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  • 「ひろかずのブログ」終了

    「ひろかずのブログ」終了退職してから3年目の2006・6・14、下のような「ひろかずのブログ」第1号を発信しました。写真もない、そっけない短いブログでした。・・・昼から、「ブログに挑戦してみよう(NHK)」を参考に、悪戦苦闘の末ブログを立ち上げました。よろしくお願いします。当面、「まち歩き」で、見たこと感じたことを投稿します。今日はその1です。・・・(創刊号より)ありがとうございました退職後、2年間は若い学生に交じり、ある大学で英語を勉強しました。3年目から目標が無くなりました。そのため、何となく始めたブログでした。でも、約15年も続けることができましたきました。その間たくさんの重なった記事も掲載しましたが、きのうで5671号になりました。そろそろ善意の押し付けを終わらねばなりません。今日のこの記事を最終号にし...「ひろかずのブログ」終了

  • 加古川町旧鳩里村探検(60) 北在家(12) 鶴林寺の鐘楼

    鶴林寺の鐘楼鶴林寺の説明をしなければならないのですが、尾上神社の朝鮮鐘からはじめます。世阿弥作の謡曲「高砂」に、「高砂の松の春風吹き暮れて、尾の上の鐘も響くなり」と尾上の鐘を描いています。尾上神社(加古川市尾上町)の鐘がそれです。鐘の表面に飛天と楽器、上部には天蓋(てんがい)を浮き彫りにした珍しい朝鮮鐘です。この鐘には、顕宗二年(朝鮮の年号・1011)の銘があるので、尾上神社の鐘もこの頃、つまり朝鮮の高麗時代に作られたものと思われます。この鐘は、何時どのような経緯でもたらされたのかは分かっていません。また、現存する「朝鮮鐘」の多くは、鎌倉時代から南北朝期の「倭寇」の活躍した時代にもたらされたものといわれています。何時のころから尾上神社にあるのかも分かりません。朝鮮の高麗時代(日本の平安時代の中期から、南北朝時代...加古川町旧鳩里村探検(60)北在家(12)鶴林寺の鐘楼

  • 加古川町旧鳩里村探検(59) 北在家(11) 北在家「四つ堂」の阿弥陀如来

    北在家「四つ堂」の阿弥陀如来集落の中心にお堂があります。「四つ堂」といいます。阿弥陀如来が祀られています。木造阿弥陀如来は、平成2年に市指定文化財に指定されました。このお像は緊迫を施し、定印を結ぶ座像です。優雅な相好、全体に針のある整った体躯。一部に残る美しい模様等が見られます。平安時代の藤原彫刻の典型的な面影をのこし、堂々としています。他の部分はかなり剥げ落ちが激しくなっています。頭部は後世に補修されています。座高137センチメートルの仏様です。今日の報告も『加古川街実記(山脇重弘著)』をお借りしました。(no5670)*写真:平安時代の阿弥陀如来が安置されている「四つ堂」加古川町旧鳩里村探検(59)北在家(11)北在家「四つ堂」の阿弥陀如来

  • 加古川町旧鳩里村探検(58) 北在家(10) 松野家の門前の稲荷社

    松野家の門前の稲荷社松野家の前にいなり神社があります。説明がないので、近くの人も「どうしてここにあるのか?、そのいわれは?」等は、だんだん分からなくなっているようです。この稲荷社は、明治初期に鶴林寺にあった神社ですが、の神仏分離のためで、鶴林寺から移されることになりました。松野家が譲り受けて邸内に勧請していましたが、お参りする人が多いので塀を下げて神社が道に出るようにされました。常夜灯に宝暦七年(1757)別府浦多木氏の石碑があります。(no5669)*『加古川街実記(かこがわまちじっき)(山脇重弘)』より加古川町旧鳩里村探検(58)北在家(10)松野家の門前の稲荷社

  • 加古川町旧鳩里村探検(58) 北在家(10) 松野家の門前の稲荷社 、もとは鶴林寺の境内に

    松野家の門前の稲荷社もとは鶴林寺の境内に松野家の前にいなり神社があります。説明がないので、近くの人も「どうしてここにあるのか?、そのいわれは?」等は、だんだん分からなくなっているようです。この稲荷社は、明治初期に鶴林寺にあった神社ですが、の神仏分離のためで、鶴林寺から移されることになりました。松野家が譲り受けて邸内に勧請していましたが、お参りする人が多いので塀を下げて神社が道に出るようにされました。常夜灯に宝暦七年(1757)別府浦多木氏の石碑があります。(no)*『加古川街実記(かこがわまちじっき)(山脇重弘)』より加古川町旧鳩里村探検(58)北在家(10)松野家の門前の稲荷社、もとは鶴林寺の境内に

  • 加古川町旧鳩里村探検(57) 北在家(9) 鶴林寺に残る秀吉の禁制札

    鶴林寺に残る秀吉の禁制札時代は戦国時代の終わりの頃、天正6年(1578)です。東播磨地方が、信長・秀吉の支配に入るか、それとも中国地方に勢力を持つ毛利の勢力下に入るかを決する戦が、加古川地域で展開されました。当時、東播磨の領主は、三木・別所氏の支配下でした。加古川城(加古川市加古川町)の糟谷氏のみが、秀吉方に味方していました。しかし、野口・神吉・高砂・志方城の結束は強く、三木方に味方したのです。秀吉は、勢力を持つ寺院等も調略しました。一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺にあります。内容は、次のようです。鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる軍勢が一般人に乱暴を働くこと陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること田畑を荒らすことこれらに違反するものは速やかに厳罰に処す天正六年三月二五日筑前守(*秀吉のこと)秀吉は、鶴林...加古川町旧鳩里村探検(57)北在家(9)鶴林寺に残る秀吉の禁制札

  • 加古川町旧鳩里村探検(56) 北在家(8) 高砂線野口駅

    高砂線野口駅・・・別府鉄道の前身・別府軽便鉄道が開業したのは大正10年の9月でした。現在の加古川市役所のすぐ東に高砂線の野口駅がありましたが、そこから分岐して別府港駅に向かう野口線と、別府港駅から国鉄山陽本線の土山駅へ向かう土山線がありました。別府鉄道の主な役割は、別府にある多木製肥所(現多木化学)で生産される肥料の運搬でしたが、その後、沿線住民の加古川の商店街への買い物の足として、あるいは通勤、通学手段として、別府鉄道はなくてはならないものになりました。最も賑わったのは昭和30年代の初め頃で、別府の浜での潮干狩り、また海水浴へと多くの客を運びました。しかし、こうした風景も、同42年頃から加古川市臨海部の工場用地の造成が始まり、海水浴場も閉鎖になると、以後急速に様変わりしました。モータリゼーションの波で乗客は激...加古川町旧鳩里村探検(56)北在家(8)高砂線野口駅

  • 加古川町旧鳩里村探検(55) 北在家(7) 国鉄(現・JR)高砂線は北在家を走る

    国鉄(現・JR)高砂線は北在家を走る私の小学校時代は、昭和20年代の最後の頃にあたります。その頃、夏には学校から高砂の浜へ海水浴に出かけました。高砂線は、子供の声であふれかえっていました。私にとって高砂線は、浜に続く思い出がつまった鉄道でした。高砂は戦前から多くの工場が進出し、高砂線はお客だけでなく、貨物も大いに利用されていました。高砂線は、大正3年播州鉄道高砂線として開通しましたが、経営難のため大正9年に播丹鉄道に譲渡され、さらに昭和18年、国鉄に買収されました。昭和36年頃から、海岸は埋め立てられ、海水浴場は姿を消した。そして、急速なモータリゼーションによりアッという間に貨物・乗客とも急減しました。その後、膨大な赤字が重なり、高砂線は昭和59年10月30日廃止になり、線路跡の大部分は、道路として利用されてい...加古川町旧鳩里村探検(55)北在家(7)国鉄(現・JR)高砂線は北在家を走る

  • 加古川町旧鳩里村探検(54) 北在家(6) 鶴林寺の建築と太子信仰

    聖徳太子について英雄とか、天才とか、偉人とか呼ばれて、多くの人々の心をひきつけてやまない人物というものが、歴史上にはしばしなその名を刻んでいます。もちろん、その人物が実際その人が魅力あった人物であったかという実像の問題も重要ですが、それ以上に多くの人々から魅力ある人物像の出現が希求された結果として、後からつくられた「像」がままあります。このことに目をむけなければなりません。聖徳太子もまた例外ではありません。今日まで、つづくその評価をおおく支えてきたものは、太子の没後大勢の人々から偉人の存在が求められて続けれられて歴史の集積であり、そうした人々の要求を承けて、新たな人物像が歴史の集積ではなかったでしょうか。聖徳太子は「救世観音」であるというのも平安時代の人々により作り出された像の一つです。この時代は、律令制の崩壊...加古川町旧鳩里村探検(54)北在家(6)鶴林寺の建築と太子信仰

  • 加古川町旧鳩里村探検(53) 北在家(5) アイタタの観音さま

    前号で「鶴林寺」の、聖観音いついて少しだけ紹介しましたが、『ふすさとの民話(加古川青年会議所)』で、「アイタタの観音さま」として知られているこの聖観音を紹介しされています。転載させていただきます。民話:アイタタの観音さま鶴林寺の観音堂に金色さんぜんと輝く観音様がおまつりしてありました。お身たけ1.1メートル、重量は105キロあって、そのお姿の神々しさと美しさは、お参りに来た人をひきつけずにおかないほどでした。それにもまして、この観音さまは閻浮檀金(えんぶだごん:注)の光を放つ黄金仏(おおごんぶつ)と言われていました。これを聞いたドロボウが、この仏さまを盗み出し、鋳つぶして売れば一辺に千万長者になれるだろうと悪い考えをおこし2、3人の仲間と共に、ひそかに観音堂に忍び込んで、まんまと盗み出しました。そこで見つからな...加古川町旧鳩里村探検(53)北在家(5)アイタタの観音さま

  • 加古川町旧鳩里村探検(52) 北在家(4) 鶴林寺の仏たち

    鶴林寺の仏たち鶴林寺には、多くのすぐれた仏教彫刻が伝えられています。主な仏像を紹介しておきましょう。その中でも最古のものは「あいたた観音」(写真)の異名を持っている聖観音立像です。この観音様は、白鳳期(大化の改新~奈良時代以前)の貴重な仏様ですが、鶴林寺が白鳳期からあったという証拠にはなりません。いつの時代か、どこからか持ち込まれたと思われます。鶴林寺には、このほかに平安時代にさかのぼる次の諸像があります。①木造十一面観音立像(重文)平安中期②木造釈迦三尊像(重文)平安末期③木造四天王立像(重文)平安末期④木造阿弥陀如来坐像(県指定)平安末期⑤木造恵便法師坐像平安末期⑥木造菩薩像頭部平安末期②・③は太子堂本尊、④は常行堂本尊として祀られていました。藤原様式をしめす平安末期の諸像が多いのですが、これらの仏像こそ創...加古川町旧鳩里村探検(52)北在家(4)鶴林寺の仏たち

  • 加古川町旧鳩里村探検(51) 北在家(3) 文献史料からみる鶴林寺

    鶴林寺(3)文献史料からみる鶴林寺鶴林寺は国宝の本堂・太子堂をはじめとする文化財の宝庫であることはいうまでもありません。主要な建造物のほとんどすべてが国または県の文化財に指定されています。建築物以外でも、その種類が多種多様であることは驚きです。ところが、鶴林寺が伝えてきた文献史料は、古くても中世(鎌倉・室町時代)に遡るもので、その数も37点にすぎません。そして、鶴林寺文書には著しい特色があります。年代のもっとも古い文書は、鎌倉後期の文永五年(1268)の寄進状ですが、「縁起の伝える鶴林寺は聖徳太子建立」のことが出てきません。ふつうですと鶴林寺ほどの大寺院に伝わる文書では、皇室をはじめとする中央の貴族層か、将軍家か管領・守護クラスの上層武士層との結びつきが何かあるはずですが、鶴林寺文書にはそれを示す文書は全くあり...加古川町旧鳩里村探検(51)北在家(3)文献史料からみる鶴林寺

  • 加古川町旧鳩里村探検(50) 北在家(2) 鶴林寺は四天王寺から勧請

    鶴林寺(2)鶴林寺は四天王寺から勧請前号で「鶴林寺は聖徳太子の創建ではない」と書きました。では、鶴林寺はいつ、だれが創建したのかということですが、これも『加古川市史(第一巻)』から一部を引用します。・・・・鶴林寺は、もと「四天王寺聖霊院」と称し、養老二年(718)には身人部春則(むとべはるのり)が本願となって一大殿堂を建立し刀田山四天王寺と寺号を改めたと伝える。身人部は、播磨の在地土豪らしい。その時期を平安後期と推測している。その理由は、当時の伽藍配置が平安中期以降あらわれる天台寺院に共通している。・・・まとめます。①元の鶴林寺は、養老二年(718)、身人部春則が建立した。②その殿堂を刀田山四天王寺と寺号とした。③鶴林寺の伽藍配置は平安後期のものである。四天王寺について、少し思いきったことを書いてみます。「歴史...加古川町旧鳩里村探検(50)北在家(2)鶴林寺は四天王寺から勧請

  • 加古川町旧鳩里村探検(49) 北在家(1) 鶴林寺は聖徳太子の創建ではない しかし・・・

    鶴林寺(no1)・なぜ鳩里村?復習です。明治22年4月1日に粟津村・木村・友沢村・稲屋村・北在家村・備後村等の村々が合併して加古郡鳩里村となりました。では、どうして鳩里村(きゅうりむら)という名称なのでしょう。これは、この地域に名刹、鶴林寺があったためです。鶴林寺は、「斑鳩寺(はんきゅうじ)」とも呼ばれていました。そのため「鳩」の一字をとって村の名称(鳩の里:鳩里)としました。その鳩里村も、大正4年3月20日、加古川町(かこがわちょう)に編入し、行政地名から消えていきました。そんな鳩里地区の歴史探検を鶴林寺から始めましょう。鶴林寺は聖徳太子の創建ではないしかし・・・旧鳩里村北在家は、鶴林寺について書くことを若干ためらっています。鶴林寺やその檀家の方、そして加古川市観光協会等から、お叱りが聞こえてきそうです。加古...加古川町旧鳩里村探検(49)北在家(1)鶴林寺は聖徳太子の創建ではないしかし・・・

  • 加古川町旧鳩里村探検(48) 粟津(21) 粟津弥生遺跡(2)

    粟津弥生遺跡(2)次回から北在家探検に出かけましょう「加古川町旧鳩里村粟津探検(no2)」で「粟津弥生遺跡」を紹介しました。少し復習をしておきます。この遺跡は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。この遺跡を紹介して後、『粟津遺跡調査報告書』(2020:加古川市教育委員会)がインターネットにあることを知りました。場所は、「ひろかずのブログ・旧鳩里村粟津探検(no2)」で確かめてください。「報告書」には、調査地点の写真がありましたので、付け加えておきます。次回から「加古川町旧鳩里村北在家探検」をはじめます「粟津探検」は不十分でしたが、次回から「旧鳩里村北...加古川町旧鳩里村探検(48)粟津(21)粟津弥生遺跡(2)

  • 加古川町旧鳩里村探検(47) 粟津(20) 南粟津:加茂神社

    南粟津:加茂神社粟津地区の南部は加古川駅に近く便利な地域です。それに、加古川中央線(鶴林寺の北を走る東西の広い道路)が開通しました。農地は、住宅地、商業地と猛烈な勢いで都市化が進み、人口も増加し粟津は適切規模をこえるまでになりました。そして、粟津の南部は南粟津町内会を結成しました。そして、新しい町のシンボルとして、加茂神社を創設しました。加茂神社の説明の前に摂、境内社、境外社を整理しておきましょう。◇摂社・末社◇現在は、摂社・末社に関する規定は特にありません。が、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社が最も高くそれに次いで摂社そして末社の順とされていました。そして、本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境内外に独立の敷地を持...加古川町旧鳩里村探検(47)粟津(20)南粟津:加茂神社

  • 加古川町旧鳩里村探検(46) 粟津(19) 加古川簡易裁判所

    加古川簡易裁判所粟津には簡易裁判所(写真)があります。裁判所といえば、何となく敷居が高い気がしますね。でも、簡易裁判所は、そんなに堅苦しい裁判所ではありません。弁護士は事情や悩みをヒアリングし、最短で最小の労力やコストで問題を解決するための手段を提案してくれます。簡易裁判所:簡単な話し合いによる裁判所簡易裁判所では、民事事件については訴訟の目的となるものの価額が140万円を超えない請求事件に限り、扱うことができます。簡易かつスピーディーに問題の解決を図る仕組みができており、すべての事件が1人の簡易裁判所判事によって審理および裁判されています。また、調停委員の仲介のもとで、当事者双方が話し合いによって解決を目指す調停制度が設けられているのも大きな特徴です。民事手続には民事訴訟、民事調停、支払督促などがあり、争いの...加古川町旧鳩里村探検(46)粟津(19)加古川簡易裁判所

  • 加古川町旧鳩里村探検(45) 粟津(18) BAN-BANテレビ・ラジオ

    BAN-BANテレビ・ラジオBAN-BANテレビ・放送は、粟津にあるテレビ・ラジオの放送局です。東播磨のインターネット・電話も扱っており、二市二町の地域に密着した情報の発信の中心となっています。BAN-BANは、改めて紹介することはありません。そのため、今日は私個人のことになりますが、ご了解す下さい。『加古川さんぽ』をバンバンラジオで紹介2019年7月の初めでした。「バンバンラジオで谷五郎さんとお話しください」という電話がありました。おそるおそるOKしましたが、こんな経験はないので少し心配でした。そして10日、5時からバンバンラジオ『はりま~るラジオ』の録音がありました。進行は、谷五郎さんと竹内明美さんでした。私は、歯が抜けて発音がはっきりせずドキドキしていたんですが、お二人はさすがプロですね気持ち良い雰囲気を...加古川町旧鳩里村探検(45)粟津(18)BAN-BANテレビ・ラジオ

  • 加古川町旧鳩里村探検(44) 粟津(17) あかりの鹿児資料館

    今日の「あかりの鹿児資料館」については、『Kako‐Styile2』(特定非営利活動法人シミンズシーズ発行)に原正道氏が取材され、書かれた記事を転載させていただきました。あかりの鹿児資料館江戸時代の明かりと明治時代の洋燈約2000点を所蔵・展示する、加古川の隠れた名ミュージアム「あかりの鹿児童資料館」。江戸から名にかけえの時代を照らしあ様々な照明器具の美しさ、素朴で生活に根ざした実用性、職人たちが腕を競った工芸の魅力など、明かりを通して、当時の人々暮らしを伝えています。明かりについて知られるミュージアムは、長野県小布施まちにある「日本の明かり博物館」戸堂資料館の全国でも2ヵ所という貴重な博物館です。ガスおよびガス器具販売の「ネクスト・ワン」の故・橋本俊一会長設立。明治中期にランプの芯を作っていたっことから、明か...加古川町旧鳩里村探検(44)粟津(17)あかりの鹿児資料館

  • 加古川町旧鳩里村探検(43) 粟津(16) 明治14年の粟津の集落(人口、269人)

    明治14年の粟津の集落(人口、269人)『播磨地種便覧』から明治時代の野尻新村の税をみておきます。同書の前書きに「一、戸数人口は明治14年1月御調ヲ以載ク」とあるので、明治14年の数字です。明治新政府は、明治6年(1873)から「地租改正」を行い、米を納める年貢をあらため、土地の所有者から貨幣で定額の地租を取ることにしました。地租改正では、耕地の面積をはかりなおし、新たに地価を定め、その3%を地租としました。一般的に、新政府の収入が減らないように高めに設定されたため、農民の負担は江戸時代と比べても軽くなりませんでした。そのため、各地で「地租改正」に反対する激しい一揆がおこり、これに押された政府は、地租を地価の2.5%(明治10年)に切り下げました。『地種便覧』は、各村の人口、家数、田、畑の面積ならびに地租の額等...加古川町旧鳩里村探検(43)粟津(16)明治14年の粟津の集落(人口、269人)

  • 加古川町旧鳩里村探検(42) 粟津(16) 「ハリマ化成」創業の地

    「ハリマ化成」創業の地粟津は、加古川を代表するハリマ化成の創業の地です。戦後日本樟脳化学を退職して、松脂工業に取り組んだ長谷川末吉氏が、昭和22年(1947)自宅前の空き地を工場として創業、隣の300坪に初期の本格的工場建設、拡張しました。日本最初のパルプ廃液からトールロジンを製造したのです。その際、悪臭がでて、戸数が少なかったとはいえ近所に迷惑を与え、野口の現在の地に工場を移転しました。空き地はしばらく創業の地として空き地になっていましたが、今はマンションが建っています。マンションの周りに工場空き地の痕跡(写真)が残っいます。なお、野口の工場も移転当初は、悪臭を出していましたが、現在完全密閉式精留装置を完成し、無公害工場として同社の基幹工場になっています。余話です。ハリマ化成が移転した土地は、戦中・戦前は陸軍...加古川町旧鳩里村探検(42)粟津(16)「ハリマ化成」創業の地

  • 加古川町旧鳩里村探検(41) 粟津(14) 丸越大明神

    丸越大明神地図で丸越神社の場所を確認ください。この近くはよく来るのですが、こんな町中にひっそりと神社があるとは知りませんでした。先日、ある本で見つけたので探してみました。入口に比べて境内は意外に広い神社でした。調べてみました。「古い神社で、祭神は食稲魂神(うけみたまのかみ)で、農業・食物の神様として大切に祀られている稲荷神社」ですが、それ以上の事はわかりません。丸越神社の「まるこし」も、特別な意味をもっているのではなく、神社のある場所の小字(こあざ)名にちなんでつけられています。ここでは、稲荷信仰について少しだけインターネットからの説明を紹介しておきます。古い神社ですが・・・お稲荷さんの信仰が大きく広まったのは、江戸時代です。それまでは穀物の豊作を願って祀る神様でしたが、幕府の改革などで名高い田沼意次が自分の屋...加古川町旧鳩里村探検(41)粟津(14)丸越大明神

  • 加古川町旧鳩里村探検(40) 粟津(13) 国道2号線を一方通行に

    国道2号線を一方通行に(昭和44年12月1日より)兵庫県公安委会は、(昭和44年11月)7日、加古川市内の国道2号線の交通マヒ対策として、12月1日から、二号線の市街化地域1.6キロメートル東行きの一方通行とし、西行きについては、市道平野西河原線をう回するという幹線国道戦ではめずらしい交逼規制を決定しました。市内を通る国道二号織は交通の渋滞が撤しく、43年度調べでは500メートル以上の渋滞が西行き446回、東行き401回、あわせ手847回もあり、通行車輛も一日4万台に近く、こんご年末をひかえて、ますますふえる傾向にあります。これまで駐車、右折、歩行者の横断禁止などの措置をとってきましたが大きな効果がなく、この規制となったものです。これによって、加古川橋の東詰めから平野交差点までの国道二号線を東行きとし、市道平野...加古川町旧鳩里村探検(40)粟津(13)国道2号線を一方通行に

  • 加古川町旧鳩里村探検(39) 粟津(12) 豊沢団平(6)・豊沢団平年譜

    豊沢団平年譜*豊沢団平のことを年譜(1)・(2)で整理しておきましょう。文政10年3月21日誕生団平寺家町西の町の醤油屋に生まれる天保6年9才入門天保9年12才三代目広助に入門、力松を名乗る天保11年14才天満の芝居に出演、初めて一場を持つ天保13年16才丑之助と改名天保14年17才三弦の横綱格となり、若太夫を弾く弘化元年18才豊沢団平を襲名長門太夫の合三味線となる嘉永2年21才母もと女死去(65才)安政元年28才妻、八重を娶る〃〃養父、安次郎死去(68才)万延元年34才初めて女児を得たが死産文久2年36才長男が生まれたが死去文久3年37才父平蔵作州にて死去(81才)慶応元年39才平三郎誕生慶応3年41才国吉誕生明治2年43才母八重死去八重死去後、千賀を娶る明治10年58才文楽座を去り彦六座に移る明治26年67...加古川町旧鳩里村探検(39)粟津(12)豊沢団平(6)・豊沢団平年譜

  • 加古川町旧鳩里村探検(38) 粟津(11) 豊沢団平(5)・団平逝く

    団平逝く明治31年4月1日の舞台でした。団平の三味線の音はことに美しく、聞くものを感動せしめずにはおかなかったといいます。すでに、台本も残り一枚余となった8時30分頃のことでした。団平は、撥を持ったまま弦を弾こうともしません。その様子が尋常ではなかったので大隅太夫が「代り・・・代り・・・」と声をかけ、楽屋にいた門弟の豊沢龍助が羽織のまま舞台にかけ上って後を弾き継ぐ間に、門人が団平を左右より抱きかかえて楽屋へもどってきました。容体は急性悩充血ですぐに病院につれてゆくことになったのですが、運ばれていく途中、三休橋北詰派出所前で全く絶望となってしまいました。時刻は、10時30分でした。門弟等は涙ながら遺骨を清水町の自宅に運びました。団平はかねてから「撥をもったまま死にたい」と語っていましたが、まさにその通りになってし...加古川町旧鳩里村探検(38)粟津(11)豊沢団平(5)・団平逝く

  • 加古川町旧鳩里村探検(37) 粟津(10) 豊沢団平(4)・千賀女との再婚

    団平、妻・八重を亡くす安政四年(1857)31才の時、高砂清水町に住んでいた佐藤市次郎の二女八重を娶りました。愛情は細やかで、常徳寺におさめられている位牌によれば、6人の子供をなしています。六人目に生れた女児の出産のために八重は31才で落命して母子ともなくなりました。団平は、芝居の出勤にも、弟子達の指導にも困って、贔屓の旦那衆より種々すすめもあったのですが、京都祇園の茶屋の女主人・沢田「ちか」を迎えて後妻としています。千賀女との再婚千賀女(ちか)は、西陣の染物業沢田安兵衛の二女で備中松山の城主板倉周防守につかえ、一人の男子をもうけたが、周囲の妬みがきびしいので、暇を乞うて京都に帰り、茶屋家業を初めていたといわれています。しっかりした、真の強い人であったことは間違いなさそうです。当時、大坂義太夫弾の名人といわれる...加古川町旧鳩里村探検(37)粟津(10)豊沢団平(4)・千賀女との再婚

  • 加古川町旧鳩里村探検(36) 粟津(9) 豊沢団平(3)・弘化元年(1844)18才で豊沢団平を襲名

    *写真の彼岸花のある風景は本文と関係はありません。でも、団平の三味線に対する情熱と重なるように感じます。弘化元年(1844)18才で文楽座に出演、そして、豊沢団平を襲名団平は、平蔵の末っ子として文政10年(1827)3月21日、寺家町の醤油屋に生まれました。幼名は、丑之助とも力松といわれました。芸界に入った初めの名が力松で、常徳寺の記録は全部、丑之助です。竹本千賀太夫の養子となりましたが、千賀太夫のすすめで三代目豊沢広助に入門して三弦を始めました。そして、天保9年12才の春に力松を名のりました。一度三弦を習い始めると、人に倍して熱心であったので上達もいちじるしく、天保11年の春に天満の芝居に出、初めて三段目を弾く身になりました。弘化元年、18才で文楽座に出て、豊沢団平を襲名し、長門太夫の合三味線であった清七の代...加古川町旧鳩里村探検(36)粟津(9)豊沢団平(3)・弘化元年(1844)18才で豊沢団平を襲名

  • 加古川町旧鳩里村探検(35) 粟津(8) 豊沢団平(2)・団平は、寺家町で生まれる

    団平は、寺家町で生まれる団平は、家寺町に生まれました。家は代代醤油屋であったといわれています。今の寺家町330番地を含む一角です。昭和39年当時、玉岡昌二氏によると四代前の健蔵氏の代に寺家町に出て来て、初めはその家の一部を借りて住居を初めたのですが、間もなくその家を買取ったとのことです。この家の裏に近年(昭和39年)まで醤油蔵であったかと思われる建物が残っていたのですが、腐朽のため倒壊して、今それをしのぶものは残っていません。父・平蔵は作州(岡山県)尾崎村の竹内氏の次男として生まれ、加古家に入り養子となって仁右衛門を襲名しました。父・平蔵は、晩年尾崎村に帰っています。団平の父平蔵は、当時の記録によると放埒で大酒を呑みで、遊興にふけって京の島原、大阪の新町あたりで名が知られた人物でした。その上に、義太夫浄瑠瑠を好...加古川町旧鳩里村探検(35)粟津(8)豊沢団平(2)・団平は、寺家町で生まれる

  • 加古川町旧鳩里村探検(34) 粟津(7) 豊沢団平(とよさわだんぺい)って誰

    豊沢団平(とよさわだんぺい)って誰明治31年4月1日、場所は大阪の稲荷座です。その日、義太夫三味線の名手、豊沢団平の音色は、ことのほかさえ、き聞き入る人々を魅了していました。九分どおり済んだと思われた時でした。団平は、ハタとバチを落とし、前のめりにガックリ肩衣のまま倒れました。意識不明のまま団平は、病院に運ばれる途中絶命しました。この時、71歳でした。三味線界300年の歴史を通じて、その右に出るものなし、とまでいわれた団平の死は、いかにも、この人らしい終末を飾る劇的な風景でした。有吉佐和子は団平をモデルにして、小説「一の糸」を書いています。彼は、本名を加古仁兵衛(かこにへえ)といい、加古家は団平から数代前に粟津から寺家町に移転して、醤油醸造を家業としていました。粟津の常徳寺が加古家の菩提寺で、団平はこの境内に眠...加古川町旧鳩里村探検(34)粟津(7)豊沢団平(とよさわだんぺい)って誰

  • 加古川町旧鳩里村探検(33) 粟津(6) 旧制加古川中学(現:県立加古川東高校)の創建は大正13年

    美濃部達吉:旧制小野中学(現・県立小野高校)へ進学作家・司馬遼太郎氏は、昭和の敗戦までの時代を『この国のかたち(一)』で、次のように書いておられます。・・・昭和ヒトケタから同二十年の敗戦までの十数年は、ながい日本史のなかでもとくに非連続の時代だったということである。・・・「あんな時代は日本ではない」と、理不尽なことを、灰皿でも叩きつけるようにして叫びたい衝動が私にある。日本史のいかなる時代ともちがうのである。司馬氏は、この時代を歴史から消してしまいたいような、衝動を感じておられるようです。この時代は、高砂出身の美濃部達吉の活躍した時代と重なります。重なるというよりも、美濃部達吉は軍部(参謀本部)の攻撃の対象になり、昭和10年、その学説(天皇機関説)は攻撃され、内閣によりその著作発禁の処分を受けています。戦前の極...加古川町旧鳩里村探検(33)粟津(6)旧制加古川中学(現:県立加古川東高校)の創建は大正13年

  • 加古川町旧鳩里村探検(32) 粟津(5) 粟津神社境内の稲荷神社の創建は不明

    粟津神社境内の稲荷神社の創建は不明稲荷神社とは、稲荷神社の総本宮・伏見稲荷大社をはじめ、稲荷大神または稲荷神を主祭神としてお祀りしている神社です。稲荷神は、稲を象徴する穀霊神、農業と深く関係する農耕神とされています。江戸時代までは国民のほとんどが農業に従事していたことから一般庶民に支持され、全国津々浦々、国内で最も普及した神社となっています。ちなみに「お稲荷さん」はきつねではありません。きつねは稲荷神のお使いであり、神様をお守りする存在として境内に置かれています。日本中で親しまれるようになった現在では、「家内安全」や「学業成就」「縁結び」など様々な願いを叶えてくれる、頼れる身近な神様として信仰を集めています。また、朱塗りの鳥居が連なっているのは、願い事が「通る」「通った」などの意味から、心願成就の祈念や成就の感...加古川町旧鳩里村探検(32)粟津(5)粟津神社境内の稲荷神社の創建は不明

  • 加古川町旧鳩里村探検(31) 粟津(4) 戎神社(昭和34年1月、粟津神社境内に遷座)

    戎神社(昭和34年1月、粟津神社境内に遷座)大正15年、出雲の国、三穂(三保)神社の分霊を賜り、出雲大社加古川教会境内に恵比寿神社をお祀りしてましたが参詣の人が多く、敷地が狭いために、広い適当な移転先を探していました。そんな時でした。粟津神社より「受け入れてもいい」との返事を受け、昭和34年(1959)1月、粟津神社本殿の東隣に遷座しました。戎神としての商売繁盛の神様として、また漁業・海運の神、田の虫除けの神として信仰を集めています。今では、加古川戎神社として1月9日(宵宮)、10日(本戎)、11日(残戎)二大勢の参詣がありにぎわいます。昨日(23日)、もと戎神社があった出雲大社加古川協会(南本町3丁目)の場所を古い住宅地図をたよりに訪ねました。なるほど、神社にしては狭い場所です。その教会跡も現在モダンなアパー...加古川町旧鳩里村探検(31)粟津(4)戎神社(昭和34年1月、粟津神社境内に遷座)

  • 加古川町旧鳩里村探検(30) 粟津(3) 粟津神社

    粟津神社加古川駅から南へ国道2号線をこえて少し行くと行くと、粟津神社があります。氏神は天満宮で祭神は菅原道真です。この粟津神社は、元和元年(1615)創建とされています。菅原道真が大宰府に左遷中、この地に立ち寄られたという伝承、そして集落住民の発展、五穀豊穣、学問の成就を願い、村人たちで建てられました。摂社として、大歳神社(農業の神様)ともう一つの菅原道真を祭る天神木神社があります。菅原道真を祭る神社がふたつもあるのは、不思議ですね。もともと、天神木神社は名前のように、寺家町の天神木(現:県加古川総合庁舎の場所)にありましたが、新しく憲兵の隊校を寺家町の天神木に新築した際、この神社は粟津神社に移転しました。現在の粟津神社11月15日には、七・五・三には数多くおまいりがあります。また十月中旬~十一月中旬にかけて行...加古川町旧鳩里村探検(30)粟津(3)粟津神社

  • 加古川町旧鳩里村探検(29) 粟津(2) 粟津弥生遺跡

    粟津弥生遺跡話を「溝ノ口弥生遺跡」(加古川市加古川町溝口)の発見から始めます。この遺跡は、昭和42年、加古川バイパスの工事中、地元の中学生が多量の弥生土器を見つけたのがきっかけでした。調査は、昭和43~44年にかけて行われ、弥生中期(3世紀中ごろ)を中心とする遺跡であることがわかりました。その後の調査により溝ノ口遺跡は、広範囲に広がっていることがわかりました。溝ノ口遺跡は日岡山に古墳を築いた豪族の住んでいた村だったのでしょう。調査の結果から、これらの遺跡は、弥生時代から平安時代の複合遺構であることが確認されました。粟津遺跡(集落)は日岡豪族につながる一族か町の開発にともない、工事で破壊される部分の調査が実施されました。場所は地図の丸の部分です。その近くに、高等学校の地図記号がありますが、加古川東高校です。場所は...加古川町旧鳩里村探検(29)粟津(2)粟津弥生遺跡

  • 加古川町旧鳩里村探検(28) 粟津(1) 粟津は、『風土記』の登場する古い村

    粟津は、『風土記』の登場する古い村永正十二年(1515)八月日付の「鶴林寺文書」に粟津(加古川市加古川町)の記録があります。粟津村は、1515年には存在していました。しかし、それは村の始まりではありません。記録にはないのですが、粟津村の歴史は、はるか昔にさかのぼります。想像を交えて書いてみます。まず、粟津を「粟」と「津」に分けて考えてみましょう。「粟」ですが、「大化の改新」(645)の以後、現在の播磨町から平岡町いったいは「粟々の里(あわわのさと)」と呼ばれ、『風土記』には「コリメが、この野を耕して粟を植えた。そのため「粟々の里」といった・・・」と書かれています。粟の生産が盛んな土地であったのかもしれません。石見完次氏は、粟津の「アワ」は湿地帯で池沼の多いところの意味であると指摘されています。粟津には「富家(フ...加古川町旧鳩里村探検(28)粟津(1)粟津は、『風土記』の登場する古い村

  • 加古川町旧鳩里村探検(27) 稲屋・友沢(16) 古新堰堤(こしんえんてい)

    古新堰堤(こしんえんてい)加古川は大きな川ですが、特に米田町古新辺りから川幅を広げて、瀬戸内海に流れ込みます。古新堰堤は、よく知られており、しばしば広く説明されています。この古新の堰堤の対岸は「友沢」なんです。「友沢」についての説明がありません。むかしから加古川は、大量の土砂が河口辺りで堆積させ、その流れを妨げてきました。そのため、浅くなった川底のためにしばしば氾濫し、水害を引き起こした暴れ川でした。特に、江戸時代、河口の高砂港は、この堆積により港が浅くなることが最大の問題でした。この堆積作用は現在も続いており、絶えず川底をさらえる必要があります。塩害河口あたりの水のもう一つの問題は、塩水が混じった気水域であることです。塩水を含んだ水は直接、田畑に利用できませんし、飲料水にも適しません。河口から少し離れた米田町...加古川町旧鳩里村探検(27)稲屋・友沢(16)古新堰堤(こしんえんてい)

  • 加古川町旧鳩里村探検(26) 稲屋・友沢(15) 県立加古川河川敷マラソンコース

    「加古川河川敷マラソンコース」は「加古川みなもロード」という名称なんですね。このブログの説明は、インターネットから引用させていただきました。左上に説明があるのですが、小さくて読みずらいです。下記のような説明です。県立加古川河川敷マラソンコース加古川、「みなもロード」の概要このコースは、国土省が整備した緊急用河川敷ロードを活用し、平時にはジョギング・ウォーキングをはじめ本格的なマラソン大会を行うように整備しました。平成15年のコース開設以来、地元加古川・高砂のマラソン大会をはじめ、毎年様々な大会に利用しています。スタート・ゴール地点は「友沢」の河川敷です。スタートとゴールに選手が到着の時は、いつも大きな歓声が湧き上がりますよ。私の散歩は、ほとんど夕方で、ゴール・スタート地点から国道2号線のまでを往復します。草花が...加古川町旧鳩里村探検(26)稲屋・友沢(15)県立加古川河川敷マラソンコース

  • 加古川町旧鳩里村探(25) 稲屋・友沢(14) 播州大橋からの風景

    播州大橋からの風景昨夜の台風14号の被害はなかったでしょうか。今日から、秋本番になるようです。散歩を楽しみましょう。先日も、自宅(尾上町今福)から2キロほど離れた加古川にかかる明姫幹線(播州大橋・播州大橋)の歩道を東から西(高砂)の方向に歩いています。東詰の少し西に歩いた場所から写真を撮りました。マンガ『よつばと』にある風景です。絵と比べていると、少しだけ違っていますが、この場面の風景であることはわかります。対岸の南(左)に鉄塔が描かれています。が、鉄塔は写真のように北側(右)にあります。そして、対岸の右側に大きなビル(スーパー)がありますが、実際は南側(左)です。少しだけ違って描かれていますが、それにしてもこんな景色をマンガの中で見つけるのは楽しい散歩です。なお、このまんが『よつばと』の作者のお住まいは高砂だ...加古川町旧鳩里村探(25)稲屋・友沢(14)播州大橋からの風景

  • 加古川町旧鳩里村探検(24) 稲屋・友沢(13) 寿願寺の阿弥陀様は、洪水のことを知っている

    寿願寺の阿弥陀様は、洪水のことを知っている文禄2年(1593)、(友沢の)福田一族は一宇の道場を建てます。その後、享保年(1718)、本願寺のから、「寿願寺」の寺号と「阿弥陀如来立像」を賜り今に伝えています。『加古郡史』には文禄2年(1593)とあり、本徳寺(姫路)年表には宝暦元年(1751)とあります。ともあれ、寿願寺は江戸時代の初めか、それより少し前の創建のようです。村(集落)自体も、あまりさかのぼらないようです。というのは、もともと友沢は加古川の湿原を開墾してできたようで、しばしば洪水の被害があった集落でした。友沢は洪水の被害の多い集落寿願寺が創建されたころ、しばしは洪水がおきました。その様子を升田堤(東神吉町)に見ておきましょう。升田堤完成万治2年(1659)8月上旬、工事がほぼ完成したころに暴風雨が襲...加古川町旧鳩里村探検(24)稲屋・友沢(13)寿願寺の阿弥陀様は、洪水のことを知っている

  • 加古川町旧鳩里村探検(23) 稲屋・友沢(12) 友沢(村)を歩く

    友沢(村)を歩く友沢村は、ふるくは加古川三角州の氾濫原で「留沢」が転化したのではないかといわれています。大正期のころまで加古川の右岸・印南郡古新(こしん・現在の高砂市)への渡し舟がありました。下の数字は、明治14・5年の頃の記録(『播磨地種便覧』)ですが、江戸時代の数字とほぼ同じだと思われます。当時の周辺の稲屋・木村と比べて小さな村であったようです。《友沢村:明治14・5年ころ》戸数70戸人口277人(木村84戸人口342人・稲屋138戸人口487人)きのう(9月15日・水)午後、加古川南高校の南(友沢)を歩いてみました。新しい家並みばかりです。でも、新しい家並みを歩いていると「友沢」の真ん中に比較的大きな家がかたまっている一角があります。古い家がかたまっています。道はせまいんです。小さなお寺「寿願寺」のあたり...加古川町旧鳩里村探検(23)稲屋・友沢(12)友沢(村)を歩く

  • 加古川町旧鳩里村探検(22) 稲屋・友沢(11)  稲屋逆水樋

    稲屋逆水樋神戸新聞出版センターから「近代の歴史遺産をたずねて」に「稲屋逆水樋」が紹介されています。この逆水樋は、目につく場所でないためか、あまり知られていません。この本から「稲屋逆水樋」を紹介しましょう。・・・加古川下流の東岸の稲屋地区(加古川市加古川町稲屋)は、昔から海水の逆流による浸水が多く、稲作や野菜類の栽培もしばしば被害を受けた。水門が出来るまでは、田畑の畦に土のうを積んで防ぐより方法がなく、毎年"潮害"に苦しめられてきた。写真の「稲屋逆水樋」と「大正十二年十月」の明記がある。現役であるが、この水門が、造られてから84年(平成18年時点)がたっている。水門・扉・護岸の傷み目立つようになり、平成18年改修)の秋から取替え工事がはじまった。・・・現在、新しい逆水樋となっています。場所は、山陽電車と加古川左岸...加古川町旧鳩里村探検(22)稲屋・友沢(11) 稲屋逆水樋

  • 加古川町旧鳩里村探検(21) 稲屋・友(10) さようなら、ありがとう

    再び永平寺へ札幌にある大寺院、中央寺の住職になって5年の歳月が流れました。この間奕保禅師は雲水の育成に全力を注ぎました。昭和56年の夏、宮崎禅師(せんじ)の人生にまた大きな転機が訪れました。永平寺で監院(かんいん)を務めていた禅師が亡くなり、宮崎禅師は、その後任を引き受けてほしいと頼まれたのです。監院というのは、禅寺において会計や人事、あるいは地方の寺院との連絡や外部との交渉、さらには広報的な事柄にいたるまで、寺の維持運営に関わるすべての責任を負う役柄です。奕保氏、永平寺の住職(曹洞宗貫主)に続いて、宮崎禅師は副住職に推挙されました。宮崎禅師は、副住職になった時、85歳でした。一方・永平寺の住職(貫主)である丹羽禅師は・宮崎禅師よりも年下で、81歳でした。副住職になって8年半の歳月が流れた平成5年9月7日、丹羽...加古川町旧鳩里村探検(21)稲屋・友(10)さようなら、ありがとう

  • 加古川町旧鳩里村探検(20) 稲屋・友沢(9) 「平気で生きること」の大切さ

    「平気で生きること」の大切さ宮崎禅師は、もう死ぬかもしれないという瀕死の状態を経験しました。・・・・命も危ないというほどの大病をして、「もう変わったというより、生まれ変わってきたようなもんや。いっぺん死んだんだから、生きておるということが不思議になってきた。だから、それからは、第二の人生や」と、よく言っておられました。奕保禅師の入院生活は、結局、三年四ヵ月もの長期問におよびました。その間、奕保禅師は、いつも窓の外に向かって坐りました。加古川は、工業地帯であると同時に、大阪や神戸、姫路に通うサラリーマンたちのベッドタウンとして発展してきた街です。病室の窓からは、様々な形や色をした家々の屋根が見えました。空き地になっている場所もあります。家庭菜園か何かなのだろう。そこは、ちょっとした畑になっています。そうした窓の外...加古川町旧鳩里村探検(20)稲屋・友沢(9)「平気で生きること」の大切さ

  • 加古川町旧鳩里村探検(19) 稲屋・友沢(8) 奕保禅師倒れる

    奕保禅師倒れる昭和43年、永平寺の後堂(雲水の指導)として、二年を過ごした宮崎禅師は、生涯忘れることができない、ある出来事に遭遇しました。その日、後堂は夜中に目を覚まし、トイレに起き、部屋に戻り床に就こうとした時でした。突然、電話が、鳴り響きました。時刻は、午前零時。すると、受話器の向こうから切迫した声が聞こえてきました。「禅師様(熊沢禅師)のご様子がおかしいんや」奕保氏は部屋を飛び出しました。一目散に階段を駆け上りました。60代も半ばを過ぎた老体。しかも、出し抜けに駆けだしたために息が切れました。階段は百段近くあります。息が苦しくなってきました。たどり着いた時、住職はすでに息を引き取った後でした。奕保氏は、涅樂(ねはん)に入ったばかりの住職と対面しました。96歳でした。熊澤禅師は、24年にわたって永平寺の住職...加古川町旧鳩里村探検(19)稲屋・友沢(8)奕保禅師倒れる

  • 加古川町旧鳩里村探検(18) 稲屋・友沢(7) 戦地でお経を唱える

    戦地でお経を唱える宮崎禅師が福田寺の住職になったころの日本は、国全体が戦争に向かっていました。加古川の街も、徐々に戦時色が濃くなりました。昭和10年、加古川に陸軍の飛行場が建設されることが決まると、様々な軍事施設が造られ、街は小軍都と化していきました。宮崎禅師も戦争に巻き込まれていきました。昭和12年の夏、赤紙が届きました。7月7日に中国で盧溝橋事件が勃発すると、それをきっかけに、日本と中国は戦争状態に突入しました。当時、37歳だった僧侶は、呉(くれ)の港から船に乗り込みました。船が到着したのは、上海でした。上海では当時、日中両軍による戦闘が本格化しはじめ、街には重苦しい空気が立ちこめていました。僧侶が配属されたのは、機関銃の部隊でした。機関銃の扱いには不慣れでした。その上に、他の者たちより年を取っていました。...加古川町旧鳩里村探検(18)稲屋・友沢(7)戦地でお経を唱える

  • 加古川町旧鳩里村探検(17) 稲屋・友沢(6) 小塩師匠の死

    小塩師匠の死大学を中退した宮崎禅師は、再び京都の大徳寺に行きました。27歳の時のことでした。宮崎禅師は、一生懸命修行しました。また、歴史ある大徳寺には、古い文献が数多く残されています。宮崎禅師は、連日、書庫を訪ねては、それらの古い文献を読みあさりました。昭和4年5月23日、京都で修行を行う青年のもとに電報が届きました。加古川からでした。修行の身である青年のもとに電報が送られてくることなどめったにありません。嫌な予感が的中しました。「シショゥ、キトク」青年はあわてて住職の部屋へと向かいました。「師匠が危篤との知らせが届きました。これから加古川へ帰ってもよろしいでしょうか」「すぐに行きなさい」京都駅に到着した青年は、駅舎にかかげられた時計に目をやりました。11時55分。汽車の速度がいつもより遅いように感じられてしか...加古川町旧鳩里村探検(17)稲屋・友沢(6)小塩師匠の死

  • 加古川町旧鳩里村探検(16) 稲屋・友沢(5) 勉強がしたい

    勉強がしたい宮崎少年は、高等小学校の二年生の時に、得度をしました。15歳の時のことでした。この得度の際に師匠から授かったのが、「突保(えきほ)」という僧名でした。奕保はこの頃、ある思いが芽生えていたのでした。「より学業を積みたい」と思うようになっていました。そして、大正6年、17歳の夏についに寺を飛び出しました。寺を抜け出した少年は、大阪に住む親戚のもとへと向かい、ゴム会社を経営するその親戚のもとで働き、学資を稼ぐことにしたのです。そんなある日、少年のもとに人が訪ねてきました。幼い頃に生き別れた母親でした。少年が寺を飛び出したと聞いて、駆けつけてくれたのです。母親は、少年に封筒を差し出して「これを使いなさい」言ってくれました。お金が入っていたました。少年は深々と頭を下げて、そのお金を受け取り、そのお金で東京行き...加古川町旧鳩里村探検(16)稲屋・友沢(5)勉強がしたい

  • 加古川町旧鳩里村探検(15) 稲屋・友沢(4) 宮崎少年、福田寺に入る

    宮崎少年、福田寺に入る宮崎少年の家は、兵庫県加西郡(現・加西市)の地で32代、1200年近く続いた庄屋でした。宮崎保少年は、その旧家の長男で、一人っ子でした。少年は、この時、実は、両親と一緒に暮らしていませんでした。母は、父がよそに女性を作ったため、少年が小学校に上がる前に実家に帰ってしまったのです。その原因を作った父は、少年が8歳の時に亡くなりました。その後、祖父と一緒に古い屋敷で暮らしていました。やがて、身支度を整えた少年を迎えに、年老いた尼僧(にそう)がやって来ました。親のいない少年の将来を案じた親戚が、少年を寺に入れてくれるようにと頼んだのです。少年は、わずかな荷物が入ったカバンを持ち、祖父たちに別れを告げて家を出た。少年と尼僧を乗せた馬車は、朝の日差しの中を南へと向かいました。宮崎禅師(ぜんし)が憎侶...加古川町旧鳩里村探検(15)稲屋・友沢(4)宮崎少年、福田寺に入る

  • 加古川町旧鳩里村探検(14) 稲屋福田寺(3) 宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのこと

    宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのこと・・・・私(瀬戸内寂聴さん)が出会った中で、もっとも尊敬しているお坊さんのひとりが、永平寺貫首(えいへいじかんしゅ)を務められた宮崎奕保禅師(みやざきえきほぜんし)さまです。残念ながら2008年、106歳で亡くなられました。私は83歳のとき、105歳だった猊下(げいか・高僧に対する敬称)と「合わせて188歳」の対談をする機会にめぐまれました。猊下は生き仏さまそのものの高僧ですが、私のぶしつけな質問にも、清らかな笑みを浮かべながらお答えになります。私は、すっかりファンになってしまい、あれこれ長々とお話ししてしまいました。・・・(『95歳まで生きるのは幸せですか(瀬戸内寂聴共著)』より)その時、ビックリしたのはその内容ではなく、突如、宮崎突保氏の名前が登場したことでした。宮崎氏の...加古川町旧鳩里村探検(14)稲屋福田寺(3)宮崎奕保(みやざきえきほ)さんのこと

  • 加古川町旧鳩里村探検(13) 稲屋・友沢(2)・福田寺(稲屋)の層塔

    福田寺(1)福田寺の層塔前回説明したように稲屋は、『日本書紀』に「鹿子の水門(かこのみなと)」が加古川の河口部にあったという場所です。研究者は、「鹿子の水門」は、現在の稲屋(加古川市加古川町稲屋)辺りで、当時は、このあたりまで海が迫っていたと推定しています。稲屋の近くにある泊神社は、地域の氏神であり、古代の港(水門・みなと)の守護神であったと考えられています。この稲屋に福田寺という古刹があります。「ふくでんじ」と読みます。福田寺の山門をくぐるとすぐ左(西側)に、現高355㎝の花崗岩製層塔があります。現在は十一重ですが、本来は十三重であったと思われます。塔身(初層軸)には、三面に如来像を浮き彫りされています。この反対の面の如来像両協に銘文があり、銘からこの層塔は、正和二年(1313)に、尼西河弥陀仏を願主として造...加古川町旧鳩里村探検(13)稲屋・友沢(2)・福田寺(稲屋)の層塔

  • 加古川町旧鳩里村探検(12) 稲屋・友沢(1)・鹿子水門(かこのみなと)

    鹿子水門(かこのみなと)『日本書紀』応神天皇13年の条に、次のような話があります。・・・天皇が淡路島に狩に出かけた時に、多くの鹿が「鹿子水門(かこのみなと)」に入るのを見たので、調べてみると、日向(宮崎)の豪族の娘(髪長媛-かみながひめ)が都に仕えるために東上するための一行だった。彼らが鹿皮の衣を着ていたので、鹿と見あやまったのだった・・・これは、地名説話ですが、九州と畿内を結ぶ瀬戸内海の泊(港)のひとつに、「鹿子水門」があったことを物語っています。古代には河口が港として利用される場合が多かったのですが、航海に必要な水や食料も得やすかったのでしょう。それに、加古川の河口は内陸部と結ぶ重要な拠点でした。「鹿子水門」がどこにあったか、明らかではありません。でも、加古川東岸は西岸と比べ若干土地が高く、加古川の流れは西...加古川町旧鳩里村探検(12)稲屋・友沢(1)・鹿子水門(かこのみなと)

  • 加古川町旧鳩里村探検(11) 木村(11)・加古川公会堂

    加古川公会堂元兵庫県営繕課長の置塩章が設計した西洋建築で、1935年(昭和10年)に加古川町公会堂として竣工されました。完成当時は演劇や各種の講演会が開催され、地域の文化において中心的存在で、アールデコ風の幾何学模様にデザインされたステンドグラスの大アーチ窓や側面の連続アーチ窓、スクラッチタイル張りの1階正面部分に大きな特徴です。1971年(昭和46年)から加古川市立図書館の本館として利用されてましたが、1989年(昭和62年)に開館した平岡町の加古川総合文化センター図書館が2006年(平成18年)の組織再編で新たに市立中央図書館となり、旧公会堂の本館が加古川町地域の分館「加古川図書館」として使用されていました。2008年(平成20年)、兵庫県の景観形成重要建造物に指定されました。保存問題加古川町公会堂と同時期...加古川町旧鳩里村探検(11)木村(11)・加古川公会堂

  • 加古川町旧鳩里村探検(10) 木(10))・三島由紀夫の松(徴兵検査の場所)

    三島由紀夫の松(徴兵検査の場所)三島由紀夫が加古川市志方町を訪れたのは二回のみです。一回目は、由紀夫に徴兵検査(昭和19年5月)の命令がきた時でした。当時、徴兵検査は現住所か本籍地のどちらで受けても良かったのです。彼も父も何とか公威(由紀夫)の不合格をのぞんでいました。おしなべて、体格のよくない東京での徴兵検査になれば合格率が高くなります。幸い、当時の由紀夫は体の貧弱な若者でした。たくましい若者の多い本籍地・加古川で受験すれば不合格の可能性が高くなると踏んだのです。この徴兵検査の時、加古川を訪れています。検査は、視力・腕力・走力それに重量挙げまでありました。後に、『仮面の告白』で、この時のようすを「・・・・農村青年たちが軽々と十回も上げる米俵を、私は胸までも持ち上げられずに検査官の失笑を買ったにもかかわらず、結...加古川町旧鳩里村探検(10)木(10))・三島由紀夫の松(徴兵検査の場所)

  • 加古川町旧鳩里村探検(9) 木村(9)・石弾城

    木村の歴史探検と言いながら話は米田(高砂市)に飛んでいました、話題を木村に戻します。戦国時代や室町時代に、加古川市域でも領主の館ができました。江戸時代に発行された『播磨鑑(はりまかがみ)」それらの館が城・構居として記載されています。木村にあった「城」もその一つです。城、構居の基準ですが、比較的大きな館を城とよんだりしていますが、小さくても自分たちの館を城と呼んでいたようです。石弾城さて、木村にあった石弾城ですが、城の名前も「いしはずみじょう」とか「いしきはじきじょう」と読ませて、はっきりしません。そして、詳しいことはわからないようです。ある研究者は、インターネットで次のように説明しておられます。お借りします。暦応2年(1339年)大井三樹伊予守宰によって築かれたといわれ、暦応2年(1339年)雁南荘地頭職を得て...加古川町旧鳩里村探検(9)木村(9)・石弾城

  • 加古川町旧鳩里村探検(8) 木村(8)・赤松、田原、そして宮本へ

    赤松、田原、そして宮本へもう少し、田原と宮本の関係をのべておきましょう。話は、武蔵生誕から250年ほど昔にさかのぼります。そのころ、播磨全域に、強大な勢力を幾っていたのは豪族・赤松則村(円心)でした。円心には、四人の男子があり、その二男、赤松貞範が、田原家の祖とされています。赤松本家は、三男の則祐(そくゆう)が跡を継ぎ、貞範は、京都で別流をたてました。その貞範の孫に持貞という子がおり、室町幕府四代将軍足利義持の寵愛を受けるようになりました。義持は、播磨を、持貞に与えようとさえするほど持貞を溺愛しました。ところが、その持貞が、あろうことか、将車義持の側室に手を出してしまい、ことが発覚してしまいました。義持は激怒し、持貞に切腹を命じて、嫡男の家貞ら一族を京から追放してしまいます。応永4年(1427)のことでした。そ...加古川町旧鳩里村探検(8)木村(8)・赤松、田原、そして宮本へ

  • 加古川町旧鳩里村探検(7) 木村(7)・宮本武蔵の年譜

    「宮本武蔵」について、あまり順序だった記述になっていません。流れがつかみにくいと想像します。武蔵の年譜を紹介しておきます。整理ください。宮本武蔵の年譜1584年武蔵米田に誕生1588年このころ田原家から新免家(作州大原)に養子に行く1596年初めて、剣客と試合をして勝つ1600年黒田氏に陣借りをして関ヶ原の合戦に参加1604年京都・一乗寺で、吉岡一門との対決このころから、禅・絵画・作庭の研究1612年巌流島で佐々木小次郎との試合に勝つ1617年甥の伊織を養子とするこのころ、新免造酒之助(みきのすけ)を養子とする明石小笠原家の客分となる1626年養子官本伊織、小笠原家の家臣となる1634年伊織を頼り、小倉に住み、小笠原家の客分となる1636年伊織、島原の乱での軍功により、家老となる。武蔵も参加1640年熊本藩主細...加古川町旧鳩里村探検(7)木村(7)・宮本武蔵の年譜

  • 加古川町旧鳩里村探検(5) 木村(5)・宮本伊織の生誕400年(2012年)式典

    宮本伊織の生誕400年(2012年)式典この記事は、2012年10月21日、泊神社(加古川町)木村で挙行されたときの再掲です。宮本武蔵の養子、伊織の生誕400年記念式典の記事です。10月21日が伊織の誕生日で、主催者はこの日にこだわって開催されたそうです。プログラムは「鬼太鼓座(おんでこざ)」の元メンバーの太鼓、武蔵円明流の演武、それに旭堂南海さんの「宮本父子伝」の講談等が披露されました。伊織は明石藩の家老に武蔵の養子の伊織は若くして明石藩の家老になり、島原の乱鎮圧に侍大将として活躍しています。泊神社は伊織にとっての氏神で、彼は1656年、荒廃する社殿を再建しています。宮本伊織・14代目当主参列式典では、宮本伊織から14代目の当主の方(写真上)も小倉から参加されました。優しそうな方でした。なお、その少し前にNH...加古川町旧鳩里村探検(5)木村(5)・宮本伊織の生誕400年(2012年)式典

  • 加古川町旧鳩里村探検(5) 木村(5)・泊神社と米田天神社

    泊神社と米田天神社現在、高砂市米田町の米田天神社と泊神社について少し触れておきます。『播磨鑑』の記述に「泊神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とあり、かなりの大社であったようです。泊神社の氏子に注目します。泊神社の氏子は、地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするのですが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっています。現在、泊神社の氏子は、加古川の西岸にも広がっています。すこし不思議です。もと、加古川本流は米田村の西を流れていた江戸時代の絵地図で、加古郡と印南郡(いんなみぐん)の境界を見ています。「郡境」が、少しおかしい。「郡境」は川・海・山・道などを目印にするのが普通です。加古郡・印南郡の境界が決められた頃(奈良時...加古川町旧鳩里村探検(5)木村(5)・泊神社と米田天神社

  • 加古川町旧鳩里村探検(4) 木村(4)・宮本武蔵と泊(木村)神社

    宮本武蔵と泊(木村)神社吉川英治の小説『宮本武蔵』の話をしておきましょう。吉川は、武蔵の生誕地を「作州大原(岡山県)」としています。そのため、一般に武蔵は作州人だと信じられています。近年、この説に異議が唱えられてます。つまり、「宮本武蔵は高砂市米田町生まれである」とする説です。その根拠になったのは、泊神社(加古川市加古川町木村)に宮本伊織(武蔵の養子)が奉じた棟札が発見されました。棟札を少し説明を加えながら紹介しましょう。・・・・武蔵は赤松一族の出身である。武蔵誕生の250年ほど前のことである。赤松持貞は、こともあろうか将軍の側室に手をだしてしまった。持貞は切腹を命じられ、嫡男の家貞等一族は、印南郡の米田に追放になった。名も田原に変え、地侍として勢力を伸ばした。そして、家貞から五代目に名前も同じ家貞の時、二人の...加古川町旧鳩里村探検(4)木村(4)・宮本武蔵と泊(木村)神社

  • 加古川町旧鳩里村探検(3) 木村(2)・潮風の似合う神社(泊神社)

    潮風の似合う神社(泊神社)木村探検は泊(木村)神社から始めましょう。『播磨鑑』の記述に「泊(木村)神社には4人の神官がおり、真言宗に属した神宮寺の僧と神人(みこ)一人がいた」とあります。かなりの大社であったようです。*神宮寺・・・神仏混交の考え方で、神社に奉仕するために建てられた寺。泊神社の氏子に注目します。泊神社の氏子は地元の木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の五ヵ村が祭礼の世話をするが、さらに塩市・米田新・古新・米田・船頭など加古川右岸(西側)一帯に広がっていました。そして、木村・稲屋・友沢・西河原・加古川の村々は、明治22年まで印南郡に属していました。記録にはないのですが泊神社(木村)は、もともと加古川の右岸(西岸)にあったのでしょう。「泊」は港(水門・みなと)を意味します。『日本書紀』に「鹿子の水門(かこ...加古川町旧鳩里村探検(3)木村(2)・潮風の似合う神社(泊神社)

  • 加古川町旧鳩里村探検(2) 木村(2)・印南郡と加古郡の郡境

    個人的な話で申し訳ありません。私は、小学校・中学校・高校と加古川町泊町二丁目で過ごしました。中学校時代、木村を毎日通り抜け加古川中学校への通学でした。木村にはO君をはじめ、友達もいました。小学生2年生の担任のN先生も木村にお住まいで、先生の家の前を中学校へ通いました。(ブログ)加古川探検(旧鳩里地区)の探検を始めます。どこからでも良かったのですが、子ども時代の思い出もあって木村から始めてみます。印南郡と加古郡の郡境右の地図は、住宅地図を借用しています。加古川中央公民館と加古川市立図書館との間に、黒く塗りつぶした線を描きました。路地のような道路です。この道の左上をさらに北へ100メートルばかり歩きます。人形の店「陣屋」の隣に出ます。この道は、文(分)岸寺川(跡)なのです。何の変哲もない路地ですが、「文(分)岸寺川...加古川町旧鳩里村探検(2)木村(2)・印南郡と加古郡の郡境

  • 加古川町旧鳩里村探検(1) 木村

    「加古川町探検」不十分ですが、加古川・氷丘を探検をしました。当然、大切なことで抜けているとことは、たくさんあると思います。その都度、付け加えます。ひとまず、氷丘・加古川を終えて、残る加古川町の歴史探検で「鳩里地区」を歩いてみます。旧鳩里(地区)を歩く鳩里地区ってどこ?「鳩里村の名称は、わずかに「鳩里小学校(きゅうりしょうがっこう)」、「鳩里保育園(はとのさとほいくえん)等にわずかに残っているだけです。そのため、鳩里地区と言われても、「鳩里地区ってどこ」という人も多いのではないでしょうか。なじみの薄い地名になってしまいました。鳩里地区探検の前に「鳩里(きゅうり)村」について少しだけ説明をしておきましょう。右の地図は。「元禄播磨絵図(部分)解読図」から、さらに現在の加古川市加古川町の部分だけを残したものです。地図の...加古川町旧鳩里村探検(1)木村

  • 加古川町中津・河原探検(22) でっかい河川敷のある町:中津・河原

    でっかい河川敷のある町:中津・河原河原の土手にいます。時間は5時を少し過ぎです。昼間の暑い日差しも少し弱まったようで、涼しい風が吹いてきました。河原・中津の西には広々とし田河川敷が広がっています。子どもたちが野球をしていました。お母さんたちが応援をしています。中津・河原は、普段あまり意識しませんが、でっかい河川敷(グランド)のある町です。水管橋がありその向こうに升田山があります。素晴らしい景観です。その日は、でっかい太陽が西(竜山)の方に沈んでいきましたした。加古川にも、こんな素晴らしい風景があったんです。ここへは、散歩にたびたび来ます。幸い、河川敷の真ん中にテニスコートがあります。その横は駐車場ですからそこに車を止めて河原を歩ます。ここの散歩は疲れません。草名前を調べてり、復習をしながら歩きます。交通事故の心...加古川町中津・河原探検(22)でっかい河川敷のある町:中津・河原

  • 加古川町中津・河原探検(21) 河原墓地の石幢(せきとう)

    河原墓地の石幢(せきとう)塔身仏の中で、なんといっても私たちがもっとも親しみを持っているのは地蔵菩薩(じぞうぼさつ)でしょう。「お地蔵さん」と呼んでいる仏様です。この仏様は、大地の恵を表わしている仏で、世の中が乱れた末法(まっぽう)の時代に入ったとされる平安時代の末頃から庶民のあいだで広く信仰されるようになりました。また、お墓の入り口あたりで、よく六体のお地蔵さんを見かけますが、仏教では人間が死んだ後、生前の行いにより、それぞれ六つの世界へ生まれ変わるというのです。その六つの世界とは、天上(てんじょう)・人間(にんげん)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・餓鬼(がき)・地獄(じごく)であると言います。しかし、心配はいりません。どの世界に生まれかわったとしても、そこへお地蔵さんが現れて死者の相談になってください...加古川町中津・河原探検(21)河原墓地の石幢(せきとう)

  • 加古川町中津・河原探検(20) 小学校のクスノキは戦前の精神教育の象徴

    小学校のクスノキは戦前の精神教育の象徴氷丘小学校の運動場にみごとなクスノキがあります。歴史の古い小学校には、クスノキがあります。小学校とクスノキについて書いてみます。戦前の教育は、天皇中心の教育でした。楠木正成は、天皇の忠実な家来として、歴史上の人物としてだけではなく、精神教育の面で大きな役割をはたしたしました。そのため、小学校では、楠木正成の精神をあらわす樹木としてクスノキが植樹されたのです。それも、多くの場合、複数のクスノキが植樹されました。播磨小学校(播磨町)では、もとは校庭にク・ス・ノ・キ・マ・サ・シ・ゲと8本のクスノキが植えられていました。「忠臣楠木正成」を表すために6本を植えたり、「楠木正成」と4本を植えられた例もありました。そのクスノキも戦後、児童数の増加やスポーツ熱のさかんになるにつれ、歴史の証...加古川町中津・河原探検(20)小学校のクスノキは戦前の精神教育の象徴

  • 加古川町中津・河原探検(19) むかし、日岡神社は「日向社」

    「ひろかずのブログ・中津河原(8日)の一部をもう一度読んでみます。・・・・日岡神社から南の鳥居へ歩きました。日岡神社から鳥居まで歩き、そこを右に歩くと大きな道(主要地方道加古川・小野線)と交差します。その道をさらに超えると、道は続いていないようですが、よく見ると駐車場の向こうに続いています。辺りをキョロキョロして、低い柵を乗り越えて、どんどん歩くと、中津(中条)の墓地に至り、その少し手前の三差路に常夜灯と道標がありました。日岡神社からここまで歩いてきた道は、当時(江戸時代以前)の一番の生活道路でであり、日岡神社への参道でした。左にある道標には、「右加古新田道、左国かね三木」とあり、道は加古川の土手沿い、西之山・西条・国包・宗佐を経て三木へと続いています。この道は、高砂から加古川を経て三木へ抜ける古道です。むかし...加古川町中津・河原探検(19)むかし、日岡神社は「日向社」

  • 加古川町中津・河原探検(18) 三宝荒神

    三宝荒神荒神さんの由来は仏教尊像ではなく、日本仏教の信仰の中で独自に発展した尊像です。日本古来の荒々しい神の魂に、古代インドに源泉をもつ夜叉神の形態が取り入れられ、神道、密教、三学区信仰などのさまざまな要素が混交して成立した言われています。三宝荒神の像容は、三面六臂または八面六臂(三面像の頭上に5つの小面を持つ)です。頭髪を逆立てて眼を吊り上げた、暴悪を治罰せんとする慈悲が極まった憤怒の表情を示し、密教の明王像に共通するものがあります。不浄や災難を除去する神とされることから、火と竈の神として信仰され、かまど神として祭られることが多くあります。これは日本では台所やかまどが最も清浄なる場所であることから俗間で信仰されるようになったものであり、仏像としての作例は近世以降のものがほとんどです。願成寺の荒神さん願成寺の荒...加古川町中津・河原探検(18)三宝荒神

  • 加古川町中津・河原探検(17) 願成寺の鐘

    願成寺の鐘願成寺の境内(本堂の正面)の鐘楼に小ぶりの鐘があります。この鐘について『氷岡村実記(山脇重弘著)』で、次のように書いておられます。お借りしました。「・・・・お寺の鐘は約500年前の天文年間(西暦1540年ころ)の製作で、十円で購入している。戦時中、金属の供出で提出したところ、古いいわれのある有る鐘だとのことで返却されてきた。調べてみると、加東郡の神社のであった。このことが新聞の記事になり、神社から返却の要請があったが、戦国時代は陣鐘として使用され、徴発と寄進がり、転々と変えていったと考えられ、返還の必要がないということになった。・・・」鐘についてはよく似た話がたくさんあります。高砂市の生石神社の鐘・東神吉町升田の妙願寺の鐘の話はよく知られています。ここでは余話として妙願寺の鐘について付け加えておきます...加古川町中津・河原探検(17)願成寺の鐘

  • 加古川町中津・河原探検(16) 願成寺の阿弥陀石棺仏

    阿弥陀様の石棺仏加古川には、不思議な石仏がたくさんあります。石棺に刻まれた仏像、石棺仏です。これらの石棺仏は鎌倉時代から、室町時代にかけて多くつくられたが、その後はプッツリと姿を消しました。鎌倉時代は、水田の開発が盛んで、土地が新たに開墾されました。多くの古墳もこわされた。出土したした石棺は、「手軽な材料?」として仏像をつくる石材として再利用されたのです。しかし、単なる廃物利用ではなさそうです。当時の人々も、この石材は、死者を葬った石棺であることを意識していたようです。これらの石棺仏は全国で120基ほど確認されていますが、その八割が加古川市、加西市に集中しています。加古川市・加西市では、普通に見られる仏像であるが、全国的には大変珍しいものです。願成寺の石棺仏(写真)は、さらに数奇な運命をたどったようです。石棺仏...加古川町中津・河原探検(16)願成寺の阿弥陀石棺仏

  • 加古川町中津・河原探検(15) 結界石

    加古川町河原の願成寺の山門にある石造物「結界石(けっかいせき)」の紹介です。結界石「不許葷酒入山門」と刻んだこの石塔(写真)は、願成寺の山門の「結界石(けっかいせき)」です。「クンシュ、サンモンニ、イルヲ、ユルサズ」と読みます。葷酒の「葷」は、ニラ・ニンニク・ネギなどの臭気がある食物や、カラシ・トウガラシなどの刺激性のあるもの、精力の出ると言われている食物、それに肉などを指しています。これらは、寺での修行(しゅぎょう)の妨げになるので、それらを食べて寺に入ってはいけない。また、酒も飲んで寺に入ってはいけない、と言う意味です。禅宗寺院の山門によくみられます。願成寺は、曹洞宗(禅宗)の寺です。ほとんどの結界石は、江戸時代に造られています。願成寺の結界石も江戸時代のものと思われます。山門を入れば、そこは聖域もともと仏...加古川町中津・河原探検(15)結界石

  • 加古川町中津・河原探検(14) 加古川花火大会

    加古川花火大会明治時代、加古川はしばしば水害をおこし、その度に河川改修の要求が高まりました。明治43年は、全国的に大水害にみまわれ、多くの死者をだしました。国は、国の直轄事業として、すぐにでも工事を始めなければならない河川は全国に65あるとしました。そして、これらの河川のうち20を選び「第一期河川」としました。加古川は、利根川や木曽川とともに、第一期河川に組み入れられました。この時選ばれた第一期河川は、以下の20河川です。利根川(茨城・千葉)・信濃川(新潟)・淀川(大阪)・木曽川(三重)・吉野川(徳島)・九頭竜川(福井)・高梁川(岡山)・庄川(富山)・遠賀川(福岡)・荒川(東京)・北上川(宮城)・阿賀野川(新潟)・雄物川(秋田)・最上川(山形)・神通川(富山)・岩木川(青森)・富士川(静岡)・斐伊川(島根)・緑...加古川町中津・河原探検(14)加古川花火大会

  • 加古川町中津・河原探検(13) 明治29年の水害

    明治29年の水害明治29・30年、中津・河原辺りたりは大きな水害の被害を受けました。大雨の時、加古川の水位は高くなります。そんな時は、加古川の水の取り入れ口から、大量に流れ込むことになります。そのため、取り入れ口の水門は閉じられます。しかし、困ったことがおきます。曇り川(神野町)に、それをみましょう。曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まであります。しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となり、こんな時は、加古川へ排水する水門は閉じられます。水の行き場がなくなります。曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、氷丘・加古川の町へと押し寄せ、水害をおこしました。最近の加古川の水害史...加古川町中津・河原探検(13)明治29年の水害

  • 加古川町中津・河原探検(12) 戦争で神戸肉の生産ストップ

    戦争で神戸肉の生産ストップ・・・戦前から「神戸ビーフ」は有名でしたが、戦争のため生産は減量やストップの危機に面しました。加古川町は、神戸に代わる肉の生産地にとなりました。その一拠点が志方ともう一か所河原が加古川肉の生産拠点でした。場所は、現在のシルバーセンター(加古川市加古川町)のある周辺です。肉は、加古川で生産当時(戦後間もないころ)は、農業が中心で、農家は労働力の大切な一部として、たいてい牛を飼っていました。ですから、容易に牛肉の生産はできました。業者が農家から牛を買い、それを処理場に持って行き、製品にして神戸を中心に送り出しました。もちろん、食をあずから大切な仕事ですから、処理場には専属の獣医さんが常駐して、牛の健康状態、製品の品質、等級の分類など厳格に行われていました。当時の方に聞いた話では、処理場に連...加古川町中津・河原探検(12)戦争で神戸肉の生産ストップ

  • 加古川町中津・河原探検(11) 三木道(県道:加古川・高砂線)

    三木道(県道:加古川・高砂線)高砂から三木へ抜ける三木道(滝野~加古川町)・高砂道(高砂港~加古川町)は、昔から繋がっていましたが、明治22年4月高砂道は、やや東方に移転しました。現在の中津・河原を抜ける三木道(県道加古川・高砂線)も方向をやや東にとり、河原・中津を抜け国包村を通り三木・滝野に伸びました。しかし、町内を曲がった道部分が多く、大正13年9月14日町会で路線を直通とし、道幅を拡張し、工事費の3分の2を負担することを決め県に上申しました。この案件は認められ、大正14年、改修費の3万6千を負担して工事が行われました。しかしながら、なお道幅が狭く、曲がったところが多いため、大正15年道幅5間として高砂道・三木道の改良工事をしました。加古川駅は新しくなりました、そして駅北も大変貌をとげています。加古川駅辺り...加古川町中津・河原探検(11)三木道(県道:加古川・高砂線)

  • 加古川町中津・河原探検(10) 「加古川驛への石柱」

    「加古川驛への石柱」以前紹介した「加古川驛(人馬継立問屋場)」の石柱のことです。この石柱(写真)は「加古川驛」の文字を刻んでいます。西国街道播磨国南加古郡加古川驛加古川駅ができたのは、明治21年(1888)ですから、標柱はこの加古川駅のものではありません。西国街道と言うのであるから、江戸時代のものです。江戸時代、加古川の駅(人馬継立問屋場)は、陣屋の東隣にありました。とすれば、この標柱は、そこから北のどこかにあったことになりますが、元あった場所は、はっきりと分かりません。以前「きっと、寺家町から日岡神社へ向かう中津(加古川町中津)あたりの旧道沿いにあったのではないかと思われます」と紹介しました。そこで、昨日(8月10日)、この人馬継立問屋場のあった場所から河原・中津を経て日岡神社へ歩いてみました。問屋場の場所は...加古川町中津・河原探検(10)「加古川驛への石柱」

  • 加古川町中津・河原探検(9) 河原村は室町時代にできた村か?

    河原村は室町時代にできた村か?河原村のことです。古くは川原村と書き(正保郷帳)、加古川左岸(東岸)に沿いの三角州中にあった集落(加古郡誌)です。そのため、田は米作にはて来ていません。裏作の麦作にたよった村のようでした。応永十六年(1409)9月付のある文書には「播磨国河原」として登場していますから、村ができたのは室町時代のことと思われます。その後、慶安二年(1649)に願成寺が創建されています。河原村の北にあるのは中津ですが、中津村は中州村が転化したといいます。これらの集落は、ともに米作には適さない集落であったようです。しかし、江戸時代になり、稲作も発展し村は大きくなってきました。時代は、一挙に飛びますが、明治十五年(1882)発行の『播磨の国地種便覧』によれば、河原村の戸数・人口は次のようでした。河原村戸数5...加古川町中津・河原探検(9)河原村は室町時代にできた村か?

  • 加古川町中津・河原探検(8) 中津の常夜灯と道標

    中津の常夜灯と道標先日、日岡神社から南の鳥居へ歩きました。それも、お昼の3時ごろでした、汗だくだくの散歩になりました。鳥居まで歩き、そこを右に歩くと大きな道(主要地方道加古川・小野線)と交差します。その道をさらに超えると、道は続いていないようですが、よく見ると駐車場の向こうに続いています。辺りをキョロキョロして、低い柵を乗り越えて、どんどん歩くと、前号で紹介した中津(中条)の墓地に至ります。その少し手前の三差路に常夜灯と道標があります。その常夜灯と道標の紹介です。常夜灯の前に石碑があります。この道標は、もとはここにあったのではなく少し移動させられたそうですが、「右大野宮道」と刻んでいます。日岡神社からここまで歩いてきた道は、当時の一番の生活道路でもあった日岡神社への参道です。そして、左にある道標には右加古新田道...加古川町中津・河原探検(8)中津の常夜灯と道標

  • 加古川町中津大野・河原探検(7)中津中条墓地の十王石仏

    中津中条墓地の十王石仏きのう(8月7日)中津の墓地に出かけました。墓地の入り口には、普通六地蔵があるのですが、ここの墓地には六地蔵ではなく十王(じゅうおう)石造があるので写真を撮りに出かけました。墓地の入口に説明があります。読んでおきましょう。江戸時代享保5(1720)年凝灰岩(竜山石)製右側の石板高さ(地上部分)48cm幅154cm厚さ25cm左側の石板高さ(地上部分)48cm幅164cm厚さ25cm墓地の入り口にある2枚の石板には冥途で死者を裁く十王像が彫られています。仏教や道教では死者の初七日から三回忌にかけて十王から裁きを受けることによって、来世の生まれ変わるところが決まると言われています。初七日秦広王(不動明王)二七日初江王(釈迦如来)三七日宋帝王(文殊菩薩)四七日五官王(普賢菩薩)五七日閻魔王(地蔵...加古川町中津・河原探検(7)中津中条墓地の十王石仏

  • 加古川町中津・河原探検(6) 皇紀二千六百年(昭和15年)

    2月11日は「建国記念の日」です。この日、初代の天皇・神武天皇は奈良の橿原で天皇になる儀式をし、昭和15年(1940)は、その式典から数えて2600年目(皇紀2600年)にあたるといいます。(もちろんこれは神話の話で、2600年前は縄文時代(狩猟時代)で、天皇は存在しません。)氷丘小学校の『創立80周年記念誌・くすの木』に、当時のようすを伝える1枚の写真が掲載されています。この年は、日独伊三国同盟・大政翼賛会の結成等、日本は着実に戦争準備を整えました。皇紀2600年の式典も戦争に備えて、国民の意識を高め、団結を強める意味がありました。皇紀二千六百年(昭和15年)1940年12月10日、紀元二千六百年奉祝の記念式典が全国で実施されました。また、加古川小学校でなされた「紀元二千六百年奉祝式典に関する訓話」は、この日...加古川町中津・河原探検(6)皇紀二千六百年(昭和15年)

  • 加古川町中津・河原探検(5) 中津駅

    中津駅「播州鉄道」は、大正2年(1913)に加古川~西脇間で開業です。開業後、まもなく経営は困難になり、第一次世界大戦後の不況が、さらに追い討ちをかけ、大正12年(1923)、経営陣はかわり、名称も「播但鉄道」として、再スタートをきりました。この頃から利用者も増え、経営も順調にのび、地域の重要な足となりました。時代は太平洋戦争に突入し「播但鉄道」は国有化され、国鉄・加古川線となり、その後、民営化され現在にいたっています。「氷丘小学校60周年記念誌」に、播州鉄道の時代、氷丘小学校脇に中津駅があったことを取り上げています。「播鉄(播州鉄道)は、よく列車の故障がありました。当時、学校脇に中津駅というのがあって、学校の汐干狩の時だけ停車しました。この駅で降りるのは、氷丘小学校の先生二人だけだったんです」とA氏は話してお...加古川町中津・河原探検(5)中津駅

  • 加古川町中津・河原探検(4) 升田堤防(中津河原の対岸の堤防)建設はんた~い!

    升田堤防(中津河原の対岸の堤防)建設はんた~い!加古川の豊かな流れは、生活の糧であるとともに、時には洪水を引きおこし、住む人の家を壊し、田畑を流しさった。流域の人々にとっての生活は、まさに加古川との闘いの歴史でした。時は万治元年(1655)、姫路藩は、升田山から船頭(ふなもと・加古川橋西詰)にかけて、丈夫な堤防(升田堤)をつくり、水害を防ぎ現在の加古川本流の西側に広大な田畑を作ろうとしました。この升田堤が完成すれば、その対岸の大野・中津村等の洪水の可能性が大きくなります。そのため、大野・河原・中津の百姓達は、藩主・榊原忠次に嘆願書を出しました。「・・・私たちの村々は、昔から水害の際は西側と同じように被害を受けてきました。ところが、この度の工事で右岸(西岸)だけが強くなり、左岸(東岸)が弱いままですから、一方的に...加古川町中津・河原探検(4)升田堤防(中津河原の対岸の堤防)建設はんた~い!

  • 加古川町中津・河原探検(3)  梶原十右衛門(冬庵)真宗寺に眠る

    梶原十衛門(冬庵)神吉城の援軍に冬庵について余話を付け加えてきます。(神吉)頼定は、兄・信烈の臨終の時に、次の約束をしました。「(神吉城の)次の領主は、一端は自分が継ぐが兄の遺児・信常が成人した時には、信常を城主とする」と。頼定は、なやみましたが、その次代の神吉城主・信常を三木へ送りました。信常は、この時まだ13歳でした。この入城には、反対の者も少なくありませんでした。頼定は、信常の守役として、三枝晴重ら12名を付けました。一方、信常の入城に応えて、三木城より神吉城への加勢がありました。この時、神吉城に入ったのは、梶原十右衛門冬庵ら41名の歴戦の武将でした。梶原十右衛門(冬庵)真宗寺に眠るたぶんに伝承の域を出ませんが、梶原冬庵(かじはらとうあん)の話を付け加えておきます。冬庵は、身の丈六尺余り(182cm)の大...加古川町中津・河原探検(3) 梶原十右衛門(冬庵)真宗寺に眠る

  • 加古川町中津・河原探検(2) 中津構居跡(中津権現社)

    中津構居跡(中津権現社)中津権現社に、説明板があるので読んでおきます。播磨鑑(宝暦二年)に、「梶原冬庵古城跡大野郷在中津村今農家ノ居屋敷ト成鎌倉権五郎景政ノ末葉天正年中秀吉ノ為ニ神吉城ニ於テ討死ス」とあり、播州古城記には「中津城中津村鎌倉権五郎景政ノ末葉梶原十右衛門の居城也天正中神吉式部貞範に従いて討死す」と説明しています。平成三年三月加古川市教育委員会援軍は来らず三木城の戦いで三木側についた加古川地方の諸城は、当然、瀬戸内海を圧して進んでくる頼もしい毛利の援軍の光景を描いていました。三木方にとっての最大の不運は、毛利方には余裕がなかったこと、そして、何よりも毛利家は天下に覇を求めなかったことにありました。最後まで、強烈な毛利からの援軍はありませんでした。神吉城の戦い(天正6年・1567)は、当地方では最大の戦...加古川町中津・河原探検(2)中津構居跡(中津権現社)

  • 加古川町中津・河原探検(1) 顔のない仏様

    顔のない仏様なんや、この仏さん(写真)顔ないわ。いたずらされて、かわいそうやな・・・」とある子どもは大きな声でいいました。私も「いたずらにしては度が過ぎる」と同じような気持ちになりました。中津の権現社(加古川市加古川町中津・加古川の水管橋のすぐ東)にあるこの石仏について『加古川市史(第七巻)』は、次のように説明しています。・・・・面の中央に磨りこんだU字状の溝がついているほか、全体に損傷がひどい。・・・天文ころ(1540)の造立と推定して、ほとんど誤りがないであろう・・・ある時、地元のYさんが、次のように話してくださいました。「・・・そうやな。この仏さまは大日さんで、頭や歯などが痛い時、石でお顔を擦りますねん。そして、その白い粉を痛いところにこすりつけると、ふしぎになおります。・・・なおったら、お礼に河原で拾っ...加古川町中津・河原探検(1)顔のない仏様

  • 加古川町大野探検(55) 大庄屋・荒木弥一右衛門

    「大野探検」をダラダラまとめていました。前号で終える予定でした。読み返してみるとなんと大野の歴史では抜かすことのできない「江戸時代の大庄屋・荒木弥一右衛門』がありませんでした。急遽つけ加えました。大野探検は「大庄屋・荒木弥一右衛門」で終わりとします。大庄屋・荒木弥一右衛門江戸時代、各村には村を治める庄屋が置かれていました。大庄屋は、それらの庄屋をまとめる庄屋です。つまり、庄屋の中の庄屋という性格を持ち、ふつう大庄屋の治める村は、10数ヵ村で、それを「組」と呼んでいました。庄屋と違い、大庄屋は苗字・帯刀を許され、農民の代表と言うより、藩(姫路藩)の役人的な性格をもっていました。荒木弥一右衛門は、文化7年(1810)大庄屋を命じられ、明治4年の廃藩置県まで続きました。大野組は、他の「組」よりも大きな組でした。文政1...加古川町大野探検(55)大庄屋・荒木弥一右衛門

  • 加古川町大野探検(54) 最近の大野(大野・加古川駅付近の洪水)の洪水

    最近の大野(大野・加古川駅付近の洪水)の洪水大雨の時、加古川の水位は高くなります。そんな時は、加古川支流の水が本流に流れ込めなくなります。このような時は、「強制的』に本流へ排水する必要があります。このような理由で曇り川と本流の合流点に、排水機場が1964年に設定されました。それでも、排水は充分ではありませんでした。曇り川は、ふだんはあまり流れがありません。曇り川は、曇った時だけ水があるところから「曇り川」の名が付けれたという説まであります。しかし、長雨が続いた時には、ここに一挙に大量の雨が集まり濁流となりました。排水機場の排水能力を超えました。水の行き場がなくなります。曇り川の濁流は、曇り川が加古川に突き当たる加古川の水門辺りから流れを南へ変え、大野・加古川・そして海岸部へと押し寄せ、水害(写真:1961年の加...加古川町大野探検(54)最近の大野(大野・加古川駅付近の洪水)の洪水

  • 加古川町大野探検(53) 神野倉庫(2)・神野倉庫解体

    この文章は2007年2月10日の「ひろかずのブログ」に書いた文章を少し書き直したものです。神野倉庫解体2007年、加古川市加古川町大野にある旧陸軍神野弾薬倉庫の解体作業がほぼ終わりました。この戦争遺跡は、やがて取り壊されるとは聞いていましたが、解体作業がはじまっているのを知ったのは1月の中旬でした。さっそく、写真を撮りに出かけました。旧神野弾薬庫は、昭和12年(1932)頃に建設され、戦後は加古川刑務所が建てられました。終戦で不要となった弾薬庫や工場(現在の計務余と日岡公園の間)など9棟が放置されたままになっていました。地元の「旧陸軍神野弾薬庫等の戦争遺跡保存会」等が建設の「戦争遺跡」として保存を求めてましたが、傷みがひどく保存は難しい状態でした。加古川市は、日岡公園の駐車場としてこの3万9千平方メートルの土地...加古川町大野探検(53)神野倉庫(2)・神野倉庫解体

  • 加古川町大野探検(52) 神野倉庫(1)・もと、加古川刑務所は弾薬庫(神野倉庫)

    写真は、加古川刑務所で、所在地は、加古川市加古川町大野1530番地です。ですから、「大野探検」で刑務所について簡単に述べておきましょう。もと、加古川刑務所は弾薬庫(神野倉庫)戦前・戦中、ここは陸軍の弾薬庫であり、航空用爆弾に火薬をつめる作業を行っていました。「B52」の爆撃機の本土空襲が激しくなった頃、神野倉庫が空襲を受けると大惨事となることが予想されたので、新井用水沿いや日岡山公園周辺に横穴の壕を多数掘って、火薬・弾薬を隠していました。『水足誌』(水足史誌編纂委員会)に、次のような記述があります。読んでおきましょう。「・・・・大野山周辺、新井川の高い斜面に横穴を掘って火薬を隠したり、北浦の新田の畦や空き地に300キロ、500キロの爆弾が数個ゴロゴロと、ころがされてムシロで覆われており、兵隊が時々見回ってくる状...加古川町大野探検(52)神野倉庫(1)・もと、加古川刑務所は弾薬庫(神野倉庫)

  • 加古川町大野探検(51) 常楽寺の石造物(6)・太鼓橋

    太鼓橋『大野史誌』は、太鼓橋の説明を次のように書いています。・・・・この橋は常楽寺を流れる新井用水路に架かっていたが、日岡山公園道路の新設に伴って不要となり、本堂東の霊場竹生島に移設し保存されている。・・・新井用水太鼓橋の説明は以上ですが、ここで用水路について紹介しておきます。新井用水は、加古川大堰のところから常楽寺の山門前を流れ、古宮(播磨町)の大池に達する用水です。承応3年(1645)の旱魃はひどく、太陽が大地を容赦なく照りつけました。秋の収穫は何もありません。現在の播磨町・平岡町・野口町の溜池に頼る24ヵ村の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太...加古川町大野探検(51)常楽寺の石造物(6)・太鼓橋

  • 加古川町大野探検(50) 常楽寺の石造物(5)・文観上人慈母塔?

    加古川町大野探検(16)で、少しだけ紹介しておいた常楽寺墓地の紹介です。常楽寺の宝塔常楽寺の墓地にある宝塔は材質(花崗岩)、様式等から伊派の手による石造物であることはたしかです。この宝塔について『加古川市の文化財(加古川市教育委員会)』(昭和55年)に次のような説明があります。(文章は変えています)   (常楽寺宝塔)  花崗岩製  高さ   2.35メートル  銘文  正和四年(1315)乙卯八月 日   願主  沙弥道智この塔は、通称・文観上人慈母塔と伝えられ、文観(もんかん)が常楽寺中興として存在の時、慈母をここ葬ったと『播磨鑑』は伝えています。 道智は、東大寺戒壇院の律僧『播磨鑑』の著者、平野庸脩(ひらのようさい)は何をもとにしてこの銘文を書いたのでしょう。また、塔身の銘文「願主道智」をどのように解釈す...加古川町大野探検(50)常楽寺の石造物(5)・文観上人慈母塔?

  • 加古川町大野探検(49) 常楽寺の石造物(4)・石棺

    石棺(古墳時代後期:6~7世紀)常楽寺の境内の宝塔とうの前に石棺があります。説明板に、その説明があるので、読んでおきます。<石棺>この石棺は「くりぬき石棺」の身です。凝灰岩(竜山石)製縦146センチ横75センチ高さ54センチくり抜き部の深さ38センチ説明は以上で、詳細は分からないようです。日岡山周辺にはたくさんの古墳がありましたが、壊されて現在は、ほとんど姿を消してしまいました。氷丘中学校設置の石棺と同時代のものか同時代の古墳から見つかった石棺が氷丘中学校の正門近くに設置されているので、みておきます。氷丘中学校(加古川市加古川町大野)の正門を入ると、向かって右に石棺は、昭和59年に、ここに設置されたものです。神戸新聞は、この石棺を次のように報道しました。名前等、一部記事を変え転載します。・・・石棺は、ふたが失わ...加古川町大野探検(49)常楽寺の石造物(4)・石棺

  • 加古川町大野探検(48) 常楽寺の石造物(3)・宝 塔

    この宝塔について、加古川市教育委員会の説明板がありますので読んでおきます。宝塔この宝塔は、銘文により文化元年(1804)に造立されたことが分かります。凝灰岩(竜山石)製全高186.5センチ平成三年三月三日加古川市教育委員会宝塔について宝塔と言えば、ふつう基礎・塔身・笠・相輪からなり、塔身が円筒形の軸部と首部からなる塔のことです。宝塔は、基本的に経塚の墓標として用いられてきました。しかし、その後、念仏供養などに用いられるようになりました。常楽寺の宝塔は、経塚の標識ではなく、供養塔です。この宝塔には、文字が多く刻まれています。まだ読めていません。きょうは、境内に文化元年(1804)造立の宝塔があるということにとどめておきます。(no5152)*写真:常楽寺境内の宝塔加古川町大野探検(48)常楽寺の石造物(3)・宝塔

  • 加古川町大野探検(47) 常楽寺の石造物(2)・板 碑(いたび)

    板碑(いたび)板碑は、中世仏教(鎌倉~室町時代)で使われた供養塔です。基本構造は、板状に加工した石材に梵字=種子(しゅじ)や被供養者名、供養年月日、供養内容を刻んだものです。頭部に二条線が刻まれています。実際には省略される部位分もあります。板碑は、鎌倉時代~室町時代に集中してつくられました。戦国期以降になると、急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり用水路の蓋などに転用されたものもあります。現代の卒塔婆につながっています。常楽寺境内の板碑常楽寺境内の板碑は、梵字(種字)ではなく、地蔵菩薩が彫られています。板碑の横に少し説明がありますので、一部をお借りします。常楽寺の板石(板碑の石材)は、古墳後期(6世紀)に使用されていた組合せ石棺材です。この付近の日岡山古墳群のから出土したものでしょう。室町時代後期に造られたものと...加古川町大野探検(47)常楽寺の石造物(2)・板碑(いたび)

  • 加古川町大野探検(46) 常楽寺の石造物(1)・常楽寺の十三重の層塔

    常楽寺の十三重の層塔この十三重の層塔は、常楽寺本堂の東の茂みの中にあります。基礎には何の装飾もありません。塔身の軸部に種字があるだけです。銘は、風化によりほとんど判読できません。層塔は、十層までの各層には、ほとんど破損がありませんが、上段の二または三層は欠失しており、急に細くなっています。相輪部は、後の補修で不似合いです。竜山石製高さ約5メートル銘文□□(正中?)二年乙□□□□*銘は現在、風化のためほとんど判読できません。この十三重の層塔について、『加古川市史(第七巻)』は、「・・・全体としては、なおよく古調をとどめているが、・・・・おそらく(鎌倉時代)後期の中ごろのものとしてもややおそく、1325年頃の像立と推定してほぼ誤りがないであろう・・・」としています。当然ですが、寺院の石造物は単なる飾りではありません...加古川町大野探検(46)常楽寺の石造物(1)・常楽寺の十三重の層塔

  • 加古川町大野探検(45) 焼けた古仏立像

    焼けた古仏立像『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)の木造古仏立像(写真)を紹介しています。紹介しておきましょう。木造古仏立像一木造彫眼像高54.0センチ年代不詳常楽寺の本堂堂奥に安置されている仏像の一体です。火災に遭ったためであろうか、すでに全身が大きく損われており、像容は詳らかではありません。恐らく常楽寺または村内の堂から移されたものでしょう。『播磨鑑』に載る寺記によると、常楽寺は大化元年(645)に法道仙人によって草創され、正嘉二年(1254)に洪水により堂宇が流され、その後、文観(1278~1357)が再興したとされています。さらに、天正六年(1578)に秀吉に焼かれ、延宝二年(1674)に現在の地に本堂を建立したとしています。現在の加古川町大野付近は、中世には播磨国賀古郡北条郷として...加古川町大野探検(45)焼けた古仏立像

  • 加古川町大野探検(44) 日向宮本地仏(ひゅうがのみやほんじぶつ)

    日向宮本地仏(ひゅうがのみやほんじぶつ)常楽寺の観音像の説明の続きです。写真をご覧ください。・・・・注目すべきは、台座下部背面(聖観音菩薩立像)台座銘に「日向宮本地仏」の銘が向って右から左に陰刻されていることです。台座の制作は、その形式と本堂の他の仏像等の修理から17世紀後半と考えられますが、その頃には、この像が、日向宮(日岡神社)の本地仏とされていました。室町時代後期から江戸時代初期にかけて、常楽寺の寺勢は衰えていたため、この関係をどの程度遡って考えるかは問題です、加古川市内唯一の式内社である日岡神社と、中世播磨で隆盛を誇った常楽寺との、神仏習合のようすを窺わせる貴重な資料といえます。ここで、「本地仏・日向宮・式内社」の言葉を整理しておきます。本地仏(ほんじぶつ)「本地(ほんじ)」というのは本来の姿という意味...加古川町大野探検(44)日向宮本地仏(ひゅうがのみやほんじぶつ)

  • 加古川町大野探検(43) 木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)

    ・・・・常楽寺について『大野史誌』は、「天正六年(1578)羽柴秀吉の兵火にかかり、堂宇すべて焼失した」とだけ記述しています。常楽寺のことを調べたいのですが、残念なことに記録・寺宝等は焼かれ、現在ほとんど残されていません。・・・私もそう思い込んでいたのですが、常楽寺には立派な聖観音立像等がわずかに残されていました。秀吉軍により、焼き打ちになることが予想されたのでしょう。この観音菩薩像はどこか別の場所に隠していたのかもしれません。この観音像について、『信仰の美術・東播磨の聖たち』(加古川総合文化センター)からの説明をお借りします。木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)常楽寺本堂の奥に安置される聖観音菩薩立像である。穏やかな相貌を持つ、やや大きめの頭部と、奥行のある体部の肉取りさらに、腰をやや左に捻り、微妙に左足を踏出...加古川町大野探検(43)木造聖観音菩薩立像(平安時代後期)

  • 加古川町大野探検(42) 常楽寺炎上

    常楽寺炎上江戸時代に書かれた『播磨鑑』に「・・・常楽寺の支配下にあった寺は、十八ヵ寺を数えた」とあります。調査により、確認されているのは十ヵ寺で、後の寺については分かっていません。常楽寺(加古川市加古川町大野・日岡神社の東隣)は、大きな寺であったようです。そんな、大きな勢力を誇った寺が、急速に勢力を弱めた理由は、何であったのでしょう。戦国時代のことです。播磨地方を西(山口)の毛利が支配下におくか、それとも東の信長・秀吉が支配するかをめぐって、一大決戦が東播磨の地で展開されました。加古川地方は、当時三木・別所氏の配下にあり、その別所氏は毛利に味方しました。(この戦で、加古川城主・糟谷氏のみは、信長方に味方しました)信長は、秀吉に三木攻めを命じました。秀吉は、三木・別所氏に味方する加古川地方の城・寺々を先に焼き討ち...加古川町大野探検(42)常楽寺炎上

  • 加古川町大野探検(41) 明治天皇、日岡山へ

    明治天皇、日岡山へ明治30年(1897)4月、姫路に陸軍第10師団が新設され、春と秋の二回大規模な演習が定期的に行われるようになrました。明治36年(1903)11月12日~15日に実施された特別演習は、日露戦争(明治37)を想定して特別な意味をもっていました。善通寺(香川県)の師団も加わり大規模な戦闘訓練でした。加古川が主な演習場になったのは11月13日で、この時、明治天皇が加古川に来られ、日岡山から、この訓練のようすを天覧しています。その場所(OAA会館とひれ墓との間の山頂部)に、写真のような記念碑(駐蹕の碑)が建てられています。駐蹕は、読みづらい文字ですが、「ちゅうさつ」と読みます。意味は、「天子が行幸の途中、一時乗り物を止めること。また、一時その土地に滞在しすること」です。*大辞林(小学館)よりこの、戦...加古川町大野探検(41)明治天皇、日岡山へ

  • 加古川町大野探検(40) 聖徳閣(しょうとくかく)

    聖徳閣(しょうとくかく)聖徳閣(写真)。懐かしい風景です。日岡山山頂にありました。でも、この建物を知る人は少数派になりました。その日は、桜の満開の、少し風のある日でした。老夫婦は「聖徳閣」はどこですか・・・」と、公園で遊んでいる中学生にたずねたました。もちろん、中学生はそんな建物があったことは知りません。「このおっさん・・・場所まちがえたんちかうか・・・」と。そして「そんなもん、ここにあらへん」と応えたらしい。老夫婦は、久しぶりで昔の思い出を捜されていたのでしょう。それにしても、そっけない中学生の気持ちに、さぞがっかりされたこと思われます。昭和11年、現在の日岡山のハリマハイツの場所に聖徳閣はつくられました。『写真集・加古川(玉岡松一郎編)』の説明を転載しておきます。昭和11年8月、多木久米次郎氏が日岡山に建て...加古川町大野探検(40)聖徳閣(しょうとくかく)

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