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音と言葉の中間領域 https://blog.goo.ne.jp/naosugiyamura

−音楽を体験することと 体験を言葉で表現すること− そんな不可解な中間領域のなかに遊ぶ

“体験すること”と“言葉にすること”,この溝は深遠で広大ですが,そんなとりとめのない世界は遊びに満ちている! 書きたいときだけ書く…超気ままな音楽日記.フルトヴェングラーの録音遺産を年代順に振り返る《フルトヴェングラー詣で》だけはちょっとだけ真面目に取り組んでいます.

ナオG
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佐賀県
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清水区
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2009/06/28

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  • 同じ

    研究活動も佳境だが,ふと書きたくなった.五嶋みどりが長いキャリアの中で初めてベートーヴェンのコンチェルトを録音した.自然体のすこぶる美しい演奏だった.僕がクラシック音楽に深く親しみ始めた頃,彼女はソニー・クラシカルの看板アーティストだった.正しくないかもしれないが,作品を攻略していくような演奏スタイルと言って良いのかな?それが痛快でもあったし,ときに煩わしく感じることもあった.少なくとも,若輩者の僕はそう感じていた.ほどなくしてその活躍は目の届かないものになっていった.僕自身の彼女への興味が薄れただけかもしれない.今日,かつてのアルバム「Midori/Encore!」を研究室のBGMに選んだ.新しいベートーヴェンと同じ五嶋みどりがそこにいた.あー,そうだったのかー.過去の音楽体験に遡ろうとする志向は,今の僕が新...同じ

  • K.297Bへの偏愛

    ぼくの偏愛曲のひとつにモーツァルトの協奏交響曲K.297Bがある.と書けば,モーツァルティアンの皆様は「おや,ちょっと待って!」と思われることだろう.パリ時代のモーツァルトは父への手紙で,フルート,オーボエ,ホルン,ファゴットのためのサンフォニー・コンセルタントを作曲したことを書き綴っているのだが,その楽譜はモーツァルトの生前に散逸してしまい(モーツァルトは陰謀説を唱えていた),そのことで幻の消失作品として扱われることになった(K.Anh.9という番号が付けられた).20世紀初頭になって,この曲と思しき作品の写譜が発見されたのであるが,本来の4つの管楽器のうちフルートがなく,クラリネットのパートに置き換わっていた.しかしモーツァルト学者たちはこれを真作と認定し「K.297b」という作品番号を付した.ところが19...K.297Bへの偏愛

  • 《フルトヴェングラー詣で》第44回

    ♯1938年10-11月(10月25-27日という説あり)〔スタジオ録音〕♯ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74《悲愴》録音年代順に聴き進めているフルトヴェングラー.久々にワーグナー以外の曲,それもチャイコフスキーの《悲愴》交響曲という大物だ.個人的なことであるが,これまでフルトヴェングラーのチャイコフスキーについては,戦後のスタジオ録音を含めて正直これといって際立った印象はなかった.1938年HMV録音の《悲愴》,この演奏も一言で喩えると“渋い”.チャイコフスキーの楽曲が本来有している演出性を鑑みると,この渋さは特徴の弱さとして受け取られるかもしれない.しかし,今回の試聴でそうではないことを思い知らされることになった.これは数あるフルトヴェングラーのレコーディングの中...《フルトヴェングラー詣で》第44回

  • publicとpersonalの間で

    こんなにもほったらかしにして,もうやる気はないんじゃないの!?と言われてしまっても仕方がない.でも,僕には,それでもブログを残しておく理由がある.近年,SNSの普及で,飛躍的に情報の授受は増えた.その中には有益なものもあれば,たいしたことのないものまで様々な重みづけがある.しかしうまく取捨選択さえすれば,自身の利益になるような情報を比較的容易に得ることができる.例えば,研究職という僕の仕事では,日々新しい知見が世に問われることになる.優良な論文が出てくれば,それはたちまちSNSで話題になる.リアルタイムでこれを同業者と共有できるという時代である.当然,そのような場では実名での交流になるわけなので,SNSといっても僕の場合は半分以上は仕事の範疇という認識がある.一方,このブログは,仕事の立場とかしがらみを抜きにし...publicとpersonalの間で

  • 《フルトヴェングラー詣で》第43回

    ♯1938年9月5日〔ライヴ録音〕♯ウィーン国立歌劇場合唱団・ニュルンベルグ歌劇場合唱団・ニュルンベルク教員合唱団・ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団♯ルドルフ・ボッケルマン(ザックス),ユリュス・カトナ(フォーゲルゲザンク),オイゲン・フックス(ベックメッサー),ゲオルグ・ヘッケル(ツォルン),ユリュス・ブロムバッヒャー(モーザー),ハンス・クレン(フォルツ),ヨーゼフ・フォン・マノワルダ(ポーグナー),エーリッヒ・ビュルガー(ナハティガル),ゲオルグ・ハン(コトナー),カール・ミコレイ(アイスリンガー),ヴォルフガンク・マルクグラフ(オルテル),アンドレ・フォン・ディール(シュヴァルツ),アイヴィント・ラホルム(シュトルツィーグ),ティアナ・レムニッツ(エーヴァ),エーリッヒ・ツィメルマン(ダヴィド),ルー...《フルトヴェングラー詣で》第43回

  • もう一度

    もう一度聴きたくなってしまう音(音楽)というものがあります.昨日ふと思ったのが,チェロのヨーヨー・マによるドヴォルザークのコンチェルト(マズアとの再録音盤)で、ニューヨーク・フィルハーモニックのホルン首席奏者が第1楽章第2主題のソロを吹く場面.これが新譜で出た当時,マの伸びやかで美麗な演奏にも感心したが,それよりもホルンの音にうっとりしてしまったことを覚えている.ホルン奏者の名は,フィリップ・マイヤーズだったかと記憶している.もう聴かなくなって久しく,おそらく探しても我が家にはないCDだけど,このホルンの美しい音色と懐かしいフレージングだけは,妙にリアルな思い出としてぼくの心で再生され続けている.もう一度

  • デュリュフレのレクイエム

    職場のデスクから望む東京湾の水面に反射する陽ざしは,日ごとに柔らかくなっている.大切に育てているガジュマルの木の挿し木も,食用レモン(レモネード)の種の発芽も,どちらもうまくいっているようで嬉しさがこみ上げる.頭が優位な仕事ばかりしていると,いつしか身体のリズムを置き去りにしていることに気付く.自然や植物とのささやかな対話は,刹那な日常のなかにふと咲く花のようだ.音楽もそうだ.モーリス・デュリュフレ作曲の《レクイエム》op.9.これまで何度聴いたか知れない,ぼくが最も大切にしている音楽だ.春に向かうことを確信するような微かなあたたかみを含んだ音がやさしく身体に降り注ぐ.ああ,なんという心地良さだろう!聴くのはBISレーベルのSACD-1206という規格番号で出ているスウェーデン放送合唱団(マルムベリ指揮)による...デュリュフレのレクイエム

  • 私的リバイバル

    かつて何度か耳にしているものの,それほど印象に残らず,そのまま聴かなくなってしまったCDがごまんとある.そんなCDから,本当に偶然,ひょんなことからもう一度聴いてみたところ,かつてないほどの感動を覚えたという経験はないだろうか?最近ぼくは立て続けにそういう経験をした.ひとつはマタチッチが1983年にウィーン交響楽団を指揮したブルックナーの第9番のライヴ録音だ〔AMADEO32CD-3124〕.かつてはオーケストラの弱さがマイナス評価だったと記憶しているが,今聴くと,そんなことはどうでも良いほど,曲の本質を鋭く抉り抜いた演奏だと確信した.鋭くといっても,ここに聴くマタチッチの第9は,この曲のある一面である切り詰めたような緊迫感はなく,普段豪壮な芸風からは想像できないほど,表面はどこまでも渋く,また柔らかく広がる世...私的リバイバル

  • 寂寥の雨が降る ~森山直太朗 《とは》~

    このブログに触れるのは一体いつ以来だろうか.ぼく自身の変化について事細かに書くことは止そう.一言だけ,昨年9月に慣れ親しんだ信州を離れ,三浦半島の“とある場所”で暮らしています.今宵は,また,森山直太朗のことです.ずっとずっと想い続けながら言葉にしてこなかった“とある曲”について・・・.それは2016年にプロデュースされたアルバム『嗚呼』に含まれていた《とは》.これが凄い曲なんです.冒頭から3拍子で周回するリズムは,始まりでもなく終わりでもないといった風情をもたらしていて,何とも言えない心地よい振動を身体に刻んでいく.「愛するとはとは信じるとはとは」の部分に差しかかると,その「とは」という響きが,冥界から響く言霊のように感じられて,かつて知らない時空に放り込まれるような感覚に誘われる.この時点で,ポップスの枠を...寂寥の雨が降る~森山直太朗《とは》~

  • 《フルトヴェングラー詣で》第42回

    ♯1938年6月7日〔ライヴ録音〕♯コヴェントガーデン王立歌劇場合唱団・管弦楽団(ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)♯フリーダ・ライダー(ブリュンヒルデ),ラウリッツ・メルヒオール(ジークフリート),ウィルヘルム・シルプ(ハーゲン),ヘルベルト・ヤンセン(グンター),アニー・フォン・ストッシュ(グートルーネ)ワーグナー:楽劇《神々の黄昏》より第2幕抜粋コヴェントガーデンの《指環》,前回の《ワルキューレ》に続いて,今度は第2ツィクルス最終日の《神々の黄昏》である.千秋楽ということで聴衆の盛り上がりはいかほどだったか想像するに難くない.フルトヴェングラーとしても相当の意気込みをもって臨んだ公演だ.我々も心を開いて当時の空気感を味わうことにしよう.抜粋は第2幕第4場と第5場からの約34分半であり,切れ目なく聴けるの...《フルトヴェングラー詣で》第42回

  • 手垢のついたモーツァルト

    コロリオフというピアニスト,いわゆるスター街道からは外れるが,相当な実力者である.もういろんなところで書き尽くされているけど,作曲家リゲティが「無人島の1枚」として選んだのが,コロリオフの弾くバッハ《フーガの技法》だったとか.人はかのグールドの後継とも評する.ぼくも彼のバッハのいくつかを所有していて,磨き抜かれた技巧と折り目正しい流儀がバッハの求道的な姿を浮かび上がらせていて見事だと思う.普段あまりバッハを聴かないので愛聴盤になるほどの愛着は持ち合わせていないのが残念だが,バッハがお好きな方にとってはかけがえのない録音なのだろう.そのコロリオフだが,モーツァルトを弾いた新盤を聴かないままだったので,今回聴いてみた.これまでと同様,録音の良いTACETレーベルのCD(TACET226)である.なんとなくであるが,...手垢のついたモーツァルト

  • 本物の音楽! ジェラール・コセのヴィオラ

    日々の忙しさは変わらないが,久しぶりにじっくり腰を据えて音楽と向き合うことができた.購入したままプレーヤーに乗ることすらなかったCDの何と多いことか!ぼくの場合は買うだけ買って興味を失ってしまう・・・ということではなく,何となく簡単に聴いてしまうのがもったいないというミョーチクリンな気持ちが働いて,あとでじっくり聴こうと考えたまでは良いものの,実際には“じっくり”の時間がとれないのがすべての原因である.突然ですが,皆さんはヴィオラをよく聴きますか?YESの人はそう多くないのでは?ぼくもそうである.ちょっと変な言い回しになるかもしれないが,ヴィオラという“楽器”を聴くという向かい方はときどきある.「どれどれ,ちょっと渋い音に触れてみたいな・・・」というアレである.これは“音楽体験”を求めているというよりも,ヴィオ...本物の音楽!ジェラール・コセのヴィオラ

  • 《フルトヴェングラー詣で》第41回

    ♯1938年6月1日〔ライヴ録音〕♯コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団(ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団)♯フリーダ・ライダー(ブリュンヒルデ),カール・カーマン(ヴォータン),ケルスティン・トルボルグ(フリッカ)ワーグナー:楽劇《ワルキューレ》より抜粋録音1937年に引き続き,1938年もフルトヴェングラーはコヴェントガーデン・ロイヤル・オペラハウスにおける《指環》ツィクルスに出演した.5月18日・20日・24日・27日が第1ツィクルス,5月30日・6月1日・3日・7日が第2ツィクルスというスケジュールであった.この中で実際の音が聴けるのは,当録音である6月1日の《ワルキューレ》,さらに6月7日の《神々の黄昏》のそれぞれ断片ということになる.ちなみにこの年がフルトヴェングラーにとってコヴェントガーデンへの...《フルトヴェングラー詣で》第41回

  • 《フルトヴェングラー詣で》第40回

    ♯1938年3月15日〔スタジオ録音〕♯ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ワーグナー:《パルジファル》第1幕への前奏曲と「聖金曜日の音楽」ワーグナーが続く.今度は《パルジファル》だ.ワーグナーはフルトヴェングラーにとって主要なレパートリーであり,彼の作曲家への心酔ぶりは遺された録音遺産や著述から確かめられる.そのことからして,ワーグナーの究極的な作品である《パルジファル》の,フルトヴェングラーによる録音が,SPの当録音と1951年アレクサンドリアでのライブ録音(「聖金曜日の音楽」のみ)しか遺されていないことは少々意外ではある.しかし演奏は全く非の打ちどころのないものである.まず「前奏曲」を聴いてみよう.厳粛な音の佇まいからして一気に《パルジファル》の世界に引き込まれる.冒頭,楽器ごとの音の隔たり(楽器固有の音色...《フルトヴェングラー詣で》第40回

  • 《フルトヴェングラー詣で》第39回

    ♯1938年2月11日〔スタジオ録音〕♯ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ワーグナー:《トリスタンとイゾルデ》第1幕への前奏曲と「愛の死」この曲2度目のスタジオ録音ということになる.1度目の録音-《フルトヴェングラー詣で》第8回参照-との間に造形の相違はなく,やはり“最高”という形容が相応しい名演である.曲全体を構築しているフォルムの美しさ,その完成度(成熟度)というのはちょっと言葉では言い表せないほどの高みにあると言ってよい.まず「前奏曲」,弦と管が交互に断片のテーマを交わす冒頭は,フルトヴェングラーとしても特に丁寧な筆致だ.重苦しさは微塵もなく,音楽は自然に呼吸し,しなやかで爽やかな音楽性が際立つ.16小節のスフォルザントの一撃は十分な力感を有しているが,続く主題を奏でるヴァイオリン群の粘着的な歌こそフルト...《フルトヴェングラー詣で》第39回

  • 喜びはすぐそこにある

    ここ数日の信州は汗ばむほどの快晴が続いている.山肌がだんだん新緑の色に染まってきた.美しく,眩しく,はかない初夏の空気・・・.穏やかな休日,トマトの苗を買ってきて大きな鉢植えに移した.スイートバジルの苗,頂いたイタリアンパセリの株も植えた.それから,オキシペタラムブルースター,マツバボタン,ディル,ルビンバジル,ナスタチューム(キンレンカ)は種を蒔いた.そうそう,我が家の同居人たちの猫草の種も忘れずに蒔きましたよ.芽が出るまでは絶対に土が乾かないようにしなくてはならない.これからは毎日朝の10分は水やりだ.ブルーベリーの木に目をやれば,たくさんの実が付いている.豊作になればいいな.写真は庭のオーニソガラム.白く潔く咲く花が美しい.《フルトヴェングラー詣で》,次は1938年HMV録音のトリスタンだ.言葉を紡ぎ出そ...喜びはすぐそこにある

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