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  • ヤノフスキ/N響

    ヤノフスキ指揮N響の定期演奏会。1曲目はシューベルトの交響曲第4番「悲劇的」。前日に下野竜也指揮日本フィルで同じくシューベルトの交響曲第3番を聴いたので、どうしても比較してしまう。両曲は同時期の作品だ。またN響も日本フィルも同じ12型の編成。それなのに出てくる音楽は対照的だった。下野竜也指揮日本フィルが、軽く明るい音でチャーミングなシューベルトを聴かせたのにたいして、ヤノフスキ指揮N響は、重く渋い音でがっしりした骨格のシューベルトを聴かせた。同時期の作品とは思えない違いだ。好みの点ではどうかといえば、それは人それぞれだろう。シューベルトは第4番の後で、小ぶりで愛らしい第5番を書いたので、下野竜也指揮日本フィルの演奏スタイルのほうがシューベルトの創作のうえで連続性がある。一方、ヤノフスキ指揮N響の演奏は、ヤ...ヤノフスキ/N響

  • 下野竜也/日本フィル

    下野竜也が指揮する日本フィルの定期演奏会。1曲目はシューベルトの交響曲第3番。なんて明るく軽い音だろう。ステージの照度が一段上がったようだ。下野竜也も日本フィルも、いつの間にかこういう音が出せるようになったのだ。加えて、フレーズの区切りが明確で、呼吸感がある。それは若いころからの下野竜也の美質だ。それが柔らかく、ニュアンス豊かになってきた。結果、チャーミングなシューベルトが繰り広げられた。個々の奏者では、第3楽章のトリオでオーボエの杉原さんとファゴットの田吉さんが好演した。それは演奏全体に華を添えた。2曲目はブルックナーの交響曲第3番(1877年第2稿、ノヴァーク版)。弦楽器は1曲目のシューベルトが12型だったのに対して16型に拡大された。そうか、1曲目のシューベルトが軽い音だったのは、2曲目のブルックナ...下野竜也/日本フィル

  • 舟越桂の逝去

    彫刻家の舟越桂が3月29日に亡くなった。72歳。肺がんだった。わたしは迂闊にも、その訃報で初めて、舟越桂がわたしと同い年だったことを知った。そうだったのか……と。なので、なおさら逝去が身にしみた。わたしが初めて舟越桂の作品を見たのは、2005年、ハンブルクでのことだった。ハンブルクにはオペラを観に行った。日中は暇なので、郊外のバルラッハ・ハウスを訪れた。バルラッハはドイツの彫刻家だ。ケーテ・コルヴィッツと同様に、ユダヤ人ではないが、ナチスに迫害された。わたしはバルラッハの作品が好きなので、期待して出かけた。ところが着いてみて驚いた。舟越桂という日本人の彫刻家の展覧会が開かれていた。バルラッハの作品と舟越桂の作品が並んで展示されていた。そのときは、バルラッハの作品を見に来たのに日本人の作品を見るのかと、正直...舟越桂の逝去

  • カンブルラン/読響

    カンブルラン指揮読響の定期演奏会。カンブルランが読響の常任指揮者を退任したのは2019年3月だ。その後、2022年10月と2023年12月にカンブルランが読響を振るのを聴いた。今回で3度目だ。前回までの軽い身のこなしと、常任指揮者時代と変わらない引き締まった音から、今回は少し変わったと感じる。1曲目はマルティヌーの「リディツェへの追悼」。冒頭の音が恐ろしいほど暗く不穏に鳴った。その一撃でチェコの小村リディツェで起きた悲劇を描き尽くすようだ。カンブルランはこれほど表現的だったろうかと。その後の追悼の音楽はむしろ温かい音色でヒューマンだ。カンブルランがこの曲を選んだ気持ちがわかる気がする。2曲目はバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番。ヴァイオリン独奏は金川真弓。かねてから評判をきくにつけて、早く聴いてみたいと...カンブルラン/読響

  • 戦雲

    ドキュメンタリー映画「戦雲」(いくさふむ)。タイトルの「戦雲」は石垣島に伝わる歌の言葉だ。「また戦雲(いくさふむ)が湧き出してくるよ。恐ろしくて眠れない」という内容だ。本作品は三上智恵監督が2015年から8年間にわたり撮り続けた映像を編集したもの。なんのストーリーも想定せずに、宮古島、石垣島そして与那国島に暮らす人々の日常を撮り続けた。急速に軍事化が進むそれらの島々で、人々は不安をかかえ、憤りをおぼえ、それでも慎ましい日々の生活を送る。そんな人々を撮り続けた。スクリーンからは三上監督の共感のこもった眼差しが感じられる。人々はマイクをもって自衛隊に訴える。「私たち住民は、戦争になったら、もしかすると避難することができるかもしれない。でもあなたたちは逃げられないんですよ」と。命が軽んじられるのは住民も自衛隊員...戦雲

  • 原田慶太楼/東響

    原田慶太楼指揮東響の定期演奏会。1曲目は藤倉大の「WaveringWorld」。シアトル交響楽団からの依頼で「シベリウスの交響曲第7番と共演できる作品」(藤倉大自身のプログラムノート)として作曲された。透明感のある弦楽器の音が飛び交う曲だ。その音は銀色に輝くように感じられる。藤倉大の鮮度のよい音の典型だ。弦楽器の音が交錯する中で木管楽器がうごめき、金管楽器が咆哮する。シベリウス的だ。途中からティンパニの強打が始まる。それがずっと続く。ほとんどソロ楽器のようだ。本作品は天地創造のイメージから発しているらしいが(上記のプログアムノートより。ただし天地創造はキリスト教の創世記からではなく、フィンランド神話、日本神話などからインスピレーションを得た藤倉大独自のもの)、ティンパニ・ソロは天地創造の登場人物を表すとい...原田慶太楼/東響

  • かづゑ的

    瀬戸内海の島にたつ国立ハンセン病療養所「長島愛生園」。宮崎かづゑさんは10歳のときに入所した。90歳を超えたいまもそこで暮らす。映画「かづゑ的」は宮崎かづゑさんの日常を追ったドキュメンタリー映画だ。冒頭、かづゑさんが電動カートに乗ってスーパーにむかう。顔見知りの店員さんに声をかける。陳列棚から果物や野菜を取り、かごに入れる。だがその動作が大変だ。かづゑさんには両手の指がない。指のない手で商品を取るのは難しい。両腕でかかえるようにして取る。レジに行く。店員さんが財布を開けてお金を出す。指がないと財布を開けることも、お金を出すこともできない。わたしは冒頭のその場面で「可哀想だな」と思ってしまった。そう思ったわたしのなんと浅はかだったことか。かづゑさんの明るく前向きな生き方が、以後、わたしの同情心を打ち砕く。同...かづゑ的

  • ポリーニ追悼

    ポリーニが亡くなった。82歳だった。一時代を画したピアニストだった。多くの方がSNSで追悼の言葉をささげている。わたしはファンの多さに圧倒された。わたしが初めてポリーニを聴いたのは1974年の初来日のときだ。会場は東京厚生年金会館だった。プログラムの中にシューベルトの「さすらい人」幻想曲とショパンの「24の前奏曲」があった(その他にもう1曲あったような気がする)。「さすらい人」幻想曲の音のやわらかさと「24の前奏曲」の息をのむような完璧さに鮮烈な印象を受けた。もしも神様がわたしに「いままで聴いた演奏会の中でひとつだけもう一度経験させてやる」といったら、あの演奏会を選ぶかもしれない。わたしは当時大学生だった。ポリーニの名前を知ったのは、吉田秀和の著書でその名前を見かけたからだ。懐かしいので引用すると――「も...ポリーニ追悼

  • リープライヒ/日本フィル

    アレクサンダー・リープライヒが(コロナ禍での中断後)久しぶりに日本フィルに客演した。1曲目は三善晃の「魁響の譜」(かいきょうのふ)。1991年の作曲なので、脂が乗りきった時期の作品だ。4管編成が基本のオーケストラ編成だ。三善晃の作品の中では最大規模の編成ではないだろうか。冒頭の暗く混沌とした響きから、武満徹を思わせる甘美な音色があらわれ、アルバン・ベルクのような練れた音楽があらわれたかと思うと、疾駆する音楽があらわれる。広瀬大介氏のプログラムノートに引用された三善晃のインタビュー記事に「今回の作品(注:「魁響の譜」)において、私の語法の論理を使いきったと思います」(岡山シンフォニーホール友の会会報『フリューゲル』インタビュー記事、1991年)とある。たしかに当時の渾身の作品かもしれない。演奏は気合の入った...リープライヒ/日本フィル

  • 新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」

    新国立劇場の「トリスタンとイゾルデ」。当初予定されたトリスタン役とイゾルデ役の歌手がキャンセルして、わたしには未知の歌手が代役に立った。がっかりしたが、代役の歌手が役目を果たした。わたしもそうだが、劇場側もホッとしたことだろう。代役に立った歌手は、まずトリスタン役はゾルターン・ニャリ。個性的な声だが、歌はしっかりしている。第3幕のモノローグもメリハリがある。イゾルデ役はリエネ・キンチャ。第1幕の長丁場は緊張感を欠いたが、第3幕の「愛の死」は抑揚に富む。繰り返すが、総じて2人とも及第点だ。多少脱線するが、この作品はトリスタンとイゾルデの半音階を駆使した音楽と、クルヴェナールの跳躍の多い音楽と、マルケ王の動きの乏しい音楽との3種類の音楽からなる。わたしはだんだんクルヴェナールの音楽が好きになる自分に気付く。そ...新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」

  • 森美術館「私たちのエコロジー」展

    森美術館で開かれている「私たちのエコロジー」展は、環境問題に向き合う現代アートを集めた展覧会だ(3月31日まで)。上掲の画像(↑)の左半分はモニカ・アルカディリの「恨み言」。青い部屋に白い球が浮く。海に浮かぶ真珠をイメージしている。美しい。だが小さな声が聞こえる。「海は全てを暴いてしまう。強い呪いの力で。海に住むものとして、私は呪われた人生を送ってきた。呪われるとは、隠された事実を垣間見ることだ。(以下略)」と。真珠が呟いているのだ。アルカディリは1983年生まれ。ベルリン在住、クウェート国籍。ペルシャ湾岸は古代メソポタミア時代から天然真珠の産地だった。20世紀初頭に日本の養殖真珠によって駆逐された。声はその恨み言だ。本展では上記の「恨み言」をはじめ国内外の34人のアーティストの作品が展示されている。現代...森美術館「私たちのエコロジー」展

  • マリー・ジャコ/読響

    マリー・ジャコが読響の定期を振った。1990年パリ生まれ。2023年からウィーン響の首席客演指揮者、24年からデンマーク王立歌劇場の首席指揮者、25年からケルン放送響の首席指揮者に就任。ヨーロッパのメジャーなポストを席巻中だ。プログラムは20世紀前半の特徴ある曲を並べたもの。1曲目はプロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」組曲。カラフルな音色で鮮やかな演奏だ。明るい感性が息づいている。力みなくオーケストラを鳴らす。集中力が途切れない。指揮者としての力量の発露が感じられる。それにしてもこの曲は面白い曲だ。プロコフィエフはオペラというジャンルにじつに手の込んだ音楽を書いたものだと感嘆する。わたしは一度このオペラを観たことがある(ベルリンのコーミッシェオーパーでアンドレアス・ホモキの演出だった)。音楽もストーリ...マリー・ジャコ/読響

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健指揮東京シティ・フィルの定期。チケットは完売になった。曲目はシベリウスの交響詩「タピオラ」とマーラーの交響曲第5番。同時代を生きたシベリウスとマーラーだが、オーケストラ書法は対照的だ。音を切り詰めてラジカルな簡素化に向かったシベリウスと、音を複雑化して前代未聞の肥大化に向かったマーラー。その対比は興味深いが、それにしてもチケット完売はすごい。高関健と東京シティ・フィルの評価が上がっているからだろう。シベリウスの「タピオラ」は時に鋭角的な音を交えながら、すべての音を明確に示す演奏だ。オーケストラが沈黙すると思っていた部分でホルンが鳴っていたり、弦楽パートの意外な絡み合いがあったり、「なるほどこの曲はこう書かれているのか」と新鮮に聴いた。言い換えれば、茫漠とした北欧情緒で聴かす演奏ではなかった。たぶん高...高関健/東京シティ・フィル

  • 秋山和慶/新日本フィル

    友人からチケットをもらったので、新日本フィルの定期演奏会を聴いた。指揮は秋山和慶。1曲目は細川俊夫の「月夜の蓮―モーツァルトへのオマージュ―」。わたしは初めて聴く曲だ。相場ひろ氏のプログラムノートによれば、2006年にモーツァルトの生誕250年を記念して北ドイツ放送局の委嘱により書かれた曲だ。「モーツァルトのピアノ協奏曲から好きな曲を1曲挙げ、それと同様の楽器編成を用いて演奏することができるように」という依頼だった。細川俊夫はピアノ協奏曲第23番を選んだ。たしかに曲の最後にモーツァルトのピアノ協奏曲第23番の第2楽章が出てくる。モーツァルトが書いた音楽の中でももっとも甘美な音楽だ。「月夜の蓮」は、産みの苦しみと、開化の直後の晴れやかな静けさを感じさせる音楽だ(ホルン協奏曲「開花の時」(2011年)に通じる...秋山和慶/新日本フィル

  • 東京都美術館「印象派 モネからアメリカへ」展

    東京都美術館で開催中の「印象派モネからアメリカへ」展は、印象派の絵画がヨーロッパ各地、アメリカそして日本にどのように伝わったかを辿る展覧会だ。展示作品のほとんどはアメリカのウスター美術館の所蔵品。ウスターはマサチューセッツ州の(ボストンに次ぐ)第二の都市だ。コロー、ピサロ、モネの上質の作品が来ている。それぞれの画家のエッセンスが凝縮されたような作品だ。どれもウスター美術館の所蔵品。本展のHP(↓)に画像が掲載されている。だがもっとも感銘を受けたのは、アメリカ印象派の作品だ。初めて名前を知る画家たちの作品が新鮮だ。なかでもメトカーフ(1858‐1925)の「プレリュード」とグリーンウッド(1857‐1927)の「雪どけ」は、本展の白眉だった。「プレリュード」は早春の山野を描く。木々の芽吹きと若草が目にやさし...東京都美術館「印象派モネからアメリカへ」展

  • インバル/都響

    インバル指揮都響のマーラーの交響曲第10番(デリック・クック補筆版)。わたしが聴いたのは2日目だ。SNSを見ると、1日目の演奏には辛口の意見が散見される。だが少なくとも2日目の演奏は、伝説的な名演の誕生と思われた。冒頭のヴィオラの音がクリアーで、かつ潤いがある。首席の店村さんの、これが最後のステージだと思ったからかもしれないが、いつまでも記憶に残りそうな音だ。その音が端的に示すように、第1楽章を通して、弦楽器の各パートの、明瞭に分離し、かつしっとりした音色が続いた。例の不協和音のところも、絶叫調にならずに(音が濁らずに)、けれども衝撃力をもって鳴った。その直後のトランペットのA音の持続は悲痛でさえあった。わたしはコロナ禍以前には、長年都響の定期会員だった。コロナ禍以後は継続しなかったが、単発的に聴いていた...インバル/都響

  • PERFECT DAYS

    映画「PERFECTDAYS」を観た。映画を観るのは久しぶりだ。昨年は映画を観なかった。観たい映画はいくつかあったが‥。「PERFECTDAYS」は昨年12月に封切になったので、もう1か月以上続いている。今でもかなりの入りだ。話題作なのでプロットを紹介するまでもないだろう。一言でいえば、ドロップアウトした人の話だ。名前は平山という。恵まれた家に生まれたようだが、父親と対立して家を出た(詳しくは描かれない)。その後どういう経緯をたどったかはわからない。ともかく今は下町の老朽化したアパートに住み、公衆トイレの清掃員をしている。貧しいが、自由だ。自由の代償は貧しさと孤独だが、平山は自由を選んだ。親ガチャとは正反対の生き方だ。そんな生き方を描く映画を多くの人が観る。なぜだろう。みんな心の底ではそんな生き方に憧れて...PERFECTDAYS

  • カサド/N響

    パブロ・エラス・カサド指揮N響の定期Bプロ。スペイン・プログラムだ。1曲目はラヴェルの「スペイン狂詩曲」。冒頭のヴィオラを主体にした弦楽器の音が美しい。音の層が透けて見えるようだ。2曲目はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番。ヴァイオリン独奏はアウグスティン・ハーデリヒ。1984年生まれ。両親はドイツ人だがイタリアで生まれたと、プロフィールにある。わたしは初めて聴くヴァイオリニストだ。並みの才能ではないようだ。一時のスター演奏家のように人一倍大きく張りのある音で弾くタイプではない。繊細な音が目まぐるしく動く。自由闊達に音楽の中で動きまわる。天性の音楽性の持ち主のようだ。カサド指揮のN響もそのヴァイオリンによく付けていた。抑制され、しかも俊敏な音だ。ヴァイオリン独奏のスタイルと齟齬がない。プロコフィエフ...カサド/N響

  • 追悼 小澤征爾

    小澤征爾が亡くなった。1951年生まれのわたしは、中学生のころからクラシック音楽に夢中になったが、小澤征爾は当時のわたしのアイドルだった。音楽雑誌に載った小澤征爾の写真を切り抜き、大切にしていた。小澤征爾の演奏は何度か聴いた。もっとも記憶に残っているのは、分裂前の日本フィルを振ったシューベルトの「未完成」交響曲とバーンスタインの「ウエストサイド物語」からのシンフォニック・ダンスの演奏だ。「未完成」交響曲の、集中力のある、しなやかな演奏に魅了された。異様な体験だったのは、日本フィルの分裂直前のマーラーの「復活」交響曲の演奏だ。テンションが極限状態に高まり、音楽が崩壊する瀬戸際の演奏だった。日本フィルの分裂という異常事態を前にして、音楽以外の要素が諸々入りこんだ演奏だっただろう。しかしそれも人の営みとしての音...追悼小澤征爾

  • 山田和樹/読響:小澤征爾追悼演奏「ノヴェンバー・ステップス」

    山田和樹指揮読響の定期演奏会は、忘れられない演奏会になった。プログラムは3曲あった。2曲目に武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」があった。それが始まる前に山田和樹がマイクをもって登場した。どうやら小澤征爾が亡くなったらしい。「ノヴェンバー・ステップス」の演奏は小澤征爾に捧げるとのことだった(マイクを通した声がホールに反響して、細部はよく聴こえなかったが)。「ノヴェンバー・ステップス」の演奏は一種特別なものだった。オーケストラが完璧なピッチで鮮明に鳴った。この曲のオーケストラ部分は断片的な音楽だが、その音楽に今までこの曲では聴いたことがないような色彩感があった。そしてオーケストラが独奏楽器の尺八と琵琶に耳を傾け、沈黙し、ついには圧倒されるドラマが浮き上がった。尺八は藤原道山、琵琶は友吉鶴心。この曲の第一世代...山田和樹/読響:小澤征爾追悼演奏「ノヴェンバー・ステップス」

  • METライブビューイング「アマゾンのフロレンシア」

    METライブビューイングでダニエル・カタン(1949‐2011)のオペラ「アマゾンのフロレンシア」を観た。1996年にヒューストンで初演されたオペラ。甘く酔わせるメロディーがふんだんに出る。アリアあり二重唱ありアンサンブルあり。アリアの後には(観客が拍手できるように)ちゃんと間がある。今でもこのようなオペラが作られているのだ‥。前回のMETライブビューイングはアンソニー・デイヴィス(1951‐)の「マルコムX」だった。「マルコムX」は1986年にニューヨーク・シティ・オペラで初演された。前々回はジェイク・ヘギー(1961‐)の「デッドマン・ウォーキング」。2000年にサンフランシスコで初演された。今回の「アマゾンのフロレンシア」と合わせて、現代は多様なオペラが作られている。そのオペラの沃野を感じる。「デッ...METライブビューイング「アマゾンのフロレンシア」

  • 井上道義/N響

    井上道義の2024年12月での引退がカウントダウンに入ってきた。N響の定期演奏会を振るのはこれが最後だ。そう思うと、やはり感慨深い。曲目はショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」。ショスタコーヴィチ最大の曲だ。余力を残して引退する井上道義にふさわしい曲目だ。「バビ・ヤール」の前に2曲演奏されたので、以下順に。1曲目はヨハン・シュトラウス二世のポルカ「クラップフェンの森で」。シュトラウスがロシアで作曲した曲だそうだ。カッコウの鳴き声の笛が入る。「ああ、この曲か」と。その笛がのんびりと、ちょっとテンポが遅れて入る。それがユーモラスだ。途中で演奏者が笛を落とした。それも演出かと思ったが、そうではなかったようだ。2曲目はショスタコーヴィチの舞台管弦楽のための組曲第1番から「行進曲」、「リリック・ワルツ」...井上道義/N響

  • 藤岡幸夫/東京シティ・フィル

    藤岡幸夫指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。1曲目はロッシーニの「チェネレントラ」序曲。「チェネレントラ」は好きなオペラだが、序曲を演奏会で聴いたことがあったろうかと。そもそもロッシーニの序曲を演奏会の冒頭に組むことが(最近では)珍しくなった。昭和の時代を思い出すといったら、語弊があるか。演奏は堂々としたシンフォニックなもの。それも昔懐かしい。序奏でのファゴットが軽妙な味を出した。藤岡幸夫の指示なのか。首席奏者・皆神陽太の創意なのか。舞台でのコミカルな演技を彷彿とさせた。2曲目は菅野祐悟の新作「ヴァイオリン協奏曲」。ヴァイオリン独奏は神尾真由子。菅野祐悟の作品を聴くのは3度目だ。サクソフォン協奏曲を2度(東京シティ・フィルと日本フィルで)と交響曲第2番を1度(東京交響楽団で)聴いた。どれも透明な美しい音響...藤岡幸夫/東京シティ・フィル

  • カーチュン・ウォン/日本フィル

    カーチュン・ウォンと日本フィルが快調に飛ばしている。昨年10月の首席指揮者就任披露公演となったマーラーの交響曲第3番はもとより、11月のチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」や12月のショスタコーヴィチの交響曲第5番もすばらしかった。そして今度はカーチュン・ウォンと日本フィルならではのプログラムが組まれた。1曲目はチナリ―・ウン(1942‐)の「グランド・スパイラル:砂漠の花々が咲く」。ウンはカンボジア生まれの作曲家だ。1965年にアメリカに渡り、クラリネットと作曲を学んだ。当時カンボジアではクメール・ルージュによる大虐殺が起きたが、ウンはアメリカにいたために難を逃れた。その後アメリカで音楽活動を続ける。前置きが長くなったが、そんなウンの「グランド・スパイラル」は、鮮やかな色彩感と西洋音楽とは異質な拍節感...カーチュン・ウォン/日本フィル

  • METライブビューイング「マルコムX」

    METライブビューイングでアンソニー・デイヴィス(1951‐)のオペラ「マルコムX」(現題は「X:ThelifeandTimesofMalcolmX」)を観た。アメリカの黒人解放運動の指導者のひとりマルコムX(1925‐1965)の生涯を描いたオペラだ。全3幕、上演時間約3時間の堂々たるオペラだ。第1幕はマルコムXの父親が交通事故で亡くなった(白人のレイシストから殺害された可能性がある)1931年から、従姉に引き取られてボストンで青年時代を送る1940年代までを描く。第2幕はマルコムXがイスラム教の団体「ネイション・オブ・イスラム」の伝道者として活躍する1950年代から1960年代初頭までを描く。第3幕はマルコムXが「ネイション・オブ・イスラム」から離れてメッカに巡礼に赴き、人種に関係なくイスラム教のもと...METライブビューイング「マルコムX」

  • カーチュン・ウォン/日本フィル(横浜定期)

    カーチュン・ウォンが指揮する日本フィルの横浜定期。1曲目は伊福部昭のバレエ音楽「サロメ」から「7つのヴェールの踊り」。リズムの切れが良く、中東的な情緒が濃厚だ。一朝一夕の演奏ではなく、作品への理解と自信が感じられる。カーチュンと日本フィルが積み上げてきた伊福部昭作品の演奏経験の表れだろう。「7つのヴェールの踊り」といえばリヒャルト・シュトラウスのオペラ「サロメ」の同名曲を思い出すが、シュトラウスの音楽とはそうとう異なる。わたしは初めて聴いたので正確性を欠くかもしれないが、曲は大きく分けて、静―動―静―動の4つの部分に分かれるようだ。たぶんその中で7つのヴェールを一枚ずつ取り去るのだろう。2曲目はラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。ピアノ独奏は上原彩子。例の甘いメロディーの第18変奏が意外に甘さ...カーチュン・ウォン/日本フィル(横浜定期)

  • ヴァイグレ/読響

    ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会。1曲目はワーグナーの「リエンツィ」序曲。重心の低いがっしりした演奏だ。劇場でオペラ公演の序曲として聴いたら、堂々とした立派な演奏だと思うかもしれない。だが演奏会の曲目として聴くと、音色の魅力に欠ける。音色をもっと磨いてほしい。ドイツのローカルなオーケストラの音のようだった。2曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏はダニエル・ロザコヴィッチ。2001年ストックホルム生まれというから、今年23歳だ。驚くほど澄んだ音色の持ち主だ。フレージングも美しい。抜群の音楽性を持っているようだ。だが、気になる点がある。たとえば第1楽章のカデンツァが終わり、オーケストラが戻る箇所で、ヴァイオリンの音が聴こえるか聴こえないか、というほどの弱音になった。テンポは今にも止まりそう...ヴァイグレ/読響

  • ソヒエフ/N響

    ソヒエフが指揮したN響の定期演奏会Aプロ。1曲目はビゼー作曲シチェドリン編曲の「カルメン組曲」。バレエのための音楽だ。初めて聴いたときにはびっくりした。「カルメン」の音楽が順不同に出てくるのはともかくとして、「カルメン」とは関係のない「アルルの女」の音楽と「美しきパースの娘」の音楽が出てくる。たぶんバレエのストーリーの展開のうえで、つなぎの音楽が必要だったのだろう。弦楽合奏と多数の打楽器(5人の打楽器奏者が演奏)のための音楽だ。全体は13曲からなる。たとえば第4曲「衛兵の交代」では打楽器がコミカルな動きをする。第11曲「アダージョ」から第12曲「占い」、第13曲「終曲」へと一気にシリアスになる。コミカルからシリアスへの転換が鮮やかだ。演奏は極上だった。弦楽器も打楽器も繊細な神経が張り巡らされ、集中力が途切...ソヒエフ/N響

  • 沖澤のどか/東京シティ・フィル

    沖澤のどかが東京シティ・フィルの定期演奏会に初登場した。1曲目はシューマンのピアノ曲「謝肉祭」をラヴェルがオーケストラ用に編曲したもの。そんな曲があったのかと思う。柴田克彦氏のプログラムノーツによると、ラヴェルが舞踊家のニジンスキーのために行った編曲とのこと。惜しむらくは、ラヴェルは「謝肉祭」の全曲をオーケストレーションしたが、出版されたのは4曲だけで、それ以外の曲は失われたそうだ。出版された(今回演奏された)4曲は「前口上」、「ドイツ風ワルツ」、「パガニーニ」、「ペリシテ人と闘うダヴィッド同盟の行進曲」。どの曲もバレエ音楽らしい華やかさに満ちている。全曲が残っていたらどんなに良かったことか。編曲時期は1914年なので、たとえば1912年の「ダフニスとクロエ」よりも後だ。ラヴェルの成熟した手腕がうかがえる...沖澤のどか/東京シティ・フィル

  • ドルフマン「死と乙女」

    チリで軍事クーデターが起きたのは1973年9月11日(「チリの9.11」といわれる)。2023年はクーデター発生後50年だった。チリではクーデター後、民主化を求める人々への軍事政権の弾圧が続いた。チリの作家、アリエル・ドルフマンの「死と乙女」(↑)は弾圧をテーマにした戯曲だ。登場人物はわずか3人。40歳前後の女性・パウリナは軍事政権当時、地下組織のメンバーだった。軍事政権の拷問をうけた。民政移管された今でも拷問の記憶がトラウマになっている。40歳過ぎの弁護士・ヘラルドはパウリナの夫だ。パウリナとともに地下組織のメンバーだった。パウリナが口を割らなかったので、逮捕を免れた。今は新政権のもとで、軍事政権が行った弾圧の調査委員会のメンバーになっている。3人目の登場人物は、50歳前後の医師・ロベルトだ。パウリナは...ドルフマン「死と乙女」

  • 井伏鱒二「黒い雨」

    能登半島の大地震や羽田空港の航空機事故の続報が連日入る。胸の痛む毎日だ。志賀原発もじつは危険な状態だったことが分かった。最初は「異常なし」といっていたが‥。気を取り直して、2023年に読んだ2冊の本の感想を書いておきたい。まず井伏鱒二の「黒い雨」から。「黒い雨」は、映画は観たが、原作は読んでいなかった。2023年は井伏鱒二(1898‐1993)の没後30年だったので、その機会に読んでみた。映画と原作はだいぶ異なる。映画は原爆の悲劇が抒情的に描かれていた。原作はむしろ散文的だ。原爆という空前絶後の惨事にあった一人の日本人の姿が描かれる。原作では閑間重松(しずま・しげまつ)という老人が前面に出る。重松は戦後、同居する姪の矢須子の縁談が持ち上がったので、縁談相手に矢須子は原爆投下当時、広島市内にはいなかった(被...井伏鱒二「黒い雨」

  • 能登半島の想い出

    能登半島を旅したことがある。旧家の時国家を見学したり、曽々木海岸にしずむ夕日を眺めたり、珠洲の揚げ浜塩田を見学したりと、のんびりした旅だった。2011年10月のことだ。わたしは車を運転しないので、移動は路線バスとタクシーだった。珠洲で路線バスを待つあいだに食堂に入った。うどんの昼食をとっていると、小柄な老人に話しかけられた。とりとめのない話をするうちに、老人はこんな話をした。「珠洲でも原発を作る話があったんさ。おれは反対した。そしたら村八分さ。だれも口をきいてくれなかった。それで今度の原発事故だろ。みんな手のひら返したように『爺さんのおかげだ』といってくる。」正月早々の大地震は、珠洲が震源地だ。あの老人はどうしているのだろう。2011年の時点ですでにそうとう高齢だったが‥。揚げ浜塩田は海岸に面している。残...能登半島の想い出

  • 2023年の音楽回顧

    2023年はどんな年だったろう。ウクライナ戦争は終わりが見えない。ガザではイスラエルがジェノサイドともいえる攻撃を仕掛ける。世界は戦争の時代に入ったのか。ともかく、わたしの2023年を振り返ろう。吉田秀和が「思うこと」というエッセイ(吉田秀和全集第10巻所収)でドイツの詩人、ギュンター・アイヒの詩の一節を引用している。次のような詩だ。「眼をとじてみたまえ/その時、きみに見えるもの/きみのものはそれだ」。わたしも眼をとじてみよう。なにが見えるか。まず思い出すのは、ヴァイグレ指揮読響が演奏したアイスラーの「ドイツ交響曲」だ。アイスラーが主にブレヒトの詩をもとに作曲したカンタータ的な作品。詩の内容は、第一次世界大戦後、民主的なワイマール憲法のもとでナチズムが台頭し、ドイツを破滅に導いたことを糾弾するもの。その曲...2023年の音楽回顧

  • 国立西洋美術館「キュビスム展」

    国立西洋美術館で「キュビスム展」が開催中だ。20世紀初頭にパリでピカソとブラックが始めたキュビスムが、あっという間に多くの画家たちに広がり、熱狂の瞬間を迎えたその時に第一次世界大戦が勃発し、キュビスムは重大な転機に立たされる。その経過が生々しく感じ取れる展覧会だ。メインビジュアル(↑)の作品はロベール・ドロネーの「パリ市」だ。中央の3人の裸体の女性は西洋絵画の伝統的な図像の三美神だ。右側にはエッフェル塔の断片が見える。左側に見える川はセーヌ川だ。現代のパリの街並みに三美神の幻影を見る。細かいモザイクのような画面は、プリズムを通したように見える。それが三美神の幻想性を高める。絵具は薄塗りで透明感がある。実物を見ると驚くが、サイズは縦267㎝×横406㎝と大きい。1912年のサロン・デ・ザンデパンダンに展示さ...国立西洋美術館「キュビスム展」

  • レーガー生誕150年

    大野和士が指揮する都響の12月定期Aシリーズのプログラムに、今年生誕150年のレーガー(1873‐1916)の珍しい曲が組まれた。「ベックリンによる4つの音詩」だ。実演を聴いてみたくて出かけた。ベックリンはスイス生まれの象徴主義の画家だ。レーガーはベックリンの4枚の絵画にインスピレーションを得て作曲した。第1曲は至福にみちた瞑想的な音楽。一貫してコンサートマスターのヴァイオリン独奏が続く(当夜のコンサートマスターは矢部達哉)。第2曲はスケルツォ風の音楽。第3曲はエレジー。悲しみが爆発する。第4曲はフィナーレ。バッカスの祭りだが、開放感に欠ける。レーガーには晦渋なイメージがある。だが、少なくともこの曲は平明だ。もっと演奏されていいと思う。実演を聴くと、音に独特の色がある。派手な色ではなく、くすんだ色だ。聴く...レーガー生誕150年

  • ルイージ/N響「一千人の交響曲」

    N響の第2000回公演。ルイージの指揮でマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」。第1部冒頭の合唱が、力まずに、さらりと入る。勢い込んだ入りとは違う。演奏はだんだん熱が入る。バンダが加わるコーダは圧倒的な音量でNHKホールの巨大な空間を満たした。第2部の冒頭は神経のこもった弱音だ。荒涼とした岩山の風景が浮かぶ。ハープにのって第1ヴァイオリンがゆったり奏でる部分が美しい。聖母マリアが降臨して、ホールが愛に満たされるようだ。だからこそ、グレートヒェンを表す第2ソプラノの歌に説得力があった。神秘の合唱の出だしの再弱音にゾクゾクする。コーダでは肯定的な音が鳴った。独唱者はオーケストラの後ろに配置された(聖母マリアを表す第3ソプラノはオルガン席で歌った)。その配置は独唱者には不利だが、承知の上だろう。当日の主役はオ...ルイージ/N響「一千人の交響曲」

  • スダーン/東響

    桂冠指揮者スダーンの振る東響の定期演奏会は、シューマンの交響曲第1番「春」のマーラー版とブラームスのピアノ四重奏曲第1番のシェーンベルク編曲という、一見オーソドックスだが、ひねりの利いたプログラムだった。スダーンは東響の音楽監督在任中にシューマンの全交響曲のマーラー版を振ったそうだが、わたしは聴かなかったので、今回が初見参だ。マーラー版といわれると、身構えてしまうが、佐野旭司氏のプログラムノートによれば、それほど警戒(?)すべき版ではないらしい。以下、引用すると――「マーラーの編曲は基本的に原曲に忠実である。しかし、例えば第1楽章の冒頭(トランペットとホルンのユニゾン)でホルンの数を増やしたり、また第2楽章の冒頭主題は本来第1ヴァイオリンのみで奏されるところを第2ヴァイオリンを加えたりと、随所で細かい変更...スダーン/東響

  • METライブビューイング「デッドマン・ウォーキング」

    METライブビューイングでジェイク・ヘギー(1961‐)の「デッドマン・ウォーキング」(2000)を観た。MET(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場)は名作オペラの上演と併せて、現代オペラの上演にも力を入れている。本作品もそのひとつだ。主人公は修道女のヘレン。死刑囚のジョゼフとの文通をきっかけに、ジョゼフの求めに応じてジョゼフと会う。ジョゼフは殺人犯だが、罪を認めない。死を恐れるジョゼフ。ヘレンはジョゼフに罪を認め、赦しを乞うよう説得する。「真実はあなたを自由にする」と。重いテーマが幾重にも重なる。第一に死刑制度の問題だ。本作品は遺族の苦悩を綿密に描く。死刑制度反対を主張する作品ではない。観る者に考えさせる。第二に信仰の問題だ。ヘレンの信仰はゆるぎない。死におびえるジョゼフに「神は周りに私たちを集めてくだ...METライブビューイング「デッドマン・ウォーキング」

  • カーチュン・ウォン/日本フィル

    カーチュン・ウォン&日本フィルの快進撃が続く。12月の東京定期はこのコンビらしいプログラムだ。1曲目は外山雄三の交響詩「まつら」。日本フィル恒例の九州公演から生まれた曲だ。わたしは1985年9月の渡邉暁雄&日本フィルと、2014年12月の外山雄三&日本フィルの演奏を聴いた。今回久しぶりに聴き、「こんなにいい曲だったっけ」と思った。冒頭の静謐な音から祭囃子の幻想的な音へ自然に移行する。祭囃子がお祭り騒ぎにならない点が好ましい。この曲の難点だと思っていた強引なエンディングは、軽いアクセントを打って終わるように聴こえた。2曲目は伊福部昭の「ラウダ・コンチェルタータ」。マリンバ協奏曲だ。わたしは一時この曲に夢中になった。きっかけは1990年4月に聴いた安倍圭子のマリンバ独奏、山田一雄&新星日響の演奏だ。憑依したよ...カーチュン・ウォン/日本フィル

  • カンブルラン/読響

    カンブルラン指揮読響の定期演奏会。1曲目はヤナーチェクのバラード「ヴァイオリン弾きの子供」。レアな曲だ。そんな曲があったのかと思う。スヴァトブルク・チェフの詩に基づく曲という(澤谷夏樹氏のプログラムノーツによる)。チェフといえば、オペラ「ブロウチェク氏の旅行」の原作者だ。別人の手によるオペラ台本では、第2部の冒頭にチェフ自身が現れて詩を朗読する。印象的な場面だ。「ヴァイオリン弾きの子供」の作曲年は1912年。ちょうど「ブロクチェク氏の旅行」を作曲中のころだ。1912年はピアノ曲集「霧の中で」の作曲年でもある。「ヴァイオリン弾きの子供」は「霧の中で」に通じる抒情性がある。しんみりしていて、どこか儚げだ。カンブルラン指揮読響の演奏はその曲想をよく表現した。コンサートマスターの日下紗矢子のヴァイオリン独奏もその...カンブルラン/読響

  • 高関健/東京シティ・フィル「トスカ」

    高関健指揮東京シティ・フィルの「トスカ」の演奏会形式上演。歌手の面でもオーケストラの面でも「トスカ」の音楽を堪能できた。歌手でもっとも感銘を受けたのは、カヴァラドッシをうたった小原啓楼だ。第1幕の余裕をもったカヴァラドッシから、第2幕の拷問に苦しむカヴァラドッシ、拷問の途中でナポレオン軍の勝利の報が届き、歓喜の叫びをあげるカヴァラドッシ、そして第3幕の処刑を前にした絶望のカヴァラドッシまで、表現の幅が広い。わたしは以前、松村禎三のオペラ「沈黙」で小原啓楼のロドリゴを聴き、たいへん感銘を受けたのだが、それ以来の感銘を受けた。トスカをうたったのは木下美穂子。安定した歌唱で安心して聴けた。「歌に生き、恋に生き」もたっぷり聴けた。スカルピアは上江隼人。過不足ない歌唱だ。アンジェロティは妻屋秀和。第1幕を引き締めた...高関健/東京シティ・フィル「トスカ」

  • カーチュン・ウォン/日本フィル(横浜定期)

    日本フィルの横浜定期は、来日を見送ったラザレフの代わりにカーチュン・ウォンが振った。カーチュンは「ぶらあぼ」の取材に答えて「元首席指揮者であるラザレフの代役を、現首席の自分が引き受けるのは当然のこと」といっている(11月22日)。頼もしい責任感だ。プログラムは一部変更になった。1曲目は小山清茂(1914‐2009)の「管弦楽のための木挽唄」(1957)。渡邉暁雄指揮の日本フィルが初演した曲だ。何度か聴いた曲だが、うかつにも小山清茂自身の書いたプログラムノートを知らずにいた。大変参考になるので、以下に要約して引用したい。第1楽章はテーマ。木挽職人が山で材木を切りながらうたう唄。第2楽章は盆踊り。木挽職人が仕事を終え、村里に帰ってこの唄をうたうと、その節回しが村中に広まって、ついに盆踊りになる。第3楽章は朝の...カーチュン・ウォン/日本フィル(横浜定期)

  • 新国立劇場「シモン・ボッカネグラ」

    新国立劇場の新制作「シモン・ボッカネグラ」は、複雑なストーリーのこのオペラに真正面から取り組んだ。歌手、演出、指揮のそれぞれの力が結集して、ヴェルディの数あるオペラの中でも特異な存在のこのオペラの真価を明らかにした。タイトルロールのシモンを歌ったロベルト・フロンターリは、揺れ動くシモンの内面を陰影深く表現した。シモンは25年前の前史を描くプロローグでは、恋人マリアの父・フィエスコに赦しを乞うが、かなえられない。第1幕の議会の場ではヴェネチアとの和平を諮るが、議会は与党(平民派)も野党(貴族派)も戦いの継続を主張する。25年ぶりに出会った娘・アメーリアにはシモンと敵対するガブリエーレという恋人がいる。シモンは25年前のフィエスコの立場に立たされたわけだが、シモンはフィエスコとは違って、ガブリエーレを赦そうと...新国立劇場「シモン・ボッカネグラ」

  • SOMPO美術館「ゴッホと静物画」展

    SOMPO美術館で「ゴッホと静物画」展が開かれている。もともとは2020年に予定された新館への移転記念の企画展だが、コロナ禍のために延期された。ゴッホの静物画の変遷をたどるとともに、ゴッホが影響を受けた(あるいはゴッホから影響を受けた)静物画と比較検討する試みだ。チラシ(↑)に使われている作品は「アイリス」だ。ゴッホの代表作のひとつで、日本にも以前来たことがある。わたしは2度目だが、会場で再会したとき、初めて見るような新鮮さを感じた。まず思ったことは、花瓶がこんなに小さかったか、ということだ。花瓶に盛られたアイリスの花のボリューム感に比べて、花瓶が小さい。今にも倒れそうなくらいにアンバランスだ。そのアンバランス感はアイリスのボリューム感を強調するためだったかもしれない。だが本作品はゴッホが亡くなる年に描か...SOMPO美術館「ゴッホと静物画」展

  • マーツァルとテミルカーノフの逝去

    今夏は7月に外山雄三さんが亡くなり、8月に飯守泰次郎さんが亡くなった。まったく何ていう夏だろうと思っていたら、10月にチェコ・フィルの元首席指揮者のズデニェク・マーツァルが亡くなり、11月に読響の名誉指揮者のユーリ・テミルカーノフが亡くなった。マーツァルは2003年にチェコ・フィルの首席指揮者に就任した。チェコが1989年にビロード革命を成し遂げた後、チェコ・フィルの首席指揮者は、短命に終わった第一次ビエロフラーヴェク時代を経て、ゲルト・アルブレヒト、ウラジミール・アシュケナージと外国人指揮者が続いた。その後を受けてのチェコ人・マーツァルの就任だった。だが2007年には退任した。わたしは2008年にプラハを訪れた。チェコ・フィルの定期演奏会があるので、聴きにいった。指揮はマーツァルだった。プログラムは1曲...マーツァルとテミルカーノフの逝去

  • ノット/東響

    ノット指揮東響の定期演奏会はベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番(ピアノ独奏はゲルハルト・オピッツ)と交響曲第6番「田園」。これ以上はないオーソドックス・プログラムだ。ピアノ協奏曲第2番ではオピッツのピアノに注目するわけだが、その演奏はドイツのベテラン・ピアニストのイメージとは多少異なり、みずみずしく輝く音色が特徴的だ。清新なその音色で、激することなく、終始自分のペースを保って演奏する。穏やかといえば穏やかだが、それは変わったことをしないという意味であって、穏やかさの中にも精神の張りがある。もちろんノット指揮東響の演奏もオピッツに呼応する。演奏全体はルーティンに陥らず、若いベートーヴェンの感性を感じさせるものだった。だがこの曲はこれだけだろうかと、疑問がわくのも抑えられなかった。周知のようにベートーヴェンは...ノット/東響

  • B→C 中恵菜 ヴィオラ・リサイタル

    東京オペラシティのB→Cシリーズに、新日本フィルの首席ヴィオラ奏者で室内楽活動も活発な中恵菜(なか・めぐな)が登場した。1曲目はバッハの無伴奏チェロ組曲第3番のヴィオラでの演奏。一音一音をしっかり鳴らす演奏だ。原曲がチェロ用の曲だからそのような鳴らし方になったのかと、プログラム後半のヴィオラのオリジナル曲の演奏を聴きながら考えた。2曲目はブリテンの無伴奏チェロ組曲第3番のヴィオラでの演奏。バッハとブリテンの違いだろうか、元来はチェロ用の曲だということをあまり意識せずに聴いた。それはともかく、この曲の多様式ともいえる構成は圧倒的だ。バッハ風の音楽の出現もさることながら、パッサカリアの深さと(ブリテンのパッサカリアはどの曲も特別だ)、それに続く3つのロシア民謡の出現の意外さ。プログラム後半は現代曲が4曲。まず...B→C中恵菜ヴィオラ・リサイタル

  • わたしの故郷

    わたしの故郷は多摩川の河口の街だ。家の周囲には小さな町工場がひしめいていた。日本が高度経済成長期にあったころは、工場の廃液が溝に流れ、異臭を放った。普段羽振りの良かった工場主が夜逃げしたこともある。喧嘩もあった。ガラの悪い街だった。だがそんな街でも、子ども心には楽しい街だった。遊び場は多摩川の土手だった。今でこそ河川敷にはグランドなどが整備されているが、当時は草が生い茂る荒れ地だった。その中で野球をやったり、カニを取ったりした。私は結婚後家を出て、川崎に移り、今では目黒にいる。時々多摩川のその街が懐かしくなる。一年に一度くらいは訪れる。先日も行った。JR蒲田駅からバスに乗り、糀谷(こうじや)で下車。商店街を歩く。チェーン店が多数進出している。安っぽい商店街になった。だが、よく見ると、昔の店が奇跡のように残...わたしの故郷

  • 新国立劇場「尺には尺を」&「終わりよければすべてよし」

    新国立劇場で開催中の「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」の交互上演は大成功のように見える。2009年の「ヘンリー六世」三部作から始まったシェイクスピアの史劇シリーズが完結して、それで終わりかと思ったら、意表を突く“問題作”への転進。その意外性と史劇シリーズのスタッフ・キャストの再結集に惹かれた。わたしは両作品とも以前戯曲を読んだことがある。そのときは奇妙な作品だと思った。なるほど喜劇とも悲劇ともつかない“問題作”だといわれるゆえんだと。だが舞台上演を観て、印象はだいぶ変わった。「尺には尺を」は創作力が高まった時期のシェイクスピアにふさわしい力作だと思った。一方、「終わりよければすべてよし」も同時期の作品だが、これはパワハラあり、セクハラあり、ストーカー行為ありのまるで現代劇だと思った。交互上演なの...新国立劇場「尺には尺を」&「終わりよければすべてよし」

  • 新国立劇場「尺には尺を」

    新国立劇場の「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」の交互上演。先日の「終わりよければすべてよし」に引き続き「尺には尺を」を観た。「尺には尺を」は以前戯曲を読んだことがあるが、観劇前に再読した。戯曲もおもしろいが、実演だとおもしろさが増す。一番印象に残ったことは、大詰めの場面でマリアナが侯爵代理のアンジェロをかばい、イザベラに「あなたも侯爵様にアンジェロの助命を願って」と頼む場面の演出だ。イザベラにとってアンジェロは仇敵だ。イザベラは躊躇する。一瞬の沈黙。その劇的効果に息をのむ。緊張の頂点でイザベラはひざまずき、侯爵にアンジェロの助命を願う。本作品のテーマは赦しなのかと思った。それ以外にも、たとえばクローディオが獄中にあって死を覚悟するときのモノローグは、まるでハムレットのような深みがあった。そのモノ...新国立劇場「尺には尺を」

  • 新国立劇場「終わりよければすべてよし」

    新国立劇場でシェイクスピアの「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」の交互上演が始まった。2009年の「ヘンリー六世」三部作の一挙上演以来続いたシェイクスピアの史劇シリーズが終了し、次の展開として、問題作といわれる「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」が取り上げられたわけだ。問題作とは悲劇とも喜劇ともつかない(それらの範疇からはみ出す)作品をいう。19世紀末にイギリスのある評論家が「尺には尺を」と「終わりよければすべてよし」と「トロイラスとクレシダ」と、それらに加えて「ハムレット」の4作をそう分類した。わたしは「ハムレット」が他の3作と同列に論じられることにはピンとこないが、「ハムレット」以外の3作が同じように奇妙な作品であることには同感だ。なぜ奇妙かというと(それは本来は個々の作品に即して語ら...新国立劇場「終わりよければすべてよし」

  • カーチュン・ウォン/日本フィル(横浜定期)

    カーチュン・ウォン指揮日本フィルの横浜定期。プログラムはショパンのピアノ協奏曲第1番とブラームスの交響曲第1番。同プログラムで翌日には東京で名曲コンサートが開催される。両日ともチケットは完売だ。ソリストの亀井聖矢の人気のためだろうが、せっかくの満員の聴衆だ。日本フィルにも大いに気を吐いてほしい。亀井聖矢は2022年のロン=ティボー国際音楽コンクールで第1位を獲得した俊才。2001年生まれなので、今年22歳だ。藤田真央、反田恭平などスター・ピアニストが続出する中で、また一人才能豊かなピアニストが加わった。注目すべきはその音の美しさだ。まるで水滴のようなみずみずしさがある。それはたんに技術というよりも、ナイーブな感性の反映のように感じられる。長大なショパンのピアノ協奏曲第1番だが、そのみずみずしさは一瞬たりと...カーチュン・ウォン/日本フィル(横浜定期)

  • ヴァイグレ/読響

    ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会。1曲目はヒンデミットのピアノと弦楽合奏のための「主題と変奏〈4つの気質〉」。ピアノ独奏はルーカス・ゲニューシャス。地味な曲だが、ピアノ独奏もオーケストラも曲の持ち味をよく引き出して、ヒンデミットの円熟期の作品であることを納得させた。ゲニューシャスのアンコールがあった。3拍子の甘い曲だ。ショパンのワルツのようでもあるが、ショパンではない。だれの曲だろう。帰りがけに掲示を見たら、レオポルド・ゴドフスキ(1870‐1938)の「トリアコンタメロン」から第11番「なつかしきウィーン」とのこと。2曲目はハンス・アイスラーの「ドイツ交響曲」。副題に「反ファシズム・カンタータ」という題名をもつと記憶していたが、プログラムに記載がなかった。あるいは副題ではなく、わたしの手持ちのCDに記載さ...ヴァイグレ/読響

  • ノット/東響

    ノット指揮東響の定期演奏会。1曲目はドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」のノット編曲版。オペラの中の主要場面を追ったオーケストラ曲だ。オペラだと歌と演技が入るので、濃密なドラマが展開されるが、歌と演技を欠くと(少し乱暴な言い方になるが)同じような音楽が延々と続く印象だ。ただ演奏は良かった。響きの移ろいが明確に意識されて、極上のドビュッシー演奏だった。2曲目はヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」。ドビュッシーの柔らかい、ニュアンスを大事にする音から一転して、荒削りな、音楽に食い込むような音に変わった。夢の世界から現実の世界へ。沸騰するような情熱の世界。その対照はノットの戦略だろう。プログラムに掲載されたノットへのインタビュー記事によれば、「グラゴル・ミサ」には3つの版があるそうだ。今回演奏されたのはPaulW...ノット/東響

  • カーチュン・ウォン/日本フィル

    カーチュン・ウォンの日本フィル首席指揮者就任披露演奏会。曲目はマーラーの交響曲第3番。第1楽章冒頭の8本(実際は9本)のホルンの斉奏の輝かしさ。その後も金管の音がよく決まる。とりわけトロンボーン・ソロの見事さ。安定感があり、しかもトロンボーンの独壇場にならずに全体のアンサンブルに収まる。トロンボーンの首席奏者・伊藤雄太さんの演奏。カーチュン・ウォンの指揮のためだろうか、第1楽章展開部の最後の、オーケストラが混沌の中に崩壊するまでの経過がじつに整然と演奏された。一音一音を辿れるようだ。そのおかげで、なるほどこう書かれているのかと、目を見張る思いがした。その代わりに、熱狂のあげくの混乱というドラマは感じられなかった。第3楽章は(わたしの個人的な感想だが)この演奏の白眉だった。中でも舞台裏でポストホルンのパート...カーチュン・ウォン/日本フィル

  • 新国立劇場「修道女アンジェリカ」&「子どもと魔法」

    新国立劇場の新制作、プッチーニの「修道女アンジェリカ」とラヴェルの「子どもと魔法」のダブルビル。予想以上に満足度の高い公演だった。歌手、指揮、演出などが作品の良さを引き出したからだろう。「修道女アンジェリカ」はプッチーニの「外套」、「修道女アンジェリカ」と「ジャンニ・スキッキ」の三部作の中で、わたしは一番好きだ。プッチーニの悲劇のヒロインを蒸留してそれだけで一本のオペラを作った観がある。だが残念ながら、実演に接する機会はまれだ。三部作の一挙上演の機会でもなければ、なかなか実際の舞台を観ることはできない。わたしは今度が初めてだ。公演はすばらしかったと思う。まず、なんといっても、アンジェリカを歌ったキアーラ・イゾットンが良かった。なめらかで繊細な歌唱から、感情をこめた劇的な歌唱まで、アンジェリカのキャラクター...新国立劇場「修道女アンジェリカ」&「子どもと魔法」

  • 高関健/東京シティ・フィル

    東京シティ・フィルの10月定期は飯守泰次郎の指揮でシューベルトの交響曲第5番と第8番「ザ・グレート」が演奏される予定だったが、飯守泰次郎の急逝にともない、高関健の指揮で飯守泰次郎が得意にしたワーグナーとブルックナーが演奏された。飯守泰次郎が振るシューベルトを楽しみにしていたが、亡くなった以上、仕方がない。もし高関健が飯守泰次郎のプログラムを引き継いだとしても、満たされない思いが残ったかもしれない。プログラムを変更して成功だったと思う。1曲目はワーグナーの「さまよえるオランダ人」序曲。金管の張りのある音が印象的だった。2曲目は「トリスタンとイゾルデ」から前奏曲と愛の死。前奏曲冒頭の深い悲しみにみちた情感と中間部の狂おしい情熱の高まりが見事だ。それらを表現するオーケストラのアンサンブルも十分に練り上げられてい...高関健/東京シティ・フィル

  • 津村記久子「とにかくうちに帰ります」

    津村記久子の「水車小屋のネネ」が今年の谷崎潤一郎賞をとった。わたしは津村記久子のファンなので喜んだ。「水車小屋のネネ」も読んでいた。とくに第1話と第2話のみずみずしさに感動した。でも、ファンの心理とはおもしろいもので、自分だけの大事な作品がある。わたしの場合、それは「とにかくうちに帰ります」だ。「とにかくうちに帰ります」のどこが好きかと自問すると、ちょっと考えてしまう。しばらく考えた末に、たぶん津村記久子の特徴がバランスよく入っているからだろう、という考えに落ち着く。津村記久子の特徴とは何か。まず日常生活で感じる小さなイライラが、あるある感いっぱいに書かれる点だ。だれかのマイペースなふるまいにイライラする。その描写がリアルで、かつユーモラスだ。それは津村記久子のどの作品にも共通する。もちろん「とにかくうち...津村記久子「とにかくうちに帰ります」

  • 沖澤のどか/京響

    今年4月に京都市交響楽団の常任指揮者に就任した沖澤のどか。さっそく東京でのお披露目公演が開催された。1曲目はベートーヴェンの交響曲第4番。なんの衒いもなく自分の中の自然なベートーヴェンを演奏したような感がある。肩肘張ったところがなく、しかも音楽的に充実していることは、沖澤のどかの実力の証明だろう。だが、今まで聴いてきた読響や日本フィルとの演奏にくらべると、音色の魅力に欠けることは言っておかなければならない。モノトーンで単調な音色だった。加えて、読響や日本フィルのときに聴かせた微妙なテンポの揺れや細かいニュアンスは(それらの点は沖澤のどかがアシスタントを務めたキリル・ペトレンコ譲りのように思えた)、今回は影をひそめた。京響との呼吸はまだ合っていないのかもしれない。それは仕方がない。むしろこれから期待すべきこ...沖澤のどか/京響

  • ヴィオッティ/東響

    ロレンツォ・ヴィオッティ指揮東京交響楽団の定期。プログラムはベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」とリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」。演奏中にアクシデントが起きた。「英雄」の第1楽章コーダに入ったあたりで、LDブロックのわたしの席の近くで「ウーッ」という声が上がった。だれか具合が悪いのか、それとも障害のある人が声を上げたのか。周囲を見回すと、わたしの席の2列前で高齢の男性が倒れたようだ。隣の女性が介抱しているように見える。大変だ。係員を探したが、姿が見えない。後方の女性が駆け付けた。看護師の資格を持っている人ではなかろうか。ハンカチで男性の口を拭っている。そのうちに係員も駆け付けた。別の係員も駆け付けた。すぐに応援を呼びに行った。その間、演奏は止まらなかった。通常そうだ。だが、第1楽章はすぐ終わる。...ヴィオッティ/東響

  • 国立新美術館「テート美術館展」

    国立新美術館で「テート美術館展」が開催中だ。会期は10月2日まで(その後、大阪に巡回)。すでに多くの方がご覧になったと思うが、まだの方もいるだろうから、ご紹介したい。コロナ禍以来、大型の海外美術館展が難しくなっている中で、貴重な展覧会だ。イギリスのテート美術館から「光」をテーマに作品を選択・構成している。見応え十分だ。テート美術館というと、まずターナー(1775‐1851)だ。本展には数点の作品が展示されている。その中でもチラシ(↑)に使われている「湖に沈む夕日」(1840年頃)は、ターナーのエッセンスを凝縮した作品だ。一面の濃い靄の中から夕日が輝く。湖面と空の境界は見分けがつかない。沸き立つ靄に夕日が映える。息をのむような荘厳な眺めだ。近寄ってよく見ると、夕日はベタっと塗られた白い絵の具に過ぎない。だが...国立新美術館「テート美術館展」

  • 西村朗さんを偲ぶ

    作曲家の西村朗さんが9月7日に亡くなった。享年69歳。70歳の誕生日の前日の逝去だった。右上顎がんだったそうだ。まだ若いのに‥と思う。今年の夏は7月11日に外山雄三さんが92歳で亡くなり、8月15日に飯守泰次郎さんが82歳で亡くなった。まったくなんていう夏だろうと思う。西村朗さんの逝去に当たって多くの音楽関係者が追悼の声をあげている。哀切きわまる声も多い。西村さんの生前の広い交友関係がしのばれる。わたしは一介の音楽ファンにすぎないが、西村さんの作品を聴く機会はけっこうあった。とくにヘテロフォニーの手法で書かれた音楽は、西洋音楽の論理とはまったく異なる地平に立つ音楽として、わたしを強烈に惹きつけた。だが、西村さんが亡くなったいま、わたしの中で再燃するのは、オペラ「紫苑物語」のことだ。途中で放り出して忘れてい...西村朗さんを偲ぶ

  • ヴェンツァーゴ/読響

    マリオ・ヴェンツァーゴは1948年、スイスのチューリヒ生まれ。読響には2021年11月に初登場したが、わたしは聴かなかったので、今回が初めて。1曲目はスクロヴァチェフスキ(1923‐2017)の「交響曲」(2003)。日本初演だ。スクロヴァチェフスキは今年生誕100年。リゲティと同い年だ。リゲティはハンガリー動乱のさいにハンガリーを脱出した。20世紀の激動の歴史を体現する人だった。一方、スクロヴァチェフスキはパリで学んだり、アメリカに渡ったりしたが、出国の困難はあまり聞いたことがない。ハンガリーとポーランドの政情のちがいか。「交響曲」は、音の運動性、各部分の響きの作りなど、いかにもスクロヴァチェフスキの作品だ。実感としては、スクロヴァチェフスキその人がそこにいるような感覚だ。不思議な気がした。スクロヴァチ...ヴェンツァーゴ/読響

  • ルイージ/N響

    N響の近年の音楽監督・首席指揮者の推移を見ると、デュトワ→アシュケナージ→ヤルヴィ→ルイージと、プログラムも演奏スタイルも革新→保守のパターンが繰り返されているように見える。ルイージが指揮する9月の定期演奏会Aプロはオール・リヒャルト・シュトラウス・プロで、その意味では保守だが、選曲が巧みで演奏も高度だった。1曲目は交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」。冒頭の第一ヴァイオリンがピッチのピタッと合った音で、まるで一本の糸のように聴こえた。その後も鮮やかな演奏が続いた。ただ指揮者が細部まで掌握した演奏だったからか、緊張感がほぐれる瞬間がなかった。この曲の笑い話的な表現は難しいのかもしれない。2曲目は「ブルレスケ」。ピアノ独奏は1982年生まれのドイツのピアニスト、マルティン・ヘルムヒェン。準...ルイージ/N響

  • 山田和樹/日本フィル

    山田和樹指揮日本フィルの定期演奏会。1曲目はモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク」。弦の編成は16型。だが、演奏が始まると、目を疑った。16型の弦楽器群の、半分しか演奏していない。残りの半分は弓を構えているだけだ。なぜ弓を構えているのかというと、演奏する人と演奏しない人が頻繁に入れ替わるからだ。どうやら2班に分かれているらしい。だが、たとえば各プルトの内側の人と外側の人とか、あるいは前半分と後ろ半分とか、そういうわかりやすい分け方ではない。2班に分かれているかどうかも定かではないが、仮にそうだとしても、アットランダムな分け方だ。で、どうなるかというと、各奏者は大雑把にいって、譜面の半分しか演奏しない。それも途切れ途切れに。なぜなら頻繁に入れ替わるからだ。こうなると各奏者は(弾きなれたこの曲を...山田和樹/日本フィル

  • 高関健/東京シティ・フィル

    高関健指揮東京シティ・フィルの定期演奏会。冒頭に先日亡くなった飯守泰次郎さんの追悼のためにワーグナーの「ローエングリン」から第1幕への前奏曲が演奏された。月並みではない選曲に指揮者とオーケストラの気持ちがこもる。追悼演奏終了後、1曲目はリゲティの「ルーマニア協奏曲」。何度か聴いた曲だが、久しぶりのせいか、おもしろく聴けた。第1楽章冒頭の弦楽器の厚みのある音から東欧情緒が広がる。第3楽章の舞台上のホルンと舞台裏のホルンとの応答は、ベルリオーズの幻想交響曲の第3楽章のイングリッシュホルンと舞台裏のオーボエとの応答を思わせる。リゲティの場合は茫漠とした草原の広がりを感じさせる。第4楽章にもホルンと舞台裏のホルンとの応答がある。それを忘れていた。そうだったのかと。2曲目はリゲティのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン...高関健/東京シティ・フィル

  • サントリーホール・サマーフェスティバル2023:ノイヴィルトの室内楽

    サントリーホール・サマーフェスティバルの今年のテーマ作曲家・ノイヴィルトの室内楽演奏会。全5曲。以下、順に触れるが、結論を先にいうと、作品、演奏ともにすばらしく、例年の室内楽演奏会に増して充実した演奏会になった。今年のサマーフェスティバルを締めくくるにふさわしい演奏会だ。演奏順が一部変更になった。1曲目は「インシデント/フルイド」。ピアノとCDプレイヤーのための曲。沼野雄司氏のプログラム・ノートによれば、ピアノの中音域にプリパレーションが施され(音色が変形される)、かつ内部奏法が駆使される。加えてCDプレイヤーがピアノに設置され、スピーカーからドローン音が流れる。言葉でそう説明されても、どんな音か、そしてどんな音楽か、見当がつかないと思うが、実演に接すると、じつにさまざまな音色が聴こえて、音の風景のようだ...サントリーホール・サマーフェスティバル2023:ノイヴィルトの室内楽

  • サントリーホール・サマーフェスティバル2023:三輪眞弘がひらく

    サントリーホール・サマーフェスティバルの今年のプロデューサーは作曲家の三輪眞弘。テーマは「ありえるかもしれない、ガムラン」。ガムラン音楽に触発され、ガムラン音楽の人と人のゆるい関係性を築く機能、ゆっくり流れる時間などの(一言でいえば)ガムラン音楽の神髄を現代に生きる我々の蘇生に役立てられないか、というコンセプトだ(わたしの解釈だが)。ザ・プロデューサー・シリーズは毎年凝った企画だが、三輪眞弘の企画は破格だ。小ホールを使った「En-gawa」と大ホールを使った「MusicintheUniverse」の2本立てだ。まず「En-gawa」は小ホールで3日間、各々7時間の「ひらかれた家」を提供する(写真↑)。そこでは各種のイベントが開かれる。屋台も出る。インドネシアのスナック菓子や衣料品などが販売される。わたしが...サントリーホール・サマーフェスティバル2023:三輪眞弘がひらく

  • 湯浅譲二 作曲家のポートレート

    「湯浅譲二作曲家のポートレート―アンテグラルから軌跡へ―」と銘打った演奏会。サントリー芸術財団は「作曲家の個展」と銘打った演奏会を続けていたが、それと関係があるのかどうか。ともかくサントリーホール・サマーフェスティバルと同時期の開催なので、サマーフェスティバルの一環かと思いがちだが、別枠だ。演奏は杉山洋一指揮の都響。1曲目はヴァレーズの「アンテグラル(積分)」、2曲目はクセナキスの「ジョンシェ(藺草(いぐさ)が茂る土地」。ともに湯浅譲二の選曲だろう。周知のように、湯浅譲二の「クロノプラスティクⅡ」は「E・ヴァレーズ頌」という副題をもち、「クロノプラスティクⅢ」は「ヤニス・クセナキスの追悼に」という副題をもつ。ヴァレーズの「アンテグラル」は管楽器アンサンブルと打楽器のための曲だ。演奏は少々おとなしかった。ヴ...湯浅譲二作曲家のポートレート

  • サントリーホール・サマーフェスティバル2023:ノイヴィルトの管弦楽曲

    サントリーホール・サマーフェスティバル2023が始まった。わたしにとっては一年間のメインイベントだ。今年のテーマ作曲家はオルガ・ノイヴィルト。1968年オーストリアのグラーツ生まれの女性作曲家だ。昨夜はノイヴィルトのオーケストラ・ポートレート。この演奏会はテーマ作曲家の作品のほかに、テーマ作曲家が選んだ若手の作品と、影響を受けた作品が演奏される。1曲目は若手のヤコブ・ミュールラッドの「REMS(短縮版)」。ミュールラッドは1991年スウェーデンのストックホルム生まれ。REMSとはrapideyemovementsleep(レム睡眠)の略。本来は約26分におよぶ曲だそうだが、短縮版は冒頭から約4分の1を切り取ったもの。幼いころの想い出の甘美な夢を思わせる曲だ。2曲目はノイヴィルトの新作「オルランド・ワールド...サントリーホール・サマーフェスティバル2023:ノイヴィルトの管弦楽曲

  • 鈴木優人/東響

    東京交響楽団の真夏の定期演奏会。鈴木優人の指揮でメンデルスゾーンの交響曲第5番「宗教改革」と交響曲第2番「賛歌」。鈴木優人は2019年にN響を振ったときにも交響曲第5番「宗教改革」をプログラムに組んだ。それもメインの曲として。あれは堂々とした演奏だった。今回もそれを彷彿させる充実した演奏だ。メンデルスゾーンの音楽がいかに豊かな音楽的内容を持っているかを証明するような演奏だ。今回は第3楽章アンダンテの弦楽器のノンヴィブラートの澄んだ音色がことのほか美しかった。心が洗われるような美しさだ。また第3楽章から第4楽章にかけてのブリッジ部分のフルート・ソロに魅了された。首席奏者の相澤政宏さんだと思う。演奏終了後、鈴木優人が真っ先に立たせていた。交響曲第2番「賛歌」も立派な演奏だった。鈴木優人の指揮もさることながら、...鈴木優人/東響

  • 飯守泰次郎さん追悼

    飯守泰次郎さんが8月15日に亡くなった。前日には普通に夕食をとり、いつもの時間に就寝したそうだ。翌朝7時16分に急性心不全で亡くなった。良い亡くなり方だ。享年82歳。ご冥福を祈る。わたしは中学生時代にクラシック音楽を聴き始めたので、かれこれ50年以上クラシック音楽を聴いているが、その中でほんとうに好きになった指揮者が二人いる。それは晩年の山田一雄と晩年の飯守泰次郎だ。晩年という言い方はあいまいなので、具体的にいうと、新星日本交響楽団(その後、東京フィルと合併)の常任指揮者時代の山田一雄と、東京シティ・フィルの常任指揮者時代の飯守泰次郎だ。二人ともそれが最後のポストだったわけではないが、長いキャリアの中で終盤だったことは間違いなく、そのころになると、若いころのがむしゃらさを脱し、しかも体力・気力ともに衰えず...飯守泰次郎さん追悼

  • 東京オペラシティ・アートギャラリー「野又穰展」

    東京オペラシティ・アートギャラリーで野又穫(のまた・みのる)(1955‐)の展覧会が開かれている。チラシ(↑)に惹かれて行った。チラシに使われている作品は「ForthcomingPlaces-5来るべき場所5」(1996)という作品だ。一見すると、上下2段の温室がある。その下には樹木の茂みが見える。樹木の茂みと比較すると、上下2段の温室はタワーマンションくらいの高さがある。もちろん現実にはあり得ないが、温室も樹木も見慣れた形態なので、穏やかな風景画に見える。今、上下2段の温室といったが、展覧会場で実見すると、下の球体は温室ではなく、水族館だと分かる。中の熱帯植物と見えたものは水草だ。水草の周りを無数の魚が泳いでいる。下は水族館、上は温室という構成は、熱帯の水中と陸上を模した構築物のように見える。個々の物体...東京オペラシティ・アートギャラリー「野又穰展」

  • 被爆二世

    わたしの亡父は太平洋戦争中、呉の海軍工廠で働いた。東京の羽田に生まれ育った亡父がなぜ呉の海軍工廠に行ったのかは、残念ながら聞き逃した。亡父は生前、「小学校を出て歯医者の書生になり、夜間の中学校に通ったが、続かなかった。良い働き口がなくて、仕事を転々とした。そのうち伝手があって、岡山県の総社に行った」といっていたので、総社で働いていたときに、呉の海軍工廠に職を見つけたのではないかと想像する。亡父は呉の海軍工廠で働くことができたため、戦死せずに済み、戦後結婚してわたしが生まれたわけだが、それはさておき、亡父が生前話していたことのひとつに、「原爆のキノコ雲を見た」というのがあった。「ラジオでは新型爆弾といっていたが、工員仲間に原爆だと分かっていた者がいた」と。その話を思い出したのは、参議院議員の吉良よし子氏のツ...被爆二世

  • バイロイト音楽祭の想い出

    バイロイト音楽祭に行くことは長年の夢だった。それが叶ったのは現地のバイロイト友の会に入っている友人のおかげだった。2枚当たったので、1枚譲ってくれた。喜び勇んで出かけた。ティーレマンが指揮する「リング」の最終チクルスだった。滔々と流れる音楽に圧倒された。2010年のことだ。それ以来3年続けて出かけた。最初は戸惑った祝祭劇場の特殊な音響にも慣れた。4年目にも誘ってもらったが、断った。友人がチケットを取るのはいつも8月下旬の公演なのだが、その時期はサントリーホールのサマーフェスティバルと重なるので、4年目はそちらを選んだ。以降バイロイト音楽祭のチケットはまわってこなくなった。それは覚悟していた。というわけで3年間バイロイト音楽祭に通ったのだが、ワーグナー上演はもとより、バイロイトの町にもたくさんの想い出が残っ...バイロイト音楽祭の想い出

  • フェスタサマーミューザ:ヴァイグレ/読響

    フェスタサマーミューザに読響がヴァイグレの指揮で登場した。プログラムはベートーヴェンの交響曲第8番とワーグナー(デ・フリーヘル編曲)の楽劇「ニーベルンクの指輪」~オーケストラル・アドヴェンチャー。ヴァイグレのワーグナーを聴いてみたくて行った。とはいえ、不安もあった。フリーヘルのこの編曲はすっかり人気作になった感があるが、わたしはあまり満足していないからだ。なぜかというと、「ラインの黄金」は比較的丁寧に音楽を追っているが、『神々のヴァルハラ城への入城』から一気に「ワルキューレ」の『ワルキューレの騎行』に飛ぶので(ジークムントとジークリンデのエピソードはカットされている)唐突感を否めないことと、「ジークフリート」の最後の『ブリュンヒルデの目覚め』が比較的たっぷり描かれるので、そこに停滞感を生じるからだ。とはい...フェスタサマーミューザ:ヴァイグレ/読響

  • ヴァイグレ/読響

    ヴァイグレ指揮読響の定期演奏会。1曲目はモーツァルトの「フリーメイソンのための葬送音楽」。茫漠とした悲しみを湛えた情感豊かな演奏だ。2曲目がこの演奏会の目玉のひとつの細川俊夫の新作、ヴァイオリン協奏曲「祈る人」なのだが、その前にモーツァルトのこの曲を置いたのはだれのアイデアなのだろう。そのアイデアに脱帽だ。細川俊夫のヴァイオリン協奏曲「祈る人」は、ベルリン・フィル、ルツェルン響、読響の共同委嘱作品だ。すでにベルリン・フィルとルツェルン響は初演を終えている。当夜は読響の初演。ヴァイオリン独奏はいずれもベルリン・フィルのコンサートマスター、樫本大進だ。細川俊夫のプログラムノートによれば、独奏者はシャーマンを表すそうだ。樫本大進のヴァイオリン独奏はまさにシャーマンだった。何かに憑かれたように曲に没入し、激しく何...ヴァイグレ/読響

  • フェスタサマーミューザ:高関健/東京シティ・フィル

    フェスタサマーミューザ。高関健指揮東京シティ・フィルの演奏会。曲目はガーシュウィン2曲とバーンスタイン2曲というアメリカ音楽プログラム。いかにもサマーコンサートらしいプログラムだが、それにとどまらずに、以下述べるように、音楽ファンにさまざまな話題を提供する点が高関健らしい。1曲目はガーシュウィンの「パリのアメリカ人」。もう何度聴いたかわからない曲だが、今まで聴いてきたこの曲は、じつは短縮版だったらしい。原典版は(とくに後半を中心に)約100小節も多いとのこと。短縮版ではそれがごっそりカットされていた。高関健がプレトークで「なんかあっという間に終わるなと感じていた」と語っていたが、そういわれると、わたしもうなずけるところがある。実際に聴いてみると、原典版はたいへんおもしろかった。たしかに後半に耳慣れない箇所...フェスタサマーミューザ:高関健/東京シティ・フィル

  • 津村記久子「この世にたやすい仕事はない」

    友人と隔月に読書会を開いている。テーマは交代で選ぶ。7月はわたしの番だったので、村田紗耶香の「コンビニ人間」と津村記久子の「とにかくうちに帰ります」を選んだ(二人は同世代だ)。ところが読書会の前に友人と連絡を取ると、友人は勘違いして津村記久子は「この世にたやすい仕事はない」を読んでいるという。わたしはそれを読んだことがなかったので、良い機会だからと、読んでみた。そういうわけで、偶然のきっかけから、「この世にたやすい仕事はない」を読んだ。これもおもしろい。芸術選奨文部科学大臣新人賞の受賞作品だが、そのような晴れの舞台はふさわしくないと思えるほど、目線の低い、弱い者・うだつのあがらない者に寄り添う(つまり津村記久子ワールドが展開する)作品だ。本作品は5編の短編小説からなる。主人公は大学卒業以来働いていた職場で...津村記久子「この世にたやすい仕事はない」

  • ノット/東響

    ノット指揮東響の定期演奏会。エルガーのヴァイオリン協奏曲とブラームスの交響曲第2番というオーソドックスなプログラムだ。エルガーのヴァイオリン協奏曲は5月に三浦文彰のヴァイオリン独奏、沖澤のどか指揮読響で聴いたばかりだ。率直にいうと、あれほど淡々として一本調子なヴァイオリン独奏は聴いたことがないと思った。いったい何のためにこの曲を弾いているのかと。それにくらべると、今回は神尾真由子のヴァイオリン独奏だったが、三浦文彰とは対照的に“濃い”演奏だった。どこを取っても濃厚な表現だ。だが、正直にいうと、だから良かったかというと、かならずしもそうとは言い切れない自分を見出す。三浦文彰の演奏に退屈したのに、それとは真逆の神尾真由子の演奏にも満足できないのはなぜか。エルガーのヴァイオリン協奏曲は意外に難しい曲なのかもしれ...ノット/東響

  • 外山雄三さんを偲ぶ

    指揮者・作曲家の外山雄三さんが7月11日に亡くなった。慢性腎臓病だった。享年92歳。ご冥福を祈る。すでに多くの音楽ファンに知られている出来事だが、外山さんは5月27日のパシフィック・フィルハーモニア東京の定期演奏会を振った。曲目はシューベルトの交響曲第5番と第8番「ザ・グレート」だった。外山さんは3日間のリハーサルと当日午前中のゲネプロを無事終えたが、午後になって体調を崩した。本番では1曲目の第5番は指揮者無しで演奏し、第8番「ザ・グレート」は外山さんが振ったが、第4楽章で外山さんが倒れた。外山さんは楽屋に運ばれた。演奏は指揮者無しで最後まで続いた。カーテンコールでは外山さんは車椅子にのって現れたが、やつれた表情を見せたそうだ。その出来事があった直後、音楽ファンの一部からは、「たとえ外山さんが振るといって...外山雄三さんを偲ぶ

  • オペラ「道化師」をめぐって

    レオンカヴァッロのオペラ「道化師」を観たことは何度かあるが、その中でもフィンランドのサヴォンリンナ音楽祭で観た記憶は鮮明だ。中世の古城の中庭で演じられる野外オペラだ。古城の壁が反響板になり、意外に音は良かった。例によってマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」とダブルビルで上演された。「カヴァレリア‥」が抒情的な悲劇に演出され、「道化師」が喜劇仕立てで演出されたのも定石通りだ。なぜ記憶に残っているかというと、オペラは日が暮れてから上演されるのだが、日中に街を歩いていると、賑やかで騒々しい一団が歩いてきたからだ。サヴォンリンナ音楽祭には世界中から観客が集まるが、街自体は静かな小都市だ。そのひっそりした日常を破るかのような一団が場違いだったので忘れられないのだ。だが、夜になって「道化師」が始まり、わたしは...オペラ「道化師」をめぐって

  • 広上淳一/日本フィル「道化師」

    広上淳一が指揮する日本フィルのオペラ「道化師」の演奏会形式上演。日本フィルはラザレフの指揮で2019年5月に「カヴァレリア・ルスティカーナ」の演奏会形式上演を行った。それ以来4年越しのダブルビルの完成のようにも見える。それほどこの2作は緊密に結びついている。ラザレフの「カヴァレリア・ルスティカーナ」も素晴らしかった。ロシアの指揮者がイタリア・オペラを?と思う向きもあるかもしれないが、ラザレフほどの大指揮者であれば、イタリア・オペラも見事だ。音色は明るく透明で、全体の構成もゆるぎない。今回の広上淳一の「道化師」も良かった。ゴージャスな音色でダイナミックな演奏だった。歌手はともかくオーケストラは、劇場ではピットの制約のため、これほど豊麗に鳴らすことは難しい。また劇場は基本的にデッドな音響なので、歌手をふくめて...広上淳一/日本フィル「道化師」

  • 秋山和慶/東京シティ・フィル

    秋山和慶が客演指揮した東京シティ・フィルの定期演奏会。1曲目はリャードフの交響詩「キキーモラ」。リャードフの交響詩は「ババ・ヤガー」とか「魔法にかれられた湖」とか、いまでも(稀にだが)演奏される曲がある。「キキーモラ」もそのひとつだ。冒頭のイングリッシュホルンの旋律がいかにもロシア的だ。全体を通して精緻なアンサンブルとクリアな造形が保たれた演奏だった。2曲目はプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番。ヴァイオリン独奏は周防亮介。バレエ音楽「ロミオとジュリエット」と同時期の曲なので、尖った個性が影を潜め、穏やかな大衆性を持った曲だが、その割には周防亮介のヴァイオリンには甘さがなく、ひたむきに何かに迫っていく演奏だった。少々意表を突かれる思いがした。アンコールに演奏された曲はいかにも現代曲風で(演奏会終了後、...秋山和慶/東京シティ・フィル

  • 津村記久子「サキの忘れ物」

    津村記久子の短編小説集「サキの忘れ物」には9編の作品が収められている。初出の時期も媒体もばらばらだ。テーマと方法も異なる。それでいて全体は確固たる津村記久子ワールドになっている。平明で、目線が低く、小さいもの・弱いものに温かい視線を注ぐ文学世界だ。表題作の「サキの忘れ物」は高校を中退した千春が主人公だ。病院に併設された喫茶店でアルバイトをしている。アルバイトの先輩の女性や男性の店長が点描される。ほとんど毎日来店する年配の女性客が、ある日、忘れ物をする。それが題名の「サキの忘れ物」だ。サキとは何だろう。読んでからのお楽しみだ。千春は長編小説「水車小屋のネネ」の第1話の主人公・理佐の前身のように見える。18歳の理佐は高校を卒業した後、8歳の妹を連れて、山間のそば屋で働き始める。理佐も千春も人生に問題がある。で...津村記久子「サキの忘れ物」

  • 津村記久子「水車小屋のネネ」

    津村記久子は好きな作家だ。最新作の「水車小屋のネネ」も期待して読んだ。期待通りの作品だ。18歳の理佐と8歳の律の姉妹は、母子家庭で育った。最近母親に婚約者ができた。母親は婚約者の事業のために理佐の短大の入学資金を使ってしまう。婚約者はすでに同居している。律につらく当たる。理佐は職安に行く。山間のそば屋を紹介される。求人票には「鳥の世話じゃっかん」と不思議な付記がある。ともかくアパートを安く借りられ、かつ、まかない付きなので、理佐はそこで働くことにする。律にいうと、律もついてくるという。理佐は律を連れて山間のそば屋に行く。理佐と律の二人暮らしが始まる。そば屋の経営者の夫婦と近所に住む画家の女性、その他の人々が見守る中で、理佐はそば屋で働き、律は小学校に通う。ある日、母親の婚約者が現れる。二人はぎょっとする。...津村記久子「水車小屋のネネ」

  • MUSIC TOMORROW 2023

    N響恒例のMUSICTOMORROW2023。今年の指揮者はイギリスの作曲家・指揮者のライアン・ウィグルスワースが予定されていたが、直前にキャンセルされた。急遽代役に立ったのはミラノ在住の杉山洋一。演奏予定曲目のスコアは事前に杉山洋一にデータで送ったのだろうが、たとえば後述する世界初演のスルンカ作曲「スーパーオーガニズム」は4管編成の巨大な曲だ。スコアは何十段にもなる。それを杉山洋一はデータで受け取り、短時間で読み込み、帰国してリハーサルをして、本番に臨む。プロの仕事だ。今年のプログラムだが、尾高賞の受賞作品は2曲あった。藤倉大(1977‐)の「尺八協奏曲」(2021)と一柳慧(1933‐2022)の「ヴァイオリンと三味線のための二重協奏曲」(2022)だ。まず藤倉大の「尺八協奏曲」から。尺八独奏は藤原道...MUSICTOMORROW2023

  • マリオッティ/東響

    ローマ歌劇場の音楽監督を務めるミケーレ・マリオッティが東京交響楽団を振った。曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第21番(ピアノ独奏は萩原麻未)とシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレイト」。ハ長調プログラムだ。モーツァルトのピアノ協奏曲第21番では、オーケストラの出だしの、人の足音のようなリズムが、ピタッと揃って軽やかに刻まれる。それに続く弦楽器の歌も、羽毛が舞うように軽い。そう感じるのは、細かくて敏捷な抑揚がつけられているからだろう。そこまでの導入部でマリオッティの音楽性が感じられるようだった。萩原麻未のピアノは、ややくすんだ音色で(とくに第2楽章までは)譜面の内側を見つめるような演奏だった。ハ長調という調性からは、晴れやかな音楽を読み取りがちだが、それよりもむしろ澄んだ空の悲しみを感じさせるような演奏だっ...マリオッティ/東響

  • 新国立劇場「楽園」

    新国立劇場の演劇部門は、今シーズン、シリーズ企画「未来につなぐもの」の公演を続けている。中堅世代の劇作家が新作を書き、同世代の演出家が演出をする企画だ。あるきっかけで第一作「私の一ヵ月」を観た。せっかくだからと、第二作「夜明けの寄り鯨」も観た。そこまで観たのだからと、シリーズ最後となる第三作「楽園」も観た。回を追うごとに、おもしろい作品になっていった印象だ。「楽園」は登場人物7人全員が女性だ。作者の山田佳奈も女性。そこにスタッフ・キャスト中唯一の男性として演出の眞鍋卓嗣が加わる。眞鍋卓嗣はインタビューに答えていう。「俳優が女性だけの作品を演出するのは初めてです。こうなると、山田さんが演出したほうが良いのでは、と投げかけたことがあるのですが、その時、「敢えて男性である眞鍋さんが良いと思う」とおっしゃっていて...新国立劇場「楽園」

  • METライブビューイング「チャンピオン」

    METライブビューイングでオペラ「チャンピオン」。作曲はジャズのトランペット奏者でもあるテレンス・ブランチャード。台本はミッチェル・クリストファー。セントルイス歌劇場とジャズ・セントルイスの共同委嘱作品。2013年にセントルイス歌劇場で初演された。実在のプロボクサー、エミール・グリフィス(1938‐2013)の栄光と苦悩を描く。ボクシングのチャンピオンまで昇りつめた裏側でゲイであることに悩むエミール。ブランチャードは開幕前のインタビューに答えて、「ゲイであるために差別される。そんな差別をいつまで続けるんだ、という気持ちで作曲した」(大意)という。折しもわたしが観た6月16日は、日本の国会で多くの問題を抱えるLGBPQ法案が成立した。保守派の圧力で骨抜きにされ、捻じ曲げられた法案。差別はアメリカだけではなく...METライブビューイング「チャンピオン」

  • 鈴木優人/読響

    鈴木優人指揮読響の定期演奏会。1曲目はアタイールのチェロ協奏曲「アル・イシャー」。チェロ独奏はジャン=ギアン・ケラス。アタイールってだれ?と思う。バンジャマン・アタイールBenjaminAttahir。1989年生まれのフランスの作曲家だ(澤谷夏樹氏のプログラムノーツより)。レバノンの首都ベイルートにルーツを持つそうだが、どんなルーツかは、記載がない。「アル・イシャー」AlIchaはケラスの独奏で2021年にパリで初演された。それ以来、ヨーロッパ各地で演奏されている。演奏時間約30分の単一楽章の曲だ。重心の高い音で鮮やかな色彩感がある。疾走する部分と静まる部分とが何度も出てくる。異なる風景が次々に現れるような感覚だ。部分的にはいかにも中東的な音調も聴かれる。全体の構成の把握は、一聴しただけでは難しい。むし...鈴木優人/読響

  • ノセダ/N響

    ジャナンドレア・ノセダが指揮するN響を聴くのは4度目だ。前回2015年1月から8年たっている。ずいぶんいい指揮者になったと思う。前3回も鮮烈な印象を残したが、今回はそれに増して、粗さが消え、アンサンブルがしなやかにまとまっている。照度の高い色彩感と鋭角的なリズム感は変わらない。むしろ一層研ぎ澄まされている。1曲目はプロコフィエフの交響組曲「3つのオレンジへの恋」。前述のようなカラフルな音色とシャープなリズムはこの曲にうってつけだ。奇想天外、諧謔性に富む音楽が十全に描かれた。それにしてもこの音楽は、プロコフィエフでなければ書けない音楽だ。プロコフィエフ以外のだれがこんな音楽を思いつくだろうかと‥。私事だが、2002年5月にベルリンのコーミシェオーパーでこのオペラを観た。それはわたしのオペラ体験の中でも忘れら...ノセダ/N響

  • 高関健・山上紘生/東京シティ・フィル

    気が付いてみたら、吉松隆ブームが来ている。吉松隆の長年の伴走者・藤岡幸夫の一貫した努力に加えて、若手の指揮者・原田慶太楼の参入も大きい。さらにいうなら、藤岡幸夫の見出した菅野祐悟の人気により、吉松隆がその先駆者のように見え、現代のひとつの潮流のように感じられることも要因だろう。東京シティ・フィルの6月の定期演奏会は、藤岡幸夫が吉松隆の交響曲第3番をふるので期待の演奏会だった。だが、直前になって、藤岡幸夫が体調を崩した。肺炎を起こして、1週間程度の入院加療という。さて、どうする。吉松隆の交響曲第3番をレパートリーにする指揮者は、藤岡幸夫以外には、原田慶太楼くらいしかいない。原田慶太楼のスケジュールが空いていればいいが、そうでなかったら‥。で、結局、東京シティ・フィルの指揮研究員・山上紘生(やまがみ・こうき)...高関健・山上紘生/東京シティ・フィル

  • 世田谷美術館「麻生三郎展」

    世田谷美術館で「麻生三郎展」が開かれている。麻生三郎(1913‐2000)は1948年から1972年まで世田谷区の三軒茶屋に住んだ。ちょうど日本の高度成長期に重なる。その時期の作品を集めた展示だ。作品からは騒然とした時代が伝わる。本展のHP(↓)にいくつかの作品の画像が載っている。「母子」(1949年、個人蔵)は全体的に暗い色調の作品だ。憂い顔でうつむく母親と、まっすぐこちらを見据える娘とが対照的に描かれる。そのような作例は、麻生三郎にかぎらず、当時の他の画家の作品にも見られる。時代を反映した心情の表れだろうか。HPには画像がないが、「赤い空」(1956年、東京国立近代美術館)は画面全体が燃えるような赤に染まる。赤はこの時期の麻生三郎の特徴だ。本作品はその典型といえる。夕焼けの反映と思えば思えるが、それ以...世田谷美術館「麻生三郎展」

  • 新国立劇場「リゴレット」

    新国立劇場の新制作「リゴレット」。歌手も指揮者も良く、満足度の高い公演だった。タイトルロールのロベルト・フロンターリは重厚で深々とした人間性を感じさせ、リゴレットの造形として説得力があった。ジルダのハスミック・トロシャンは、今が旬の若々しく伸びのある声をもち、高音もよくきまった。マントヴァ公爵のイヴァン・アヨン・リヴァスは、張りのある高度な歌唱を聴かせ、本公演の最大の発見だった。リヴァスという名前を覚えておこう。今後世界中の歌劇場でその名を見かけるようになるかもしれない。1993年ペルー生まれ。ペルー出身の歌手というと、ファン・ディエゴ・フローレスがいる。リヴァスはフローレスの指導を受けたこともあるそうだが、フローレスとはタイプが異なる。今後同じように活躍してほしい。指揮はマウリツィオ・ベニーニ。ヴェルデ...新国立劇場「リゴレット」

  • 第五福竜丸

    東京都江東区の夢の島公園にある「第五福竜丸展示館」を訪れた。第五福竜丸を保存・展示する施設だ。第五福竜丸を見るのは初めて。なんでもそうだが、現地を訪れ、または現物を見ると、感じることが必ずある。第五福竜丸の意外に大きな船体を見ると、この船がたどった数奇な運命が実感される。今の世の中では、第五福竜丸といわれても、わからない人も多いかもしれない。わたしは1951年生まれなので、第五福竜丸のことを知っている世代だが、その第五福竜丸が都内に保存されているらしいとは知っていても、それがどこなのかは知らなかった。ただ、ずっと気になっていたので、先日、場所を調べたら、夢の島公園だとわかったので、重い腰を上げて行ってみた次第だ。第五福竜丸はマグロ漁船だった。1954年3月1日にマーシャル諸島で漁をしているときに、アメリカ...第五福竜丸

  • コンポージアム2023「近藤譲の音楽」

    東京オペラシティ恒例のコンポージアム2023。今年の作曲家は近藤譲(1947‐)だ。演奏はピエール=アンドレ・ヴァラド指揮の読響。ヴァラドは以前グリゼーの「音響空間」とブーレーズの「プリ・スロン・プリ」で忘れがたい名演を聴かせた指揮者だ。なお後述する3曲目は国立音楽大学のクラリネット・アンサンブル。1曲目は「牧歌」(1989)。事前に「ぶらあぼ」ONLINEの特設ページを読んだが、小室敬幸氏のリハーサル・レポートによると、本作品には「“4分”の“3分の4”」とか「8分の1+“4分”の“3分の1”」とかいった「見たこともない拍子」が登場するらしい。どんな拍子かというと、「四分音符の三連符――つまり四分音符を三分割したうちの「1」もしくは「2」だけが拍子に挿入」されるとのこと。そう説明されてもさっぱりわからな...コンポージアム2023「近藤譲の音楽」

  • ノット/東響

    ノット指揮東響の定期演奏会は、マーラーの交響曲第6番「悲劇的」が演奏されたが、その前にリゲティのピアノ曲「ムジカ・リチェルカータ」から第2番が演奏された。ピアノ独奏は小埜寺美樹。新国立劇場でおなじみの人だ。照明を落として、舞台奥のピアノにスポットライトが当たる中で、演奏された。はっきりした発音の演奏だった。消え入るように終わりかけると、照明が次第に明るくなり、オーケストラが浮かび上がる。そしてマーラーの演奏が始まった。マーラーの交響曲第6番とリゲティの「ムジカ・リチェルカータ」第2番に音楽的なつながりがあるかどうかは別にして、聴衆の身からは、演奏会でいきなりマーラーが始まるよりも、その前にリゲティの小品があったほうが、精神を集中する効果があった。余談だが、「ムジカ・リチェルカータ」はわたしの好きな曲だ。全...ノット/東響

  • 下野竜也/N響

    下野竜也が指揮するN響のAプロ定期は、グバイドゥーリナの「オッフェルトリウム」が演奏されるので、注目の公演だった。まず1曲目はラフマニノフの歌曲集作品34から「ラザロのよみがえり」と「ヴォカリーズ」。「ラザロのよみがえり」は下野竜也の編曲だ。トロンボーンが朗々と歌い、さらにはトランペットが朗々と歌う。N響のトロンボーン奏者、トランペット奏者の優秀さに聴き惚れた。一方、「ヴォカリーズ」はラフマニノフ自身の編曲。こちらは弦楽器主体だ。なるほど、下野竜也は「ヴォカリーズ」とのコントラストをつけるために、「ラザロのよみがえり」を金管楽器主体にしたのか、と。2曲目はグバイドゥーリナの「オッフェルトリウム」。実質的にグバイドゥーリナのヴァイオリン協奏曲第1番だが、通常のヴァイオリン協奏曲とはまったく異なる音楽だ。冒頭...下野竜也/N響

  • 沖澤のどか/読響

    読響の5月の定期演奏会が行けなくなったので、土曜マチネーに振り替えた。沖澤のどかの指揮を聴くのは2度目だ。前回は2021年7月、日本フィルの定期演奏会だった。メンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」が記憶に残っている。今回1曲目はエルガーのヴァイオリン協奏曲。ヴァイオリン独奏は三浦文彰。偶然だろうが、日本フィルのときも三浦文彰のヴァイオリン独奏でベルクのヴァイオリン協奏曲が演奏された。そのときの三浦文彰の印象は薄い。むしろ沖澤のどかが織りなすオーケストラの明快なテクスチュアと一体となったような演奏だった。はたしてというべきか、今回も同じような印象を受けた。沖澤のどかが読響から引き出す演奏は、穏やかで、自然体で、淡い抒情を漂わせるものだった。わたしはなんてロマンチックな曲だろうと思った。そのオーケス...沖澤のどか/読響

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