マメルーカ

    河出書房新社2022年本章記述中の数字はこの一冊に依拠している。植民地ブラジルの創成期は三期に分けることができる。「パウ・ブラジルと先住民」収奪期封建制ブラジル人祖型「サトウキビと奴隷」搾取期カピターニア制先住民蜂起「大ファゼンダとイエズス会」植民地確立期総督制三結合項目分けはしてないが記述の流れで見えてくると思う。ブラジル史は贈り物の交換から始まった。1500年、発見者カブラルの到着地は後にポルト・セグーロ(現バイーア州の南部、州都サルヴァドールから700キロ)と呼ばれた。カブラルは10日間滞在し、トゥピニキン族から水と食料と薪を贈られた。パウ・ブラジルを発見し即ポルトガル王に報告のための船を先発させた。他日役立たせるために二人の受刑者を残置した。1502年、領土と資源を独占所有するポルトガル王が大商人...ブラジル史初期のレジェンド/ポルトガル人・先住民・マメルーカ

  • バンデイランテス余聞/二人のキング

    バンデイランテスは、ブラジル植民地創成期に大農場(ファゼンダ)の労働力不足を埋める奴隷を求めて、インジオ狩りをした奥地探検部隊のことである。「イエズス会士とバンデイランテス」の章の執筆途中で自分史とちょっと関わりがあったのでエピソードとして投稿する。奥地に奴隷狩りに向かうバンデイランテスは、往路の駐屯地で砦を築き、耕作、播種をして帰途の食料に備えることもあった。私の父方の伯母家族(父は姉家族の構成員とされていた)がサンパウロ州での義務労働(コロノ)で貯めた資金で購入・移住したバンデイランテス駅付近の土地は、昔その駐屯地の一つだったと考えられないこともない。そこは南部ジェ語族・カインガンゲス族の生活圏だった。バンデイランテス遠征隊は奴隷狩りと奴隷商売で忌避される一方で金銀ダイア目的の遠征の実績によりブラジル...バンデイランテス余聞/二人のキング

  • フランス革命下の一市民の日記

    日課のブログ編集で頭がさえて睡眠不足になっている。気分転換に表題の日記を読むことにした。四天王寺境内で開催された秋の古本市でたまたま見つけた832ページの文庫本である。フランス革命の臨場感を味わえるだけでなく、日課で綴っている植民、気候変動についても有益な資料が得られそうだ。[]内は私のコメント。1791年1月26日水曜日[日記付け初め]日中気温5度。夕方3度。西の風。ジャンヴィエ氏と昼食。[フランス革命記念日は1789年7月14日。著者はC.ギタール。氏名以外は不明。おいおい分かってくるはずだ。]4月4日月曜日気温16度。北の風。最高の天気。[2日に亡くなった国民議会議員ミラボー伯の盛大な葬儀について長文を綴っている。ミラボーは後にパンテオンと改名された偉人墓地の第一号被葬者となった。]貴族、聖職者、最...フランス革命下の一市民の日記

  • 大腸癌術後15カ月

    11月21日に大腸の内視鏡検査を受けた。昨年8月の腹腔鏡下大腸癌手術後は、3カ月ごとに定期検診を受けてきた。この間体調に異常は感じられなかった。先日の検診の際、最近へその右横にゆで卵の鈍端部のような膨らみが出来て押さえると柔らかいことをDr.(消化器外科医)に告げた。Dr.はちょっと見ただけで、大腸の内視鏡検査をしましょうと言った。理由も聞かず承諾した。「患部」が横行結腸と小腸の吻合部あたりだと思ったからである。大と小の管を縫合するイメージが今一つ私には浮かばず心配だった*。*切り口と切り口を縫合すると早合点していた。横行結腸の切断部を閉じて結腸に回腸(小腸の最下端部)を横付けするのが正しいイメージ。検査中モニター画像を見ることができた。ポリープを二つ切除した。検体の精査結果は3か月後の定期検診時に知らさ...大腸癌術後15カ月

  • マト・グロッソ/大いなる逆さまの藪

    2014年10月16日、グリーンピースブラジルの調査チームは、大豆と畜産のための樹木の焼却と森林伐採を監視するためにマットグロッソ州を撮影しました。出典:www.greenpeace.org.taiwan©パウロ・ペレイラ/グリーンピース国際環境NGOグリ-ンピースはブラジルでもインディジェナ団体と共同して自然保護と生物多様性保存を政府、企業、消費者に訴えて成果を上げている。引用ばかりで気が引けるが、つぎの記事も地球環境破壊、気候変動を語るうえでも優れて有益である。大豆と「世界で最も生物多様性に富むサバンナ」ブラジルセラードの深い関係この記事のポイントブラジルの中央を縦断する広大なサバンナ地帯、セラード。豊かな生物多様性、大量の炭素貯留、豊富な地下水源を誇るこの地域の自然が今、牛の放牧や、家畜の餌となる大...マト・グロッソ/大いなる逆さまの藪

  • 悲しき熱帯 下/中西部マト・グロッソ編/ボロロ族

    教授は、ブラジル滞在中の4年の間(1935~1939)中部高原を1500km横断して、しばしば中西部マト・グロッソ州とアマゾン側で調査をおこなった。教授が指摘したことだが、多くの旅行者がMATOGROSSOを「巨大な森」と誤訳していた。私も既述の南部高原MATAATLÂNTICA(マタ・アトランティカ)と同じ肥沃なジャングルだと誤解してきた。どんぴしゃりの訳がみあたらないので「広大な藪」としておく。地球温暖化と関連して、後章でどんでん返しの異称を紹介する。これまた驚きだが、教授は東海岸から中西部まで、トラック、汽車、蒸気船、ときにはチャータ機を乗り継いで移動していた。なぜ文明の利器を、馬車、カヌーと併せて利用できたのか。原因は、中部高原の土地の風土=気候・地味・地勢などの有様にある。気候は乾季と雨季、乾燥...悲しき熱帯下/中西部マト・グロッソ編/ボロロ族

  • 関東大震災/渦中の憂国虐殺と大正デモクラシーの凋落

    関東大震災から100年、追悼のイヴェントが盛況である。映画「福田村村事件」はずっと気にかけてきて観たくてたまらんが難聴で断念するほかない。百年を記念してこのブログの関連シリーズをタイトルだけ紹介したい。あまり知られていない話題を満載しているので、読んでいただけたら満足されると思う。2017年執筆の記事である。「治安維持という名のテロ/平澤計七・川合善虎たち虐殺/関東大震災」04.21「間島出兵/不逞鮮人/関東大震災・朝鮮人虐殺の前史」05.14「関東大震災/朝鮮人ジェノサイド/四ツ木橋/名もなく遺骨もなく」05.27「関東大震災/王希天暗殺/共謀して国が隠蔽」06.14「関東大震災/中国人虐殺なぜ?/王希天暗殺」06.30「憲兵隊による世直しテロ/大杉栄夫妻と孫虐殺/大正社会運動の扼殺」07.23「朴烈・...関東大震災/渦中の憂国虐殺と大正デモクラシーの凋落

  • 悲しき熱帯 上/パラナ編

    1977年中央公論社刊写真猿を頭にのせた娘(ナンビクワラ族)1935年、文化人類学者レヴィ=ストロースがサンパウロ大学を発って奥地の先住民集落の伝統、慣習の調査、民俗学上の蒐集のための探検旅行に向かった。このブログで長く付き合うことになる教授の氏名は長いので以下教授と略称する。フランスと同じくらいの広さをもつサン・パウロ州は、1918年の地図によると、その三分の二が、「インディオ[トゥピ語族]のみによって居住されている未開の土地」であったが、私がそこへ着いた時には、海岸に押し込められた数家族から成る一団を除けば、もはや唯ひとりのインディオもいなかったのである。以上p711935年、教授は「1930頃までほとんど人間に汚されていないと言ってよかった」パラナの大森林地帯に入った。その最初の都市がLondrin...悲しき熱帯上/パラナ編

  • 日本成女W杯代表、スペインに完勝

    12年前のW杯優勝以降、競技力の対外的地位が下がり続けていると感じていた成人女子代表*が上位のスペインに4-0で一方的な勝利を収めた。*世界水準に追いついた成人代表に「女子」は失礼だろう。今後敬意を表して成女(男の場合成男)と呼ぶことにする。勝因は、監督の堅守速攻の戦術が奏功したこと、そのチーム戦術を齟齬無くこなせた選手の技量、個人戦術の高さにある。スペインはいわゆるポゼッション・フットボールで最初にW杯(成男)を制した実績を誇る。それゆえボール保持にこだわりすぎ、伝統が足かせになって、成男に続いて成女も、日本代表の戦術にはまってしまった。日本は、トップを一人だけにして植木理子に前線でボールを追わせた。植木はエネルギー消耗をいとわず役割を忠実に果たした。攻めのシステム3-4-2-1。残り十人は引いて三重の...日本成女W杯代表、スペインに完勝

  • 三里塚フィールドワークに参加/三里塚大地共有運動の会主催

    7月2日にマイクロバス2台で一日かけて回った。参加者40人の内10人が青年男女だった。岩山歴史館、木の根ペンション、東峰共同墓地&らっきょう工場、横堀鉄塔と横堀農業センターを見学し、大木よねさんをはじめ戦い続けて倒れた活動家の墓碑に祈りを捧げた。それぞれの拠点で責任者の説明があったが、難聴のせいで一言も聞き取れなかった。もったいないが仕方がない。もっとも印象に残ったのは50年以上の歳月が刻んだ大地の変容だった。拠点に行く狭い道は、高い金属板?に挟まれあるいはトンネルをくぐり、まるで迷路のようであった。横堀鉄塔は頂上である4階(先端部分は撤去されていた)まで上がることが可能だったが、まわりを囲む孟宗竹に視界をさえぎられていそうだ。一度も切られることなく伸び放題に伸びた孟宗竹は、妙齢女性の胴回りほどの太さだっ...三里塚フィールドワークに参加/三里塚大地共有運動の会主催

  • Londrinaが照射するアマゾンより南の生物多様性の喪失

    手つかずの原始林と言えば誰しもアマゾンの広大な流域を想像するだろう。つい100年前までアマゾンにつぐ大森林地帯(アマゾンの4分の1)の熱帯雨林と亜熱帯常緑広葉樹林がブラジルの中・南部を覆っていた。Londrinaはその南限にあたり、それより南部は冷涼気候でパラナ松という針葉樹の巨木が多くなる。MATAATLÂNTICA(マタ・アトランティカ)と総称され、海抜600~900mと表現される波打つ高原の森林は、大航海時代以来植民地化と開拓により徐々に失われ、現在ではもとの7%弱しか残っていない。今日、森林が残っているのは、傾斜地や環境保全地域などに限られている。道路で分断され、孤島状になった保護地区の森林は生物種の宝庫であるが、その多くが絶滅の危機にさらされている。たとえばジャガー(現地名オンサ)は270頭ぐら...Londrinaが照射するアマゾンより南の生物多様性の喪失

  • 狭山事件60年 再審の開始に動き出せ

    正義の女神像表題は中日新聞・東京新聞の5月10日の社説の見出しそのものである。今話題の対話型検索で「狭山事件関連の最新記事の収集がほぼ無いのはなぜか」と訊いてみた。回答は「申し訳ありませんが、現在のウェブページコンテキストには狭山事件に関する最新記事が含まれていないようです」であった。詳細情報としてjapanwikiと上掲社説のリンクが貼ってあった。当gooblogの狭山事件連載記事もデータバンクから洩れてしまっている。狭山事件60年を期して「新説狭山事件」で若者の関心を惹こうとしたが、発信スキルが足らなかったようだ。再審の門は開かずの扉と云われている。これまでに再審の事例は数えるほどしかないが、扉が開いたのは、勇気ある裁判官が裁判所から外に出て自ら事実調べを指揮した場合だけである。社説が毅然と独自の主張...狭山事件60年再審の開始に動き出せ

  • 破壊的スピードの発展/LONDRINA開拓に見る

    アマゾンの1頭の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす、というたとえ話がある。近年自然破壊による地球温暖化と異常気象が生物の生存を脅かすに至って、非常に小さな事象の集積が大きな変動につながる、という意味で、バタフライ効果が現実味を帯びてきた。まずは小さなロンドンLondrinaの物語から始める・・・。1925年、ブラジル南部のパラナ州の密林に、イギリス資本の北パラナ土地開発会社の本拠が置かれた。地名はロンドンにちなんでロンドリナと名付けられた。10アルケイル=24.2ヘクタール≒24町歩に小分けされた分譲地に、東部のサンパウロ州から多くの日本人移民が移住した。私の父母になる男女はそれぞれ1933年と1934年に移住し密林を開拓した。市のメモリアルにパイオニアとして記名されている。開拓会社はまず鉄道を敷き...破壊的スピードの発展/LONDRINA開拓に見る

  • 「移動・植民・移民・移住」が人類史を刻む

    プーチンが発動したウクライナ侵略戦争を俟つまでもなく、戦争が人類の歴史に転機をもたらしてきた。それぞれの戦争の原因を探るとき必ず顔を出すのが表題の四つのキーワードのいずれかである。私の高校教科書程度の知識でも、ゲルマン人の大移動、ギリシャ・ローマ人の東方植民、ポルトガル・スペイン・イギリス人の新大陸植民、日本人の朝鮮・満州植民と南北アメリカ大陸移民を容易に例示できる。そして植民、移民が移住先で先住民を圧迫しその生活圏を脅かす。日本の場合で言うと「居留民」が日韓併合、中国侵略の火種になった歴史を挙げることができる。ウクライナの場合は火種の淵源は、ロシア系のルーツにまでさかのぼらねばならない。わたしはブラジル移民の子である。体系的に大小の歴史を論じることはやりたくてもできないが、四つのキーワードの間を飛び交い...「移動・植民・移民・移住」が人類史を刻む

  • 裁判所は証人尋問とインクの鑑定を!

    これは、春分の日に大阪西成区民センターで開催された石川さん再審を求める市民の集いin関西のスローガンである。前日の袴田さん再審決定を受けて500人収容の会場が盛況だった。府内のコロナ感染者が数百人にまで落ち着いて来たので私も参加した。石川さん再審運動の最近の情勢を感じ取ることができた。スローガンにみられるとおり、運動の目標がすっきりと整理された。さらに、露新の話芸、指宿弁護士の報告、石川夫妻-袴田秀子さんのビデオアピール、それから青木恵子-西山美香-金聖雄-ノジマミカさんによる冤罪トークセッションで、狭き門となっている再審法を改正して、証拠開示のルールを設ける必要性がくりかえし強調された。ちょっと不満が残った。無辜の市民の冤罪は真犯人の免罪であることに誰も触れなかったことである。運動にとって一般市民に支援...裁判所は証人尋問とインクの鑑定を!

  • 生ゴミで野菜作り/実験結果の報告

    ジョウビタキオス山田池で孫娘が撮影春分の日の翌日、ウチの「菜園」に可愛いお客さんが訪れた。ガラス戸越しに観られているとも知らずぴょんぴょん跳ねて餌をあさっていた。ネットで調べてジョウビタキのオスとわかった。ほかにスズメ、キジバトがよく来る。鳥が来るほどにわが「エコ菜園」の実験は成功した、と自負している。まず季節の野菜が、種蒔きしたものはすべて収穫できた。ターサイ、サニーレタス、ブロッコリー、カリフラワー、ネギ、ミズナ、セリ、イタリンパセリー、クレソン。さらに夏野菜のタマネギ、ソラマメが順調に育っている。浅いプランター、浅鉢は避けたほうがよい。深いプランターと10号以上の鉢が望ましい。クレソン、パセリのように小振りの野菜なら8,9号鉢でOK.深い容器70個ばかりの内2個で、糠を入れ過ぎたため固い糠の層が...生ゴミで野菜作り/実験結果の報告

  • 生ゴミで野菜作り/失敗と命拾い

    蕾をつけたターサイ日課の一つ、露天車庫に容器を並べた野菜作りについて綴る・・・。我が家では20年ほど前から生ごみをいっさい収集に出していない。ぼかし肥料にして季節の野菜を作っている。プラスティックの大きなゴミ入れを五つ買って生ごみと米糠を交互に入れて蓋をしておく。冬場はいいが夏場は蛆がわいて悪臭に悩まされ続けた。今にして思えば、土をかぶせておけばよかった。昨秋、思い付きで、プランターと鉢に直接生ゴミを入れて糠、土をかぶせ、続けざまにターサイの種を蒔いた。生ゴミが醗酵して野菜が取れなくても、蛆に悩まされずに肥料と土づくりが同時にできる、と踏んでの実験だった。結果は上々、ターサイが出来すぎて困っている。ターサイは白菜と同科の寒冷に耐える中国野菜、この冬の積雪にもびくともせず生長し、春到来を待っていたかのように...生ゴミで野菜作り/失敗と命拾い

  • 狭山事件/犯人を指し示す被害者遺留品/雑木林は見た「完全犯罪と権力犯罪の3次元交差」

    5月3日午前0時すぎに犯人を取り逃がした警察は朝から機動隊と消防団の手を借りて鎌倉街道から南へ向かって山狩り捜策をおこなった。そして早々と自転車のゴム紐を発見して領置した。発見者は、狭山署交通課の関巡査部長である。そのご捜査本部に認められて取調補助員となって石川青年の「自白」引き出しと重要な「物証発見」で捜査本部の期待に応えた。彼はかつて菅原四丁目に居住して、石川青年がキャッチャーをつとめた菅四ジャイアンツの世話役だった。発見場所が雑木林の端っこではなく中心部であることに意味がある。犯人が、地元不良によって強姦、殺害がおこなわれた、と印象付ける意図で工作を行なったのだ。ゴム紐発見後、当然、付近はくまなく捜策されたが、ほかには何も発見されなかった。翌4日に、ゴム紐発見場所からさらに南西の農道で死体が発見され...狭山事件/犯人を指し示す被害者遺留品/雑木林は見た「完全犯罪と権力犯罪の3次元交差」

  • 狭山事件/最終目撃地点/被害者の足取りと時間

    長年の懸案だった狭山事件のもろもろの現場を地図上でどうにか確認できるようになった。最終目撃者奥富少年(被害者の1年後輩、堀兼中学3年)が「澤の自転車屋から百二、三十メートル位、入間川[駅]寄りの畑中で、入間川方面から帰ってくる善枝ちゃんと会いました」という目撃情報を、5月5日付調書(自宅で父親同席で証言)に残している。沢街道で、とは云っていない。正確には「澤の道地内」で、つまり加佐志街道の「沢の道地内」で出会った、といっている。その地点を今回地図上★印で視覚化することができた。その認識に至る経緯は次の通りである。当時西武川越新宿線の内側は、工業団地、住宅団地の開発が始まったばかりの農村で、道路は未整備、その正式名はなかった。週刊埼玉の記者亀井さんでさえ加差志街道は沢街道とも云うと書いている。通称加差志街道...狭山事件/最終目撃地点/被害者の足取りと時間

  • 狭山事件/死体隠匿ではなかった/埋葬を偽装した「かくれんぼ」

    承前主犯の思考、行動は単線ではなく複線complexであり、その表現法はときには伏線、あるときは露顕である。複線のあり方は、単純でなく絡みあい縺れているため捜査、報道を振り回し、世評を狂わせた。警察が犯人を取り逃がした数時間後の5月2日9時ごろ、農家の男性がゴボウ畑の作業に来て農道の土が不自然に盛り上がっているのに気が付いている。3日の昼すぎと夕方には2人の若い人が散歩中に新しい土が盛り上がっているのを見たと新聞記者に話している。3日に山狩りが始まったがその日現場は捜索対象外であった。農家の男性は3日も4日も現場近くで作業をし、4日には最初に発見した警防団に試掘のために農具のおかめを貸している。通りかかった3人にすぐに異変が感じられる状態で死体は埋められていたのである。これで、隠匿の目的が秘匿ではなくほか...狭山事件/死体隠匿ではなかった/埋葬を偽装した「かくれんぼ」

  • サッカーの新しいトレンド/高校選手権とワールドカップ

    わたしは2016年度に監督を引退して時間に余裕ができたがTVで放映されるサッカーの試合を見る気が起こらなかった。ボールをとっても安全パスを後方に送ってパス回しにこだわるからである。縦への推進力でのみ評価されてきた自分には何ともまどろっこしい退屈なゲーム運びだった。どのチームも同じようにやるから後半にユニフォームを交換して戦っていても気づかないだろうと思っていた。こと(トレンド)の起こりは2010年にスペインが絶妙なパス回しでW杯を制した新コンセプトにあった。それはポゼッションサッカーと称されて世界を風靡した。サッカーがチームゲームであり総力戦であるからそれなりの必然性があった。W杯で決勝点を決めたイニエスタに代表されるように、複数の敵に囲まれてもなおボールを失わず攻撃的なパスができるチームだからこそ有効な...サッカーの新しいトレンド/高校選手権とワールドカップ

  • 狭山事件/性交はなかった/なぜ精液が・・・

    承前私が狭山事件にのめりこむきっかけとなったのは、一審判決中の強姦体位である。ズロースを膝の上までおろして、手拭いで後ろ手に縛った被害者の喉頭部を右手で絞めながら正上位で遂行したことになっている。自己欺瞞的司法関係者以外の成人であれば、十人中十人がありえないと答えるであろう。二審当時わたしは青年教師たちに集まってもらって見解を聞いている。殺意については、致死するかも知れないことを認識しながら一層強く右手で圧迫して姦淫を遂げ、よって窒息させて殺害した、と判決文にある。発掘された死体の状況はといえば、靴を履いている。ズロースを膝の位置で半ば身に着けている。抵抗して傷ついた痕跡が確認できない。B型の精液が確認された。これからは、強制(強姦)とも合意(和姦)とも判定できない。殺害の時刻、場所の探求を踏まえて、わた...狭山事件/性交はなかった/なぜ精液が・・・

  • 狭山事件/屋内殺害はなかった/軽トラ-キャビン内殺害

    承前この章では殺害場所とそこに至る経緯、動機を考える。いわゆるご馳走説が否定されると、屋内殺害説も崩れ、屋外殺害説が浮かび上がる。屋外のどこかが問題となる。靴が脱げた形跡がないこと、白ソックスが汚れてないこと、衣服に腐葉土や朽葉のほこり・草木の染みが付着してないこと、つまり抵抗した形跡がないことから、人目につかない野外での雑木林内殺害も否定される。いちばん可能性が高い雑木林内殺害が否定されると残るのは車内殺害であろう。車なら人目につかない場所を選べるし死体を任意の場所に運ぶこともできる。埋蔵に必要なスコップ、縄、紐、風呂敷、玉石、棒切れ等をあらかじめ用意して積んでおくこともできる。あくまで私個人の想像の産物にすぎないが、被害者の長兄に焦点を絞ってストーリを創作する。長兄が妹を迎えに行った時の車は、車庫から...狭山事件/屋内殺害はなかった/軽トラ-キャビン内殺害

  • 狭山事件/胃の中にトマトは無かった/未使用別件写真を流用

    筆跡印影指紋柳田研究所の工学博士・柳田律夫鑑定人は、長年の日本刀銘鑑定でつちかった技に、最新のデジタル科学技術をプラスした鑑定法によって、脅迫状冒頭(左上)のカラスの巣状に抹消された箇所を解析し、消えていた「少時」の時の文字を鮮明に可視化した。掻き消し痕跡調整写真第三次再審請求の為の柳田鑑定書からwww.kantei110.com/case.html一目瞭然、この草書体の時こそ石川無罪を証明し真犯人の真の姿を映し出す物証である。[END]**当ブログの過去記事から再録脅迫状は狭山事件の唯一本物の物証である。当物証から、脅迫状を書いた主犯が物書きに慣れているだけでなく達筆であること、知能に優れ、犯罪フィクションと大事件に蘊蓄があり、みずから完全犯罪を企画するほどの推理マニアであることが想像できる。2023年...狭山事件/胃の中にトマトは無かった/未使用別件写真を流用

  • 大腸癌の兆候/下腹部膨満感/見落とした原因

    大腸癌は私にとってもっとも罹患が考えられない病気だった。ここ10数年、腹痛はもとより下痢、嘔吐、便秘と縁がなかった。105歳間近まで長生きした母も胃腸が強かった。私は腸に関しては自信過剰に陥っていた。さらに舌癌と冠動脈の手術アフターケアとして24年と17年の長期にわたって行われた定期健診で、私の体は、脳、血管、食道、胃、心臓、肺臓、肝臓、腎臓、膵臓、胆道、十二指腸(小腸の主部)、前立腺(これだけは医師に特別に頼んで血液検査項目にPSAを入れてもらった)まで、データと映像による管理がなされていた。お陰で今日まで健康を維持できた。これらは上腹部検査である。大腸は対象外である。2,3年前から下腹部膨満感と倦怠感があった。猫の額ほどの庭で午前中1,2時間しゃがんで土いじりをするとお腹の圧迫で体がだるくなって動く意...大腸癌の兆候/下腹部膨満感/見落とした原因

  • 大腸癌手術/標準治療と働き方改革

    PCがnosignalと出てまったく利用できない日が続いた。日々の日課の一つがこなせずイライラが溜まった。ねじ回し一本でケースの蓋を開けて見ると10年分の埃がたまっていた。ブラシとエアダスターで掃除するとPCが蘇ったばかりか表示が速くなった。機器無智の私にしては上出来だ。大腸癌手術を無事「卒業」できたので今回は体験した医療と看護について綴ってみたい。一患者のささやかな体験にもとづく感想なので、当該病院や医療体制の評価を意図するものでないことをあらかじめことわっておく。入院直後、主任麻酔医から脊髄硬膜外麻酔の使用に同意を求められた。これは術後の経過を楽にするもので天皇も自分も体験している、ほぼ百パーセント安全で皆同意しているので是非署名してほしい、と説得された。大腸癌手術の標準治療の一環に入っているのに何故...大腸癌手術/標準治療と働き方改革

  • 大腸癌手術/日録

    2022.8.1~8.1(月)入院。臍ゴマとり8.2(火)低残渣流動食。下剤。シャワー後から点滴。零時から絶食8.3(水)8時浣腸。着替えて10時手術室へ。麻酔用マスクを装着すると同時に昏睡。5時間後「目覚めましたか」で覚醒。「生きていた」と実感。ICUで一晩過ごす。お腹に石ころが詰まっていて重たい感じ。眠れないのが苦痛8.4(木)ICUでは「管と線に繋がれて」寝たきりだ。呼吸、心臓、排尿が管理されている。点滴で栄養、水分、薬剤を入れている。麻酔が残っているのか、体を動かすとお腹に響く感じで痛いほどではない。午後個室に移った。そのころから、響く感じが持続的な痛みに代わった。寝相を変えることもできない。困るのは痰が溜まって来て咳が出そうなときである。咳をしようにも脳が痛みの触発を先取りして咳にブレーキをかけ...大腸癌手術/日録

  • 大腸癌手術へ/今後のブログ予告

    PET-CTの結果は「大腸癌である。遠隔転移は観られない」というものだった。北摂総合病院消化器外科で8月1日入院、3日手術が正式に決まった。上行結腸を小腸と横行結腸から切り離して除去し、小腸と横行結腸を吻合すると主治医から説明を受けた。リンパ節郭清も避けられない。手術時間4時間、入院期間10日の予定。無事生還したらまたブログを再開したい。来年は狭山事件から60年、やがて成田闘争も60年を迎える。事件の最終推理、反対同盟員間和解のすすめについてぜひ書きたい。最後にして最大のテーマは、ブラジルの緑の大地が移住者によってどのように変貌し何をもたらしたか、である。父母も開拓で関わったジャングルは、半世紀でコンクリート・ジャングルに変貌し、先住民は生活圏を犯されさらに奥地へ逃避した。掘っ立て小屋で生まれたわたしは、...大腸癌手術へ/今後のブログ予告

  • 大腸癌だった!

    医療の科学と技術の進歩は著しい。私の素人推理は1枚の映像で一蹴された。7月14日、妻子同伴で北摂病院に結果を聞きに行った。内視鏡がそれより奥にはいらないほどに腫瘍(生検で癌と診断確定)が上行結腸の終点近くを塞ぎかけていた。ステージⅢ?腸閉塞間際の危険な状態であるから異変を感じたら即救急に来るようにいわれた。迷う暇もなく次の一歩を先生に決めてもらうほかなかった。運よくPETーCT検査の予約が国立循環器センターでとれた。しかも翌日にである。15日往復を含めて5時間かけて全身の輪切り写真を撮った。これで癌の深さと広がり、転移が分かるそうだ。20日には北摂病院で手術のための予備検査(下肢静脈と心臓のエコー)を受けた。阪大病院で永らく受けていた定期検診を北摂病院に移行する作業も両病院間でスムーズに進行中である。明日...大腸癌だった!

  • 潰瘍性大腸炎? 大腸癌? それともアスピリン起因大腸潰瘍

    2月と4月に受けた定期健診では内蔵に関する数値は、鉄分不足以外はすべて基準値内であった。変形性膝関節症以外は気にする病はなかった。コロナ自粛で最もストレスが溜まっていた4月末ごろから朝食時に2,3秒間へその周りを中心にお腹が痛み始めた。5月の中頃、近くの病院で受診すると、画像検査で大腸が荒れているようだから、と内視鏡検査を強く勧められた。いったん月末に検査することを承諾したが、一日考えて翌日キャンセルした。その理由はこうである・・・。自分は、免疫細胞の7割が常在するという腸内環境に絶対の自信をもっている。ノロウイルスが猛威を振るったときでさえ、同居家族全員が年末年始を寝たきりでポカリスエットとオーエスワンだけで過ごした(母は入院した)時も、私はダウンしたが嘔吐までいかなかった。その後も下痢をしたことがない...潰瘍性大腸炎?大腸癌?それともアスピリン起因大腸潰瘍

  • 少年A酒鬼薔薇聖斗事件/30年前の連続快楽殺人事件回想

    須磨ニュータウンタンク山の右上に北須磨高校グラウンド、その右神戸大Gを挟んで友が丘中学校G被害少年の通った多井畑小学校はタンク山の手前写真提供:神戸市1997.5.24小学校6年男児行方不明事件発生5.27,火曜日早朝、須磨ニュータウン名谷駅南の友が丘中学校の正門に切断された男児(小6)の頭部が置かれているのが発見された。耳まで割かれた口に、警察に対する挑戦状が差し込まれていた。さあゲームの始まりです愚鈍な警察諸君ボクを止めてみたまえボクは殺しが愉快でたまらない人の死が見たくて見たくてしょうがない汚い野菜共には死の制裁を積年の大怨に流血の裁きをSHOOLLKILL学校殺死の酒鬼薔薇報道で国中が震撼した。わたしの過労とストレスが極点に達する時期で(10月に舌癌の兆候)私の6年チームはたまたま多井畑フットボー...少年A酒鬼薔薇聖斗事件/30年前の連続快楽殺人事件回想

  • 隔離生活3年目/海や山に行きたい

    私は心筋症の既往歴がありコロナ-ワクチンをうてない。妻がふだん日曜以外の午後5時から夕食時まで孫の小学1,3年生の世話をしている。昼と晩の食事をさせることも週に2,3回ある。この二つの事情から、わたしは隔離生活をよぎなくされている。私は寝室(仏間)で寝起きし、1階のトイレと2階の書斎を専用にしている。用心しすぎると思われるかもしれないが、実際に次男と孫が第6波のコロナに感染した。孫たちが来ていないときはリビングで食事を摂り、新聞を観たりTVをつけたりするが、難聴でTVの音を妻に嫌がられるのでTVは仏間で見る。週に1,2回スーパーを覗きに行くほかはほとんど外出しない。たまの遠方通院が息抜きになっている。もう少し周囲の事情に触れておく。こども3人は自立して市内に居住している。面倒を見ている3人の孫(長女は高校生)は...隔離生活3年目/海や山に行きたい

  • 白内障手術/やってよかった

    中年の戯れ言に、おとこは歯、目、チンの順で老化する、というのがある。歯はとっくに総入れ歯になった。歯周病のわずらわしさも歯磨きの面倒も無くなったので、結果的には良かった。ついで左目が緑内障になり長年点眼薬で眼圧をおさえたが、徐々に左眼の視野が欠けた。医者に白内障の手術を勧められた。目にメス!聞いただけでゾッとする。その内右目も緑内障が始まっているから両眼とも手術することを勧められた。白内障があると眼の精密な検査結果が得られない、と言われて、3月いっぱいかけて両眼を手術した。案ずるよりは産むがやすし。痛みなし。入院なし。自転車で通院した。保険適応となる単焦点眼内レンズを入れた。焦点をTVに合わせてもらった。乱視矯正もお願いした。TVとPCがよく見えるようになった。遠方も不自由を感じない。読書には眼鏡型ルーペが欠か...白内障手術/やってよかった

  • 労作性狭心症/カテーテル・ステント留置術

    自分の血管で冠動脈にバイパスを作る外科手術は失敗に終わった。2本の動脈と1本の静脈を無駄にした。また振り出しから始めなければならない。心臓血管内科でステント留置の手術をすると告げられた。それができないから心臓血管外科でバイパス手術をしたのではなかったのか。セーフネットの3本目の移植まで失敗してなお打つ手があるのだろうか。当時わたしは、外科失敗→内科で再手術を別個の治療と受けとって憤慨したが、今回調べてみると、医療側は循環器診療科による一体の治療として、最初から内科と外科の合同体制を組み、起こりうるリスクに対応できるバックアップ体制を取っていた。担当外科、内科それぞれ3人、署名人は外科執刀医、ほかに麻酔医。カテーテルを使ったステント留置は、内科の仕事である。イラスト画像hochi.co.jp図の通り大腿付け根から...労作性狭心症/カテーテル・ステント留置術

  • 労作性狭心症/オフポンプ・バイパス手術の失敗/2005年11月

    発病発見のきっかけは突然だった。サッカーの練習を河川敷の運動場でやっていたので、往き帰りに堤防を越えなければならなかった。堤防を自転車で上がりきると息切れがして同時に空咳が出た。数回そういうことがあったので阪大病院で診察を受けた。その外来記録に「2005、9/20運動負荷心筋シンチ」とある。種々の検査を経て循環器内科で労作性狭心症と確定診断がついた。原画像BostonScientific左冠動脈主幹白抜き辺りの血管が90%詰まっている、身内なら即入院と循環器内科の佐藤Dr.に脅された。過去に心筋梗塞を起こしたことがあるのではないか、とも言われた。舌癌を手術した際の失敗がよみがえって、すぐ国立循環器センターのセカンドオピニオンを受けた。やはり即入院と言われた。2005年11月7日阪大病院に入院した。奇しくも前日未...労作性狭心症/オフポンプ・バイパス手術の失敗/2005年11月

  • 舌癌手術/元気をもらったヒトと出来事

    病院では種々の職種の人たち、はやり言葉で言うとエッセンシャルワーカーに援けられた。元気をもらった二人の看護師について記す。Hさんは始終看護室長を担当してくれた。このひとの熱意と行動力に救われたと妻は言っている。勤務を終えた帰り際には必ず病室のドアを少し開けて笑顔をのぞかせていた。どれだけ安心感をもらったことか・・・。妻とは世間話をするほどに親しくなった。まもなく退職し結婚した。きっと幸せな家庭をもったと思う。もう一人は、若いころ映画フアンとして魅了されていた女優ステファニア・サンドレッリ似の美人看護師である。退院まじかな一週間担当してくれた。何週間ぶりかのシャワーも使わせてもらい幸せな気分を味わった。ピエトロ・ジェルミ作品の『イタリア式離婚狂想曲』や『誘惑されて棄てられて』での演技そのままに、にこりともせず、職...舌癌手術/元気をもらったヒトと出来事

  • 舌癌手術/胸水との闘い/心臓が朝までもつか

    舌修復後、次の一週間ベッドに寝たまま舌の傷がいえるのを待った。主治医が、詳しい経過は不明だが、週末3月14日の夜7時から、気管カニューレから注水して、ドレナージだと称してタッピングをおこなった。洗浄と排液である。それが必要なほどわたしに何か病状の変化があったのか、まったく記憶がない。気管への注水だから私はむせて恐慌をきたした。海や川で溺れもがく者の苦しみとはこんなものか、と実感できた。二度と受けたくない、不信感が後を引く医療行為であった。主治医は、上大静脈輸液ルートからの輸液漏れを想定してそれに対する応急処置をほどこしたのだろう。それにしても溺れる状態を伴う施術が妥当だとは思えない。その晩の体調の記憶はない。妻のメモに主治医の事後説明があった。原因不明だが夜中から明け方にかけて液漏れが多くなった。肺にたまった水...舌癌手術/胸水との闘い/心臓が朝までもつか

  • 舌癌切除後の再建手術失敗/耳鼻科でも再手術

    1998年3月2~3日の舌癌切除部位(舌左側)病理診断書①から⑦までの断片の内、②~⑥は間質に異形細胞が認められるが、周辺①②には無いことが記されている。軽症の内に診察出来たから助かったが、少し遅れると、広範囲にわたって転移の悪性化がおこりそうな状況だったと考える。問題は舌の再建手術で起こった。左ひじから手首までの長い皮弁を切り取って口腔内の手術痕に縫い付けた。長い血管を頸の太い血管に吻合したことはすでに述べた。皮弁は形と大きさがPCのマウスに似ている。出典www.civillink.net身体はベッドに固定され、動かせるのは足と右手だけ、気管カニューレで呼吸をし、鼻チューブで栄養をとり、排尿は尿管で、排便はオムツで、・・・何とも不自由、不快な闘病生活が6日間続いた。耳と目は機能したが声を出せないので意思を伝え...舌癌切除後の再建手術失敗/耳鼻科でも再手術

  • プーチンのウクライナ侵攻を近現代史で読み解く

    TVをつけると、どのチャンネルでも専門家を招いてウクライナ危機を論じている。共通しているのは上っ面をなでるような現象面の解説である。それに満足できない視聴者に必要なのは、手軽に得られる答えではなく、みずからが答えを出すために役立つ近現代史の論文、書籍ではなかろうか。手前味噌になるが、私の近代史論集(ブログ)には答えを導くヒントが用意されている。最近の論文「ノモンハン事件=ハルハ河の戦い/世界大戦の舵を切った限定戦争」では、ポーランドが今日のウクライナに相当していた。ポーランドがソ連領ウクライナと国境を接していた。ヒットラーが向きを変えて東進しポーランドをターゲットにした時、スターリン、チャーチル、蒋介石、ルーズベルトはどのように行動し、成功戦略を編み出していったか、詳述がある。あるいは、2016.9.17付の論...プーチンのウクライナ侵攻を近現代史で読み解く

  • 舌癌手術/医師とミスマッチ

    1998年、松の内は家で過ごし、8日から19日まで再入院して歯学部口腔外科で追加手術を受けたこと、さらなる追加手術が必要だが歯学部口腔外科ではできないことは前節で綴った。その先に進む・・・。21日に手続きをして2月20日までの間、医学部耳鼻咽喉科に通院しながら、もろもろの検査を受け再々手術に備えた。エリートの雰囲気がある主治医と初めて対面した時の第一声にまず啞然とした。「どうしてそんな所に行った。歯医者は医者でない」と耳を疑うようなことを言った。死に至る歯科の病があることを私でも耳学問で知っているのに・・・、と前にいる主治医の社会常識を疑った。ここでハイさよならができなかったことを一生悔やむことになる。癌の進行を恐れていたことが判断を鈍らせた。またしても長期間通院で前と同様の検査が繰り返された。1ヵ月通院して主...舌癌手術/医師とミスマッチ

  • 舌癌手術/診療科を間違えた

    当時癌は避けられない死、辛い副作用を連想させる怖い病気だった。1997年10月20日、舌に異常を感じて北摂病院で診察を受けた。ときたま罹っていた口内炎と違うな、と気づいたのは酸っぱいものが沁みたからである。1円玉ほどの白っぽい炎症に赤い芯が見えた。老練な医者は一目見るなり表情をくもらせ、前癌症状らしいので医科大学で検査を受けるようにと促した。次の日、医科大で診察を受け生検の予定を入れてもらった。予定日がかなり先だったので看護婦長に理由を聞いた。組織で動くので小さな手術でもそうなるとのことだった。すぐにでも結果を知りたいので予約を取り消して数日後親友・大浜が経営している向島の病院でMRIを撮ってもらった。若い医師から白板症と言われた。小さな腫瘍はMRIやCTでは発見できなかったと考えられる。やはり大病院で生検を受...舌癌手術/診療科を間違えた

  • 資料大整理/行き詰まりを突破したい

    年賀はがきの売り出しが始まったので滅多にないことだが早々と30枚購入した。書く段になって捜しまわらなくて済むように保管場所に気を使った。次のブログを書くための資料を揃えるために、家の中のあちこちに雑然と積み重ねて埃をかぶっていたノート、コピー、切り抜き、プログラム、小冊子、書信、写真等をカテゴリーごとに仕分けした。これが大掃除より大変で本日元旦に至ってもまだ終わらない。その間にせっかく買った年賀はがきの束が行方不明になり年賀状を書く意欲も失せてしまった。いつになるかわからないが出て来た時「ご機嫌伺い」として送ることにした。受け取った人がどう思うかいろいろ想像している。さてブログの件だが、自分史的体験記の時系列を飛ばして、しばらく舌癌闘病記を綴りたい。その次には心臓冠動脈手術の体験について書きたい。その間少年サッ...資料大整理/行き詰まりを突破したい

  • 脂質異常症を克服/為せば成る

    コロナ感染拡大後、新たに「高血圧症」「脂質異常症」「糖尿病」「脂肪肝」「肥満症」などの生活習慣病と診断された人が増えた、と報道にある。私は心臓冠動脈手術(2005年)後ながらく脂質異常症(高コレステロール血症など)の薬剤を服用してきた。また内臓脂肪たっぷりの肥満(腰回り103cm)であった。報道に見られる世間の傾向とは逆に、私の場合、一昨年脂質異常症を脱し、今年肥満を改善した。以下体験を記して参考に供したい。処方されたバイアスピリンいわゆる血液さらさら薬とパナルジン抗血栓薬を欠かさず服用した結果、時間がかかったが、一昨年LDLコレステロール数値の安定(120前後)が得られた。HDLは45前後。そしてコロナ禍の昨年、中性脂肪の数値も平常化した。コレステロール数値の正常化は薬剤だけでは難しいように思う。私の場合、引...脂質異常症を克服/為せば成る

  • ノモンハン事件=ハルハ河の戦い/世界大戦の舵を切った限定戦争

    ♪ホロンバイルの華(1940.01Victor)ジンギスカンの裔sueの子よ外蒙兵よ目覚めよ、と敢然立ちてこがねきし[黄金騎士]ビンバー大尉の雄々しさよわたしはこの曲を戦後11歳の時世話になっていたブラジルの叔父幸長の家の蓄音機で聴いた。日米戦争の直前に輸入したレコードであろう。ビンバー大尉はリュシコフと同じ頃外蒙(モンゴル、ソ連の衛星国)を脱出して内蒙(ハルハ河以東の蒙古、関東軍の支配下にあった)騎兵隊に身を投じた。上記歌曲は「散華」した大尉の武勇をたたえる軍歌である。音源が国会図書館にしかないので「こがねきし」の意味を確認できなかった。推測で「黄金騎士」とした。なお、北海道に養子として残されたもう一人の叔父勇は他ならぬノモンハンで戦死した可能性がある。ノモンハンでの旭川第7師団戦死傷者3481人(派遣軍10...ノモンハン事件=ハルハ河の戦い/世界大戦の舵を切った限定戦争

  • 「田中上奏文」≒「田中首相覚え書」の真実/偽装された鉄血主義満蒙積極政策宣言

    掲載誌ARENA2013第16号中部大学発行検証「田中上奏文」---新資料で真相に迫る藤井一行本論考の記事は逐一断っていないが故藤井教授の研究に負うところ大である。1927年3,4月、銀行取付と金融恐慌の最中、田中内閣が成立した(4.20)。少し前、蒋介石率いる北伐軍が上海に入った。蒋介石は浙江財閥と組んで合作相手の共産党を排除し、大弾圧を加えた(4.12上海クーデター)。国民政府による全中国統一が視界に入る状況で、田中外相は対華政策を刷新するために東方会議(6.27~7.7)を開催した。その間田中内閣は山東省の日本権益と居留民の保護のため在満師団を派遣し、師団は7月8日済南に進出した(第一次山東出兵)。それより10か月後の翌年5月、日本軍は国民政府軍に対して総攻撃をかけ済南城内の軍民数千人を死傷させた(第二次...「田中上奏文」≒「田中首相覚え書」の真実/偽装された鉄血主義満蒙積極政策宣言

  • 田中義一組閣と東方会義/済南事件・張作霖爆殺事件

    1927年、中国大陸では引き続き北伐と反帝国主義の嵐が吹き荒れていた。蒋介石の国民革命軍の時系列行動は以下の通り・・・。3.21上海攻略。3.24南京入城、安全区の日英米領事館襲撃、暴行略奪、軍艦射撃。英米は反撃したが日本は内政不干渉方針を貫く。4.3漢口事件、日本租界襲撃略奪破壊。4.12蒋介石、上海で反共軍事クーデター、共産党活動家の殺害と排除、反共、反ソへ。4.18南京国民政府を樹立。日本国内では金融恐慌の火消しで大わらわだった。1927年4月20日、大正期の軍政をリードした田中義一がついに国政の頂点に立った。国際協調の時流に掉さして流され軍縮と侮日に陥る破目になり満蒙の既得権益保持を危うくした幣原軟弱外交をただす、これが陸海軍のかねての主張、要求であり、田中義一に託した使命であった。他方で田中は政党政治...田中義一組閣と東方会義/済南事件・張作霖爆殺事件

  • リュシコフ大将始末記/勝野金政vs大越兼二

    リュシコフ大将の謎を追究する旅の最終章である。振り出しに戻る。1968年の勝野金政訪問で私はモスクワ帰りの元共産党員高谷覚蔵に訊けばリュシコフ大将の最期がわかることを知った。勝野さんは「関東軍に消された」としか言わなかった。勝野と高谷は、参謀本部嘱託として、第5課のソ連情報班で、その後第8課の宣伝謀略班で、同じく嘱託のリュシコフ大将を交えて共に仕事をした。勝野は国際主義・社会民主主義、高谷は反共反ソの国粋主義、リュシコフは反スターリン「正統」コムニスト(後述)である。参謀本部のソ連情報班は、満鉄調査部もそうであったが、仕事の性質上、異なる思想に拠って立つ要員を抱えていた。戦局が不利になればなるほどこれを危ぶむ硬派上司の介入が増した。勝野は「上層部は凡庸な古手軍人ばかり」になったと嘆いている。その上層部に大越兼二...リュシコフ大将始末記/勝野金政vs大越兼二

  • リュシコフ大将と農業集団化

    前章では勝野金政が体験、見聞した囚人と移民・植民の実態を研究した。1934年勝野が放免された直後に合同GPUは内務人民委員部NKVDに統合された。長官は生え抜きのチェキスト(革命時の政治警察)ヤゴーダである。何かが変わりつつあった。スターリンにつぐナンバー2で人気のあったキーロフが1934年12月に暗殺された。リュシコフは血も凍る「大テロル」の発端となったこの不可解な事件の調査のためにNKVD政治警察部長代理としてスターリンに同行し直接調査に加わっている。彼は引き続き積極的に「テロ本部事件」(複数)の捜査に当たり、公開裁判で世界を驚愕させたいわゆる「トロツキー=ジノヴィエフ合同本部」事件捜査にも参画した。そしてフルシチョフの秘密報告に先立つこと18年前に「私は全世界の輿論の前に責任をもってこれらの陰謀事件と称す...リュシコフ大将と農業集団化

  • 勝野金政とジャック・ロッシ『さまざまな生の断片』

    長くなるが、フランス人ジャック・ロッシが綴った大テロル期と戦後の監獄・ラーゲリ体験記を紹介して、勝野の体験記(1930~1934)の内容の裏付けとしたい、さらにロッシで読む「続編」(1937~1956)としたい、という誘惑を抑えることができない。成文社1996年ジャック・ロッシはコミンテルンの密使だった。1937年スペイン内戦渦中の共和派に暗号と無線機を届けに行った直後、突然モスクワに呼び戻された。そして、監獄・収容所生活が延々と続き、そこから解放されてフランス大使館に鉄柵を乗り越えて飛び込んだのは1956年のことだった。わたしは、56の短編からなる囚人たちの様々な生の断面の中から『赤露脱出記』時代より「進化」した実態だけ抽出する。進化した地獄から見ればそれ以前は天国であろう。「進化」の事実を拾うのが目的なので...勝野金政とジャック・ロッシ『さまざまな生の断片』

  • 勝野金政のラーゲリ文学

    わたしは前章で勝野金政の聞き取りと『赤露脱出記』にこだわってメモ書きをみながら記事を書いた。戦後出版の次の書籍も参考にして勝野のラーゲリ文学に迫りたい。勝野金政『凍土地帯』1977.11赤露脱出記からの摘要・・・。著者勝野は「社会民主党系統あるひは国粋党系統の人達」のソヴェト観とは異なる立場である。スターリンの名を冠せられた白海ーバルト海運河事業では「運河軍と呼ばれた囚人即ち労働戦場で悪戦苦闘した百数十萬の労働者たち」は飢餓と寒気と闘いながら「強制的労働」に従事し「彼等の二割以上は死ぬか、不具になっている。」勝野はこの「世紀の大工事」(と当時世界に向けて宣伝された)の仕上げであるソーロク築港工事に従事した。勝野達囚人は西シベリアのマリンスクから「例のよやうに十六頓半の貨車に積み込まれ、護衛兵の銃剣の下に」転戦し...勝野金政のラーゲリ文学

  • 勝野金政聞き書き・『赤露脱出記』余聞/根本辰の消息

    前章で、勝野がGPUに「根本辰を呼び寄せたのか」と真っ先に尋問されたことを書いた。根本とは何者か。『赤露脱出記』中「片山潜の思い出」の項に「畑[勝野自身]の立場も確立し自信も出来た頃である。彼[片山]は××問題を畑に依頼し、畑もまた引き受けたのであった。故に畑の今度の問題も彼が責任者である。事件の内容を一番理解してゐる関係者であり、證人である」しかしその彼は勝野が逮捕されたとき転地療養中であり釈放前にこの世を去っていた。その××こそ根本辰tokiである。根本はベルリン経由で国崎定洞の紹介でモスクワの片山事務所に来た。そして片山にクートベ(東方勤労者共産大学)入学の斡旋を頼んだ。転地療養に行く片山は後事を秘書の勝野に託した。勝野はコミンテルン(共産主義インターナショナル)幹部会員・片山潜とプロフィンテルン(赤色労...勝野金政聞き書き・『赤露脱出記』余聞/根本辰の消息

  • リュシコフ大将の謎を追究する旅/勝野金政『赤露脱出記』

    1965年ごろから菊地先生のロシア革命研究に触発されて、私はロシア革命と何らかの関わりを持った日本人の足跡を追跡することを、副題として研究した。主題「十月革命とは何か」は研究書も多く図書館と書斎で思索すれば足りたが、「人物」は消息を求めて直接体験談を訊くか関係者の体験記を探して読むしかなかった。そいうわけで尋ね人と探求本のために旅行、通信にかなり時間を割いた。力不足とその後の多忙で人物の消息は途中で切れたままになった案件が2件あった。シベリアで消えた新聞記者・大庭柯公と日本に越境亡命したソ連極東GPU長官リュシコフである。勝野金政1901年生まれ1924年フランス留学その後仏共産党に入党1928年党大会参加中に「好ましからざる外国人」として検挙、即国外追放片山潜を頼ってベルリン経由でモスクワ入りロシア国籍を取り...リュシコフ大将の謎を追究する旅/勝野金政『赤露脱出記』

  • 前立腺追加手術後の経過報告/言い残していたこと

    3月3日退院寛解状態尿にうっすらと血がまじるだけ排尿痛も苦にならない程度11日検尿異常なし狭心症薬パナルジン服用OKとなる。12日鉄粉13日鉄さびいずれも洗浄しきれなかった古い血15日ごろから排尿の出始めに少量の鮮血22日排尿のたびに出血するので近くの行きつけの病院で検尿して血止め薬を処方してもらう。術後出血は普通のことと言われて安堵した。相変わらず排尿の始めに出血しているが、痛みもなく、排尿も順調なので、普通に体を動かすことにした。H先生に禁じられていた自転車にも乗り始めた。31日阪大循環器内科の定期健診エコー・血液・レントゲン検査案の定、貧血気味ということで心臓への影響が心配だから吉田病院での診断を勧められた。血栓予防のパナルジンは今後不要、血液サラサラ薬バイ・アスピリンは継続必要、という指示があった。4月...前立腺追加手術後の経過報告/言い残していたこと

  • 前立腺肥大追加手術/後悔先立たず、早期手術のすすめ

    前立腺肥大症は排尿困難で苦しむことが多い。3年前の手術では苦痛面も絡めてブログを綴ったが今回は病状と対策の経過をたんたんと記述するだけにする。排尿困難はいつものことだが、2月にはいって力むと背中側の右腰が痛むので腎臓への影響を心配して、2月20日枚方Y病院で受診した。検査の結果膀胱に炎症があるが腎臓は異常ないと診断された。点滴を済ませて抗生物質を5日分もらって帰った。21日尿にうっすらと血の色22日朝と夕に少量の血尿23日3回血尿ふわふわの血の塊と鉄さび状のものが便器の底に沈んでいる。24日夜中に7回血尿朝から体を動かすたびに尿意、力むと大量の血で便器が縁まで染まる。血に尿が混じっている感じ。2回ほど手桶に受けて目視で各100ccと判断、早急に手を打たないと悶絶しそうだったので、Y先生(非番)に連絡してくれるよ...前立腺肥大追加手術/後悔先立たず、早期手術のすすめ

  • 趣味/キノコ/山の保水力の低下を実感

    スギヒラタケ出典東京都福祉安全局「食品衛生の窓」1970年代後半期、余暇=趣味の時間が少なくなり、大浜との登山も絶えて、遠方の山登りは単独行となり、それも3度で終わってしまった。近場の朝日の森(財団法人1979~2003現=くつきの森)が山行代わりとなり、キノコ探しの行きつけの里山となった。サッカークラブの合宿、川遊びピクニックでも利用したことがある。多忙は罪だった、失ったものが大きかった、と最近反省することしきりであるが、きのこ愛好は例外と云ってもよく、2003年まで息抜きに年に1回ほど出かけている。なぜそれが分かったかというと、このたび野外ハンドブック『きのこ』(山と渓谷社、1981年第5刷)が見つかって、それにメモ書きされていたからである。キノコとの最初の出会いは、朝日の森で開催されたキノコ教室だった。昼...趣味/キノコ/山の保水力の低下を実感

  • 趣味/シャクナゲ/やはり山におけ山野草

    出典環境省HPヤクシマシャクナゲと永田岳シャクナゲとの付き合いも山歩きから始まった。廃村八丁の古い土蔵の近くでひっそりと静かに咲いていた。大浜の一言がなかったら見過ごしてしまって、その花が私のシャクナゲ愛好に火をつけることはなかっただろう。今西錦司先生が本の中でシャクナゲに触れている、と大浜がつぶやくように言ったのがきっかけだった。たしかに今西先生は1920年代の青年時代に生活=研究圏であった北山と芦生のシャクナゲを見ているが、その中間に位置した「八丁」には縁がなかったようだ。当時の該当地形図には等高線があるだけで、品谷山の名称と三角点、谷と川の名がない。1970年代当時は日本シャクナゲブームで園芸店はどこもシャクナゲの鉢植えを並べて愛好者の気を引いていた。産地ごとに花と葉にわずかな違いがあることを強調して屋久...趣味/シャクナゲ/やはり山におけ山野草

  • 趣味/渓流魚追っかけ

    1970年頃いくつか趣味をもった。みな山歩きを発端とする。八幡平トレッキングで川に入り水中で岩陰の大イワナと一瞬目を合わせて以来渓流魚に魅了されてしばらく渓流の天然アマゴを追っかけた。出典WEB図鑑投稿hitomiアマゴは西日本の太平洋側に棲息する美しい渓流魚である。日本海側と東日本に棲息するヤマメは同じサケ科であるが朱点がない。新婚旅行で訪れた北海道の民宿先に改めてヤマメ釣りに行ったが数尾しか釣れなかった。盆休みにしか釣行の時間がないので、水温が上がる夏は北海道と云えども、渓流魚はほとんど食いが無い。筑後川上流の小国川(大分県)でも四万十川支流でも同様だった。釣れないのに行く。それは渓流釣りの魅力もさることながら、渓谷の清々しさ、澄み切った清流の水面に映える木々の緑、耳朶にやさしいせせらぎと風の音のハーモニー...趣味/渓流魚追っかけ

  • サンカに関心

    箕miのイラスト原作者あり転載しないでください1970年前後、反体制運動はおおむね地域闘争であった。パリの五月革命、日本の全共闘運動は学生地区の運動であったし、沖縄闘争、水俣闘争、三里塚闘争は地域に降りかかった難題を全国的な政治課題にしようとする地域闘争だった。レーニンの都市革命路線が中国革命、キューバ革命によって乗り越えられた情勢を受けて社会活動家の眼は地域の個別の問題に向けられるようになった。辺境に革命根拠地を設ける辺境革命論すらあったが、国内では有機農業、地域医療・介護、ゴミ・CO2・放射能等の環境問題、国外辺境における医療支援、用水確保のための社会活動が今も続けられている。マイノリティの人権を守る運動も盛んでアイヌ問題、入管問題等エシカル・イッシューに事欠かなかった。戸籍と家財を持たない幻の漂泊民として...サンカに関心

  • 子育て/自己評価67点でからくも合格

    1973年マンションに引っ越して3日後に長男が生まれた。妻は教員、私は自営塾の「先生」・・・こういう家庭環境では公立の保育所、幼稚園に入れてもらえなかった。結局そのご生まれた長女、次男をふくめて3人の子育てを昼間はわたしがやるほかなかった。そのころはまだサッカーの仕事はそれほど詰まっていなかった。育児と云っても、大変なのは妻であってわたしではなかった。妻は土曜日は午後、日曜日は全日休みになるほか、ウイークデイも育児のない教員より早く定時に引けていた。私は入れ替わりにサッカーの指導に出た。少年サッカーは土、日と休日つまり学校が休みになるときが忙しい。妻は5時に引けたとしてスーパーに寄って買い物をして帰宅し、家事一切と育児をする。幼子の育児は夜のそれが一番きついことは容易に想像できると思う。夜中に2,3度哺乳しなけ...子育て/自己評価67点でからくも合格

  • 長男誕生/ハイセイコー、第一次競馬ブームの立役者

    1970年代に小学生以上であった人は競馬フアンでなくてもハイセイコーの名を記憶にとどめていると思う。高度経済成長の波に乗って地方から都会へ、なかでも東京に、夢を求めて多くの人が流れ込んだ時代である。しかもその年はオイルショックの直撃で高度経済成長の先行きに不安をおぼえる世相だった。マスコミが「地方競馬の怪物」と囃し立てていたこともあって中央競馬で人気が爆発した。1973年、中山競馬場での初戦、弥生賞当日、改修前の競馬場は12万超の観客であふれかえった。実際に金網越しに芝生にこぼれ落ちた人も出た。次戦スプリングステークスもふくめて勝つには勝ったがフアンの熱狂をよそに不安視する競馬通のコメントが見られるようになった。そして迎えたクラシック3冠レースの第一戦皐月賞。ハイセイコーは懸念された東京競馬場の重馬場を無難にこ...長男誕生/ハイセイコー、第一次競馬ブームの立役者

  • トウメイを偲ぶ/アーモンドアイ、GⅠ史上初 9冠の快挙

    わたしはG1レースは観るが競馬フアンではない。1970年頃一時競馬場に足を運んだことがある。きっかけは友人に誘われて京都競馬場に行ったとき大観衆の正面を馬群が地響きを立てて駆け抜けるド迫力に圧倒されたことである。1点だけ買った連勝式馬券がハズレ万馬券(不人気馬を当てて人気馬を外した)であったことも後を引いた。競馬の魅力は出走馬を分析総合して推理し予想する知的作業にある。さらに、ひいきの馬ができたら、その馬の物語を、まるでアイドルを追っかけるように、追い続け、一生忘れることが無い。私にそんな馬、「愛しい馬」ができた。牝馬(ひん馬、おんな馬)のトウメイである。馬体は小柄で最高で430kg(有馬記念)だった。外見はまことに貧相な馬で「ねずみのようだ」と形容されることもあった。セリでの落札価格は破格の安値165万円だっ...トウメイを偲ぶ/アーモンドアイ、GⅠ史上初9冠の快挙

  • 京大学生運動、広義のブント時代/学生部と学生自治会の相互信頼

    戦前と比べるのはフェアではないが、戦後の学生部、学生課は学内警察の役割を演じた。政治に絡む事件を起こすと、例えば天皇事件では、同学会を解散した。抗議スト・集会は禁止、違反すれば指導者は停学となった。また警察権力導入を躊躇しなかった。1955年の滝川事件以後、毎年同学会再建の試みがなされた。1958年の処分(無期停学9名)に対して中心メンバーがハンガーストライキを決行した。「ハンストは約百二十時間続いたことになる。時計台下の約十人と別に総長室前でも再建準備委の議長だった北小路さんがハンストをしていた。当時の一般新聞の処分反対闘争に対する見方は大変に同情的で、処分を強行した木村学生部長、光田学生課長に対する大学内外からの風当たりはかなり強かった。処分は翌十一日に解除され、「7」月末の学部長会議で学生部長、学生課長の...京大学生運動、広義のブント時代/学生部と学生自治会の相互信頼

  • 学術会議人事介入について/滝川事件再論

    戦争のできる国造り、つまり戦傾化は、自民党と日本会議の宿願である。安倍一強政権はその点で歴史的な成果を収めた。菅内閣になって10月2日朝とんでもないニュースが飛び込んできた。安保法制、辺野古基地、秘密法、共謀罪に、批判、反対した学者6人の学術会議会員任命を新首相が拒否した。異例である。安倍戦傾化内閣を継承する管新内閣の初仕事がこれである。これは前代未聞ではなく戦前の「戦争への道ならし」の再現である。歴史は繰り返す、ただし別様に。戦前の戦争へ道には長い時間をかけて多岐にわたってレールが敷かれ拡張された。学問の自由と大学(教授会)の自治への干渉もまたその一工程であった。「1932年中に京大、三高の左翼組織がほぼ壊滅した状態で権力側は一体となって1933年滝川事件を起こし大学の自治、学問、思想の自由を葬ることに成功し...学術会議人事介入について/滝川事件再論

  • 狭山事件/賃金と物価/1963~1974/生活の一断面

    狭山事件があった1963年はどんな時代だったか、振り返ってみたい。お金のエピソードである。脅迫文にある要求額は20万円である。石川さんの自白を維持する意図で関巡査部長が拘置所、刑務所に収容されていた石川さんに差し入れたお金は1回500円、1000円である。それが当時の生活水準上どれほどの価値があったかを考える。ちょっと回り道しながら・・・。朝鮮戦争の特需で、日本はもはや戦後でない、と語られるほどに経済復活した。翌年の東京オリンピックを控えて日本列島の主要部分とくに東京と新幹線・高速道のインフラ建設がすさまじかった。狭山市もベッドタウン化し始めていてホンダ等の進出もあり人口急増間近だった。まだ工業団地、公団住宅の建設は企画中だったが堀兼の有力者は農業委員会、農協、市議会選挙等で農地法にもとづく農地の転用、売買に関...狭山事件/賃金と物価/1963~1974/生活の一断面

  • 狭山事件/現場と運搬の推理/アリバイに色眼鏡

    阻止線を張る前の農道警官より多い群衆先ず農道を考える。捜査本部と検察が石川さんにサラリと流させた埋め跡の余った土について、被害者の長兄が7月1日の週刊文春で推理している。石川さん再逮捕6月17日直後のインタビュー記事・・・「わたしは推理もしました。その結果、犯人は土工に違いないと思っています。というのは、死体の埋め方です。ふみ固められた農道を掘りかえし、しかも中に死体を入れておきながら、現場は土が少しももり上がっていない。いったい、このあまった土をどこへ持って行ったか…...おそらく土工なら処分するのは簡単だったに違いない。」刑事や記者の先をゆく想像には驚くほかはない。生活体験が旺盛なのか推理マニアなのか、どっちだろう?荒縄と棒についても推理している。「また、わたしは石川の犯行と信じて疑わない。とはいってもこの...狭山事件/現場と運搬の推理/アリバイに色眼鏡

  • 狭山事件/玉石、棍棒、紐と縄のミステリー/完全犯罪ほころぶ

    http://wwwd.pikara.ne.jp/masah/sayamajk.htm左様、犯人はビニール風呂敷に人頭大の玉石4.65kgをのせたのだ。そして、足に携帯電話のストラップ状に掛けた細引き紐260cmの先と風呂敷の対角とを結びあわせた。首に投げ縄状に掛けた細引き紐145cmも風呂敷のもう一つの対角と結びあわせるつもりだったが、重さに耐えかねて肝心の風呂敷が悲鳴を上げて裂けてしまったため、それは断念された。ここまでは私の推理である。もうお分かりだろう。玉石は首と足に風呂敷と細引き紐を使ってつるした重石である。玉石と風呂敷と紐・縄をまとめてその用途・目的を看破したのは、私の記憶では、亀井トムさんに協力した文殊社チームの片桐軍三*さんである。かれは「西武園の池に沈めるぞ]という脅迫状と遺留物とを関連付ける...狭山事件/玉石、棍棒、紐と縄のミステリー/完全犯罪ほころぶ

  • 狭山事件/祝い用ビニール風呂敷のミステリィ/数多のストーリーの源

    出会いの経緯学生時代社学同の同志として活動しそのご袂を分かったK君が教師Hさんと結婚して市内に住んでいたので1972年の正月に彼の家を訪問した。彼は高校教師をしながら部落解放運動の活動(夜学)で多忙を極めていたので多分もはや中核派ではなかったと思う。わたしは自著『十月革命への挽歌』を書き終えて狭山事件の真相究明に夢中になっていたので、その縁で旧友を訪ねたのであった。話し込んでいるところへ、私の将来の伴侶となるハチキン(活発なおてんばの意)が故郷の手土産を持って年賀のあいさつに来た。富田小学校の同僚であったK君の伴侶Hさんを訪ねて来たのだった。初対面の印象はハキハキと自己主張する行動的な女性だった。それからしばらくして、石川さんの犯行を自供に沿って再現する実験をするために人集めをHさんに頼んだ。5人ほど青年部の男...狭山事件/祝い用ビニール風呂敷のミステリィ/数多のストーリーの源

  • 狭山事件/万年筆が捏造の物証になった/三つの家族のエピソード

    5月23日別件逮捕、家宅捜索6月17日釈放、すぐ殺人容疑で逮捕、18日家宅捜索6月23日「三人共犯」自供、26日家宅捜索・万年筆発見1963年6月26日毎日新聞朝刊に「逮捕一週間前に会った石川」会見記が記者2名の名入りで掲載された。会見は5月15日の夜のことである。仕事帰りの石川さん宅にあがって石川さん、兄六造さん、父富蔵さんとテーブルを囲んで約1時間雑談した。いろいろ事件のことで水を向けたが特に変わったことは聞き出せなかった。「私たちが帰るさい、石川はワザワザ玄関まで立ってきて≪どうもご苦労さん≫とカモイに手をかけていったとき、影になった彼の顔はすごく陰うつに見え、1m67~8cmの背丈のある彼から、背筋がゾーッとするほど冷酷なものを感じた」私がこの記事を掲載したのは、事件の最重要物証である万年筆の発見場所と...狭山事件/万年筆が捏造の物証になった/三つの家族のエピソード

  • 狭山事件/脅迫状筆跡「時」の鑑定で浮かび上がった犯人像

    左が真中が偽右が石川さんの時もどきわたしがブログで取り上げた事件はわたしが何らかの関わりをもった事件ばかりである。安保には教養部自治会役員として没頭したし、三池、水俣、三里塚には何度か足を運んだ。狭山も同様である。狭山事件にかかわった経緯から始めよう。私が少年サッカーの指導に有望な立地として選んだ学区がたまたま同和地区だった。同和教育指定校の校庭で職員室からもれる薄明かりに助けられて、塾の後に二組に分かれてボールを蹴った。おっちゃん、よせて、と地区の小中学生も加わった。わたしは教組青年部の教師たちの眼に「変な大人」がしょっちゅうボール遊びをしている、と映ったにちがいない。その中に3年後パートナーになる女性がいた。当時、戦前からの水平社運動の流れをくむ部落解放運動がようやく政府と自治体を動かし、1969年に成立し...狭山事件/脅迫状筆跡「時」の鑑定で浮かび上がった犯人像

  • 樺美智子さん死因はショック死/6.15安保闘争から60年

    復刻人しれず微笑まん―樺美智子遺稿集2011年美智子さん、あれから60年!あなたは人知れず微笑んでいますか?あなたの死因が圧死か扼殺にされてしまって、そっと唇をかんでいませんか?わたしはあなたの5年前の祥月に、法医学的にも批判に耐え得るショック説を当ブログで発表しました。わたしの非力により一件の反響もありませんでした。今回60周年の節目にあたり、真実が定説になるよう、そっくり再録しました。情報技術を駆使できる方々におねがいします。どうかこの記事を拡散して歴史の一角を修正してください。運んだのは木村愛二氏と関勇氏樺さんが倒れるところ、腹部を突かれるところ、首を絞められるところ、その瞬間の目撃者は現れなかった。その瞬間の映像も公開されなかった。私は、執拗に現場をしぼっていって、樺さんの終焉のスポットを7トン車の陰、...樺美智子さん死因はショック死/6.15安保闘争から60年

  • 空港管制塔占拠/三里塚闘争の天王山/開港阻止に向けた一連の市街戦、要塞戦、攻城戦

    1986年に東峰十字路事件に関する裁判で千葉地裁が双方の「手打ち」をほのめかす判決(執行猶予付き有罪)を下したことを記述して前章を締めくくった。そういう気運になるまでにはまだいくつか衝突のヤマを経なければならない。岩山大鉄塔出典sanri-pp.pdf三里塚闘争史1972年3月、反対同盟は、A滑走路の延長上(岩山地区)に離着陸を不可能にする高さ62mの巨大鉄塔を建設した。そして、それの共有化運動や戸村一作委員長の参院選全国区出馬等で三里塚闘争の全国化をはかった。その過程で芽吹いた全国的大衆団体が「三里塚闘争と戸村一作に連帯する会」(後に改称して、三里塚闘争に連帯する会)である。以後、三里塚闘争は全国の反基地、反公害、反戦平和運動のメッカとなる。だが騒音下になる岩山地区住民は集団移転に方向転換した。一方裁判を背負...空港管制塔占拠/三里塚闘争の天王山/開港阻止に向けた一連の市街戦、要塞戦、攻城戦

  • コロナ新型ウイルス=肺炎 は狭義過ぎる/川崎病・しもやけ類似のCovidもある模様

    鐘を鳴らす人4月30日、TBSは、欧米で川崎病に似た症状の幼児患者が確認されたことを報じた。その中で、ゲストの皮膚科専門医の大塚篤司京大准教授がコロナ・ウイルスが血栓をつくり心筋梗塞、脳卒中、「霜焼け」を発症させていることを解説した。霜焼け類似の症状はCovidToe(コロナの指先)と呼ばれていると云う。わたしは驚き怪しみ、やがて、自分はコロナにかかり自然治癒していたのかもしれない、というおめでたい結論(仮説)に達した。上掲病気の原因は血栓による血流障害である。しもやけは両アシの最先端部つまり指先がむくみ、変色する。わたしは第三のアシの亀頭の先っちょがそうなった。かってに名をつけるとGlansFrostbiteとなる。経過を述べる・・・。4月23日に兆候があった。夕方、足元から冷気が上がってくる感じがして両脚が...コロナ新型ウイルス=肺炎は狭義過ぎる/川崎病・しもやけ類似のCovidもある模様

  • 三里塚闘争/戦争の様相/放送塔‣地下壕/東峰十字路事件

    1971年7月26日人もろとも農民放送塔が引き倒される機動隊員が熱中症でダウンして作業が中止になるほどの猛暑の7月末、公団は圧倒的な数の機動隊に護られて「妨害物(農民放送塔・地下壕)排除」を再開した。反対同盟と支援学生は全長100mの地下壕に潜り、放送塔と立ち木に登って命を武器にして各種重機による攻勢に対して抵抗を続けた。20トンのウルトラ重機モータースクレイバーが壕の上の土を削り均す様子と、クレーン車が人もろとも地上物を引き倒す瞬間を映像で見て、私は執行者の生死の瀬戸際作戦に戦慄し息を呑んだ。終生消えることのないイメージは、24mの木製櫓=通称農民放送塔が5人の学生、青行隊員を載せたまま中ほどにワイヤーを掛けられてクレーンで引き倒された光景である。塔は折れて地響きを立てて倒れた。「死んだ」と一瞬思った5人の重...三里塚闘争/戦争の様相/放送塔‣地下壕/東峰十字路事件

  • 三里塚の闘い/イントロの章/第二砦の攻防

    当たりの良いタイトルなら三里塚闘争であるが、今回の自分史のタイトルに闘争名をつけるのは、命がけで戦った老人から少年少女にたいして、関連死した当事者たち、障害を負ったり拘束されたりした男女にたいして心恥ずかしい。なぜなら私は自著で中国、キューバ、ベトナムの人民戦争に希望を託し三里塚闘争に深く共感しながらまともに参加しなかった・・・。初めて現地を訪れたのは1970年の夏であった。情況誌編集者に連れて行ってもらったので名の知れた闘将たちの話を聞くことができた。本三里塚の島寛征青年行動隊員は多分親団盟と全学連の間で武闘路線にどう関わればよいのかで頭がいっぱいだったのか農作業中の顔に苦悩がにじみ出ていた。夜は公団による第三次強制立ち入り調査(のちに農民が誇らしげに三日戦争と呼ぶことになる)に備えて木の根団結小屋に地下壕を...三里塚の闘い/イントロの章/第二砦の攻防

  • 王后虐殺/志士と紙誌に責任あり・・・国民、戦争に熱狂/列強帝国主義犯罪史の一ページ

    正月、わたしは三つ目の故郷博多に里帰りした。泊ったホテル名に祇園の地名がくっついていた。すぐ近くに櫛田神社がある。博多祇園山笠のフィナーレを飾る追い山7流の山車は、スサノオノミコトを祭神とする櫛田神社を発着点とする。その神社に王后を斬ったとされる肥前刀が奉納されている。刀の鞘には「一瞬電光刺老狐夢庵謹識」と刻まれている。夢庵=藤勝顕の号。藤勝顕は1895年春自由党同志と共に渡鮮して「狐狩り」に加わった。「女狐」は壮士達が用いた王后の蔑称である。秘蔵になる前の肥前刀**韓国の肥前刀還収委員会が2010年以降日本外務省に凶器廃棄を求めているため、神社側は肥前刀を非公開とし、いっさいのコメントを控えている。京都見廻組・桂早之助が竜馬を斬った小太刀は霊山歴史館に展示されている。肥前刀も秘蔵ではなく公開を望む。歴史を風化...王后虐殺/志士と紙誌に責任あり・・・国民、戦争に熱狂/列強帝国主義犯罪史の一ページ

  • 閔妃惨殺/王宮乱入の暴漢外交

    金文子著高文研2009年朝鮮王妃殺害と王宮占拠1895年の三国干渉を受けて「将来の対韓政略は、成るべく干渉を息めyame、朝鮮をして自立せしむるの方針を執るべし」、「右決議の結果として同国鉄道電信の件に付、強shiiて実行せざることを期す」と日本は閣議決定(6月4日)した。上記利権案件は王室側が猛反発していたものである。三国干渉前後の日本政府の対朝鮮方針と実際の行動を要約したい。最終目標は朝鮮を勢力下におくことであるが、ロシアと列強の介入を招くような行動は避けねばならない。対朝積極外交は控える。ロシアが日朝関係にも干渉するかもしれないという危惧があったからである。清を追い出して「朝鮮独立」の目的と「東学党の乱」を鎮圧したのだから日本軍も撤退するのが道理であるが、本音は、最低限、既存の朝鮮内の電信線をキープしたい...閔妃惨殺/王宮乱入の暴漢外交

  • 往く年の涙/嗚咽と爆笑/大浜の死と孫の成長

    親友大浜のパートナー正子さんの電話で彼が8月19日に他界したことを知った。脳中枢の麻痺で数年間昏睡したまま寝たきりだった。覚悟はしていたが我分身を失った感覚に襲われた。喪失感は次第に薄まるが罪悪感は終生消えることがない・・・。彼とは気が合うのか衝突したことがない。自然に同調しあっているので会話しても行動しても気持ちが安らぐ。彼との付き合いは卒業直後に始まった。山や川や海にいっしょに行ってよく遊んだ。日常からの脱出、束の間の気晴らしである。登山のルールと楽しみは彼に教わった。最初上高地から槍に登ったときは背中のザックが重くてついていくのがやっとだった。その後、剣・立山、八ヶ岳、北岳、御嶽等に登った。剣山荘にてかれは病院の医師だったからそこの看護婦、職員を連れ出すことが次第に多くなった。大勢の中でわたし一人部外者だ...往く年の涙/嗚咽と爆笑/大浜の死と孫の成長

  • 閔妃暗殺の背景/列強によるアジア分割

    1893.7.8LePetitJournal列強によるパイ分割風刺画(~1995年)【清】お手上げ状態【イギリス】〔ヴィクトリア女王〕インド、ビルマを領有しアフガニスタンを保護国化し、清においては香港島と九龍半島南部を領有するほか最大の利権を獲得していたが、ロシアのユーラシア大陸全域での南下を恐れていた。インドを領有するイギリスはアフガニスタンを、日本は日本海と朝鮮を、それぞれロシアの脅威から絶対に防衛すべき接壌としていたから、やがて対露日英同盟を結ぶことになる。【ドイツ】〔ヴィルヘルム2世〕アフリカ領有を二分するイギリスとフランスに対抗して遅ればせながらアフリカに植民地を獲得し、中東、清への進出をうかがっている。【ロシア】〔ニコライ2世〕ユーラシア大陸の全接壌で南下の脅威を関係国に与えた。清から外満洲を獲得し...閔妃暗殺の背景/列強によるアジア分割

  • 東学農民軍の歴史を訪ねる旅/研究者三傑揃う/中塚明、井上勝生、朴孟洙

    2019年は3.1朝鮮独立運動100周年に当たる。独立宣言でうたわれた独立、民主の精神は125年前東学農民革命を始原とする。かつて「間島出兵/不逞鮮人/関東大震災・朝鮮人虐殺の前史」の記事において、わたしは、1910年の韓国併合、それに至るまでの民衆の抗日義兵闘争とその義軍将校・安重根による前韓国統監・伊藤博文暗殺について以下のコメントを付けた。この討伐戦は日清戦争時の東学農民戦争*の繰り返しのように見える。満州、沿海州に逃げ込まないように、ソウルから遠ざけるように、忠清道から南へ追って包囲網を縮めて最後は全羅南道沿岸と島々で息の根を止める。*東学教徒の死者が日本軍の日清戦争中の戦死者2,3万を上回ることは知られていない。川上操六参謀本部次長は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す、向後悉くkotogotoku殺...東学農民軍の歴史を訪ねる旅/研究者三傑揃う/中塚明、井上勝生、朴孟洙

  • 1969年から半世紀/日大・東大・・・は民主化できたか

    1968メキシコオリンピックにおける日本代表の活躍に刺激されて、はじめてTVを買った。カラー時代なのにシロクロだった。年が明けるとTVの前にくぎ付けになる大事件が起こった。まず1月18,19日の全共闘と機動隊による東大安田講堂攻防戦である。発端は卒業生(インターン)の無給研修制反対闘争だった。機械制大工業の時代にギルドの徒弟制を想わせるやり方で医師の養成が行われていることは驚きであった。50年経っても50の大学付属病院で2192人の無給医(労基法違反)がいることが文科省の調査(報告制)でわかった。日大532人、東大239人、慶大200人など無給医かどうか精査中の大学附属病院がまだあるから実数は3000人以上になるのではないか?自己研鑽目的の自発的な無給勤務を除く数字だそうだ。無給医ゼロと報告した大学でも月給1万...1969年から半世紀/日大・東大・・・は民主化できたか

  • 1968年夏高槻市でサッカーと学習塾を始める /69年夏甲子園 三沢高校太田孝司に魅了される

    当時、塾もサッカーチームも皆無だったため、どちらも上々のすべりだしになった。塾は補習塾で片手間、サッカーに情熱を注いだ。塾の指導は自分のかつての勉強法を踏襲しただけでとくに指導法を研究したことはなかった。地方にはプロの進学塾がなかったから通用したような私塾だった。サッカーの指導には志と夢をもって臨んだ。サッカーはFIFAが一元統括する国際スポーツである。だから指導も世界標準を念頭においてした。まず初めにしたことは名称を高槻フットボールクラブとし日本蹴球協会に登録することである。1969.4.4正式に登録した。世界標準に則した名称と所属を定めユニフォームを作って練習にはげんだが試合相手がない。サッカーマガジンの「募ります」欄で少年チームを見つけて大阪市喜連瓜破、池田市早苗の森まで行った。相手チームの監督はそれぞれ...1968年夏高槻市でサッカーと学習塾を始める/69年夏甲子園三沢高校太田孝司に魅了される

  • 1968年9月 借家生活と塾生募集/少年サッカー始動

    阪急住宅の端っこだった借家は広かったが、裏に大きな農業用ため池があったため湿気がひどく台所はカビだらけだった。なれない自炊でこんなことがあった。炊きあがった炊飯器の蓋を取ると裏に蒸されたナメクジが張り付いていた。ブラジルで遊び道具にしていたエスカルゴの仲間だろうからと思案して食べてみた。サザエの味がした。裏の池ではタモロコがよく釣れた。小指ほどの魚だがコイ科らしく口の横に二本のヒゲ状触覚があった。向日町競輪場[の露天商?]を仕切っているという御爺さんと並んで釣り糸を垂れたことがあった。後日部落の公衆浴場で見かけた。背中一面に入れ墨がしてあった。年老いて小柄であったため倶利伽羅紋々が寂しそうにみえた。何はともあれ塾生を集めなければならない。塾生募集の折込チラシを大量に作って新聞大手3社の配達店を通じて富田地区全域...1968年9月借家生活と塾生募集/少年サッカー始動

  • 高槻市転居始末

    新興住宅地に囲まれた富田地区に限った借家の広告を新聞に載せた。自分の電話がなかったので当時アルバイトで務めていた京大学生課の電話番号を連絡先にした。しかも使用目的を京大教育研究会英数教室とした。権威を利用するあさましさには気付かなかった。すぐ狙っていた辺りから申し出があった。家の間取りも家賃も申し分なかったのでその場で契約した。家主は退職した女教師で千里ニュータウンに転居していた。契約には借家で埃をかぶっている家財道具一切をわたしの手配と費用で大家の家まで運ぶことがふくまれていた。わたしは運送屋と京都から借家まで自分の荷物を運んだうえ借家から大家の家具を千里の大家まで届ける契約を結んだ。引っ越しを含めてすべて滞りなく済んだと思っているところへ翌日大家がとんできて契約破棄と退去を告げた。大家が血相を変えて怒るのも...高槻市転居始末

  • Game=遊戯をせんとや生まれけむ/高槻市でロケーション適地探し

    わたしは生きる道として、革命でも労働でもなく、遊戯を選んだ。遊戯が、ホイジンガの定義通り、自発的な行為、自由な活動であり、必要や欲望の直接的満足の外にあり、欲望の縮減と労働時間の短縮という、わたしが研究から得た結論にかなうからだった。遊戯こそは共同体のつなぎになるという遊戯ユートピアを夢想することで格好をつけることもした。ほかに、一世を風靡したグローバルな文化革命の嵐、なかでもライヒの『セクシュアル・レヴォリューション』の全身の皮膚感覚を大事にする思想に影響された。こうして活動対象として選んだ遊戯の数あるカテゴリーのなかでサッカー(米国と日本での呼称)が条件的にぴったりだった。肉体と頭能を使うだけでなく、一番器用な手handで触ることを制限してかわりに不器用な足footと頭部headを主要な「武器」とするフット...Game=遊戯をせんとや生まれけむ/高槻市でロケーション適地探し

  • 遊戯の復権/遊戯の相のもとに活動する

    わたしは1968年中頃には独自のソ連論に立脚して、レーニン主義前衛党建設を志向する革命運動とマルクス、レーニンの社会主義社会像とを否定するに至った。理論的に納得しないと運動に踏み切れない自分に後ろめたさを感じた。なぜなら革命は理論や陰謀によって起こるものではなく民衆のやむにやまれぬ情動の爆発によって起こるからである。そういう意味では十月革命や中国、キューバ、ヴェトナムの人民戦争のたぎる熱気に、神戸と東日本の大震災に際して感じた心の底からの連帯感と同じものを感じたし、その気持ちは今もかわらない。ともあれ、革命にも労働にも幻滅した。では何をするか。肉体活動と精神活動が結合した何かであるが、それは革命研究の過程でおのずと決まった。おさらいをしながら進む道を探ろう。ホモ・ファーベル(作るヒト)による商業、産業の発展は、...遊戯の復権/遊戯の相のもとに活動する

  • 労働に未来は?/共同体形成のつなぎ足りうるか

    「産業の真の目的は、この世をよくできた、しかも安価な生産物で満たして、人間の精神と肉体を、生存のための苦役から解放することにある」1926年、労働価値説に立ち、かつ労働者を重労働から解放したいという動機で歴史に残る大事業を始めた彼は、こう宣言した。彼とはだれか?産業を共産主義に置き換えると、彼に該当する人物は、5ヵ年計画のスターリンや改革開放の鄧小平に置換可能である。著者の名はヘンリー・フォードである。労働合理化の「科学的管理法」を駆使して商品の大量生産と大量消費社会に道を拓いた第二次産業革命の巨星である。生産性を飛躍させて「高賃金低コスト」を達成して従業員がフォード車を買える産業社会を実現した。彼は、先駆者として、労働者の熟練を機械に体現させてロボットを、分業を統合してラインを、現場による改良改善からシステム...労働に未来は?/共同体形成のつなぎ足りうるか

  • ノーメンクラトゥーラまたはテクノクラート/新しい抑圧階級の誕生

    抑圧民族、すなわち、いわゆる"強大"民族にとって国際主義は、諸民族の形式的平等を守るだけでなく、生活のうちに現実に生きている不平等に対する抑圧民族、大民族のつぐないとなるような不平等を忍ぶことでなければならない。ソ連邦誕生翌日のレーニン口述遺言1922年12月31日生産工程に絞っていた視野を工場の管理部へ、さらに企業経営、国民経済へ広げて見たい。それは視点を生産力から生産関係に移すことでもある。全工程を合理化し運営するのは頭脳部門の計画部である。革命ロシアでは工場委員会、労働組合がその役割を果たすべきだという議論とブルジョア専門家を高給で雇うべきかの議論とが同時に戦わされた。明治政府がお雇い外国人に依存したように、ロシアでも内外の専門家に頼るほかなかった。このコラボ状態をレーニンは労働者統制と言った。もちろん共...ノーメンクラトゥーラまたはテクノクラート/新しい抑圧階級の誕生

  • 労働をいかに組織するか/レーニンとシモーヌ・ヴェーユ/『10月革命への挽歌』から

    100年以上前、第一次世界大戦下の革命ロシアは「パンと平和と土地」を求める民衆の支持を得て初めてプロレタリア政権を樹立した。だが勝利の原因はすぐさま政権の基盤を揺るがす原因になった。対戦国ドイツは革命政権が発した平和布告を受けて講和交渉に応じたが交渉が決裂すると進撃して現在のウクライナ、バルト三国を占領し首都ペトログラードを脅かした。レーニンは領土・接壌よりもソヴィエト権力の安泰をえらんで屈辱的なブレスト-リトフスク条約を結んだ。一部のボルシェヴィキと左翼エスエルは対独即時革命戦争を主張した。英仏等の同盟国は一方的に同盟から離脱して戦線を放棄したソヴィエト政府を利敵行為として非難した。ソヴィエト政府が旧政権の債務不払いと秘密条約暴露を宣言したことは同盟国側をさらに刺激した。ロシア革命が列強に与えた最大の衝撃は共...労働をいかに組織するか/レーニンとシモーヌ・ヴェーユ/『10月革命への挽歌』から

  • 韓国は亡国の恨hanを晴らさずにはおかない/愛国と売国

    韓国は、過去の加害責任にはどの国もそうだが日本同様触れたがらないが、日韓併合被害を決して忘れない。併合の当初から上海、ハワイ等で独立運動をしていた李承晩は戦後大統領として日韓会談に臨むにあたって先ず日本の謝罪を要求した。要求が通らないといわゆる李承晩ラインを設けて日本漁船をたびたび拿捕した。日本に来たばかりの私は頻繁に新聞とラジオで拿捕のニュースを見聞した。李承晩は悪いヤツという印象を刷り込まれた。日韓併合に至る条約の有効-無効と賠償の要‐不要をめぐって交渉は難行し竹島が占領された。1960年安保闘争の最中のことだが、学生と市民による4月革命(戒厳令による弾圧で183名の死者が出た)で李承晩の独裁は終わったが、深刻な経済危機が残った。国庫は底をつき、経済力は最貧に近く朝鮮国に劣った。その深刻な状況は「春窮麦嶺越...韓国は亡国の恨hanを晴らさずにはおかない/愛国と売国

  • ブラジルの軍事独裁/それもいいじゃないか、という学生が増加

    私には祖国が二つある。2018年末、わが生国ブラジルは軍事政権による軍政令AI-5発令50周年を迎えた。もし私が当時ブラジルに居たら30歳の私はどうなっただろうか。軍事政権反対の運動をしていた学生、知識人が日系人を含めておおぜい拉致され拷問され殺され「失踪」とされた。大統領は憲法の権利差し止め権をもち、大統領の権限が憲法を凌駕した。議会は1年間閉鎖された。人身保護令は停止され恣意的拘禁、拷問が日常化した。拉致、拷問後の殺害、死骸隠滅は特別の雇われ工作集団によって巧妙に行われ、「失踪者」の行方は杳として知れなかった。同時期の朝鮮国による日本人拉致に酷似している手口が多い。無法の全体像が想像できる好著花伝社2015年刊民政化後2014年にようやく真相究明委員会が報告書を提出した。それによると軍事政権のトップから兵士...ブラジルの軍事独裁/それもいいじゃないか、という学生が増加

  • どう生きるか? 模索の旅、いざ出発/若者による文化革命の嵐

    自分はどう生きるべきか?その答えを求めて1964年から独学で革命研究を始めた。4年間学生運動に打ち込んで来た流れでロシア十月革命を主軸に据えた20世紀の革命運動を研究対象に選んだ。4年後1968年後半にほぼ目途がついたので高槻市に転居した。そして『情況』誌に「10月革命への挽歌」を連載した。連載終了後それは情況出版で本になった。サブタイトルに「われらの内なるスターリニズム」、帯に「レーニン主義とロシア革命からの決別を!」の文字が躍った。菊地章典先生ほか歴史学者による書評もいくつか新聞に掲載された。その一つに「歴史清算主義」というのがあった。歴史は赤字、黒字と清算できるものではないので首肯できなかったが、当のソ連は後に「清算」されてしまった。私の著書はソ連崩壊を予測するものではなかった。あくまで自分のアイデンティ...どう生きるか?模索の旅、いざ出発/若者による文化革命の嵐

  • イチローと野茂

    イチローの引退会見を見た。私は野球フアンではない。野茂もイチローも日本で活躍している間はわが脳裏に何の印象も残さなかった。ところが米国で名を挙げた時からサッカー・マニアの立場からそのプレイ・スタイルに魅了されただけでなく、両人の国際スポーツ史における意義を考えるようになった。私は1968年秋から少年サッカーの指導を始めたが、野茂イチローと野茂

  • 寺小屋/自然が呼んでいる/アユの伝統漁に一驚

    1964年、卒業と同時に自活のため学習塾を始めた。西陣の大きな寺の一室を借りて折りたたみ式座卓を並べ黒板を正面に置いただけの畳部屋の教室だった。明治以前の寺小屋の場景に近かった。対象学年は6年生以上だったと思うが定かでない。ニューホライズンの英語教科書と数学のプリントを使ったことを覚えているから中学生がいたことは確かだ。学習塾と言っても生計のために始めたことで教育上の志があったわけではないので何も自慢できることがない。家業で忙しい両親に代わって子供の面倒を集会場で看ているという感じだった。母親たちとは入塾申し込み時に会ったきりで教育相談を受けたこともない。予習中心の塾であったが受験塾ではなかった。伝統産業の町西陣はまだ受験競争の圏外にいた。また子供たちは昔ながらに「過保護」からほど遠い境遇でのびやかに生活してい...寺小屋/自然が呼んでいる/アユの伝統漁に一驚

  • 田沢湖~乳頭温泉郷~八幡平~陸中海岸/三陸大津波の教訓

    八幡平トレッキング大浜は登山愛好者で登山に詳しかった。山行に興味を抱き始めた私を八幡平トレッキングに誘った。初めて聞いた地名だった。登山ではなさそうなのでOKした。すべて彼が計画した。わたしは言われるままに登山用ザックを買ってキャンプに必要な物をこれまた指示に従って詰め込んだ。山行に不相応なわたしの身なり(上掲写真)がすべてを語っている。服装がまるでなっていない。運動靴を手にもって裸足で歩いている。大浜は100mほど先を歩いている。大浜の気持ちを察する余裕はわたしにはなかった。半ば後悔しながら、てくてくついていくしかなかった。山歩きの出発点は田沢湖だった。日本一深い湖とも知らず水浴びした。秋田県田沢湖1965年頃乳頭山これも私の撮影乳頭温泉郷は、まもなく秘湯ブームが来て不動のランクを占めたが、当時宿は多分一軒し...田沢湖~乳頭温泉郷~八幡平~陸中海岸/三陸大津波の教訓

  • 泳法と水難防止/井ノ山毅/安保と沖縄×北方4島

    Notice映画「金子文子と朴烈」(イ・ジュンイク監督)初公開最近様変わりした『週刊金曜日』1220号に金子文子特集あり。当BLOG記事「朴烈・金子文子大逆罪適用/義烈団爆弾事件」にも目を通してほしい。井ノ山さんを伏見桃山の官舎に訪ねるようになったきっかけは、60年安保闘争で全国税労組京都支部がゼネストの一環として時間内職場集会を決行したのを、府学連として応援に行き下京税務署でピケを張ったことである。私は当時の学生、労働者の政治的高揚を誇りに思う。税務署員が時間内職場集会を開催して処罰されなかったことは画期的である!戦後15年しか経っていなかったから、軍事同盟と知れば新安保反対は当然の成り行きだった。条約を通すため岸首相は国会の質疑で軍事同盟でないと懸命に虚偽の答弁をしていた。近年、軍事緊張の高まりが戦前のそれ...泳法と水難防止/井ノ山毅/安保と沖縄×北方4島

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