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2011/12/20

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  • 大楽毛 (根室本線) 2018

    以前、八雲(函館本線)1972 に書いた覚えがあるが、めぼしい俯瞰画角がとれない地点にあっては、道路との立体交差、跨線橋は鉄道屋には貴重なポジションに違いない。大楽毛周辺では、国道38号線の大楽毛跨線橋がそれにあたり、位置的に空港に近いこともあって道内到着時や帰途前に連絡バスを大楽毛駅前で乗り降りして撮っている。この跨線橋の供用も、全国で土道砂利道ばかりだった一級国道の抜本的改良が進められた1960年代のこと...

  • 斜内 (興浜北線) 1977

    興浜北線が歴史の彼方に果てて40年近い歳月になる。1980年前後の数年間のこと、冬旅に斜内山道を必ず組み入れていたけれど、毎年に吹雪かれるばかりで定番と思える目梨泊方からの神威岬背景のカットなど手にしていない。どれも猛吹雪前提の岬直下での撮影ばかりである。この頃には夜行急行を宿代わりとした周遊行動が撮影行のスタイルであり、同一地に数日留まっての天候待ちなど考えもせず、連日夜行で移動していた。反面、再訪や...

  • 音別 (根室本線) 1986

    音別(根室本線)2018から続くかくして 「地方分権推進」の実体は、見事に「基礎自治体の合併」へとすり替えられ、2010年度まで続いた「平成の大合併」の時代の幕が開いたのだった。これは、民主主義、デモクラシーの実践にとって正反対の愚策であった。それに相応しいのは基礎自治体の細分化である。原理である「直接民主制」に鑑みれば自明であろう。単純に考えても市町村の規模が大きくなれば、住民の直接請求やリコールなどの成...

  • 音別 (根室本線) 2018

    1975年だったと記憶するが、音別には帯広に降りるはずの夜行423列車での寝過ごしの偶然で降り立って以来、それこそ幾度も訪れている。特に、道内夜行の廃止で夜間移動が困難となり、地域を絞っての撮影スタイルへの転換を強いられてからのこの方の道内行きでは、半ば慣例化している。つまりは、ここの半世紀余りを訪問者として眺め続けたことになるけれど、近年の、そう2000年代後半あたりからだろうか、駅前周辺の寂れ方はあまり...

  • 銭函 (函館本線) 1977

    随分と古くからと思うが、銭函駅の改札口ホーム側上部には、わざわざ「銭凾」と大書きされた如何にもそれらしき大箱の飾り物が吊り下げられていた。何代目の作り物かは知らぬが、今では下ろされてホーム上への展示となっているらしい。一時期、入場券が縁起物と持て囃されもしたのだが、近頃にはすっかり沙汰止みと見える。道内で最も古くに開業した停車場の一つであり、駅名は所在地名からの採取に違いないが、その起源は先住民の...

  • 稲士別 (根室本線) 2010

    道内幹線系線区であまり撮っていないのは根室本線の釧路までの区間だった。共に長大隧道を含む狩勝新線と金山ダム建設に伴う付替線の開業により富良野-池田間が1966年に、その先釧路までも69年早々には無煙化がなされ、蒸機撮影の頃に足が向かなかったのが尾を引いたものか、先の新線区間と音別周辺の他は訪れていないのだった。この線区へ通うのは近年のことで、道内夜行の全廃と、続いた均一周遊券の廃止で周遊型の撮影行が困難...

  • 新狩勝信号場-広内信号場 (根室本線) 1979

    オダッシュ山の山麓緩斜面に敷設された狩勝新線の開業時、滝川起点126K960Mに置かれた信号場には「広内」の名称が付された。落合-昭栄(信)間にCTCが施行される71年3月31日までは運転要員が配置され、無人の上落合・新狩勝・西新得の各信号場を被制御駅に進路・信号のリモートコントロール制御を行う、当時に最新の技術による狩勝新線運転の核心停車場であった。この際の「広内」とは、所在位置の地名であり、西新得方に開削の隧道...

  • 塘路 (釧網本線) 1977

    幾度もの道内通いは、勿論冬場も欠かさなかった。好んで出掛けたとしても良い。風雪や冬枯れの光景に低い斜光線の陰影もあるけれど、貧乏性の鉄道屋はポジションの選択肢が広がる撮影の実用性も感じていたからに他ならない。夏場には登れない熊笹の斜面でも、深雪を厭わなければ這い上がれたし、凍結した湖面にも河畔にも立てるのだった。表土も凍結するから湿地、湿原へも踏み込めた。雪の深い稚内サラキトマナイ原野、エノシコマ...

  • 新得 (根室本線) 2012

    単独行の山屋でもあったので、標高の低い樹林帯の通過や藪漕ぎ、その上のハイマツ帯に至ってもヒグマには用心していた。大きな足跡や糞に爪痕の樹木、熊道と思われる痕跡も見つけてはいたけれど、幸いに、遠い斜面にその姿を認めても遭遇はしていない。そう教えられたセオリーどおりに、こちらの存在さえ教えてやれば、彼らの方から避けていたように思う。最も近接したのは、それほどの深山に分入るでは無いと高を括っていた函館線...

  • 北浜 (釧網本線) 1976

    海辺の町や海浜に接した村落は、海岸線延長のある列島の国土では珍しくも無く、そこには鉄道線路が貫通して停車場が開かれているのも、不採算路線の淘汰の始まる1980年代までなら当たり前の景観だった。写真屋は、特に鉄道の写真屋なら本能でそれらコンポーネントを括るべく、俯瞰する後背の丘や海上の岬なり、せめて防波堤を探すのだが、そう都合の良い立ち位置の付帯する撮影地点は限られた。俯瞰が時折陥る説明過多を回避する水...

  • 金華 (石北本線) 1984

    上興部(名寄本線)1967 から続く親父が発売されたばかりのNikonF2を新調して、Fボディが本格的にお下がりとなると、Nikomatとの2台体制のカメラには、三脚も2本を持ち歩いたものだった。前回に書いた件の怪しい三脚は旅先で見事に分解する最後を遂げていたこともあり、今度こそはとスリック社の小型の部類を2本仕入れていたのだった(残念ながら型番は忘却した)。先輩諸兄の2台取回しにプレートの存在も承知していたが、皆がそれを雲...

  • 大沼 (函館本線) 2008

    街を歩けば至る所で眼にする「セブンイレブン」は、1927年にテキサス州オークリフに設立の機械製氷業「サウスランドアイス社」の小売部門店舗に発している。この当時、夏季の食品保存にかかわる生活水準の最先端に木製の保冷庫があり、それに用いる氷の需要の高まりを商機に設立されたものと思われる。夏季には休店なく一日16時間を営業した店舗が、やがては氷ばかりでなく、日配品を品揃えするようになったのが、今に言うコンビニ...

  • 上目名 (函館本線) 1977

    上目名駅は、寿都郡黒松内町と磯谷郡蘭越町を隔てる山中の小停車場には違いなかったけれど、決して山深い異境の地に所在したでは無い。共に日本海へと注ぐ朱太川水系と尻別川水系の分水界を成す山地とは言え、古からの交通路が超えていたであろう鞍部の地形は緩やかで、それをトレースした現在の国道5号線の目名峠の標高は214m、鉄道のサミットに位置した上目名駅の施工基面高に至っては186M00であり、熱郛駅や目名駅との比高なら...

  • 富良野 (根室本線) 1975

    富良野には1962年の冬に降りていた。親父のスキー旅行に帯同してのことだが、排気を猛然と噴き上げて札幌を出て往く姿を眺めるばかりだった、当時に新鋭のキハ56/27急行に乗れたのが余程に嬉しかったものか、そればかりで駅本屋や乗降場などに明確な記憶は無い。降り立った乗降場で乗って来た<狩勝>の発車を見送ったから、視線の奥にはD50の屯する機関区も見えたはずなのに、親父に急かされて跨線橋を駆け上ったのか覚えてい...

  • 白糠 (根室本線) 2015

    ミートソースとナポリタンがスパゲッティだった。希少な料理かと言えば然に非らず、喫茶店や洋食屋の、デパートの大食堂の定番メニューであり、当然に家庭でも食されて即席製品も売られていた。マ・マーマカロニ社(当時に日本マカロニ)が1960年には発売したと聞く「ゆでスパゲッティミートソース」である。所謂乾麺では無く、茹で上げられた状態で袋詰めされ、それを袋ごと湯煎すれば良いのだった(残念ながら電子レンジの普及は197...

  • 七飯 (函館本線) 2008

    七飯村との表記は1879年の飯田村との合併に際して改めたもので、それまでは七重村と称した。函館湾岸には七重浜の地名があり、七重(七飯)の沿岸部ゆえの呼称と単純に思っていたのだが、どうもそうではないらしい。七飯村から七飯町は大野平野が尽きる内陸の地域であり、その区域が湾岸まで及んだことは無い。先住民の地名に由来するだろうが、生活や行動に重要な地点に名称を付した彼らが、確かに内陸から湾岸に及ぶまでの広域地名...

  • 上興部 (名寄本線) 1967

    初めのうちは、謂わずと知れた「銀バコ」である。いやいや、それには前史がある。親父から初めて与えられたカメラ、リコーのオートハーフは付属のケースに収め、ご多分に漏れず首からぶら下げていた。家からさほどに遠くない手稲や、自転車で札幌市街地を横断して苗穂界隈の線路端に立っていた姿は、これであった。首下げは、NikomatFTに50ミリf2(当時には「5センチ」と言っていた)と135ミリf3.5(これも「13.5センチ」)の交換レン...

  • 沼ノ端 (千歳線) 2015

    沼ノ端は和名には違いない。それでも、先住民族によるトゥンケスto-um-kes(=沼・尻・末端)の地名が在って、その意訳かと思っていたのだが、どうもそうでは無いらしい。研究者(探求者と云うべきか)によれば、この場合の「沼」であるウトナイ湖は、古い地形図にはキムンケトゥkim-un-ke-toと記されていると云う。古には沼の水面は南側にも広がっており(弁天沼がその名残か)、先住民はピシュウンケトゥ pis-un-ke-toと呼んだとされる...

  • 礼文 (室蘭本線) 1999

    北海道庁が1925年に発行した『北海道道路誌』が、いつの間にか国会図書館デジタルライブラリーに公開されていた。これと、1990年に全3巻で刊行の『北海道道路史』の通読に久々の国会図書館通いをしたのは、つい数年前のことだった。調べ物の意識は無く「読書」のつもりだったから、気楽に読めた。それでも書き取りメモは5センチ位の厚みにはなったものの、新たな疑問も生じてしまった。大抵の場合、道路は広義の交通路の意味におい...

  • 張碓-銭函 (函館本線) 1981

    その昔、同業の写真屋連中と出入りしていた日本橋浜町の鮨屋の大将からは、「シャコは逃げ物」と聞いていたものだが、いつの間にか高級食材と化したとは知らずにいた。2000年前後あたりから、国内での産地すべてで水揚げが激減した結果と言う。その間も、鮨屋に出向けば、むき身の刺身か茹で上げをわさび醤油で一杯呑んでいたものの、そこでの常で単品の値段など聞きもしなかったのだ。そういわれてみれば、ボイルの冷凍ものの解凍...

  • 広内信号場 (根室本線) 1978

    狩勝越え区間での撮影には、沢山の悔悟を残した。最大の悔いは旧線を撮らなかったことだが、まぁ、それはさておく。 新狩勝トンネルを抜けてオダッシュ山の山麓緩斜面を下る線路が、広内信号場の先で約2キロ続くR=500曲線で180度旋回する区間。南側の丘陵地や南山と通称された545.5メートルピークの山麓に幾本も通じていた林道を辿れば、新たな被写界にも出会えただろうが、全てを果たさぬうちに曲線内側に防風柵が設置され、数年...

  • 新大滝 (胆振線) 1969

    胆振線には、この69年と翌年の積雪期に入っただけで終わっている。まだまだ初心者もよいところの時代で、札幌から日帰りの「遠出」には、室蘭操車場を朝に出る下りと、午後から夜間に上って往く、1日の一往復だけの蒸機(=貨物列車)には撮影効率が悪く、函館山線をメインに、それと組み合わせて撮っていたものだった。手元に残るカットも、下りと上りでは撮影日が異なっていて、時刻表とダイヤを相手に頭を捻った末のことだったろう...

  • 音別 (根室本線) 2020

    音別町中音別地内に「チノミ台」と呼ばれる一帯がある。然程遠くない白糠町の庶路川流域には「チノミ」なる地名が残り、日高の浦河町にも所在して、探せば他にも見つかるだろう。勿論、先住民族に由来し、「乳呑」や「茅実」と当て字されたが、乳児や茅草には無関係で、ci(我ら)-nomi(祈る、祭る)であり、「物送り場」、即ち祭場のことである。『北海道蝦夷地名解』で著者永田方正は「チノミ 祭場 熊ヲ供ヘ神ヲ祭ル處」と記して...

  • 七飯 (函館本線) 1970

    どこだったか「楽しいダイヤ改正は”よんさんとう”が最後だった」旨の記述を読んだことがあるが、全く同感である。おそらくは戦後のダイヤ改正から承知の年長趣味者の発言と記憶するけれど、時刻表を愛読書としたのが、「白紙ダイヤ改正」なる言葉が初めて使われた1961年10月改正号からだった我が身ですら、そう思う。戦時下での施設・設備の荒廃を何とか凌いでいた国鉄が、復興から成長を標榜する政府による1955年1月の「総合経済6...

  • 芽室 (根室本線) 1976

    近年の、北海道の東の方からこっそりと出入りする旅では、毎回必ず芽室に下りている。駅から少しばかり距離のあるのが難点だけれど、まるでアパートのような外観のビジネスホテルが営業しているし、そこを拠点にしておけば、件の道道715号線芽室跨線橋で早朝に剣山を背景に下り貨物を押さえた上で、新得方面にも池田方面にも移動に利便がある。勿論、周遊券の時代と相も変わらずの鉄道利用に徒歩の鉄道屋である。かつてには、狩勝...

  • 斜里 (釧網本線) 1973

    アジア・太平洋戦争の敗戦による終結では大量の敗残の復員兵を生じた。政府は、この余剰労働力の受け皿を国家の所管事業に求め、中でも国有鉄道は1945年度に9万9千人、46年度にも6万5千人を受け入れ、その職員数は47年度において61万人を超えるところまで達していた。戦後の急激な輸送需要の増大に対する、疲弊した輸送設備の復旧や強化と並行した使命遂行は、この労働力に支えられたには違いなかろうが、戦前勢力が温存された時の...

  • 西新得信号場 (根室本線) 2015

    狩勝新線は、最小曲線半径500m、最急勾配12パーミル、50KgNの軌条に250mmの道床厚、橋梁負担力KS-18、停車場有効長500mの規格で建設された。『国有鉄道建設規程』なら特別甲線クラスだが、国鉄部内の『線路管理規程』に当てはめると2級線(甲線)と3級線(乙線)での数値が入り混じって、建設計画では乙線に区分されていた。将来に貨物列車の1000t牽引を想定していたから、最急勾配は10パーミルを目標としたのだろうが、やむなくの12パ...

  • 大岸 (室蘭本線) 1995

    礼文駅前から道道608号大岸礼文停車場線を辿ると、やがて左手に室蘭本線が近接し礼文浜トンネルの入り口坑口を認める。そしてそこには柵にて囲われた敷地に「トンネルの安全を誓う碑」と刻まれた石碑が鎮座している。この隧道内で1999年11月28日に生じた覆工剥離落下事故を契機に、毎年の同日を「トンネル安全の日」と定めた北海道旅客鉄道が翌2000年5月2日に建立したものである。ここの事故について諸兄はご記憶とは思うが、坑口...

  • 上目名 (函館本線) 1978

    列車の運行されるところ遍く置かれたのが、保線現業の最小作業単位である「線路班」だけれど、いったい道内には何箇所が存在していたものか判らない。それが線路丁場と呼ばれた時代からの時系列での変遷記録は勿論のこと、ある時点での一断面のデータも残されていない。年報など統計資料には保線事務所や保線区は表れても、線路班までは計上されていないのである。一つの線路班の平均担当キロは、側線を含む換算軌道キロで7キロか...

  • 奥白滝 (石北本線) 1977

    塩狩 (宗谷本線) 1986 から続く戦後の混乱を脱した国鉄は、1965年度末時点で17208ヘクタールの鉄道林を有して、間伐や除伐の機能維持管理が結果として木材生産につながり、それが森林維持を担保する1890年代に計画した意図通りの、即ち法正林の原則に忠実な好循環に造林費や管理経費を上回る生産収入を得ていた。財閥系の製紙会社などには及ばないが、実質に広大な山林地主だったのである。奇しくも、これは戦後の在来線全盛期に...

  • 上野幌 (千歳線) 1996

    写真屋としての駆け出しの頃が、Ektachromeの時代の始まりに重なる。1960年とされる「電子制版機」の実用化に、70年代を通じてその導入が進み、主流をなすに至ったオフセット印刷と相まって出版物や広告物などへのカラー印刷が急速に普及した時代である。当時にほぼ唯一だったKodachromeのトランスペアレンシーに指定されていた写真入稿も、80年代を迎える頃にはエクタクロームに取って代わられて往く。もちろんコダクロームも改良...

  • 塩狩 (宗谷本線) 1986

    十勝清水 (根室本線) 2014から続く吹雪への防備として造林の始まった鉄道林も、1925年には現業機関ばかりでなく鉄道省本省にも専従者の配置を得て、雪崩や落石、土砂崩壊、飛砂堆積の防止、加えては蒸機への給水源確保の水源涵養林にも応用されるに至り、造林地も平野部に止まらず山間部急斜面や海岸線へと拡大した。初期植林地の成長に、育成に不可欠の施業たる間伐や除伐により木材が得られるところとなり、保線区などにおいて柵...

  • 十勝清水 (根室本線) 2014

    国内における鉄道林は、1893年の日本鉄道による水沢-青森間に41箇所52haを設置の吹雪防止林を嚆矢としている。地吹雪による線路埋設防止に著しい効果を得た、この画期的鉄道施設は以後急速に普及し、日本鉄道会社は1903年に社内へ林業技術者を配置し、1905年には滝沢付近に苗木を育成する苗圃も開くに至った。1897年の『森林法』(1897年4月12日法律第46号)成立を受けてのこともあろうが、鉄道院が1909年に策定する「防雪林計画案」...

  • 北広島 (千歳線) 1994

    1960年代、70年代の鉄道年表の類を眺めると、線路増設、即ち複線化や複々線化の記述が並ぶ。旺盛な需要を背景にした、1961年度からの第二次5か年計画、それを64年度で打ち切っての65年度を初年度とした第三次長期計画にて輸送力の増強や改良工事が進められた成果であり、行間から鉄道の時代の躍動感が伝わる。そこに採取された日付は、国鉄当局が当該区間複線の「使用開始日」としたものに違いないが、趣味的には些か注意を要する...

  • 富浦 (室蘭本線) 2006

    登別市富浦の蘭法華岬を背にした浜が、『漁港漁場整備法』(1950年法律137号)第5条の規定に基づく、第一種漁港の鷲別漁港富浦分区の船揚場である。この「分区」と別に事例のある「分港」との定義が今一つ分からないのだが、「分区」である以上本区である鷲別漁港と一体で扱われるのであろう。おそらく戦前からと思われる簡易な防波堤を以て漁港とし、物揚場や泊地を持たない原初形態を現在に至るまで維持するここは、その存在を意識...

  • 大岸 (室蘭本線) 1992

    静狩での金鉱の発見には1890年代末から1900年代末までの諸説があり定かでない。いずれにせよ、これを切掛けに噴火湾最奥の長万部村静狩から辨邊村にかけての地域の20世紀初頭はゴールドラッシュに沸いた。内陸の黒松内村にもまたがる山地には、わずかな隙も無い程に試掘権出願が輻輳したと云う。1910年頃のこと、小鉾岸川の谷においても近在の住民らがペタヌ山の山麓に試掘権を得て数次に渡って探鉱を行っている。しかしながら、思...

  • 尺別 (根室本線) 2019

    音別 (根室本線) 1993 から続く釧路港からの内航海運に依っていた「オロナミンCドリンク」の東日本地域向け製品出荷の内、主に東北一円での需給分の輸送が、ヤード継送を全廃しての直行輸送への一本化と云う、貨物輸送の一大転換点だった84年2月改正において、音別に専用の扱い施設を整えてまでコンテナ輸送に切り替えられた事情は調べ得なかった。その後の同駅の命運を決したとして過言で無い「大事件」にも関わらず、果たして工...

  • 音別 (根室本線) 1993

    音別駅は、2021年3月13日を以て要員無配置となった。36年を遅れて、である。この停車場は、白糠郡音別町の代表駅として、また1981年の釧鉄局データでも1日あたり平均297人の乗車人数を確保(乗降数とすれば600人弱である)していたから、1970年8月の昭栄信号場以東区間のCTC制御導入も伴った「営業近代化」の波は辛うじて凌いだけれど、以降国有鉄道末期にかけての時の政権に追い詰められた末の財政再建の嵐には、営業フロントの業務...

  • 千松仮乗降場 (羽幌線) 1983

    小沢 (函館本線) 1978から続く郵便輸送の鉄道からの撤退は、前回に述べた国鉄の輸送合理化策もあったけれど、『郵便物運送委託法』には第15条に輸送義務に対する対価(条文では補償金と規定)が定められ、それは郵政省と運輸省の協議によるとの規定ながら、算定には原価主義が採られていたから、鉄道側の輸送コストの上昇は、そのまま郵便側の負担増に直結していたこともある。国鉄がそれまで各規定に散在していた郵便輸送関係の規定...

  • 小沢 (函館本線) 1978

    鉄道による郵便輸送、所謂鉄道郵便の終焉は、国鉄の解体に半年を先んじた1986年9月30日限りのことであった。その核心たる「取扱便」は、さらに遡った84年2月1日を以て廃止されていたから、郵便車内で区分けに忙しく立ち振る舞う鉄道郵便乗務員(部内用語で係員[けいいん]と呼ばれた)の姿や、主要駅で郵便マークのターレットに赤い台車を引き回した郵袋の積卸作業、ルーラル地域の小駅ならホームに出張って来た地元の郵便局員と郵袋...

  • 室蘭 (室蘭本線) 1971

    機関区などの運転施設は、駅用地内に設けられるのなら乗降場を挟んで本屋の反対側の事例が大半であった。乗降場は本線が通過するのだから当然ではある。そこを訪ねるなら、所謂駅裏に回ることになっていた。そうではない事例も勿論在って、室蘭機関区が該当した。海側の広大な構内は石炭の積出施設と貨車躁配設備に充てられて、本線の本屋側とされたものだろう。煤煙や騒音施設であり、流石に本屋隣接とは往かぬから、一面だけだっ...

  • 白糠 (根室本線) 2018

    白糠町には、市街地から遠くない茶路川の左岸にキラコタンの字名がある。勿論、先住民による地名に由来して、kira・kotan は、「逃げる・村」の意となる。逃げたのは津波からである。北海道東部太平洋岸は、先史時代から度々に津波に襲われて来たことが知られている。近年の地質調査・分析によれば、春採湖の湖底堆積物から9500年を遡って22層の津波によると推定される堆積層が認められ、いずれも海溝型の巨大地震の痕跡と考えられ...

  • 豊浦 (室蘭本線) 2002

    ずいぶんと前のこと、投稿日付を見ると10年前である。[豊浦 (室蘭本線) 1990]の記事に、こう書いている。「いや、実際に、南の噴火湾に向かって開け、後背地の山林へと緩やかに傾斜する市街地は、大きくもなく寒村でもなく、サンルームのあるこじんまりした一軒家で、隠れ住みたくなる魅力がある。噴火湾からの漁獲があれば、バックヤードでの野菜や酪農に畜産物もある。ノルマンディならフランス料理屋のひとつやふたつあってもお...

  • 長万部 (室蘭本線) 1992

    長万部を出発した室蘭本線の下り列車は、起点の1キロほどの先で長万部川橋梁を渡る。けれど、下の流れは今や南部陣屋川とされている。長万部川の1992年度に通水した新水路切替に伴うもので、残された旧河道には新たにこの名が与えられたのだった。新水路は、河道勾配がほとんど無くなる下流部で繰り返される洪水被害への抜本的対策として、北海道により1960年代から構想が持たれ、70年代での計画と具体的設計を経て1981年に着工し...

  • 堀川町 (函館市交通局軌道線・湯の川線) 1977

    どこの地方都市でも、かつての中心市街地の衰退が著しい。函館市も例外では無い。都市の「ドーナツ化」と呼ばれるが、函館山を頂点とした砂州地形に発達した函館の市街地においては、それは北東方向へ移動し続ける人口重心に現れる。1960年に堀川町にあったそれは、1980年には五稜郭に近づいて2000年までその周辺に留まったものの、2005年には本通4丁目へ一気に移動している(注記)。直線距離で函館駅から5キロ余り、もはや五稜郭...

  • 本輪西 (室蘭本線) 2008

    建設時の長輪西線は、1922年に着工して輪西村の地名由来である、ワネウシ wa-ne-usi (輪のようにあるところ) もしくはマネウシ ma-ne-usi (澗のようにあるところ)の大きく陥入した入江地形を築堤して通過し、その先のポンナイの汀線に接して本輪西停車場を置いた。1925年の開業当時と思われる写真には、築堤上の線路と、築堤下の本屋と思しき建物が見て取れる。時を同じくして、その入江と前海を埋立てて埠頭を建設する、中村卯太...

  • 勇払 (日高本線) 1988

    日高本線の苫小牧から勇払の区間は、日本初の掘込式港湾となった苫小牧港西港区の開削に伴って、1962年12月2日に海岸沿いの経路から現行に付け替えられている。あまり知られていないが、これを更に経路変更する計画が存在していた。国鉄北海道総局が策定した「日高本線苫小牧浜田浦間線路変更」計画である。1969年の「新全国総合開発計画」に端を発する「苫小牧東部大規模工業基地開発」は、1970年7月に閣議決定(佐藤栄作内閣)の「...

  • 厚岸 (根室本線) 1972

    厚岸には、1917年12月1日の釧路-浜厚岸間開業による開駅と同時に浜釧路機関庫の機関車駐泊所が置かれた。資料は見つからぬが、当時の字真滝町の段丘下に広く取られた停車場用地には、そればかりでなく釧路保線事務所ほかの現場機関も配置されたものと思う。翌々1919年に延伸開業の厚床ともどもの設備は、釧路から根室への130キロ余りを丁度三等分する位置であり、当時の機関車の運転性能からも、釧路線延伸工事における暫定終端位...

  • 五稜郭 (函館本線) 1981

    「詐欺駅」との括られ方は、1993年のこと、山陰本線神西駅の出雲大社口への変更が、観光客の苦情を切掛けに中国四国管区行政監察局の介入を招いた事象からの、鉄道趣味者の面白半分が始まりと思う。おのおのがネット上に公開した詐欺駅リストを罪状と共に眺めれば、なるほど罪人揃いではある。中でも1世紀を超えて詐欺を働き続ける五稜郭駅など、その筆頭として良いだろう。駅名にとどまらず、鉄道工場や操車場に機関区、かつての...

  • 植苗 (千歳線) 1988

    1969年9月25日に使用が開始された植苗から沼ノ端への増設線は、ウトナイ湖や遠く樽前山を背景に、或いは遥か彼方に苫小牧の工業地帯を遠望する築堤区間を撮影のポイントとして多くの写真屋を集めていた。どこまでも平坦な湿性草原に煙をなびかせ築堤を往くスケール感のある景観は、他では得られないロケーションだったし、足場にしていた既設線(苗穂起点での下り線)築堤は室蘭本線の複線をオーバークロスして、沼ノ端から直線を飛...

  • 落合 (根室本線) 1979

        通称の狩勝新線は、建設線名狩勝線(新得-占冠間)の一部として、既設落合停車場と連絡する落合線と合わせて建設された。ルウオマンソラプチ川の谷を遡る落合線に対して、それを下る線形の狩勝線の合流は新狩勝トンネル坑内となって、落合側坑口(=入口)から457M64の地点を停車場中心に上落合信号場がおかれた。これにて、同隧道は落合方と占冠方に二つの坑口を有し、その合流位置からの約740メートルを複線断面とし...

  • 中ノ沢 (函館本線) 2009

    最近には、ダルマに足が付いていた頃を知らぬ者が増えたものか、鉄道趣味の裾野の広がりが行き過ぎたのか、貨車転用の列車待合所を愛でる趣味は、古い鉄道屋にはどうにも理解し難い。鉄道趣味の裾野と云うよりは、旅行趣味と結びついた「平成」時代以来の「昭和」ノスタルジーの流れを汲む懐古趣味の範疇とも見えてしまうのは、二軸車を連ねた貨物列車本来の姿を見ていない世代が担い手の主体ゆえ無理からぬことかも知れない。当然...

  • 銀山 (函館本線) 1982

    イナウ[inawもしくはinau]は、先住民アイヌ民族の祭具の一つであり、神への供物に違いは無いにせよ、その祭礼や儀式ばかりとは限らぬ神への祈りや感謝により実に多様な種類や作法があり、用いる樹種やプリプロダクションも異なれば、木肌を削り削片を房状に残す工程は同様ながらフサの形に大きさなどの様態も様々である。これには、さらに地域差や家系による差異も加わるものと思う。展示物ではあるけれど、幾度か実見させてもらっ...

  • 新富士 (根室本線) 2014

    通過する車窓に、乗降場のある本線から幾つもの側線の向こうの木造の駅舎を認めてはいたけれど、ここは然して意識した停車場では無かった。ホームに立てば汀線を見る駅と5万図には承知していても、そこの海面埋立工事は1969年に着工されていて、下り夜行の客となった頃、海側車窓に見たのは圧送パイプの工事の光景であり、海面の記憶は曖昧だ。終着目前で、意識は厚岸やら塘路やら前途の乗換にあったのだろう。1981年の釧路局によ...

  • 安別仮乗降場 (天北線) 1985

    60年代の初め頃だったろうか。小学生の小僧が汽車を眺めに線路端に立ち始めた頃である。朝日新聞社が年刊で発行していた「世界の鉄道」に見た、レールを覆い隠すほどの夏草の軌道を、かき分けるように近づき来る小さな気動車の写真が印象に残っている。構内外れの使われていない線路ならいざ知らず、「こんな線路を客を乗せて走るのか」との驚きからである。キャプションには浜中町営軌道とあったと思うが、これが新鮮な驚きである...

  • 森 (函館本線) 1970

    出窓。建築用語では張出窓と云う。今は広く普及して珍しくもないけれど、景観を大きく取り込む意図から米国サンフランシスコの湾岸地域に始まったとされる建築様式であり、それゆえ英語ではBay Windowと呼ぶ。日本国内へは外国人居留地の建築物に始まり、日本建築の大工や職人への技術移転と共に1900年代以降に広まった。1990年代あたりから急速に失われたけれど、1900年代初頭から戦前期ごろまでの建築が多く残っていた70年代から...

  • 落部 (函館本線) 1995

    落部の前後区間は、現在の国道5号線が鉄道開通時の路盤とは、ここへ幾度か書いた。それは、市街地の縁を正確にトレースしている。けれど、現況は市街地の拡大での結果であり、北海道鉄道(初代)による建設当時には、落部川河口付近にあった落部の集落を遥か内陸に迂回していたことになる。これまで、ここやWebサイトには「住民による鉄道忌避か」と推定して書いて来たけれど、訂正したい。それは、海岸段丘上を経路とした19世紀末...

  • 春採 (太平洋石炭輸送販売・臨港線) 2012

    周遊券も夜行急行も取り上げられてしまい道内撮影行動のパターンの変更を迫られたのは、函札間メインラインのあちらこちらで人集りの始まった頃に重なる。釧路川左岸の臨港線の沿線に立つのは、釧路近辺を拠点に「周遊」しないことに決めて以来なので、ごく近年からである。ずいぶん昔に覗きに行っただけだったここは、その間に運営体が釧路臨港鉄道から太平洋石炭輸送販売と変わり、現業現場はそのままに承継されたものだろうけれ...

  • 旭川 (函館本線) 1984

  • 音別 (根室本線) 1978

  • 増毛 (留萠本線) 1980

  • 白糠 (根室本線) 2016

  • 釧路 (根室本線) 1979

  • 浜頓別 (天北線) 1985

  • 様似 (日高本線) 1984

  • 倶知安 (函館本線)

  • 上野幌 (千歳線) 1994

  • 音別 (根室本線) 1977

  • 大成 (根室本線) 2017

  • 音別 (根室本線) 2016

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"Monochromeの北海道 1966-1996"そしてEktachromeの頃
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