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  • 笠寺一里塚のヒガンバナ

    今日、9月30日をもって中部復建株式会社を退社します。約12年間、65歳から77歳まで勤めさせていただきました。造園工事の監督業務や自然林の樹木調査も行いましたが、何と言ってもこのブログの発信が一番大きな仕事でした。 愛知・岐阜・三重・静岡各地の街や村の橋や公園、山間部のダムや海岸の堤防など様々な土木施設を訪ね歩きました。車を運転して同行してくださった当社取締役・塚本俊弘氏は、協力者というより...

  • ブログ発信878回

    私ごとですが、この9月いっぱいで会社を退職します。12年近く勤めさせていただきました。その間、ブログを878回発信しました。どの記事も、全て現地に足を運んで調査しましたし、写真もごく一部を除いて全て自分で撮影したものです。 「土木施設」は、一歩街へ出れば当たり前に存在しますので、意識的に見たり感じたりするものではありません。しかし、道路でも河川でも公園でも、造るに当たっては技術者や職人たちが汗水...

  • イチョウとソテツの進化

    今年のNHK朝ドラは、牧野富太郎の生涯を描いていますので面白く見ています。毎回いろいろな植物が紹介されますが、季節外れのものもありますので不思議に思っていました。新聞の紹介記事で、精密な模造品を作っていると知り納得しました。 植物学黎明期の東大植物学教室の状況も描かれていて、その面からも興味深い番組です。その中で、イチョウとソテツの精子発見の話題が出てきます。いずれも生物進化の過程で、シダから種子...

  • 千本松原と長良川大橋

    「木曽三川国営公園」のあるこの地区は、かつて木曽・長良・揖斐の大河川が合流し、水害の絶えない土地であった。「宝暦の治水」は、ドラマや演劇で観るような薩摩藩士の犠牲的な努力により、宝暦4~5年(1754~1755)に行われた。 明治時代の改修工事により、宝暦当時の堤防は大きく形を変えたが、薩摩藩士たちの植えた「千本の日向松」は今も残っている。中には200年を越える老松もあり、昭和15年に「油島千本...

  • 船頭平閘門と木曽川文庫

    木曽川下流域は、木曽・長良・揖斐の3河川が入り乱れて流れていました。物流は舟が主体であり、犬山・岐阜・大垣などは、3河川から伊勢湾を経て名古屋や伊勢と結ばれていました。しかし、明治期の「三川分流工事」によりそれぞれ独立した川になりました。 これにより洪水は大きく防げるようになりましたが、船便は一々河口を回らなければ隣の川へ行けなくなりました。そこで明治27年(1894)、立田村船頭平地内に閘門を...

  • 尾張大橋と木曽川橋梁(近鉄・関西本線)

    東海道が木曽川を渡るのが「尾張大橋」である。長島を斜めに横断して、次に「伊勢大橋」を渡って伊勢の国に至る。昭和8年(1933)の開通。幅員7.5m、「下路ランガートラス鋼橋」という型式も伊勢大橋と同じである。13連で、全長879mである。 橋の近くに「東海道」と記した石柱が立っている。側面には「明治廿五年四月一日」と刻まれている。古くは、京と関東を結ぶ道は「鎌倉街道」と呼ばれていた。江戸時代に五...

  • 名四国道と東海道の橋

    伊勢湾岸道路の2kmほど上流に、名四国道が走っている。この道路が木曽三川を渡るのが「木曽川大橋」と「揖斐長良大橋」である。この両橋は、昭和38年(1963)に一般有料道路として供用開始された。当初は二車線であったが昭和41年に下り線が完成し四車線となった。 いずれも「単純平行弦下路ワーレントラス」という型式である。木曽川の方は12連で約860m、揖斐長良は14連1040mである。昭和47年に豊明...

  • 伊勢湾岸自動車道「トゥインクル橋」

    伊勢湾岸自動車道路が木曽三川の最下流部を渡るところに、ユニークな2本の橋が架かっている。「トゥインクル木曽川橋」と「トゥインクル揖斐川橋」である。長良川はというと、少し上流で揖斐川と合流しているので2橋となっている。 2橋は同じ構造・デザイン、同じ幅員(33m)であるが、「木曽川」の方は5径間(柱は4本)1145m、「揖斐川」は6径間(柱は5本)1397mである。合計約2500mという長大な橋で...

  • 堀川の「熱田記念橋」と「御陵橋」

    今度は堀川です。最下流部、「宮の渡し」湊の近くに2本の橋があります。このあたりまで来ると川幅もずいぶん広くなるので、橋長も長くなります。水も見た目には綺麗になりますし、周辺も公園が多くてみどり豊かな景観になります。 堀川右岸(西側)には、「国際会議場」と、その南に「白鳥庭園」があります。ここはかつて貯木場(「白鳥貯木場」2013年3月6日参照)があったところで、埋め立てて造成しました。国際会議場...

  • 山崎川の鼎小橋と萩山橋

    山崎川は、日本さくらの会が指定する「日本さくら名所100選」に選ばれている。愛知県では、ほかに鶴舞公園・岡崎公園・五条川(岩倉~江南~大口)が選定されている。山崎川の桜は、護岸と歩道にも植えられているので、花のトンネルを散策することができる。 お花見は、沿道が住宅地であることから「宴会」などは禁じられている。他の名所と異なり、花を愛でながらの散歩を楽しむことになる。地下鉄新瑞駅から歩くと、瑞穂運...

  • 松の傷痕

    先日(8月8日)、中日新聞夕刊「写記・名古屋城~~戦火の記憶~~」の欄に松の木の幹の写真が大きく掲載されていた。「戦時中に燃料にするため、松やにを採取した跡」との説明がある。名古屋城内に残る戦争の傷痕である。 市役所本庁舎北側のクロマツの街路樹にも大きな傷跡が残っている。この傷はさらに大きく、木肌の部分には「ウルシ掻き」と同じような斜めの切り傷も見ることができる。傷痕は車道側にあるので、歩道を歩...

  • 御深井丸の乃木倉庫

    10年ほど前、瀬戸の焼き物を訪ね歩きました。とある窯元の展示場で「御深井焼き」という表示があったので、「おふけやき」と呟いたところ、店の方がビックリされました。‟今まで誰も正確に読んだ人がいない!“と。名古屋城北西部「御深井丸」を「おふけまる」と呼ぶので知っていたのです。 「おふけやき」は、藩主が城内などで作る「御庭焼き」の一つです。窯が「御深井丸」あったのでしょう。何人かの陶工が担当したとのこと...

  • ハンガリーでの日本庭園整備

    私事ですが、6月中旬から1か月間ハンガリーに行っていました。ブダペストから西へ1時間半ほど走った「ベスプレム」という町です。近くに、バラトン湖という琵琶湖ほどの湖と「ヘレンド」という磁器で有名な村があります。娘の家族と暮らすことと、日本庭園の整備が目的です。 日本庭園整備事業は、「欧州文化首都」の一環として企画されたものです。娘がこのプロジェクトの通訳をしていて、その関係で私にオファーしてきたも...

  • 尾瀬の木道

    昨日の中日新聞の夕刊に、尾瀬の「歩荷(ぼっか)」の記事が載っていた。私も学生のときに、北アルプスで1度だけ経験したことがある。数10年を経て、初めて尾瀬に行ったときに出会ったこともあり、懐かしく思い出した。 山小屋への物資運搬は、ほとんどの山ではヘリコプターが主流だが、尾瀬では環境保護のため歩荷が主力だという。100kgもの荷物を背負って、10kmの山道を登る。左下の写真の段ボール箱を見ていただきたい...

  • 長太(なご)の大楠

    年に数回は近鉄に乗ります。津や伊勢、時には奈良方面に行くのに近鉄を使います。白子駅に近づくころに右側の車窓から見ると、水田のただ中に大きなクスノキが見えます。手前の電柱などと比較するとかなりの太さのようです。一度降りて近くへ行ってみたいと、以前から思っていました。 昨日は伊勢に向かっていました。同じような気持ちで眺めていてビックリ! 枝が枯れているではありませんか。伊勢神宮の調査の帰りに、「箕田...

  • 名鉄山崎川橋梁と陸閘門

    山崎川の下流域では、たびたび氾濫が起こっている。名鉄呼続駅あたりの海抜は約2mである。伊勢湾台風のような高潮や、今後予想される南海トラフ大地震による津波が発生すれば、大きな災害が起こることも懸念されている。 名鉄本線の橋梁が山崎川に架けられたのは大正6年(1917)のことである。その後、山崎川の堤防は氾濫対策として嵩上げされた。しかし、山崎川橋梁はそのままの高さであったので、線路から逸水する危険...

  • 平針歩道橋

    県道56号線は、名古屋市千種区と岡崎を結ぶ主要道路である。通称「平針街道」と呼ぶ。地下鉄原駅と平針駅の間で国道302号と交差する。この交差点にユニークな横断歩道橋がある。「平針歩道橋」という。その上を名古屋第二環状自動車道が走っている。 平針は家から近いので、買い物などによく行く。この歩道橋の下も何回かくぐっており、変わった橋だなと思っていた。その時には「円形」の橋と思っていたけれど、今回取材し...

  • 牧野が池緑地と猪高緑地の竹林

    「竹林」と言えば、京都・嵯峨野(上の写真)を思い浮かべる。周辺の寺院や庭園と相俟って人気が高く、多くの観光客が訪れる。それにも負けず劣らぬ竹林が名古屋にもある。牧野ヶ池緑地と猪高緑地である。しかし残念なことに認知度が低く、多くの人々を呼び寄せるまでには至っていない。 孟宗竹は大陸から伝わったが、13世紀に道元禅師が持ち帰ったという伝承もあるし、薩摩藩主の磯庭園では日本で初めて琉球から取り寄せたとも...

  • 東山荘

    山崎川は、平和公園の猫ヶ洞池に端を発し、瑞穂運動場の真中を貫いて南に流れている。運動場の1kmほど北には「壇渓」と呼ぶ景勝地があった。山崎川は、御器所台地と八事丘陵の間を流れるが、東岸の八事の方は小高い山地になっていて、この一帯は緑豊かな土地柄であったのだろう。 運動場と壇渓の中ほどに「東山荘(とうざんそう)」がある。航空写真で見ると、先ほど述べた丘陵の緑が、ここだけに未だに残っているのである。...

  • 裁断橋(熱田区と大口町)

    笠寺から宮の渡しへ向かう旧東海道が精進川(しょうじがわ=現新堀川)を渡るところに「裁断橋」が架かっていた。江戸時代には、この川を「三途の川」に見立てて、橋のたもとに「姥堂」が建てられていた。今では川筋も変わり、姥堂もRCの建物に変わってしまっている。 ただ、建物の前庭に裁断橋の複製が残り、御影石の石柱に「裁断橋」「姥堂」の文字を見ることができる。昔の様子は、大口町の「堀尾跡公園」の陶板レリーフを見...

  • 春日井の三ツ又公園と落合公園

    春日井市の中央部に「三ツ又ふれあい公園」という公園がある。ここは、東部丘陵地から流れる八田川が合流する地点である。途中、大池緑地や落合公園のため池からも取水している。川沿いに2本の緑道が整備されていて、西側を「みずすまし緑道」、東側は「ふれあい緑道」という。 三ツ又公園に面白いモニュメントがある。「フォリー柳とカエル」と呼ばれている。小野東風の逸話を表現していて、手すりなどにカエルの彫刻がついてい...

  • 半田・岩滑の新美南吉記念館

    半田と阿久比の境界に矢勝川という小さな川が流れている。このあたりの地名を岩滑(やなべ)といい、「ごんぎつね」で有名な新美南吉の生まれ故郷である。この矢勝川は、近年、300万本の彼岸花が咲く土手として人気を集め、9月下旬から10月はじめに多くの行楽客が訪れる名所である。 南吉の生家は、名鉄河和線・半田口駅の最寄りである。彼の母校でもあり、代用教員として教鞭もとった岩滑小学校や、近所の友だちと遊んだ...

  • 半田の常楽寺

    名鉄河和線・成岩駅近くの常楽寺は、文明16年(1484)に開基された古刹である。尾張初代藩主・徳川義直公から、「浄土宗西山派の知多での総本山」とのお墨付きを得た大寺院である。かつては数多くの塔頭が建ち並んでいたが、今でも遣浄院など4つのお寺が残っている。 第8世の上人が家康の従兄弟だったこともあり、また、桶狭間の戦いや本能寺の変で逃避する折に当寺に立ち寄っていることなどから、今も徳川家とは深い縁...

  • 亀崎「潮風の丘緑地の橋」

    半田の北部に位置する亀崎は、衣浦湾に突き出した「神の岬」を語源とする。今もその先端に「神前(かみさき)神社」が鎮座している。この神社の祭礼が有名な「潮干祭り」である。豪壮な山車を海岸の砂浜に「曳き下ろす」のが特徴である。今は、国の重要文化財であり世界文化遺産でもある。 古図を見ると、神社周辺は小高い丘陵となっていて、海岸沿いの集落に向かって坂道が下っている。海岸沿いの建物は、堤防を兼ねた石垣の上...

  • 半田運河の散策路と「蔵のかけ橋」

    知多半島には、豊かな地下水が流れている。そのため古くから酒や酢、醤油などの醸造業が発達した。その繁栄を加速させたのが「半田運河」である。灘などの上方に比べて、江戸への輸送に地の利があった。尾張藩の後押しもあって、廻船業が栄えたのである。 運河の左岸・右岸に黒壁の蔵が建ち並んでいる。上流は「中埜酒造」であり、下流には「ミツカン酢」がある。運河沿いに散策路が整備されていて、歴史を感じながら歩くことが...

  • 旧中埜半六邸と庭園

    半田運河は、阿久比川に並行して流れて衣浦湾に注いでいる。運河の西岸、JR半田駅近くに中埜半六のお屋敷があった。現在は市民団体・特定非営利活動法人「半六コラボ」が管理運営し、レストランや貸部屋として利用されている。 建物は明治22年(1889)に築造された。母屋を始め茶室や9棟の蔵などが建ち並んでいた。昭和40年代には、大相撲名古屋場所において二所ノ関部屋の宿舎に当てがわれ、横綱・大鵬も宿泊していた...

  • 旧中埜家住宅

    ♪♪・・・知多の半田は蔵のまち 酒蔵・酢の蔵・木綿蔵・・・♪♪と歌う「半田音頭」というのがあったと思うのだけれど、今は謳わないのだろうか? ネットで探しても出てこない。ただ、この町が江戸時代から醸造や繊維など、海運を活かして発展してきたことは確かである。 中埜半六家は、江戸から明治にかけて海運業や醸造業で富を築いた。ミツカン酢を創業した中埜又左衛門家とは同族で、ともに半田運河一帯の整備に取り組み、近...

  • 半田赤レンガ建物 その2

    この建物については、すでに平成25年(2013・11・19)にご報告した。ただし、その時はまだ改修工事の前で、平成26・27年に耐震補強などが施された。平成16年に登録文化財、21年に近代産業遺産、26年には半田市指定第1号の景観重要建造物に指定されている。 赤レンガ建物は、明治31年(1898)に「丸三麦酒」(のちのカブトビール)の製造工場として誕生した。戦時中は中島飛行機の衣料倉庫として使用...

  • 佐久間ダム

    佐久間ダムの説明をするには、ダム近くの「電力館」に掲げられている「説明看板」と「新聞記事」をお借りするのが手っ取り早い。看板には詳細な構造図が掲載されており、新聞ではこの事業に対する関係者の意気込みが伝わってくる。以下記事の抜粋・・・ 「日本一の佐久間ダム・・・ダムの高さは約150m、これまでの最高・木曽川三浦ダムの2倍、丸ビルの5倍である。長さは270mでその上部は幅4mの道路となる。堰き止め...

  • 佐久間の中部(なかべ)橋

    浜松市は平成の市町村合併により市域面積が広がり、全国では高山市に次いで第2位である。約1560平方km、名古屋市327平方kmの約5倍である。因みに愛知県で一番広いのは、やはり稲武や小原を合併した豊田市で、26位・約920平方kmである。 天竜川を遡った愛知・長野との県境地域は「北遠」と呼ぶ。遠州の北部という意味であろう。天竜・春野・龍山・佐久間・水窪の5地区を指す。その中で「佐久間地区」は、人...

  • 佐久間の原田橋

    天竜川は、佐久間ダムの下流で大きく逆もどりし、北に向かって流れている。そのV字の部分に、支流の相川が合流している。JR飯田線は下川合駅と中部天竜駅が右岸にあり、国道473号線は左岸を走っている。国道が天竜川を跨ぐのが「原田橋」である。 現在の原田橋は3代目で、令和2年開通の真新しい橋である。橋長284m、幅員は8mの2車線である。初代は大正4年(1914)に架設された木製補剛桁の吊り橋であった。長さ...

  • 浦川キャンプ場と滝口の橋

    天竜川の支流「相川」は、浦川あたりで大きくU字型に蛇行している。山裾が半島のように相川に向かってせり出している。半島の西側に広い河川敷があり、その中に半月形の島がある。ここはキャンプ場になっていて、そこへ通ずる吊り橋が2本(1号・2号)架かっている。 吊橋は、いずれも人道橋で昭和45(1970)年完成。自転車は通行できるが、バイクは不可である。1号橋は長さ96m、幅員は1.9m、床は板張りである。2号...

  • JR飯田線・浦川駅

    最近はとんとご無沙汰ですが、飯田線はよく利用しました。妻の実家が温田駅近くにあり、里帰りや夏の避暑のために子供を連れて乗ったのです。その頃は急行が何本かあり、車内販売も廻ってきました。新城から先は山岳地帯なので、トンネルと橋梁の連続です。とにかく景色の良い路線です。 飯田線が開通したのは明治30年、全通したのは昭和12年のことです。起点の豊橋から終点の辰野まで約196km、その間に94の駅があり...

  • 大垣・水門川の橋 その7

    26 高 橋: 昭和36年(1961)・・・26の橋の最後。県道18号・大垣~一宮線に架かっている。 橋の中央に芭蕉の俳句が掲げられている。 今回は、水門川をたどって26の橋を訪ね歩いた。大垣にはもう一本の散歩道がある。松尾芭蕉の句碑のある道で、やはり駅近くの牛屋橋を起点に、終点も同じ高橋である。 高橋は、芭蕉の「奥の細道」むすびの...

  • 大垣・水門川の橋 その6

    24 貝 殻 橋: 昭和46年(1971)・・・橋のたもとに船町の道標「右京みち・左江戸道」。25 住 吉 橋: 昭和55年(1980)・・・赤い欄干。燈台と湊跡が近い。≪船町湊跡と住吉燈台≫・・・◆船町湊は、江戸から明治にかけて、桑名とを結ぶ運河「水門川」の川湊で、物資や人の往来の中心であった。◆住吉燈台は、天保11年(1840)に建てられた。高さ8mの寄棟造り、最上部の四方に油紙障子を嵌めこみ燈火を入れた。...

  • 大垣・水門川の橋 その5

    21 俵 橋: 昭和45年(1970)・・・近くに飯沼慾斎の邸宅跡がある。22 美登鯉橋: 昭和53年(1978)・・・「四季の広場」への入り口。直角に曲がり川幅が広い。23 虹 の 橋: 昭和61年(1986)・・・滝・四阿が眺められ、川面には鯉が泳ぐ。...

  • 大垣・水門川の橋 その4

    ⑯ 丸の内橋: 昭和58年(1983)・・・右岸には、藩主戸田氏の菩提寺「圓通寺」がある。⑰ 興 文 橋: 昭和57年(1982)・・・左岸は、地方裁判所などのある官庁街。白い高欄。⑱ 清 水 橋: 昭和28年(1953)・・・レンガタイルの高欄。東西の幹線道路。⑲ 西外側橋: 昭和53年(1978)・・・左岸に、大垣市役所がある。⑳ 竹 橋: 昭和41年(1966)・・・水門川は、ここでS字にカーブする。...

  • 大垣・水門川の橋 その3

    ⑫ 龍の口橋: 昭和40年(1965)・・・親柱に龍のレリーフがある。⑬ 武者溜橋: 昭和32年(1957)・・・親柱の上に城郭の彫刻が乗っている。⑭ 花 月 橋: 平成7年(1995) ・・・欄干に桜の模様がある。⑮ 八幡大橋: 昭和49年(1974)・・・橋上広場がある。北には八幡神社がある。...

  • 大垣・水門川の橋 その2

    ⑦ 貴 船 橋: 昭和54年(1979)・・・大垣城東総門跡、貴船神社が近い。⑧ 小 原 橋: 昭和37年(1962)・・・中央に円形デッキ。橋下に遊歩道。⑨ 新 大 橋: 昭和30年(1955)・・・駅から南下する大通り。赤い欄干。中央に現代アート。⑩ 東外側橋: 平成元年(1989) ・・・親柱は常夜灯風モニュメント。⑪ 高 岡 橋: 昭和54年(1979)・・・下流に川下りの船着き場がある。...

  • 大垣・水門川の橋 その1

    ① 新牛屋橋: 昭和53年(1978)・・・大垣駅近く。恵比寿大神の境内に山車倉がある。② 牛屋橋: 昭和44年(1969)・・・欄干に日陰棚がある。③ 平和橋: 昭和33年(1958)・・・親柱に外灯が付いている。④ 岐阜町橋: 昭和61年(1986)・・・レンガタイルの手すり。⑤ 最上橋: 昭和60年(1985)・・・円形のデッキに照明灯がある。⑥ 赤坂口橋: 建設年不明・・・擬木の手すり。道路幅員...

  • 大垣・水門川の26の橋

    大垣城は天文4年(1535)に築かれ、関ヶ原の戦いでも大きな役割を果たした。城と城下町のあるこの地は、揖斐川の扇状地であり水の豊かなところである。市の中心を流れる水門川は、かつては大垣城の外堀を兼ねていた。河口部の桑名とを結ぶ、重要な水運の運河でもあった。(2014・2・7「大垣城」&2014・6・30「自噴井戸」参照) 時あたかも桜満開の良き日に、ブログの取材に訪れた。水門川には個性的な26の橋が架けられてお...

  • 菊川の潮騒橋と高松川の水門

    浜松御前崎自転車道線(県道376号)を東へ進むと、いよいよ御前崎に近づいてくる。一級河川菊川の河口に「潮騒橋」が架かっている。サイクリングの自転車・歩行者専用である。全長232m、幅員3m、平成7年(1995)年に完成した。 「4径間連続上路式PC吊床版橋」という構造形式で、世界でも類を見ない珍しい形だという。普通は上にあるアーチが、下向きに垂れるようになっている。「吊床版」というように、最下部の...

  • 弁財天海浜公園と弁天大橋

    太田川の東5kmほどの所、袋井と掛川の市境に弁財天川が流れている。長さ約4kmの二級河川で、流域面積4.5㎢ほどの水田地帯を流れている、。遠州灘に注ぐ河口周辺は「弁財天海浜公園」になっている。松林のある丘陵は、海から吹きつける風により打ち寄せられた砂山である。 入母屋屋根のある展望台周辺には枯れたマツが目立つ。海からの塩分や砂から田や畑を守るために植えられた松林であるが、松くい虫の被害を受けたも...

  • ぼう僧川水門と野鳥観察小屋

    ぼう僧川下流域は、かつての氾濫原や低平地が広がっている。しかし昭和50年以降、周辺部のベッドタウンとして宅地開発が急速に進んできた。静岡県の太平洋沿岸は、東海沖地震あるいは南海トラフ大地震の際には高い津波が予測されており、大きな被害が出ることが恐れられている。昭和54年から(1979)この地域の津波対策が進められ、平成9年に「ぼう僧川水門」が建設された。水門の型式は「鋼製シェル構造スライドゲート(...

  • はまぼう橋

    天竜川の東10kmほどのところに太田川が流れている。その河口近くに「ぼう僧川」という二級河川が合流している。磐田あたりの三角州の水を集める川で、延長は13kmほどである。流域の気温は年平均16~17度と温暖である。 太田川との合流地点から1kmほど上流に「はまぼう橋」という自転車専用の橋が架かっている。丸パイプによるアーチ橋であるが、吊り材のワイヤーがななめになっている「ニールセンローゼ橋」という型式...

  • 浜松御前崎自転車道の「掛塚橋」

    静岡県の海岸沿いに4つのサイクリングロードがある。西から ①浜名湖周遊自転車道 ②浜松・御前崎自転車道 ③静岡・御前崎自転車道 ④静岡・清水自転車道である。合計の距離は約200kmと長い。今後、伊豆半島地区での整備も進めていく。 浜松からは、磐田・袋井・掛川を通って御前崎へ至る。天竜川の、河口から2番目に「掛塚橋」が架かっている。延長は約900m、トラス橋であるが一定の距離に「山」がある。構造上に意味...

  • 猪鼻湖神社と瀬戸橋

    浜名湖は、全国で10番目の面積をもつ。しかし形が複雑なので、外周の距離は3番目に長い。それは4つの枝湾をもつからである。細江湖・松見湖・庄内湖・猪鼻湖である。1498年の明応地震のときに、砂州が決壊して海と繋がったので、汽水湖となった。魚など生物が豊富に生息する。 猪鼻湖は北西に位置する。水深は深く、最深部では16mもある。湖面ではカキの養殖が、西岸ではミカンの栽培が盛んである。大きく突き出した...

  • 桶狭間の戦い「祐福寺」と「沓掛城」

    NHK大河ドラマ「どうする家康」も佳境に入ってきました。私の家の近くに、桶狭間のときに義元が本陣を構えたと言われる史跡が2か所あるので訪ねてみました。ひとつは東郷町の祐福寺、もう一つは豊明市の沓掛城です。いずれも義元が討たれた前日に宿泊した所となっています。 祐福寺には、後奈良天皇から勅使が遣わされたとき(大永8年=1528)に造営した「勅使門」が残っています。二階が鐘楼となっている山門には木彫の...

  • 佐鳴湖

    三方ヶ原の南端にはいくつかの谷筋があり、その一つに佐鳴湖が入り込んでいる。太古には海と繋がっていたが、2000年ほど前に切り離され自然湖となった。しかし今でも、満潮になると海水が流入して汽水状態になるという。 南北に約2km・東西に500mほど、周囲5.5km・面積約1.1平方キロの湖である。ひところは生活排水や事業排水が流れ込み、日本で最も汚染された湖であった。近年は改良が進み、第1位の汚名は...

  • 都田テクノポリスと総合公園

    「三方ヶ原」と聞くと、徳川家康を思い浮かべる。武田の大軍に蹴散らされて、家康も命からがら浜松城に逃げ帰ったという戦いである。武田軍は諏訪を回って秋葉街道を南下し、二俣城を落とした。家康は浜松城で籠城戦に臨もうとしたところ、武田軍は素通りして浜名湖の堀江城へと進軍した。 武田・徳川の戦いは三方ヶ原で繰り広げられた。この台地は、天竜川と都田川に囲まれた三角形の洪積層台地である。東西10km×南北15...

  • 都田川ダム(いなさ湖)と「おしどり橋」

    都田川は・愛知県との県境にある鳶巣山(とびのすやま)に端を発し、浜松辺りを流れて浜名湖に注ぐ。全長32kmの中河川である。上流部は急峻、中下流部は幅が狭くかつ蛇行しているので、古くから洪水の被害をもたらす河川であった。 昭和45年から16年もの年月と127億円の巨費をかけて、洪水防止・農業用水・上水のための多目的ダムが建設された。「都田川ダム」である。高さ55m、長さ170mのコア型ロックフィル...

  • 静岡県立森林公園と「空の散歩道」

    静岡県立森林公園は、浜名湖の北・天竜川の右岸・新東名高速道路沿いにある。浜北インターチェンジからが近い。この辺りはいくつかのゴルフコースがあるように、自然豊かな森林地帯である。公園内には天然のアカマツの美林がある。 植物は1000種類以上、野鳥も約80種類、数多くの昆虫も生息して、四季の変化を楽しませてくれる。散策・アスレチック・デイキャンプなどもできる。木工体験館には、「日曜大工」や「DIY」な...

  • 員弁・美鹿の神明杉

    名古屋の冬は寒い。夏も暑くて、あまり恵まれた気候とは言えない。京都も同じようなことが言われるが、こちらは「盆地」がその理由である。名古屋が冬寒いのは「伊吹おろし」の風が冷たいからである。若狭湾・琵琶湖・関ヶ原の窪みが、日本海気候を濃尾平野にもたらすからである。 三重県の桑名・四日市・津へは「鈴鹿おろし」が吹き下ろす。同じように寒い冬を迎える。伊勢湾は内海なので、太平洋の「黒潮」の暖気を受けること...

  • 智積養水と蟹池

    三重県四日市市智積町あたりは、昔から農業用の水不足が深刻な土地柄でした。「智積養水(ちしゃくようすい)」が造られた時期は明らかではありませんが、正徳元年(1711)の書物にその存在が記されています。川の下を潜る三十三間の暗渠の筒を、官費で伏せ替えたという記事です。 昭和30年代までは水車がいくつかあり、精米などにも使われていました。洗い物などの生活用水や、防火用水としても使用されました。人々の生...

  • 津の「江戸橋」と四日市の「笹川パークブリッジ」

    三重大学の学生が名古屋から通学しようとすると、普通は近鉄を利用することとなる。津駅のひとつ手前の「江戸橋駅」は、特急は止まらないが急行は停車する。名古屋から1時間ほどなので、津に下宿せずに名古屋から通う学生も多い。 江戸橋駅からは、志登茂川を跨ぐ「江戸橋」を渡って国道23号・通称伊勢街道に出る。大学のキャンパスは道路の反対側なので、交通量の多い国道を横断しなければならない。「江戸橋横断歩道橋」が...

  • 桑名宿と矢田立場

    東海道五十三次は,宮の宿(熱田)から桑名の宿までは唯一の海路である。「七里の渡し」という。どちらの湊にも鳥居が立っていた。宮には現在はないが、歌川広重の浮世絵を見ると描かれている。桑名は伊勢神宮参りの一の鳥居であり、宮は熱田神宮への一の鳥居であった。 桑名の宿は、桑名城(現在は九華公園)に接して置かれていた。渡し舟は天候に左右されるので、出航待ちのために、やむなく宿泊する人も多かった。江戸時代の...

  • 桑名城と北大手橋

    尾張、伊勢との国境にある美濃「高須藩」は、尾張二代藩主・徳川光友の次男が藩主となって以来、代々尾張家の支藩であった。尾張宗家の嗣子が絶えた時には、尾張家の当主を送り出す。幕末のころには、次男慶勝は尾張、七男容保は会津、九男の定敬(さだあき)は桑名の藩主であった。 激動の時代に松平容保は京都守護職、定敬は京都所司代を務めて幕府を守ろうとした。畿内における最大の戦力であったが、鳥羽伏見の戦いを経て会...

  • 名古屋テレビ塔

    名古屋テレビ塔は、昨年12月に国の重要文化財に指定され、昨日、文化庁の指定書が交付されました。地上180m、真ん中の90mの所に展望台(スカイデッキ)があります。完成は昭和29年(1954)、戦災復興のシンボルとして建設されたものです。 通常、60m以上の建造物は赤白に塗装することが航空法(昭和35年)により義務付けられていますが、このテレビ塔は法制定以前のものなので銀色に塗られています。平成23年にアナログ放送が...

  • 「香嵐橋」と「飯盛山・香積寺」

    香嵐渓を訪れる人は多いけれど、飯盛山(いいもりやま)北斜面のカタクリや待月橋周辺の紅葉を観ることで満足してしまい、奥の方まで行かない人もいるようです。もう少し上流へ進めば、茅葺きの「三州足助屋敷」や赤い吊り橋「香嵐橋」などがあり、山の中腹には「香積寺」もあります。 「香嵐橋」は長さ43m、幅1.8mの吊り橋です。如何にも山奥へ来たような気分に浸ることができます。このあたりまで来ると、紅葉やカタク...

  • 香嵐渓「巴橋」と「待月橋」

    前回の三河湖のマップで、巴川は足助の地点で鋭角に向きを変えることが分かった。北向きから南へ曲がるところが香嵐渓である。この地方最大の紅葉の名所である。川の美しさも含めて、京都の嵐山・渡月橋に匹敵するのではと思う。 国道153号・飯田街道は、かつて足助の市街地を通っていたが、現在は二つのトンネルをもつバイパスができたために、ずいぶんスムーズに通過できるようになった。しかし、春のカタクリと秋の紅葉の...

  • ◆清洲城◆

    桶狭間の戦いの前夜、・・・♪♪人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり♪♪・・・ 信長は「敦盛」を舞って清州城を出陣したという。(現在の清洲城には、桶狭間方面を睨む信長の銅像が立っている) 清須市の五条川の畔には、平成元年に再建された立派な天守閣が建っている。しかし「桶狭間」の当時は(1560年)このような天守閣はなかったものと思われる(館や防御の堀などだったか?)。 名古屋城の北西角に「清洲櫓...

  • 三河湖(羽布ダム)と香恋橋

    豊田・松平の東、三河山地の中央部に羽布ダム・三河湖はある。矢作川の支流・巴川を堰き止めたダムで、高さ約63m、堤頂の長さは約400mである。湖の面積は107ha、51km2の流域から2000万㎥の水を貯め込む。昭和37年に完成した。 矢作川は水量豊かな川で、古くから人々に多大な恩恵を与えている。明治になると、明治用水や枝下用水が開かれ、発電所も次々に開発された。そうした中、昭和19年・20年の大干ば...

  • 桶狭間古戦場公園

    もう40年も前のことで、覚えている人も少ないと思うので記録に留めたい。「桶狭間古戦場跡」は豊明市にもあるが、名古屋市にもあって競合している。名古屋市では、大高緑地の東側に「桶狭間古戦場公園」という区画整理で整備した小さな公園になっている。 このスケッチは、公園整備前の現地の状況を思い出して描いた。谷間の窪地に「祠」があり、「湧水(泉)」と「杜松(としょう)の枯れ木」があった。絵に描くのを忘れたが、...

  • 新東名高速「豊田アローズブリッジ」

    ブログの取材などのために高速道路を走るとき、よくこの橋を渡る。名港のトリトン(2017・3・12)も巨大でシンボリックだが、この橋はさらにビッグなイメージである。停車するわけにはいかないので、フロントガラス越しに何回か写真を撮った。一度、地上から眺めてみたいと思っていた。 下から見るとそのボリュームにびっくりする。特に橋脚の基部というか橋台というか、コンクリートの固まりはもの凄い。幅は50mを越...

  • 豊田大橋と久澄橋

    昨年はサッカーのワールドカップで盛り上がったが、4年前(2019)にはラグビーワールドカップが国中を熱狂させた。豊田市でも予選の4試合が開催され、海外からの応援団を含めてたくさんの観客が詰めかけた。観客の多くは、豊田市駅を降りて「豊田大橋」を渡ってスタジアムへ向かう。 その様子は、2019年10月に4回に亘ってご報告した。「豊田大橋」は、バスケットハンドル型ニールセンローゼ橋という形式で、長さは...

  • ◆◆桶狭間古戦場◆◆

    ◆◆NHK大河ドラマが始まりました。今年は「どうする家康」です。このブログは「中部の・・・」ですから、家康や徳川に係わる「土木文化」も数多くご紹介してきました。これから時々思い起こしながら再掲していきたいと思います。◆◆ 「桶狭間の戦い」は、信長の天下取りの端緒ともなった戦いであるとともに、家康のデビュー戦でもある。戦国の歴史の中でも最も重要なエポックだと思う。信長が鉄砲を導入した「長篠の合戦」や、家康...

  • 町並みに残る「小物たち」

    美濃の町並みの主役は「うだつ」であるが、脇役の「小物」にも面白いものがある。「すぎ玉」は、酒屋のシンボルである。その年の新しいお酒が出来上がると、まだ緑色の「すぎ玉」を軒に吊るす。それが合図となって、新酒を求めて人々が買いに来るという。 「矢来」というのは、竹などを編んで作った仮の囲いである。「やらい」は、追いやること。「犬矢来」は、軒下の空間に犬などが居つかないように防御したものであろう。腰板...

  • うだつの上がる町 美濃

    「うだつ」とは延焼防止のための防火壁のことだが、「うだつが上がらない」という慣用句としても知られている。宿場町などの大きな商家などに目立つので、このブログでも何回か取り上げてきた。有松宿(2015・5・21)、中津川宿(2016・12・31)、太田宿(2017・1・23)、鵜沼宿(2021・12・3)を参照願いたい。 美濃の宿場町は「うだつの上がる町並み」を標榜している。小倉山城の麓に二筋の古い...

  • 中電井ノ面水力発電所と願念寺

    こんな小さな発電所を大切に使っているなぁと感心するとともに、最近見直されている「小水力発電所」の「先見」とも言えるかもしれないとも思う。美濃橋近くの「井ノ面水力発電所」、県道脇の法面に張り付くように設置されている・ 運転開始は大正3年(1914)、板取川電気(株)が開発した。上流の長良川発電所の電気が全て名古屋へ送られてしまうので、地元の文化発展のために開始したという。現在も現役で、中部電力が運...

  • 長良川発電所

    明治43年(1910)という年号は、鶴舞公園が開園して「第10回関西府県連合共進会」が開催された年として私の頭に入っている。「長良川発電所」は同年3月15日に運転を開始したという。共進会が翌日の3月16日から6月13日までの会期であることと符合する。 共進会というビッグイベントでは、そのために鶴舞公園まで市電が引かれたというし、会場は不夜城のごとくイルミネーションで飾られたという。これに合わせて...

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