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しばやんの日々(FC2) https://shibayan1954.blog.fc2.com/

京都のお寺で育ったしばやんの歴史考察等。令和2年以降は、新しい記事は「歴史逍遥『しばやんの日々』」に掲載しています。

50代になった頃から日本の歴史に興味を覚えて、いろいろ調べることに楽しさを覚えるようになりました。8年前から「しばやんの日々」を書き始め、いつの間にか容量が少なくなり、バックアップにも問題があるので、同名の別のブログを立ち上げて手作業で主要な記事を移し、新しい記事も同時に掲載してきましたが、2014年からはこのブログに一本化しています。

しばやん
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2013/06/22

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  • 『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』の感想文紹介

    【Sさんの感想文】…私の元上司Iさんに届いたもの「大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか」を読んで「まず、序章でびっくりさせられます。目から鱗とはこのことで、日本人が奴隷として売買されていたなど全く知りませんでしたし、想像したこともありませんでした。しかし、戦国の荒れた世が長く続けば、各地で難民が発生し売られて行っても不思議ではないですよね。遣欧少年使節団のことはかなり有名ですが、...

  • 電子書籍版の『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』のデータの修正の件

    先月末に、拙著の電子書籍版の発売が開始されましたが、多くの方に購入いただき、Amazonの新着ランキングで4月1日の朝には日本史部門で第2位にランキングされていることにびっくりしました。このランキングは紙書籍と電子書籍の新刊本の売上点数の順位で決まると思われますが、瞬間風速とはいえ電子書籍版にそれだけ強い需要があるとは予想しておりませんでした。購入していただいたみなさん、本当にありがとうございます。 私...

  • 『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』の電子書籍化の御案内

    拙著『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』が発売されてほぼ1年が経ちましたが、今年の正月にご案内させていただきました通り3月31日よりAmazon Kindle ストア、及び楽天kobo電子書籍ストアで電子書籍の販売が開始されますのでおしらせします。すでにどちらのストアも本日より予約販売を開始しています。両ストアとも税込み価格は\1155円で、紙の書籍よりも3割3ばかり割安になっています。電子書籍 Kindl...

  • 新年のご挨拶とメインブログの変更について

    あけましておめでとうございます。旧年中は、拙い私のブログにお付き合いいただき、まことにありがとうございました。多くの方から励ましのお言葉やご感想、貴重なご意見などを頂戴し、このブログの中で様々な対話が出来たことがとても楽しく、また励みにもなりました。何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログやSNSなどで記事の紹介をしていただいた方、コメン...

  • 金閣寺に建立された北山大塔(七重塔)のこと

    知人に案内するために久しぶりに金閣寺を訪れてみたが、平日の朝の開門前に数百メートルの長い列ができているのに驚いた。昔はそれほど並んだ記憶がないのだが、今は京都市内の有名観光地はどこも外国人観光客で溢れている。いくら観光客が多くても、庭園内に立ち入り禁止区域がうまく設定されているので、誰でも鏡湖池を前にたたずむ国宝・舎利殿の美しい写真を撮ることが出来る。このブログで室町幕府第三代将軍足利義満が応永六...

  • 江戸幕末期にロシアに占領されかけた対馬は如何にして守られたのか

    江戸時代に入ると幕府は海外との貿易を統制することとなり、日本に来航する外国船はオランダ船と中国船に絞りこみ、かつ来航地は長崎の出島に限られることとなった。しかし、よくよく考えると、いくらわが国が諸外国に「鎖国」を宣言したところで、侵略する意思のある国を追い払うためにはそのための武力が不可欠である。江戸時代のはじめに幕府が主導して貿易統制を決めることが出来たのは、その当時のわが国が世界最大の鉄砲生産...

  • 『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』を置いていただいている図書館リスト

    いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。初めての著書を出版して半年が過ぎました。今は、拙著を書棚に並べていただいている書店はほとんどなくなってしまいましたが、いくつかの図書館で、拙著を置いていただいていることが判明しました。全国にある7000以上の図書館の蔵書検索サービス『カーリル』を使って、拙著を置いていただいている図書館名を調べてみたところ、43の図書館がヒットしました。下記の表がそのリ...

  • 応仁の乱勃発地の上御霊神社から、義満が史上最大の七重塔を建てた相国寺を訪ねて

    室町幕府第三代将軍足利義満は、明徳三年(1392年)に南北朝の合一を実現し、守護大名をおさえて全国支配を完成させると、現在の同志社大学の今出川キャンパスの西側(北小路室町)に邸宅を移している。この邸宅の敷地は、東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれ、東西一町南北二町を占める広大なものであった。【室町殿の敷地】この土地は二代将軍足利義詮の時代に、室町季顕から、その邸宅である花亭を...

  • 『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』に新聞書評がでました

    いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。拙著『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』が発売されて5か月が過ぎましたが、出版社より新聞の書評が出たとの情報を頂きました。この本では戦後の教科書やマスコミがタブーにしてきた史実をいろいろ書いたので、新聞に書評が載ることはないと考えていましたが、8月27日付の「東日新聞」に載せていただいきました。Wikipediaによるとこの新聞は愛知...

  • 高知県士族九名に襲われた岩倉具視はいかにして難を逃れることができたのか

    以前このブログで征韓論争のことを書いた。当時の李氏朝鮮は「鎖国攘夷政策」をとっており、当時国王の生父大院君が実権を掌握していたのだが甚だしい欧米嫌いであり、先進文化の受容に努めていたわが国は欧米模倣であると罵られ「攘夷」の対象であった。しかしながら国力に乏しく、このまま鎖国を続けていればいずれ朝鮮半島は欧米の植民地となり、そうなればわが国の独立も脅かされることになってしまう。明治政府はなんとか開国...

  • 岸和田城周辺散策とだんじり祭り

    久しぶりに岸和田に行ってきた。上の画像は大阪府史跡の岸和田城跡(岸和田市岸城(きしき)町9-1)。岸和田城は、秀吉の紀州攻めの拠点とするために急ごしらえで築城されたが、その後城主となった小出秀政が慶長二年(1597年)に五層の天守閣を建てている。しかしながら文政十年(1827年)に落雷のため焼失してしまい、以降再建されないまま、明治四年(1871年)に廃城とされ、まもなく破却されてしまった。現在の建物は昭和二十九年(1954...

  • 『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』7月配本リストのご案内

    いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。初めての著書の販売が開始されて3か月になりました。無名の著者でもあるので店頭に本を置いて頂いたのは全国でわずかの店舗だけで、しかもほとんどの店舗で1冊頂いただけだったので、内容を書店で確認したくても、かなわなかった方がたくさんおられたことと思います。本を購入される場合は、書店で現物を見てから買われる方が多いと思うのですが、多くの方にご不便をおかけし...

  • 種子島に鉄砲が伝来した記録を読む

    薩摩藩の南浦文之(なんぼぶんし)和尚が慶長11年(1606年)に著した『鐡炮記(てっぽうき)』という書物に、種子島に鉄砲が伝来した経緯から国内に鉄砲が伝わる経緯が記されている。この『鐡炮記』は、原文と現代語訳が電子書籍化(Kindle版\300.- )されているので、誰でも容易に入手することが出来る。 天文十二年(1543年)八月二十五日に種子島に中国船が漂着し、その中にポルトガルの商人が乗っていて鉄砲などの商品を積んでいたの...

  • 新しいブログ立ち上げのご案内と今後の本ブログの運営について

    いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。新しいブログ「歴史逍遥『しばやんの日々』」の立ち上げについてプロフィールにも書いていますが、日本史のブログを始めてから10年近くなりました。今年1月にサラリーマン生活も終え、ドメインを取得して新しいブログ「歴史逍遥『しばやんの日々』」というサイトを立ち上げ、原稿の仕込みを行っているところです。https://shibayan1954.com/新ブログの記事の蓄積はまだわずか...

  • 日露戦争の巨額の戦費を外債発行で調達した明治政府と高橋是清の苦労

    帝国書院のホームページに、戦争別戦費の一覧表が出ている。日清戦争の戦費は2.3億円であったが、日露戦争では18.3億円もかかっている。https://www.teikokushoin.co.jp/statistics/history_civics/index06.html【戦争別経費:帝国書院HPより】もっとも、戦費がいくら必要かは戦争が終結するまではわかるものではないのだが、日露戦争当時の明治政府の歳入規模を調べると、明治三十七年(1904)の数字は3.3億円であった。菊池寛の『...

  • リリエンタールやライト兄弟より前に動力付き飛行機の模型を飛ばした二宮忠八

    二宮忠八は慶応二年(1866年)に伊予国宇和郡八幡浜(現愛媛県八幡浜市)の商家の四男坊として生まれたが、忠八が八歳の時に父が失明して二宮家の収入は激減する。忠八は幼い時から凧張りの内職をしてわずかの資金を得ながら勉強に励んだという。彼には工夫の才があり、凧張りといってもいろんな凧を考案し、「忠八凧」は村の人々の評判となっていったそうだ。関猛 著『二宮忠八伝』に、忠八が子供の頃に考えた凧の絵が紹介されている...

  • 桜の咲く時期に盛岡を訪ねて~~報恩寺、石割桜、盛岡城跡、盛岡八幡宮、らかん公園

    岩手旅行の三日目は盛岡に向かった。最初の目的地は報恩寺(盛岡市那須川町31-5)である。報恩寺は応永元年(1394年)に南部家13代の南部守行が、父親を含む先祖の菩提を弔うために現在の青森県三戸(さんのへ)町に開基したと伝えられるが、慶長六年(1601年)に南部氏の本拠が盛岡に移ることとなり、同年に報恩寺も三戸から現在地に移されたとのことである。上の画像は昭和五十三年(1978年)に建てられた山門だが、非常に立派なものである...

  • 奥州市の正法寺、黒石寺、駒形神社から遠野市のふるさと村、福泉寺を訪ねて

    岩手旅行の2日目に最初に訪れたのは、奥州市水沢黒石町にある正法寺(しょうほうじ)という曹洞宗の寺である。駐車場に着くと立派な惣門(国重文)がある。この門は寛文五年(1665年)に建てられたもので、寺院の四脚門としては岩手県最古のものだという。惣門を抜けて蛇紋岩の大きな石段を登っていくと、茅葺屋根では日本一大きいと言われる法堂(国重文)が眼前に迫って来る。間口は二十一間半(約29.6m)、奥行十二間半(約21m)、屋根の高...

  • 桜の咲く季節に奥州平泉の中尊寺、毛越寺、達谷窟、巌美渓を訪ねて

    伊丹空港からいわて花巻空港に行き、レンタカーを借りて岩手県を旅行してきた。最初に向かったのは中尊寺である。後三年の役(1083~87年)で清原氏が滅んだのち、藤原清衡は奥州平泉に拠点を移して奥羽を支配し、前九年の役(1051~1062年)から続いた奥羽の戦乱の犠牲者を弔うために、平泉に大規模な寺院の造営に着手した。清衡は長治2年(1105)に多宝寺を建立し、続いて釈迦堂、天治元年(1124年)には金色堂を建立し、大治元年(1126...

  • わが国ではじめて石油を製造した石坂周造の物語と、国産石油製造の重要性

    わが国の石油消費量のほとんどは中東などから輸入されているが、わずかながらわが国でも秋田県や新潟県を中心に生産が行われており、国内生産量は2016年で55万キロリットルで国内消費量の0.13%にすぎないのだそうだ。しかしながらわが国で「石油」の存在に関する記録は、7世紀の天智天皇の時代にまで遡るというから驚きである。明治三十九年に出版された『北越資料 出雲崎』という書物に、越後石油発見の由来が記されている。「わ...

  • 政府が欧風化を推進した文明開化の時代に、国産品を奨励した僧侶・佐田介石

    技術進歩の激しい時代には、新技術をいち早く導入した者が、多くの人々の仕事を奪い取って失業させることになる。それはある程度やむを得ないものではあるのだが、その変化が激しすぎると各地で内乱が起こったりして治安が不安定となる。教科書などには何も記されていないのだが、明治政府の相次ぐ革新的な施策に反発していたのは武士だけでなく、農民や一般市民も同様であった。そのことは、このブログで何度も紹介している『新聞...

  • 完成したばかりの巡洋艦『畝傍』が日本に向かう処女航海で行方不明となったこと

    明治十九年(1886年)にフランスで建造された日本海軍軍艦の畝傍(うねび)は、当時としては最新式の巡洋艦で、十月に竣工したのち日本に向かうのだが、その途中で行方不明となってしまった。【ル・アーヴル港を出港する日本巡洋艦「畝傍」】(Wikipediaより)平田晋策著『新戦艦高千穂』という本を読むと、この畝傍という軍艦がいかに期待されていたかがよくわかる。「明治十九年。その頃の日本海軍は、実に貧弱な海軍だった。第一線に...

  • 西洋流の立身出世主義教育を憂いた明治天皇と教育勅語

    「文明開化」の名のもとに、明治初年のわが国で極端な欧化主義的な考え方が支配したことはこのブログで何度か書いてきた。わが国が近代国家として西欧の侵略主義に対抗するためには、西欧の技術や科学や文化などをそのまま取り込んで自分のものとして利用していくこともある程度は必要であったろう。しかしながら、昔からの伝統文化や風習などを否定して多くを破壊し、なんでもかんでも西洋のやり方をまねようとする政府のやり方に...

  • 欧化主義者の伊藤博文に楯突いて鹿鳴館外交を終わらせた谷干城

    明治政府が採用した欧化政策のなかで、最も極端であったのは鹿鳴館の舞踏会騒ぎであった。明治十六年八月に伊藤博文がヨーロッパ諸国の諸制度を調べる外遊から帰国すると、十八年に太政官制度を廃止して内閣制度を創設したのを手始めに、制度万般のヨーロッパ化を図ろうとし、また、自ら内閣総理大臣となり、当時最大の外交問題であった条約改正を解決しようと、井上馨を外務大臣に据えた。この二人がこの問題解決の為に考えたこと...

  • 初めての著書の配本書店リストとその他入手方法について

    いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。先日、初めての著書が4月1日に販売が開始されることになったことをお伝えしましたが、無名の著者でもあるので、店頭に並ぶのは全国で109の書店だけで、大型書店でも並ぶのはほとんどの店舗で1冊となります。売れた後の在庫補充はそれぞれの店舗の裁量となります。本を購入される場合は、書店で現物を見てから買われる方が多いと思うのですが、多くの方にご迷惑をかけてし...

  • 暦を太陽暦に急に変えたことに対する国民の反応と、政府が改暦を強行した経緯

    明治の文明開化のことをいろいろ書いてきたが、太陽暦を採用した頃のことを調べてみると、政府があまりにも性急に太陽暦に変更したことに驚いてしまった。明治政府が太政官布告第三百三十七号『太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス』を出した日付は明治五年(1872)十一月九日なのだが、それによると「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」とあり、わずか二十四日後から年が変わって太陽暦の正月になることを急に発表したのであ...

  • はじめての著書出版の御案内

    いつもこのブログにアクセス頂きありがとうございます。今年の新年のご挨拶で少し触れておきましたが、私がこのブログで書いてきた記事の一部を1冊の本に書きまとめ、4月1日から大型書店などで販売が開始されることになりました。もちろんアマゾンや楽天などのネットショップでも購入することが可能です。タイトル:『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』著者:しばやん出版社:文芸社価格:1500円+消費税3...

  • 郵便事業を創始した前島密は飛脚屋の失業対策まで考え抜いていた

    前回記事で明治時代の電信業の始まりの苦労について書いたが、今回は郵便の事について書くことにしたい。政府による郵便事業が始まったのは明治三年(1870年)のことなのだが、それ以前に信書はいかなる方法で運ばれていたのだろうか。【東海道五拾三次 平塚 安藤広重画】石井研堂の著書にはこのように解説されている。「…不完全ながらも、全国中重(おも)なる都邑には、飛脚屋の設けあり。各所の飛脚屋互いに気脈を通じ、私に信書...

  • 電信工事に対する民衆の妨害活動や流言飛語に手を焼いた明治政府

    前回の記事で、嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に、横浜で汽車の模型を動かしたところ幕府の役人が子どものように喜んだことを書いたが、ペリーは同時に電信機のデモンストレーションをも実施している。その時の日本人の反応について、ペリーの記録にはこう書かれている。「…電信装置は真っすぐに、約1哩*張り渡された。一端は条約館に、一端は明らかにその目的のために設けられた一つの建物にあった。両端にいる...

  • 反対勢力との戦いに孤軍奮闘し、東京横浜間に蒸気機関車を走らせた大隈重信

    安政元年(1855年)にペリーが二度目の来日をした際に、横浜で汽車の模型を動かしたところ幕府の役人たちが、まるで子供のように喜んだことがペリーの記録に残されている。「小さい機関車と、客車と炭水車とをつけた汽車も、技師のゲイとダンビイとに指揮されて、同様に彼等の興味をそそったのである。その装置は全部完備したものであり、その客車はきわめて巧みに制作された凝ったものではあったが、非常に小さいので、六歳の子ども...

  • 大日本帝国憲法が発布された日に初代文部大臣・森有禮が暗殺された事情

    森有禮(もり ありのり)は弘化四年(1847年)に薩摩国鹿児島城下に生まれ、元治元年(1864年)より藩の洋学校である開成所で英学講義を受講し、翌年には薩摩藩の第一次英国留学生として五代友厚らとともにイギリスに渡っている。その後ロシアやアメリカを訪れて見聞を広め、明治維新後に帰国すると、福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘之らとともに明六社を結成し、『明六雑誌』を創刊して民衆の啓蒙活動に取り組んだ。【森有禮】森有禮...

  • 鹿鳴館時代に検討されていた条約改正案は欧米に媚びる内容で世論の大反対を受けた

    前回の記事で、明治の初期から極端な欧化政策が採られて、その最もひどかった時代が鹿鳴館時代であることを書いた。鹿鳴館は、国賓や外国の外交官を接待するために、明治政府が薩摩藩邸の跡地に建てることを決定し、明治16年(1883年)11月28日に落成した建物であるのだが、鹿鳴館外交への批判の高まりとともに、このプロジェクトを推進した井上馨は明治20年(1887年)9月に外務大臣を辞すことになる。【尾崎行雄】鹿鳴館外交を批判し...

  • 極端な欧化主義でわが国の伝統文化や景観破壊を推進した政治家は誰なのか

    文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』によると、廃藩置県以降の明治政府は、復古的、保守的ではなく、むしろ革新的、進歩的に動いたと指摘したのち、こう述べている。「当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国に...

  • 『文明開化』施策という極端な欧化主義政策と日本の伝統文化破壊

    前回の記事で、歴史学者・徳重浅吉が、明治政府は「御一新の名によって嵐の如く旧物を破壊し尽くしたかの観さえある」と書いていることを紹介した。『文明開化』の時代に、政府は日本土着の習俗や信仰などを「悪弊」「旧習」と呼び、彼らが無用無益と判断したものはどんどん破壊していったというのだが、同様なことを書いている本はいくらでも見つけることが出来る。例えば、歴史学者・斎藤隆三の著書にはこう記されている。「明治...

  • 『文明開化』で旧来の制度や習慣を西洋化しようとした政府と、それに抵抗した人々

    【丁髷(ちょんまげ)を嘲笑した外国人】かつて日本男児にとって丁髷はかけがえのないものであったと思うのだが、外国人にとっては非常に滑稽なものとして目に映ったようである。前回記事で紹介した石井研堂著『明治事物起源』に、旧幕臣であった澤太郎左衛門のオランダ留学体験談が紹介されている。「文久二年九月、開陽丸の注文と留学のために、榎本釜次郎、澤太郎左衛門、内田恒次郎等、オランダ国に渡る。当時、頭様も野郎あたま...

  • 『文明開化』における新旧風俗の大混乱

    前回の記事で、戊辰戦争が一段落したあと大倉喜八郎が、これからはわが国で洋服の需要が急速に高まることを予見してイギリスの羅紗工場を私費で視察したことを書いたが、喜八郎が予見した通りにわが国に西洋の衣料品が急速に広まっていった。【急激な洋装の普及】それまでの日本人は、髪を結い和服を着て下駄や草履を履くのが当たり前であったのだが、それが急激に洋装に変化したのが明治の初期である。それまでの和装のままでも生...

  • 大倉喜八郎が事業を発展させたきっかけと、儲けた金の使い方

    前回の記事で大倉喜八郎は幕府の動きや黒船を観て、これから内乱が起きることを直感し、乾物商を止めて武器商に鞍替えして大稼ぎしたことを書いた。ところが戊辰戦争が終わると、喜八郎はこれからしばらくわが国で戦争が起こることはなく、このまま鉄砲店を続けても駄目だと考えたという。そしてこれからは、外国との貿易が盛んになるとともに、わが国で洋服が必要になると考えて、日本橋本町に洋服裁縫店を開き、横浜に内外貿易店...

  • 大倉財閥の祖・大倉喜八郎が鰹節屋の小僧から独立し巨富を得た経緯

    明治期に大倉財閥を築き上げた大倉喜八郎は、天保八年(1837年)越後国新発田の質屋の五人兄弟の四番目の子として生まれ、幼名を鶴吉といった。生家は商家とはいえ、帯刀が許され殿様に拝謁することが出来たというから格式のあるなかなかの家柄であったのだが、十七歳の時に父を失い、翌年には母を失ってしまう。やがては家を出て身を立てねばならぬことは周囲から言い聞かされて、本人もその自覚があったのであろうが、鶴吉は、十八...

  • 2019年新年のご挨拶

    あけましておめでとうございます。【椿自然園 阿南市】旧年中は、拙い私のブログにお付き合いいただき、まことに有難うございました。多くの方から励ましのお言葉やご感想、貴重なご意見などを頂戴し、このブログの中で様々な対話が出来たことがとても楽しく、また励みにもなりました。【旧青木家那須別邸 那須塩原市】何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログ...

  • 明治政府の薩長対立の中を生き抜いた藤田伝三郎の人脈と藤田コレクション

    前回の記事で藤田伝三郎が西南戦争を機に大儲けしたことを書いたが、大多数の国民はこの戦争のために大なり小なりの犠牲を払っているのに対して、暴利を得た藤田組に非難の声が高まっていった。【藤田組の悪い噂を流したのは誰か】前回紹介した白柳秀湖 著『日本富豪発生学. 下士階級革命の巻』にはこう解説されている。「この非難の声につれて先ず起ったのは、藤田組が請け負って戦地に送った人夫の一部であった。彼らは戦争がす...

  • 奇兵隊に参加し失明した藤田伝三郎が大富豪となるきっかけとなった人物との出会い

    前回の記事で、長州の豪商白石正一郎が奇兵隊のために巨額の私財を投じて、維新成就後に事業を倒産させたことを書いた。その一方で、奇兵隊から明治の大富豪になりあがった人物がいる。藤田財閥の創立者である藤田伝三郎である。【藤田伝三郎】【奇兵隊脱退と失明】藤田伝三郎は天保12年(1841)に長州藩・萩の酒屋の四男として生まれ、文久3年(1863)に白石正一郎邸で奇兵隊が結成されると伝三郎も参加したのだが、元治元年(1864)の...

  • 攘夷や倒幕に突き進んだ長州藩の志士たちの資金源はどこにあったのか

    はじめて明治維新を学んだ際に若い青年が時代を動かしたことに驚いた記憶があるが、なぜ彼らは働きもせずに国事に没頭することができたのであろうか。何らかの方法で資金を捻出することが可能であったのか、誰かが彼らの活動資金を支援していたかいずれかなのだが、この点について解明している書物は少ない。【薩摩天保】以前このブログで、『全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか』という記...

  • 日露戦争・旅順港閉塞作戦に協力した右近家から敦賀に向かう……越前の歴史散策4

    河野浦の北前船主の館・右近家の旧本宅の庭園に、なぜか砲弾が置かれている。ガイドさんの説明によると、右近権左衛門が所有していた「福井丸」が日露戦争の旅順港閉塞作戦の二回目の作戦で使用され、その船を指揮していた広瀬武夫少佐がその船で戦死したことと関係があるという。旅順港閉塞作戦のことは司馬遼太郎の『坂の上の雲』でその話を読んだ記憶があるが、北前船主の館・右近家でその話が出て来るとは思わなかった。右近家...

  • 瀧谷寺から越前海岸の景勝地と北前船で栄えた河野浦を訪ねて~~越前の歴史散策3

    翌朝、お世話になった三国の民宿をチェックアウトし、近くの東尋坊に向かう。東尋坊を構成する岩は、輝石安山岩の柱状節理で、最も高いところで約25mの垂直の崖があるという。これほどの規模のものは世界的にも珍しく、国の天然記念物に指定されている。朝早くここを訪れたのは初めてだが、商店などの営業が始まる前は観光客もわずかで、静かに景観を楽しむには良い時間帯である。東尋坊の景観を楽しんだ後に、瀧谷寺(たきだんじ:...

  • 継体天皇ゆかりの足羽山から紅葉名所の大安禅寺へ ~~越前の歴史散策2

    昼食のあと福井市の足羽山(あすわやま)に向かう。前回の記事で越前和紙の歴史は、第26代の継体天皇が男大迹王(おおとのおう)として越前を治めていたころから始まることを書いたが、足羽山には継体天皇にまつわる神社などがある。『日本書紀 巻十七』には継体天皇の出自に関して次のように記されている。文中の男大迹天皇(おおどのすめらみこと)は継体天皇のことである。「男大迹天皇――またの名は彦太尊(ひこふとのみこと)――は、応...

  • 越前和紙で栄えた地域の歴史と文化と伝統の味を楽しむ~~越前の歴史散策1

    越前市は品質、種類、量ともに全国一位の和紙生産地として知られているが、この地における和紙作りには1500年という長い歴史があるのだという。そして、和紙生産の中心地である5つの集落(新在家町、定友町、岩本町、大滝町、不老町)を昔から五箇(ごか)と呼び、その大滝町にこの地に紙の製造法を伝えたとされる川上御前(かわかみごぜん)が祀られている神社がある。この神社には立派な社殿があるだけでなく神仏習合の行事が今も行...

  • 明治政府にとって「徴兵制」のハードルは高かった

    教科書などでは、明治4年(1871)の「廃藩置県」について、明治政府は薩長土三藩から御親兵を募り中央集権を固めたうえで、藩を廃して県と呼び、知藩事(旧藩主)を失職させて東京への移住を命じ、各県には知藩事に代わって新たに県令を中央政府から派遣したことが記されている。この廃藩置県を断行するということは、国の防衛のありかたを根本的に見直さざるを得なくなるのだが、その点については明治政府内で様々な議論があったよう...

  • 明治時代の自虐史観と、「開発」行為による文化・景観破壊

    慶応四年(1868)三月十四日に、明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、明治維新の基本方針である、五箇条の御誓文を神前に奉読されている。一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。一.旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。一.智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。いつの時代にせよこのよ...

  • 甲賀の総社・油日神社、平安仏の宝庫・櫟野寺などを訪ねて~~甲賀歴史散策その2

    甲賀流忍術屋敷を楽しんだのち、油日(あぶらひ)神社(甲賀市甲賀町油日1042 ☏ 0748-88-2106)に向かう。この神社は、平安時代に編纂された『日本三代実録』に、陽成天皇の元慶元年(877)に従五位下の神階を授けられたとの記録が残されている古社で、神社の東に聳える油日岳をご神体とし、油の神様として崇敬を集めてきたばかりではなく、「甲賀の総社」として甲賀武士の結束の中心であったという。両脇に石垣が積まれた参道を進むと...

  • 現存する唯一の忍術屋敷を訪ねて~~甲賀歴史散策その1

    滋賀県の甲賀と言えば「忍びの里」を思い浮かべる程度だったのだが、調べてみるとこの地域には貴重な文化財や伝統文化が残されているのに興味を覚えて、週末に日帰りで甲賀市の名所旧跡を巡って来た。最初に訪れたのは『甲賀流忍術屋敷』(甲賀市甲南町竜法師2331 ☏0748-86-2179)で、この住居は甲賀忍者であった望月出雲守の旧宅であり、現存する唯一の忍術屋敷だという。外見は一般的な平屋の日本建築で元禄時代に建てられた住居...

  • わが国史上最大の火山災害である「島原大変」の被害者の大半は津波で死亡した

    前回の記事で大規模な山の崩壊や地盤の崩壊で津波が発生し得ることを書いたが、今回はその事例について記すことと致したい。島原半島の中央部に活火山の雲仙岳があるが、この山は三岳と呼ばれる普賢岳・国見岳・妙見岳ほか、総計20以上の山々から構成されている。平成3年(1991年)の5月に、雲仙岳の三岳の一つである雲仙普賢岳に溶岩ドームが出現し、それが日々成長したのち小規模な火砕流が頻発するようになり、6月3日には溶岩ドー...

  • 平家滅亡のあと畿内を襲った元暦2年7月の大地震

    元暦2年(1185)3月に壇ノ浦の戦いで栄華を誇った平家は滅亡したのだが、それから約4か月後の7月に大地震が発生している。この地震は元暦年間に発生したので「元暦地震」と呼ぶ研究者もいるが、この地震の被害があまりに大きかったので翌月に「文治」と改元されたことから「文治地震」と呼ばれることが一般的だという。中世の日本においては、地震や疫病流行で改元されることが良くあったようだ。この地震に関しては様々な記録が残さ...

  • 戦国時代の歴史を動かした天正地震

    4年前に白川郷方面に旅行した際に、帰雲城(かえりくもじょう)趾に立ち寄った。この城は寛正年間(1461~1466年)に内ケ島為氏(うちがしま ためうじ)により築城されたのだが、天正13年11月29日(1586年1月18日)に起きた天正地震で帰雲山が大崩落を起こし、城主内ヶ島氏理(うじまさ)以下一族家臣と、城下300余軒、推定500人余り、牛馬にいたるまでことごとくが一瞬にして埋没し、内ケ島氏は滅亡してしまったと伝えられている。上の画...

  • 敗戦後の混乱期に日本列島を襲った「昭和南海地震」

    以前このブログで「軍部が情報を握りつぶした『昭和東南海地震』」という記事を書いた。この地震は昭和19年(1944)12月7日午後1時36分に起きた、和歌山県新宮市付近を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震のあと津波が発生し、全国で死亡・行方不明者は1223名、壊れた家屋が57千戸以上とされる大災害であったのだが、この情報が漏れることを恐れた軍部が情報を統制したため、詳しい記録が残されていないという。http://shibayan19...

  • 地震がなかったにもかかわらず三陸海岸を中心に日本列島を襲った大津波~~チリ津波

    今年の台風や地震の規模も被害も半端なものではないが、自然災害の怖さを振り返る良い機会なので、わが国の記録に残されている自然災害をしばらくいくつか紹介していきたい。以前このブログで「震度3で2万人以上の犠牲者が出た明治三陸大津波」という記事を書いたことがある。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-21.html明治29年(1896)6月15日に三陸沖200kmの日本海溝付近で起きた地震は、宮古測候所の発表では震度2...

  • 由良要塞の一部である深山砲台の跡地と淡島神社などを訪ねて~~加太の歴史散策

    和歌山市に所用ができたので、早めに自宅を出て和歌山市の西端にある加太近辺を半日で巡って来た。最初に訪問したのは、深山第一砲台跡である。国民休暇村紀州加太(和歌山市深山483☏073-459-0321)に向かう登り道の途中に、砲台跡につながる遊歩道の入り口があり、車10台程度が利用できる駐車場がある。駐車場からは森の中を歩くことになるのだが、砲台跡までは赤いレンガで敷き詰められた遊歩道が整備されていて道に迷うことは...

  • 紀伊国屋文左衛門がみかん船で大儲けしたという話は真実か

    紀伊国屋文左衛門は元禄時代の豪商で、荒天の海にみかん船を乗り出して大儲けをしたという話が有名で、私も子供の頃に何度も聞いた記憶がある。【紀伊国名所図会 後編下巻 蜜柑をとる図】この話の概要をまとめると、このようなものである。文左衛門はみかんの産地として名高い紀州(和歌山県)の出身で、まだ20代であったある年、和歌山ではみかんが豊作でありながら嵐のためにみかんを江戸に送ることが出来なくなっていた。江戸で...

  • 江戸時代に大阪が商業の中心地として栄えた理由と、豪商・淀屋の闕所処分を考える

    徳川家康が江戸に幕府を開いた以上は、徳川幕府の歴代将軍は江戸が政治・経済・文化の中心になるよう努力したに違いないのだが、元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡したにもかかわらず、大阪がわが国の経済の中心地であり続けたのである。その理由はどこにあったのだろうか。この問題について徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第19 元禄時代 下巻 世相篇』でこう解説している。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで誰...

  • 綱吉の治世後半を襲った相次ぐ大災害の復興資金を、幕府はいかに捻出しようとしたか

    前回は徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』のことを書いたが、もう少し綱吉の話題を続けよう。徳川綱吉が将軍宣下を受けたのは延宝8年(1680)で、宝永6年(1709)に死去するまで将軍位に就いていたのだが、綱吉の時代を調べていくと後半期に不幸な出来事が相次いで起きていることに気が付く。例えば、元禄8年(1695)以降奥州飢饉がおこり、元禄11年(1698)には江戸で大火(勅額大火)が発生し、元禄16年(1703)には関東を巨大地震(元...

  • 徳川綱吉の『生類憐みの令』を悪法とする通説が見直されているのはなぜか

    徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』を調べていると、教科書の記述が学生時代に学んだ内容と随分ニュアンスが違ってきているのに驚いた。たとえば『もういちど読む 山川日本史』では、次のように解説されている。「江戸時代の悪法の代表とされてきた生類憐みの令は、近年見直しがすすんでいる。犬の愛護はそれまで食犬の風習や野犬公害の多かった江戸とその周辺で推進されてきたが、全国的には捨牛馬(すてぎゅうば)の禁止が...

  • 鳳来寺の神仏分離と日本の百名洞・乳岩峡などを訪ねて

    旅行の二日目は少し早起きして、食事の時間までのあいだ宇連川沿いから不動の滝を散策することにした。コースははづ別館から浮石橋を渡り、ゆーゆーありーなから渡瀬橋を渡ったのち乙女沢遊歩道を歩いて不動の滝を巡るコースである。宇連川は黄褐色の岩の上を流れていて、川底が板を敷いたように見えるため、板敷川とも呼ばれている。夜間の放射冷却で気温が低くなった空気が、暖かい水面付近の空気に触れて、川霧が発生しているの...

  • 長篠の戦の武田勝頼公本陣跡から満光寺庭園、阿寺の七滝などを訪ねて

    設楽原歴史資料館の駐車場から医王寺(新城市長篠字弥陀の前256)に向かう。長篠の戦いで、武田勝頼がこの寺に本陣を置いたとされ、境内には『武田勝頼公本陣跡』と記された石碑が建っている。新城市のHPによると、『三川日記』という文書に、武田軍の長篠包囲において本軍の武田勝頼らは医王寺山に三千の兵を配置したことが記されているそうだが、山麓の医王寺境内地内には陣城と思われる遺構は確認されていないという。http://www....

  • 長篠城址と長篠の戦いの決戦の地を訪ねて

    毎年梅雨が明けた頃に車で旅行することにしているのだが、先日愛知県の新城(しんしろ)市を巡って来た。最初に向かったのは長篠城址(新城市長篠市場22-1 ☏0536-32-0162)である。長篠城は豊川と宇連川の合流点の崖の上の天然の要害の地に、菅沼元成(もとなり)が今川氏の命を受けて永正5年(1508)に築いた城で、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いののち今川氏から松平氏の支配に移り、元亀2年(1571)に武田氏の支配に移り、天正元年(1573)に...

  • 満州国にわが国が莫大な投資をして築き上げたインフラを掠奪した中国

    前回の記事で関東軍が満州の匪賊を討伐したことを書いたが、それまでの満州は、法治はおろか人治すらなく、軍閥・匪賊が支配、跋扈する無法地帯であった。黄文雄氏は『日本の植民地の真実』でこう解説しておられる。「そのような状況を一変させ、近代的法治社会の基礎を築き上げ、産業の発展を軌道に乗せたのが関東軍であり、新設の警察制度であった。この軍閥、匪賊社会をわずかな期間で一挙に近代社会に作り変えた功績は、近代ア...

  • 満州の民衆が関東軍を敵視しなかったのはなぜなのか

    昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件から始まった満州事変で、30~40万いたとされる張学良軍は、およそ1万の関東軍によって総崩れとなって満州から駆逐されてしまったのだが、彼らは圧倒的に兵士の数では関東軍よりも優位にあっただけでなく、さらに飛行機や戦車などの近代兵器も大量に保有していた。にもかかわらず、簡単に関東軍に敗れてしまったのはなぜなのか。Wikipediaにはこのような記述がある。文中の「彼」は張学良である...

  • 満州に関東軍が駐留していた背景を考える

    教科書などでは満州事変については、関東軍が武力による満州の制圧を企て、戦争のきっかけを作って中国軍への攻撃が始まったと書かれるのだが、なぜ当時の満州に関東軍がいたかについて一言も触れることがない。黄文雄氏の『日本の植民地の真実』に、関東軍が満州に駐留していた経緯とその規模について記されているので引用させていただく。「ポーツマス条約には、鉄道保護のために1キロあたり15名を超えない範囲で守備隊を置く権...

  • 満州人が各地で独立運動を起こしていたことが教科書などで書かれないのはなぜか

    前回の記事で、『リットン報告書』の内容は相当程度わが国の主張を織り込んでいながら、結論はかなり中国寄りになっていたことを書いた。このブログで何度も書いてきたように満州は満州族の故地であったのだが、この地に大量の漢人が流入したために人口の9割以上が漢人になってしまっていた。『リットン報告書』では満州を漢人が治める地として認め、関東軍の撤退を求めたわけだが、この問題をわが国に当てはめて考えると、もし人...

  • リットン調査団と国際連盟を利用してわが国を孤立化させた列強は何を狙っていたのか

    前回の記事のなかで、昭和6年(1931)9月の満州事変以降関東軍が満州全土を占領した頃の世界には、わが国に理解を示す論調が少なからずあったことを述べた。その翌年3月に満州国が成立し、わが国は「国際的な非難をあびた」と教科書などで記されているのだが、このように書かれる根拠はその後の国際連盟の動きにあると思われる。わが国が国際連盟を脱退した経緯について、『もういちど読む 山川の日本史』では次のように記されて...

  • 関東軍が満州を制圧し満州国が建国されたことを当時の世界はどう見ていたのか

    昭和6年(1931)9月18日の柳条湖事件に端を発して満州事変が勃発し、関東軍により満州全土が占領されて、その後満州は関東軍の主導の下に中華民国からの独立を宣言し、昭和7年(1932)3月1日に満州国が建国された。満州国の元首(満洲国執政、後に満洲国皇帝)には清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)が就いた。【溥儀】この満州国については、一般的な教科書では次のように記されている。「しかし、軍事・外交は...

  • 満州事変の当時、満州のわが国の権益を狙っていた国はどこだったのか

    「満州」という言葉は、もともとは地名ではなく民族名として用いられていて、19世紀に入ってわが国ではこの言葉が中国東北部を指すようになり、その地域に居住する民族を「満州族」と呼ぶようになったという。この地域は満州族の故地であって、その満州族が中国を制圧して1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した。その国家が清(しん)である。清に征服される前の明(みん:1368~1644年)の時代の万里の長城の地図を見るとわか...

  • 関東軍が「暴走」したと描かれる背景を考える

    前回の記事で、ソ連の赤化工作がかなりわが国の軍部に浸透していたいたことを書いた。昭和3年(1928)の張作霖爆殺事件は、わが国の教科書などでは関東軍の河本大作が計画を立案した主謀者であることが記されているのだが、現場の写真を見ても河本大佐らが爆薬を仕掛けたとする京奉線の線路には爆発した形跡はなく、特別列車の台車部分は原形をとどめているのに天井部分が大きく破損している。河本大佐の自白内容が作り話であること...

  • 関東軍は昭和の初期からソ連の工作活動の重要な対象であった

    以前このブログで、昭和3年(1928)6月4日の「満州某重大事件(張作霖爆殺事件)」の事を2回に分けて書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-205.htmlhttp://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-206.htmlわが国の教科書では今も日本軍(関東軍)が張作霖を暗殺したと書かれているのだが、ソ連の機密文書ではソ連が実行し日本人の仕業に見せかけたものだと書かれており、イギリスの外交文書においてもソ連に犯罪...

  • 仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える

    前々回の記事で竹生島弁財天のことを書いた。明治初期の神仏分離令が出るまではわが国のほとんどの社寺が神仏習合であったのだが、そもそも神仏習合はどういう経緯ではじまり、「本地垂迹説」が唱えられたのにはどのような背景があったのだろうか。以前何度か紹介した羽根田文明氏の『仏教遭難史論』(大正14年刊)の記述がわかりやすいので紹介したい。「惟神(かんながら)の道、すなわち神道は宗教ではなくただ祖先崇拝の人道で単純...

  • 日本三大山車祭の一つ、長浜曳山祭の歴史と子ども歌舞伎

    竹生島から長浜港に戻って、ホテルにチェックインしたのち長浜市の中心部に向かう。この日(4月13日)の夕方は十三日番といって、長浜曳山祭の各山組に曳きだされた豪華絢爛な曳山の舞台で、化粧をした子ども役者が可憐に歌舞伎(曳山狂言)を演じる最初の日なのだ。この祭りは毎年4月9日~16日に長浜八幡宮の春季大祭にあわせて執行され、13日~16日は「曳山」が登場して子ども歌舞伎が演じられるのである。この祭りは京都の祇園祭、...

  • 神仏習合の聖地であった竹生島で強行された明治初期の神仏分離と僧侶の抵抗

    長浜市の湖岸から6kmほど先に、周囲2km、面積0.14㎢の竹生島が琵琶湖に浮かんでいる。琵琶湖では沖ノ島に次ぐ大きな島で、ここに西国三十三所観音霊場第三十番札所の宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社がある。この島へは、長浜港から琵琶湖汽船の船に乗って25分程度で到着するのだが、余程風の強い日には竹生島港に接近することが危険なためにたまに欠航することがあるのだそうだ。この日は風が強くて、竹生島港の波が強くて接近...

  • 滋賀県に残された神仏習合の景観などを楽しんで~~邇々杵神社、赤後寺他

    以前このブログで、神社の境内の中に塔が残されている事例をいくつか紹介した。奈良時代には仏教を広めるために日本古来の神道との融合策がとられ、神社に神宮寺が併設されたり、寺に鎮守社が建てられたりしたのだが、そのような神仏習合が平安時代になると仏が仮に神の姿で現れるという本地垂迹思想が広がり、神社に神の本地である仏を祀る本地堂を建てたり、神宮寺に仏教の祖である釈迦の舎利(遺骨)を祀る塔が建てられたりして、...

  • 旧幕府の軍艦で脱走を図り、明治政府とは別の政権を誕生させた榎本武揚とその後

    慶応四年(1868)三月から四月にかけて、江戸城を明け渡すことにつき明治新政府と旧幕府との間で交渉が行われ、徳川宗家の本拠たる江戸城が何の抵抗もなく無血裏に明け渡されたのだが、開城前に行われた交渉で徳川慶喜の名代・勝海舟が、西郷の提示した江戸城総攻撃を回避する諸条件の回答として提示した条件のひとつに、幕府が従来使用していた軍艦を引き渡すということが記されていた。しかしながら、これらの軍艦を率いていた榎本...

  • 厳寒の痩せ地に移住した会津藩士たちの飢餓との戦いとその後

    会津戊辰戦争の敗戦の後、藩主・松平容保は死一等を減じられて、洋紙の喜徳とともに東京に護送され謹慎処分となり、会津藩の領土は明治政府の直轄地となった。明治二年の六月に松平容保の長男・容大(かたはる)が誕生し、同年十一月に明治政府は容大による松平家の再興を許可して、容大に新たに陸奥国北郡・三戸郡・二戸郡内で3万石を与えている。新しい藩の名前は、当初は「三戸(さんのへ)藩」と称したが、明治三年に「斗南(となみ...

  • 会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き

    慶応四年(1868)八月二十三日午前十一時頃に甲賀町口廓門を破って城下へ乱入した土佐藩の先鋒隊は、鶴ヶ城(若松城)北出丸に進出し、城への突入を図った。【新島八重】前回の記事でも書いたが、会津藩は有力部隊を藩境に配置していたために城下には精鋭兵がおらず、鶴ヶ城には少年兵の白虎隊や老人部隊の玄武隊と少数の吏員がいる程度だったのだが、中には男装して奮戦した女性もいたという。Wikipediaによると会津藩の砲術師範であ...

  • 白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争

    慶応四年(1868)七月に二本松城を落とした新政府軍は、次の攻略を会津にするか仙台にするかで意見が割かれた。大総督府軍防事事務局判事の大村益次郎は、二本松城落城後は戦意の乏しい仙台藩を攻めて、最小の流血で最大の戦果を挙げて東北戊辰戦争を終結させようという考えであったのだが、土佐藩の板垣退助がこれに真っ向から反対し、先に会津藩を殲滅することを強く主張したという。国立国会図書館デジタルコレクションに『板垣退...

  • 暴れ川として知られる吉野川の流域を豊かにした阿波藍と徳島の伝統文化

    ドイツ村公園のすぐ近くに四国霊場第二番札所の極楽寺(鳴門市大麻町桧ダンノ上12 ☏088-689-1112)がある。寺伝では奈良時代に行基が開基したとあり、弘仁6年(815)には空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたと伝わっているのだそうだが、境内から平安時代の瓦が出土しているので古い寺であることは間違いがない。本尊の木造阿...

  • 鳴門市とドイツとの100年を超える友好関係のきっかけを作った会津人

    重たいテーマを書き続けているうちに、少し気分転換をしたくなって徳島県を旅行してきた。旅程を決めたときには認識していなかったのだが、最初に訪問した鳴門市が、前回までのテーマである東北の戊辰戦争とつながることを旅行の途中で気が付いた。今回はそのことを書こうと思う。最初の訪問地は四国八十八ヶ所霊場の第一番札所霊山寺(りょうぜんじ:鳴門市大麻町板東塚鼻126 ☏088-689-1111)である。室町時代は三好氏の庇護を受け...

  • 激戦となった「二本松の戦い」と、二本松少年隊のこと

    前回の記事で慶応四年(1868)の「白河口の戦い」について書いた。兵の数では仙台藩を主力とする列藩同盟軍が圧倒的に新政府軍を上回っていたものの兵器の性能に格段の差があり、五月一日には約五百人の新政府軍に白河城を奪われ、仙台藩を主力とする列藩同盟軍はその後約四千五百名迄の増援を行い、白河城の奪取を試みたのだが犠牲者を増やすばかりであった。新政府軍は増援が来ない中で、少ない兵数で白河城を守り切ったのだが、五...

  • 兵力で優位にあったはずの列藩同盟軍は、何故「白河口の戦い」で大敗したのか

    仙台藩や米沢藩を通じた恭順嘆願も奥羽鎮撫使に拒否されてしまい、会津藩は和平嘆願に希望を失って、自藩防衛の戦いに身を投じることとなる。【白河城】奥州鎮撫使参謀の世良修蔵は白河城を会津攻撃の足掛かりにしようと考え、慶応四年(1868)閏四月十六日に仙台藩士高城左衛門に白河城の兵力配置の変更を命じている。しかし、仙台藩はすでに新政府と戦うことを決意していたので世良の情報は仙台藩から会津藩に筒抜けとなった。白河...

  • 東北諸藩は薩長の新政府を嫌い、別の国を作ろうとしたのではないか

    前回記事で、仙台藩が慶応4年(1868)閏4月19日付の奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵が大山参謀に宛てた密書を入手し、世良がその書状で奥羽全体を武力制圧することを主張していることがわかり、20日に仙台藩がこの男を捕らえて斬首したことを書いた。当日仙台藩の白石城に集まっていた奥羽列藩代表の会議(白石会議)の席上で、世良修蔵斬首の情報が入ったときの様子が、米沢藩士・宮島誠一郎の日記にこう記録されているという。「満座人皆...

  • 仙台藩ほか東北諸藩は、なぜ「朝敵」とされた会津藩を助けるために薩長と戦ったのか

    慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗北すると、1月10日に薩長軍は「朝敵処分」を発表している。罪第一等 徳川慶喜、罪第二等 会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)、罪第三等 伊予藩主松平定昭、姫路藩主酒井忠惇(ただとし)、備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)罪第四等 宮津藩主松平宗武(むねたけ)、罪第五等 大垣藩主戸田氏共(うじたか)、高松藩主松平頼聰(よりとし)「朝敵」の認定を受けた藩は西日...

  • 西郷隆盛は明治新政府の初期の腐敗ぶりに涙した

    岩波文庫に『西郷南洲遺訓』という本がある。この本に西郷隆盛の遺訓をまとめた『南洲翁遺訓』などが収められているのだが、この『南洲翁遺訓』は戊辰戦争で薩摩藩と敵対した旧庄内藩の旧家臣の手によって、明治23年に制作され広く頒布されたものである。なぜ薩摩藩ではなく庄内藩の旧家臣によって西郷隆盛の遺訓集が作成されたのかと誰でも思うところなので、その点について少し説明しておこう。【薩摩藩邸襲撃による火災】薩摩藩...

  • 戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した

    前回の記事で戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』の冒頭部分を紹介した。この檄文はやや長文だが、明治維新を推進したメンバーがどんな連中であったかが、新政府に敵対する立場から述べられていて興味深い。もちろん内容に誇張もあるだろうが、この檄文に賛同して多くの武士たちが命がけで官軍と戦ったことを考えると、かなりの真実がこの檄文に織り込まれていると考える...

  • 攘夷論者が、実行できないことがわかっていながら「攘夷」を唱え続けた理由

    戊辰戦争の奥羽列藩同盟の全軍の士気を鼓舞するために、米沢藩士の雲井龍雄が起草した『討薩檄』という檄文の全文とその大意がWikipediaに紹介されている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%8E%E8%96%A9%E6%AA%84この有名な檄文を読み始めると、冒頭から興味深いことが書かれている。『初め、薩賊の幕府と相軋(きし)るや、頻(しきり)に外国と和親開市するを以て其罪とし、己は専ら尊王攘夷の説を主張し、遂に之を仮て天眷(て...

  • 明治新政府の創成期は兵力も財力も権威も乏しく、いつ瓦解してもおかしくなかった

    前回記事で『維新前後の政争と小栗上野の死』という書物を紹介したが、著者の蜷川新氏の主張しているとおり、徳川幕府が大政奉還を廃止したのちに薩長がすぐに取組むべきことは封建的支配体制を解体し、天皇を中心とした中央集権的国家体制の基礎を固める事であったはずだ。明治2 (1869) 年の「版籍奉還」で、諸藩主が土地と人民に対する支配権を朝廷に返還したものの、新政府は旧藩主をそのまま知藩事に任命して藩政に当たらせた...

  • 大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由

    前回は石川県の「不平士族」が大久保利通を暗殺したことを書いたが、「不平士族」と言う言葉を用いると、普通は「不平」を持つ側は少数で「悪い」側と受け取られることになる。歴史叙述というものはいつの時代もどこの国でも、「勝者」に正当性、正統性があると描かれるものであり、対立する勢力は「悪者」にされるか、「抵抗勢力」「不平分子」などとレッテルが貼られるのが常であるのだが、かといって「勝者」側に「正義」があっ...

  • 2018年新年のご挨拶

    あけましておめでとうございます。旧年中は、拙い私のブログにお付き合いいただき、まことに有難うございました。多くの方から励ましのお言葉やご感想、貴重なご意見などを頂戴し、このブログの中で様々な対話が出来たことがとても楽しく、また励みにもなりました。【綾部山梅林…兵庫県たつの市御津町】何度も訪問して頂いた方や、私の記事にリンクして頂いた方、ランキングの応援をして頂いた方、ご自身のブログやSNSなどで記事の...

  • 大久保利通を暗殺した石川県の不平士族らは何を求めていたのか

    明治9年(1876)の第2次府県統合の後の地図を眺めていると、石川県、島根県、高知県、愛媛県、長崎県、鹿児島県など不自然に大きな県が存在し、また奈良県がなく現在の大阪府南部と奈良県を領有した堺県があったことなどいろいろなことがわかる。【明治12年(1879)時点の地図(斉藤忠光氏作成)】これらの県では、のちに分県運動が立ち上がり、富山県、福井県、奈良県、鳥取県、徳島県、香川県、佐賀県、宮崎県の8県が復活を果たすので...

  • 廃藩置県で明治政府は県の名前や県庁の場所をどういう基準で決めたのか

    子供の頃に「1都1道2府43県」と覚えて、全国に「47都道府県」があることを学んだのだが、明治4年(1871)7月の廃藩置県で全国の「藩」が「県」となって明治政府の直轄となった時には、1使(開拓使)3府(東京府・京都府・大阪府)302県が存在した。この時点では江戸時代の藩や天領の境界をほぼそのまま踏襲したものであったために飛び地が各地に残り、同年の秋には3府72県に統合されたという。その後県の数は徐々に少なくなり、明治5年...

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