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南国土佐・高知の魅力と見所を歴史や史跡等の観光地を含めて御紹介

記憶から忘れ去られ行く数々の史跡・遺跡・記念碑に偉人達の墓碑。全ては土佐を育んだ歴史の痕跡

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2008/03/12

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  • 伝 ・氷上志計志麻呂供養塔 - 称徳天皇が天皇に道鏡を擁立するのに邪魔だった天武系皇子

    [ 高知県須崎市野見 ]生前、良く母が野見の実家のあった上の山に「古墳がある」と言いよったがですが、高知に居った頃、何じゃろーと思うて探しに行って見ると標高60-70m程の山の上に祠があり、中に五輪の塔があったがです。調べてみると奈良時代 (769)に、土佐に配流になった氷上志計志麻呂の供養塔と言われちょります。祠の南側の尾根の部分に、石を積み囲んだ数基の墳墓らしきものが並んじょり、多分、これが母の言いよった古...

  • 野中兼山先生頌徳碑 - 昭和15年(1940)鎌田堰築造事業所遺跡地に建てられた碑

    [ 高知県土佐市高岡町丁乙 ]土佐市の松尾八幡宮から参道を南に≒560 m下った、(鎌田)西井筋用水路の右岸側にあるビニールハウス傍に建てられちょります。石碑の上部にゃ「紀元二千六百年」とあり、「野中兼山先生 頌徳碑 鎌田堰築造事業所遺跡地」と刻まれちょります。建立されたのは、紀元二千六百年とありますき、昭和15年(1940)に神武天皇即位紀元(皇紀)2600年を祝った一連の行事の一環として建てられたのかと・・・・...

  • 度賀野又太郎入道居城址 - 吉野朝の忠臣で大高坂城の攻防戦等に参戦

    [ 高知県高岡郡佐川町東組 ]佐川町斗賀野盆地の国道494号と県道308号線・本郷斗賀野停車場線が交わる辺りに、丸山公園 と呼ばれるコンマイ(小さい)丘があるがです。春ともなれば、沢山あるわけじゃないけんど、桜も咲いて綺麗な場所ながです。 南北朝時代にゃ、この度賀野庄の在地領主は度賀野氏で、南朝方に味方し活躍したがです。この丸山公園に居城があったかは定かじゃないようですけんど、この丸山の上に、「度賀野又太...

  • 波川玄番城跡 - 波川玄蕃清宗は長宗我部元親の妹を妻にし元親とは義兄弟

    [ 高知県吾川郡いの町波川 ]場所は高知市の西隣、いの町にあるがです。写真は、仁淀川右岸から見た、波川玄蕃城址で、城主は波川玄蕃清宗は、元亀2年(1571)頃、長宗我部元親の高岡侵攻に当たり降伏し、元親の妹(のちの養甫尼)を妻とし長宗我部氏の一族となるが、天正8年(1580)に謀反が露見し、清宗は剃髪し阿波国海部へ逃れたけんど、自刃に追い込まれたがです。波川小研城(編年紀事略)、葛木城とも言う。いの町内を抜け、...

  • 不破重正 - 山内一豊の妻・見性院とは叔父・姪とも・・・・・

    [ 高知県高知市中高見 ]不破重正夫妻の墓碑。弘治2年(1556)、美濃国不破に不破重則の子に生まれる。先祖は、南北朝の騒乱の際、楠木正成も戦かった宇都宮氏とも・・・・・。 不破重正は、幼くして父母兄弟を亡くし孤児となり、竹中重治(竹中半兵衛)に養われた。、竹中重治(竹中半兵衛)は、初め斎藤龍興(祖父は斎藤道三)に仕えていたから、不破重正の父・不破重則も斎藤龍興の家臣だったのではないかと・・・・・・。天正5...

  • 沖の土居城館跡 - 『長宗我部地検帳』によれば廣井三郎衛門尉の給地

    [ 高知県南国市久礼田字沖ノ土居 ]久礼田小学校の東≒200mの高知県道31号前浜植野線沿いにある「沖ノ土居」バス停より、南に≒200mの場所に、この石碑があるがです。築城年代等は不明じゃけんど、『高知県南国市中世城館跡』にゃ、「長宗我部地検帳によれば,廣井三郎衛門尉の給地であり,廣井神内の和地となっている。廣井三郎衛門尉は,久礼田に多くの給地をもっている。」と記されちょります。また、土居北端部と推考される地点...

  • 極楽寺 - 四国三十六不動霊場・第15番札所

    [ 高知県安芸市赤野甲 ]場所は、以前御紹介した矢流古戦場の碑のあるレストラン矢流海側で、サイクリングロードを挟んだ断崖の上に祀られちょります。真言宗醍醐派のお寺さんで、八流山極楽寺と言うがです。御本尊は波切不動明王さんで、不動明王を手助けするの三十六童子は師子慧童子じゃとか。 因みに、三十六童子とは、その名を唱えれば悪霊は退散し、崇拝する者を守護し、長寿をもたらすとされると言われちょります。 極楽...

  • 行川神社 - 坂本龍馬にも影響を与えた河田小龍の絵馬があった

    [ 高知県高知市行川 ]高知市内を流れる鏡川の上流部に架かる大河内橋(標高約17m)を対岸に渡り、領家方面に山道を上って行くと、行川集落があり、そこに行川神社(標高約126m)が鎮座しちょります。行川神社の由緒や御祭神は不明ですが、今回は、拝殿の中にある絵馬のお話ながです。 拝殿の格子の隙間から中を覗くと、正面に二枚の絵馬か架かっちょりました。 左側は、「スサノオ命のオロチ退治」かと。 右は「天岩戸」のようなが...

  • 勝賀野次郎兵衛実信 - 吉良左京進親実の忠臣で、元親の刺客と壮絶な死闘

    [ 高知県土佐市蓮池芋岡 ]この墓は、吉良左京進親実の居城じゃった蓮池城址の東方約500mの小丘にあるがです。比較的真新しい墓石は、昭和二十九年に建てられちょり、多分、右脇にある小さな石が元の供養塔じゃったがじゃないかと思うがですが、墓石の碑文にゃ、「天正十六年(1588)九月没」とある。勝賀野次郎兵衛実信は、高岡郡仁井田庄宮ノ谷(窪川町)を本拠とする勝賀野一族の出で、吉良左京進親実の家臣じゃった。【 参考...

  • 高知城追手門番所の怪異 - 伝承には堺殉難烈士・横田辰五郎に纏わるとか・・・

    [ 高知県高知市丸ノ内 ]全国にゃ、沢山のお城や古城が存在し、数々の伝説や怪奇譚が伝承されちょりますが、高知城にもあるようです。城内番所の怪異今は昔、藩政中高知城追手門内外に上下二番所あり 下番所は足軽二名ずつ相詰上番所(門内西北に在り)には馬廻の士、晝夜二三名交代を以て相詰 暮六時出勤、明六時退出にて若等一人鑓持一人を召具す 右上番所の上の間には、其の番衆の士が相詰め、次の間には其の組頭の家僕のみ...

  • 小川保馬 - 東洋暗殺犯探索中の井上佐市郎殺害関与と、近藤勇捕縛に関わるとも

    [ 高知県安芸郡芸西村和食甲 ]光平屋敷とその一族和食下中地区に光平屋敷と呼ばれている所がある。そこは剣豪として聞こえた尾川為十郎の生家で、為十郎は尾川姓を受け継ぎ五百人方となり、藩主の供をして江戸に出て武芸を学んだ。特に柔術が得意で、その門弟は清岡治之助(二十三士副隊長)を始め千人に及んだと言う。為十郎の長男・平川光伸は下横目付を務めていた。京都在勤中、吉田東洋暗殺犯人を探索中の同職、井上佐市郎を...

  • 箕越の猫神社 - お寺の悪戯猫が可愛がってくれた和尚さんに恩返し

    [ 高知県須崎市多ノ郷甲・蓑越地区 ]須崎市の向山の東の端の蓑越地区に、猫を祀る猫神社と言う小さな祠があるがです。神社名は、そのものズバリのユニークなネーミングの猫神社で、伝説が残っちょります。『須崎市の昔話』から、二題、御紹介します。 箕越の猫神社昔、吾川郡名野川と言う村の某寺で猫を飼いよったと。飼猫は年を取るにつれて赤毛の大猫になった。この猫は、毎晩和尚さんの衣を着て、小僧に化けて川原に出て他の...

  • 毛利久八吉次 - 祖父は備前小倉城主・毛利壱岐守吉成の弟・豊前巌石城主・出羽守吉雄

    [ 高知県高知市本町五丁目 ]毛利久八吉次 の父は,、豊前小倉城主・毛利壱岐守吉成の弟で豊前巌石城主・出羽守吉雄の子・出羽守吉勝といい、父は慶長8年十二月二十二日筑前若松で亡くなっちゅう。加藤清正に三百石で抱えられ、熊本藩第2代藩主・加藤忠広にも仕えるけんど、寛永9年(1632)5月22日に藩主・加藤忠広が江戸参府途上、品川宿で入府を止められ、池上本門寺にて上使・稲葉正勝より改易の沙汰を受けるがです。寛永10年(1...

  • 国澤城跡 - 城主・国澤将監は元は本山氏の配下の将

    [ 高知県高知市堺町辺り ]土佐の戦国時代、現在のはりまや橋交差点の南西方向の一角に、国澤将監が城主じゃった国澤城があったとされちょりますが、現在、当時の面影を残すものはなんちゃー残っちょりません。当時のこの辺りは鏡川の湿地帯じゃった場所で、僅かに盛り上がった中州のような場所に、城と言うより砦のような構えじゃったと思われるがです。城主・国澤将監は本山氏の幕下の将也。・・・・・永禄3年(1560)元親、潮...

  • 姫倉城跡 - 築城に関わる伝承に「姫倉化粧の清水」の話が

    [ 高知県香南市香我美町岸本 ]赤岡漁港近くの堤防から、東に約2.3Km先に見える姫倉城址(月見山)ながです。 戦国時代は安芸氏の勢力下で、安芸氏の武将・姫倉豊前守と姫倉右京の居城で、現在の香我美町と夜須町の境を南北に連なる尾根の南の端の、月見山の標高約68mの山頂部に築かれちょります。 築城時期は不祥じゃけんど、「姫倉化粧の清水跡」と言う伝承に城を築いたとある。辰の口にあったようじゃけんど、今は埋め立てら...

  • 葛木咩神社旧社地 - 延喜式社・土佐之國二十一座の一社・葛木咩神社に比定

    [ 高知県高知市布師田 ]此処は、国分川の左岸にあり、高知市布師田と南国市との境近くになる。直ぐ東側に岡豊高校があるけんど、周囲は水田に囲まれ、こんもりと雑木や雑草が茂るのみ。両側が水田になっちょる参道にゃ、狛犬や鳥居に架かっちょった扁額が残るのみで何もないけんど、此処が葛木咩神社のあった旧社地ながです。昭和47年に国分川右岸にある葛木男神社に合祀されちょります。 葛木男神社 - 御祭神の葛木男と葛木咩っ...

  • 西久保神社 - 伝・御祭神は本山梅渓の父・本山左近将監の子某

    [ 高知県高知市円行寺宮ノ上 ]円行寺から柴巻に上って行く途中の宮の上辺りで、鳥居を見つけたので、ちっくと行って見る事にしたがです。丁度、5月の連休明け位じゃったと思うがですが、蛇(マムシ)が怖かったけんど草茫々の山道を上って行くと、こんまい小屋のような建物があったがです。扁額にゃ、西久保神社とあった。 建物も、しめ縄も綺麗ですき、今でもちゃんと管理されちょる、お宮さんのようじゃけんど、由緒等は不明じ...

  • 船岡堂 - 四国八十八ヶ所第三十二番・五台山金色院竹林寺・奥ノ院

    [ 高知県高知市五台山 ]五台山竹林寺の境内上段の西側奥に、この奥ノ院・船岡堂があるがです。明治中期に、住職になった中興の祖・船岡芳信和尚を顕彰する為に建立され祀る堂宇(墓所)で、御米一升を持って祈願すると一つの願いだけは必ず叶えると、伝えられちょります。船岡堂竹林寺奥院境内にある。船岡芳信を祀る。高野山大学を卒業して、明治三十年(1897)当山に入り住職となり、僧正に任じた。当山が明治三十二年の大暴風の...

  • 上夜須八王子宮 - 伝・安芸国虎方の武将の不祥事で「四つ足」を嫌いになった神さん

    [ 高知県香南市夜須町上夜須 ]土佐くろしお鉄道・ごめん・なはり線の夜須駅の直ぐ北側の交差点を、国道55号線から県道51号夜須物部線に入り、夜須川沿いに3.2km程北上すると左側に鳥居が見えるがですが、此処が上夜須八王子宮ながです。 偶々、『夜須町文化財めぐり』を見よったら、此処の神さんは「四つ足」を忌み嫌い、四つ足嫌忌伝説を物語る馬の首塚があると云う事で、如何いう事じゃろーと思うて、唯それだけの理由で興味本...

  • 今村楽(鏡月) - 惜しいかな、追放されても短冊や添削を受ける者絶えず

    [ 高知県高知市筆山 ]今村 楽(たぬし)は、土佐藩士で 国学者、歌人じゃった。明和2年(1765)高知城下の水通町に、土佐藩士御歩行格・今村勘兵衛の長男として生まれちょりますが、翌3年3月に父が病死したため、父の実弟の次男・荘右衛門を仲継養子に立てて相続を許されちょります。医術(内科)を桑名玄井、国学を谷真潮に学び、真潮を通じて賀茂真淵を私淑(尊敬する人に直接には教えが受けられないが、その人を模範として慕い...

  • 萬葉神社 - 高知にもある新元号「令和」出典元『万葉集』に関わる万葉三神を祀る

    [ 高知県高知市春野町仁ノ ]此処は仁淀川河口に近い、高知市春野にある仁ノ八幡宮。その摂社の一つに萬葉神社が鎮座しちょります。昨年は、新年号「令和」になって『万葉集』の第5巻「梅花の歌」序文の文が出典と言う事で、福岡県の大宰府が注目されたけんど、ここ高知市内にも、「令和」には直接は関係ないけんど、万葉集に関わる神社があるがです。萬葉神社(三神社)由緒祭神:衣通姫・柿本人麻呂・山部赤人萬葉神社は天満宮...

  • 剱神社 - 日本三大仇討ち「曽我兄弟の仇討ち」の曽我十郎・五郎を祀る

    [ 高知県高岡郡日高村下分・小村神社摂社 ]土佐之国二宮で日下の総鎮守でもある小村神社の摂社の一つが、写真の劔神社ながです。御祭神:蘇我五郎 十郎由 緒:蘇我五郎の霊験あらたかなる太刀を里人によってまつり上げ神体となすこの剱神社には、曽我兄弟の弟・五郎の持ち物だったと言う太刀「瀬登りの太刀」に関連する伝承があるがです。伝承「瀬登りの太刀」の由来今からおよそ八百年ぐらい前、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた...

  • 中谷山十方寺観音堂 - 土佐西国三十三観音霊場第21番で雪蹊寺の奥ノ院

    [ 高知県高知市横浜 ]中谷山十方寺観音堂は、高知市内から高知県道34号桂浜はりまや線を南に走り、「ドラッグストアmac横浜東店」前交差点の西北の標高約34mの山中にあるがです。登り口にゃ、土佐西国第21番の石柱が建てられちょります。 途中から竹林になっちょります石段を登って行くと、お堂があるがです。 御本尊は聖観音菩薩.。『南路史』や『皆山集』には、昔は大きなお寺じゃったとあるけんど、江戸時代中期にはお堂だけ...

  • お天狗さま - 真夜中に天狗が降臨する場所

    [ 高知県高知市朝倉東町 ]ブラブラ散策しよったら、「こりゃー、何じゃろー?」と思うような祠や神社などがあるけんど、此処もその一つながです。写真を撮ったがは、もう10年程前にもなる石南神社を撮影した日の事じゃけんど、撮影して東側に廻ったら”こんまい(小さな)”祠があり「お天狗さま」と書かれ看板が目に付いたがです。 八頭神社・中津神社・石南神社 - 戦で亡くなった戦国武将を祀る 2016-10-09 「お天狗さま?」・...

  • 蛸の森城址 - 『土佐物語』には老婆が子供の恨みを晴らし落城させる

    [ 高知県南国市稲生 ]南国市稲生の下田川の左岸の田畑の南側に、東西に丘陵が連なっっちょりますが、その最高部の標高147mのの頂点に蛸の森城があるがです。蛸(鮪)の森城は、別名・下田城とも云い、長宗我部国親の頃の城主は下田駿河守。『南国市中世城館跡』 の「蛸(鮪)の森城」の項の記述に、「二の段は自然地形をそのまま利用した様相を呈しており,四方にそれぞれはり酔した部分をもち,文字通り鯖足状の郭となっている...

  • 八流古戦場 - 土佐国統一を目指す長宗我部元親と安芸国虎の合戦地

    [ 高知県安芸市赤野甲八流 ]写真の八流古戦場の石碑は、国道55号線脇にある「レストラン矢流」の駐車場の海側にが建っちょります。永禄12年(1572)、土佐国統一を目論む長宗我部元親と、安芸国虎との合戦場所ながです。 そもそもの始まりは、永禄年間前期に安芸国虎が、長宗我部元親の家臣・吉田重俊が守護する香美郡夜須の領有権を巡り争いが起こり、馬ノ上村(現・安芸郡和食村)の領有権を巡って、安芸国虎は軍を指向けた事...

  • 坂本神社 - 芸西村にある土佐延喜式二十一社のもう一つの坂本神社

    [ 高知県安芸郡芸西村和食 ]現在、土佐延喜式二十一社の坂本神社は、奈半利町にある多気神社に併祀されちょるとされちょりますが、芸西村和食の金岡山に鎮座しちょります宇佐八幡宮にもあるがです。宇佐八幡宮拝殿の後ろに本殿を挟んで、15もの摂社がありるがですが、そのうちの5社が主たる摂社として、東から帯媛神社、高良神社、厳島神社、九頭神社、そして西の端にある祠が写真の坂本神社でして、この坂本神社が延喜式二十一...

  • 久次土居城址 - 久次土居城の守護神・宇佐八幡宮が鎮座

    [ 高知県香美市土佐山田町久次 ]土佐山田町久次集落にある鎮守の森。此処が、久次土居城址ながです。 現在は、宇佐八幡宮が鎮座しちょります。 宇佐八幡宮の由来中世のころ久次土居城の守護神として豊後の国宇佐八幡宮の分霊を勧請し、城の「東構え」に奉斎した。後に長宗我部氏がこの地を接収し、城は解体されたが、八幡の社は里人によりく久次村の産土の神と祭り継がれ、日吉の神・洲がの神を合祀、社殿も次々と増築され、神威...

  • 寺村成雄 - 妻は板垣退助の姉、娘は山田平左衛門の妻、兄は寺村左膳の養父

    [ 高知県高知市筆山 ]土佐寺村氏は、山内一豊が掛川入封時は中老職400石を務め、土佐国入封時に家老格で4,400石を給されちょった寺村重友を初代・土佐寺村氏とするがですが、幕末期の子孫に寺村成雄がおる。維新後にゃ、土佐寺村氏のうちの2家が本姓の藤原北家日野に復姓しちょりますが、本家の寺村成雄は「日野軍馬」を名乗るがです。ただ、経歴詳細等は不明ですけんど、妻にしたがは乾栄六正成の三女で板垣退助の姉になる勝子...

  • 安楽寺城址 - 源希義の末裔・久万氏や元親家臣・久武肥後守昌源の城になる

    [ 高知県⾼知市久万 ]高知城の北北西約1,7km、東久万・中久万・西久万の境にある標高約713mの山が、安楽寺城址ながで、西久万側の中腹や麓にゃ、谷干城や、坂本龍馬の祖母の実家井上家の墓や、土佐藩家老・福岡家の墓があるがです。宮地森城・著の『土佐國古城略史 全』にゃ、下記の様にある。土佐冠者希義の子、吉良八良十代の孫、吉良八郎俊国の二男、次郎高俊土佐国土佐郡久万を領す。高俊五代の孫・久万豊後俊宗の城主となり...

  • 志の龍馬像 - JR土讃線の観光列車運行に合わせ駅名に新愛称と像が建つ

    [ 高知県⾼知市入明町 ]JR土讃線の高知から窪川間に、「志国土佐 時代の夜明けのものがたり」と言う観光列車が運行されるのに合わせて、入明駅に新たに「志の龍馬駅」と言う愛称が追加され、それを記念して写真の「志の龍馬」なる像が、また一つ建てられました。 像は、高知県の観光キャンペーン「リョウマの休日」のイラストがモチーフになっちょります。台座を含めて⾼さは約3mで、FRP(繊維強化プラスチック)製。 写真を...

  • 天質 - 南村梅軒から受け継いだ朱子学を谷時中に伝えた南学の祖

    [ 高知県高知市長浜 ]四国八十八箇所霊場第三十三番札・雪蹊寺の西側にある雪蹊寺歴代住職の墓所に、天質の墓があるがです。 雪蹊寺歴代住職の墓 『中央 無縫塔 天質』 宗安寺恕渕、吸江寺忍性と共に南学の三叟と言われました。瀬戸真乗寺の谷時中にその学統を伝え、土佐南学の基となし長浜文学の遺芳を伝えました。元和九癸亥年(1623)十月十七日寂。【 参考・引用 】 説明板より 雪蹊寺 - 四国霊場第三十三番札所 2008-1...

  • 戸板島地蔵 - 天明の大飢饉と大洪水に苦しめられた農民の窮状を救うため

    [ 高知県香南市野市戸板島 ]物部川に架かる戸板島橋の下流約230mの左岸(香南市側)堤防下の河川敷に、この地蔵堂はあるがです。写真左側の石柱にゃ、下記の様にある。正面・霊験地蔵右面・八王山蓮光院左面・高天原通称・戸板島地蔵と呼ばれちょりますが、八王山蓮光院と言う地蔵堂のようですが、「左面・高天原」の意味は判りませんが。因みに、高知市大津にある「高天ヶ原」と何ぞ関係があるがじゃろーか?・・・・・ 地蔵尊...

  • 森田筆之丞・五右衛門兄弟の墓 - 中濱万次郎(ジョン万次郎)たちと漂流

    [ 高知県土佐市宇佐町萩谷 ]場所は、土佐市の方から、現在は国史跡指定のお遍路道「土佐遍路道 青龍寺道(塚地坂)」に指定されちょります、塚地峠を超えて萩谷川沿いに宇佐の方に降りて来ると、以前ご紹介しちょります、安政地震津波の碑近くになるがです。安政地震・津波の碑 - 津波の被害を後世に伝える貴重な石碑 2014-07-07 塚地峠 - 35番清瀧寺から36番青龍寺への昔の遍路道 2011-10-28 筆之丞兄弟と万次郎らの漂流宇...

  • 巻の渕 - 幼少期の中岡慎太郎が飛び込んだ断崖と摩崖仏

    [ 高知県安芸郡北川村 ]県道493号線から慎太郎橋を渡って「中岡慎太郎館」へ行くとわからんけんど、慎太郎館のある山側の村道東岸線から「中岡慎太郎館」に向かうと約450m手前に、この「巻の渕展望所」があるがです。巻の渕展望所慎太郎幼少時の夏、数名の友人と巻の渕へ泳ぎに行った時のこと。底が見えない渕は青々として、そのうえに常に大きな渦が巻いているので人々からその渕には入ってはいけないと言われている場所でした...

  • 富家の七角屋敷 - 足利尊氏より五代を経た一族が流浪し此の地に居を構えていた

    [ 高知県香南市野市町兎田 ]昭和59年の『野市の史跡』の中に「富家の七角屋敷」という史跡の紹介が載っちょりまして、ちょっと気になって探して見たがです。七角屋敷は、野市町本村の東南端にあって、幅2mの竹林に囲まれ、その内部に屋敷跡と思われる約50アールの土地が七か所に分かれて現存する。竹林の内部は二重堀が造られていたと伝えられ、現在も一部の堀跡が名残をとどめている。足利尊氏より五代を経た氏家の一族が流浪...

  • 大乗山観音寺正壽院 - 土佐西国三十三観音霊場第15番

    [ 高知県南国市里改田野尻 ]南国市の県道45号線沿いにある南国流通団地の西北、琴平神社(金毘羅神社)の北側の山裾に大乗山観音寺正壽院があるがです。地図では「里の堂」とある。階段を登って行くと鳥居があり扁額にゃ「厄抜聖観音」と「金毘羅大権現」と記名されちょります。御本尊は聖観音で厄除けに御利益があると言う事で、「厄抜聖観音」と呼ばれちょるようです。「金毘羅大権現」とあるのは、琴平神社(金毘羅神社)の...

  • 森田久右衛門 - 山崎平内と共に土佐尾戸焼窯の基礎を築く

    [ 高知県高知市鴨部能茶山 ]森田久右衛門は山崎平内と共に、土佐に招かれた大坂(大阪)の陶工・久野正伯の弟子になり、土佐尾戸焼窯の基礎を築いちょります。元の墓は、三ノ丸山一帯の開発により、能茶山の方に改葬されちょります。山崎平内 - 土佐尾戸焼の租の一人 2011-12-06森田久右衛門は名は光久と言い、寛永18年(1641)に生まれちょります。先祖は近江の佐々木氏じゃそうで、佐々木光頼が天文年間(1532~55)に戦乱を避け...

  • 首切り地蔵 - 伝承じゃと山田氏一族・山田監物長秀の墓があった場所とか

    [ 高知県香美市土佐山田町栄町 ]撮り貯めた写真からのネタです。絶版になっちょった市原麟一郎・著『山田・南国伝説散歩』を手に入れ、見寄ったら記憶にあるお地蔵さんが「首切り地蔵」として掲載されちょり、子細が分かった次第ながです。首切り地蔵(抜粋)ここは談議所城主で、長宗我部国親の軍勢と戦って破れた山田監物の墓のあったところだという。【 参考・引用 】 土佐伝説散歩シリーズ5 『山田・南国伝説散歩』 市...

  • 勝海舟夫妻の墓 - 千束周辺の風光を愛し遺言により此処に眠る

    [ 東京都大田区南千束 洗足池公園内 ]勝海舟(1823年から1899年)は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中、洗足池畔に憩い、風景にうたれ、その縁でここに別荘を構えました。後に海舟の遺言で、屋敷裏の台地に葬られたと伝えられます。妻である民子の墓は、後に青山墓地から移設されました ...【 参考・引用 】 大田区ホームページ:勝海舟夫妻の墓 大田区文化財 勝海舟夫妻の墓勝海舟、諱は義邦、初め麟太郎、後に安房...

  • 一夜建立の岩屋 - 四国八十八ヶ所第24番札所・最御崎寺奥の院

    [ 高知県室戸市室戸岬町 ]現在は、室戸スカイラインを登って行ったら、第24番札所・ 最御崎寺に行けますけんど、本来は、徳島の方から来て、此処から遍路道を登って行くと仁王門に辿り付くがです。一夜建立の岩屋は、その遍路道の登り口傍にあるがです。 一夜建立の岩屋空海(弘法大師)が一夜で建立したと伝えられる岩屋で、現在、最御崎寺の奥の院。寺伝では、空海が唐からお持ち帰りになった石像が安置されていた場所。明治初...

  • 国澤将監神社 - はりまや橋の近くにあったとされる国澤城城主・國澤将監か

    [ 高知県土佐市宇佐町井ノ尻 ]この国澤将監神社は、宇佐の宇佐大橋を渡った井尻大師堂の直ぐ左脇に鎮座しちょります。 以前ご紹介しちょります、高知市内のはりまや橋の近くにあったとされる国澤城城主が國澤将監。 国澤城跡 - 城主・国澤将監は元は本山氏の配下の将 2014-07-21 土佐の戦国時代にゃ、国沢将監能明は本山氏の配下じゃったけんど、永禄3年(1560)の長浜戸の本の戦い以降本山茂辰の大敗が続き本山氏が本山に撤退...

  • 酒井豊吉 - 野中兼山弾効に組し、失脚させた一人

    [ 高知県高知市筆山 ]山内豊吉とも言うが、本名は酒井、山内は賜った姓ながです。慶長15年(1610)、酒井吉佐の子に生まれ、寛永9年(1632)父の跡を継ぎ中老分となり、寛永12年(1635)に野中直継(野中兼山の義父)の仲人で、佐川・深尾重昌の娘・亀を妻としちょります。慶安2年(1649)の兵制改革にあたり、家老職に引き上げられる。寛文3年(1663)、義父・佐川深尾重昌とその子・重照との連盟による野中兼山の弾効文を土佐藩第3代藩主...

  • 高知城百景 - 第57景 磐上神社(薫的大和尚之墓所)から見た高知城

    [ 高知県高知市三ノ丸 ]薫的和尚が最初に埋葬されたと言う、三ノ丸山の北側にある磐上神社(薫的大和尚之墓所)から見た高知城ながです。標高は約22m、此処から高知城天守閣までは直線距離で約1.3Kmです。磐上神社 - 薫的和尚が最初に埋葬された地 2015-09-14 薫的神社 - 薫的和尚 2010-05-20...

  • 八幡観音堂 - 土佐西国三十三観音霊場の番外寺

    [ 高知県南国市岡豊町 ]此処は、案内表示もないき、ちょっと判りにくいけんど、旧国道32号線沿いにある岡豊郵便局の北側の山の中にあるがです。登って行くと、途中に猿田彦神社がありその上に、お堂が建っちょります。お堂は、棟続きに左右二つあり、向かって右が聖観音堂、左がになっちょり、番外・聖観音菩薩が祀られちょる「八幡観音堂」は右側のお堂の様です。因みに、左の馬頭観音堂の馬頭観音菩薩は不心得者に盗まれてし...

  • 神明宮 - 伊勢神宮の遥拝殿として寛永八年(1631)加藤六兵衛が勧請

    [ 高知県高知市はりまや町3丁目 ]この神明宮さんは、高知八幡宮の直ぐ東隣に鎮座しちょります。高知八幡宮 - 元は高知城の城八幡 2011-08-15 神明宮は、神明社・神明宮・皇大神社・天祖神社等の呼び名があり、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)を主祭神とする伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社ながです。 因みに、一般に伊勢神宮と言うけんど、正式名称は地名も冠しない「神宮」ながでして、天照坐皇大御神...

  • 黒岩城址 - 戦国時代、高吾北地方最大の城下町が形成されちょった

    [ 高知県高岡郡四万十町本町 ]仁淀川の支流・柳瀬川が流れる黒岩地区の、柳瀬川の北岸の行司ヶ岳の南麓の階段段丘に位置しちょります。現在は城山公園になっちょり、写真に写る石垣の一部に、当時の石塁が残っちょるそうです。築城時期は不明じゃけんど、宮地森城の『土佐国古城略史 全』にゃ、「『土佐州郡史』曰く、片岡上総介所築」とある。室町時代に片岡直綱が土佐に下向したと伝えられちょる片岡上総介直綱がの事かと・...

  • 恵良沼古戦場跡 - 津野少輔元實ら一族・雑兵多数討死し沼の藻屑と消える

    [ 高知県土佐市岩戸 ]此処も、探した切っ掛けは、土佐の郷土史家・寺石正路先生の『土佐史跡巡遊』を読んで、大正15年以前まで存在しちょったなら、もしや、今でもあるろーと思い探して見たがです。第二十 高郡南部史跡 其五 恵良沼・・・・・かくて再び城山の西北麓に出で棒奔叢生の中に當日(当日)の戦ひに陣死せし敵将津野元實を吊祭せりといへる一小祠を見たが木太刀など若干供えへてあった元實恵良沼の戦死は實に(じつ...

  • 高知城・北曲輪跡周辺 - お城の北側で乳牛が飼われちょった

    [ 高知県高知市丸ノ内 ]写真は高知城の北側にある高知城・北曲輪跡でして、東の方角にある高知県警察本部方向を撮影した写真ながです。此処、高知城北曲輪は、藩政期にゃ作事場・米蔵・武器庫等があった場所ながでして、平成21年に整備され国指定史跡・高知城に追加指定されちょります。 今回のお話は、此の北曲輪跡の話じゃのうて、「高知の酪農乳業の歴史は、此の周辺から始まった」と言うたら、信じられんろー。始まりは、偶...

  • 谷干城生誕地 - 後藤象二郎や坂本龍馬と交わり倒幕の志を

    [ 高知県高岡郡四万十町本町 ]住所は四万十町本町になるけんど、2006年3月20日の合併前の町名・窪川町と言うた方が分かりやすいですろ。この写真を撮った頃は、ショッピングセンター「days」じゃったけんど、今年の春頃、新たにドラッグストア「mac」生まれ変わっちょるようですが、その隣接する北東隅に鎮座しちょります恵比寿神社の祠の脇に自然石の谷干城生誕地碑があるがです。 此の地で谷干城が誕生したがは天保8年(1837...

  • 若一王子宮 - 奇祭「お烏喰御膳上げ」や池田親王と平教経所縁の品が

    [ 高知県香南市香我美町徳王子 ]若一王子宮は、香宗川の上流左岸の徳王子に鎮座しちょります。 香南市指定文化財若一王子宮付近八ヶ村の総鎮守であり、古くから大忍庄のシンボルである。祭神は天照大神。鎌倉時代に村上永源上人が紀州熊野から十一面観音のお厨子を背負って来たと伝えられている。熊野新宮の別院で、十三町の神領を持ち、脇の坊が十二あったといわれている。岸本と結ぶ八丁道は、長宗我部元親が神幸道として寄進...

  • 多宝坊観音堂 - 土佐西国三十三観音霊場第13番

    [ 高知県南国市大埇乙 ]南国市の香長中学校の東約600mの下田川の近くに、お堂はあります。因みに、背後の高架は高知南国道路で、約2Km東が、高知龍馬空港ICになるがです。 今から三百十余年前、延宝五年十月に建立され「多宝坊観音堂」と名付けられた第四代藩主山内豊昌公母堂「善光院」の発願により土佐西国三十三番の霊場が開かれ第十三番となり「関の堂」と呼ばれ親しまれている厨子の正面に山内家家紋「三つ葉柏」がみられる...

  • 吉良神社(葛岡神社) - 長宗我部家継承問題で切腹させられた吉良左京進親実

    [ 高知県高知市山ノ端町 ]以前ご紹介した高知市山ノ端町にある若一王子宮の本殿西側に、吉良神社は鎮座しちょります。この吉良神社は、如何いてかは不明じゃけんど、本殿の方を向いちょります。若一王子宮 - 鎌倉時代に紀州の熊野大社から勧請されたと伝わる 2018-09-07御祭神は、吉良左京進親実と殉死した家臣たち。吉良親実 - 吉良神社は七人ミサキ伝説の吉良親実が御祭神 2015-08-26 元は吉良親実の屋敷があった場所とされ...

  • 池地退蔵旧邸 - 土佐勤王党178番目の血盟同志で戊辰戦争は迅衝隊に参加

    [ 高知県南国市上末松 ]ちょっと前に御紹介した 池知重利頌徳記念碑の傍にある写真の屋敷が、池知重利(池知退蔵)の旧邸のようです。池知重利(池知退蔵)は、土佐勤王党178番目の血盟同志であり、戊辰戦争じゃ板垣退助が編成した迅衝隊に参加しちょります。屋敷の北東隅にゃ、「藤地権現祠 池地家」の石柱が建っちょり、池地家の屋敷神じゃと思われます。 池知重利頌徳記念碑 - 撰は土方久元・書は田中光顕 2019-09-14 池知...

  • 島本為太郎- 戊辰戦争・会津若松戦で戦死

    [ 高知県高知市能茶山 ]詳細は不明じゃけんど、高知市鴨部出身で、御雇組。戊辰戦争にゃ土佐藩・鋭衝一番隊で会津に転戦し、明治元年8月23日会津若松で戦死。本墓は、現・福島県会津若松市大町にある西軍墓地に眠っちょり、土佐の墓は遺髪墓じゃと思います。会津若松西軍墓地 2 - 故郷遠き会津若松に眠る土佐藩兵49名 2015-10-26 [ 注意! ]■ 墓探しで山に入る場合 は、季節によっては、マムシ(ハミ)・ヤマダニ・ヤマヒル・...

  • 中島興市郎生誕地 - 遠祖は長宗我部元親重臣・中島与市兵衛重勝

    [ 高知県土佐市新居 ]中島興市郎の墓所は以前に御紹介しちょりますが、今回は生誕地ながです。中島興市郎 - 国境まで脱藩するも足を痛め追っ手に囲まれ自 2016-12-15生誕地碑の建っちょります場所は、現在、畑になっちょります。贈従五位中島與一郎中島與一郎は土佐国高岡郡新居村の人にて、郷士格より進められて藩士と成る文久年間、尊攘の説盛んなるに常り、武市半平太に従ひ時事に奔走せしが、武市等獄に下りて、志士の勢大...

  • 穴地蔵 - 岩屋で弘法大師や性空上人も修行をしたとの伝説が残る

    [ 高知県土佐市谷地 ]以前御紹介しちょります、土佐市谷地にある法華寺跡の仁王門から道なりに800m程南の山の方に上った場所に、この穴地蔵さんが祀られちょります。谷地の木造金剛力士像と影向の杉 - どちらも県と市の指定文化財 2016-12-13 正式名称は「岩屋地蔵」という。岩窟の中に三体が鎮座し、中央が本尊である。藩政のころ、岩淵某という郷士が、法華寺へ石地蔵を奉納しようと持参したところ、「出来が悪い」と、住僧が...

  • 大法寺観音堂 - 奈良時代に比江国分寺の北東の鬼門封じとして建立

    [ 高知県香美市土佐山田町大法寺 ]大法寺集落の北、標高約360mの山腹にある大法寺観音堂と、右側には白山神社が鎮座しちょります。この大法寺観音堂の下の方に、以前ご紹介しちょります「伝・武田勝頼」と伝わる墓があるがです。 伝・武田勝頼墓 1 - 天目山の一戦に敗れ土佐に逃れて来たと伝承あり 2016-10-31 三間四面方形造の観音堂と、堂内の人物代の観音像を安置する厨子が建造物として指定されている。文化文政時代の特色...

  • 金岡城址 - 安芸氏滅亡後は夜須城主・吉田備後守重俊が支配

    [ 高知県安芸郡芸西村和食 ]金岡城址は、和食の 標高約40mの台地にあるがです。金岡城址金岡城は、南北朝が対立したとき、南朝方の大高坂松王丸らと共に北朝方と戦った、和食孫三郎の城であった。戦国時代まで和食郷一帯を和食氏が治めていたが、境を接する安芸氏との争いが繰り返されたのち、天文年間(1532-1555)のころには安芸氏の領地となった。永禄十二年(1569)に長宗我部の二千騎が金岡城に押し寄せ、城を守っていた安芸方...

  • 遍路石 - 第34番種間寺境内入口の中務茂兵衛 「弐百五十二度目」の遍路石

    [ 高知県高知市春野町・種間寺 ]四国霊場第34番札所・種間寺境内入口脇に、この遍路石は建てられちょります。右指差し(西) 種間寺へ三丁 左指差し(東) 雪渓寺へ一里余施主 福井県敦賀港 青池弥輔大正三年三月吉日立弐百五十二度目為供養敬立周防国大島郡椋野村住 願主 中務茂兵衛義教中務茂兵衛さん、四国巡礼252度目の時の遍路石ながです。MapFan地図へ...

  • 旧川口橋 - 昭和10年フランス積みレンガ化粧で架けられた国指定登録有形文化財

    [ 高知県吾川郡仁淀川町大崎 ]旧川口橋は、仁淀川河口から約60km上流の仁淀川と支流・土居川との合流点の土居川に架かる橋で、国指定登録有形文化財になっちょります。川口橋 (国指定登録有形文化財)昭和10年に作られた、橋の長さは69m、幅員5.4mの鉄筋コンクリートT桁橋である。昭和41年11月に隣接する新しい川口橋が仮設され、その主たる役割を終えている。幾何学的意匠の親柱、高欄、橋脚に施された精緻なフランス積みレン...

  • 公儀の井戸 - 野中兼山が水の乏しかった山田台地に掘った井戸

    [ 高知県香美市土佐山田町 ]井戸は2ヶ所あり、1ヶ所目は(写真は無いけんど)土佐山田駅前から南に1つ目の交差点にあり、現在は大きなマンホールで蓋をされちょります。2ヶ所目は、十字路から東に約250mほどの処にある土佐山田郵便局の近くの写真の井戸ながです。正保~万治年間(1644-1660)に、土佐藩家老・野中兼山が山田町を作ったけんど、なかなか住民が定着せんかった。原因は、台地じゃったため、用水が乏しく「水」が無か...

  • 影山の地蔵寺 - 土佐七福神霊場・寿老人を祀る

    [ 高知県香美市土佐山田町影山 ]県道22号龍河洞公園線のバス停・龍河洞温泉から約0.65Km上った道路傍に、地蔵堂はあります。高野山真言宗派の照影山 宇田寺で、通称・ 影山の地蔵寺と言うそうで、此処が土佐七福神の寿老人を祀る霊場になっちょります。地蔵寺の南にある標高223mの大峰山は、奈良県吉野郡天川村にある修験道の寺院・大峯山寺を勧請しちょるようで、此処も頂上付近に金剛蔵王権現を祀っちょるようですので、修験道...

  • 池知重利頌徳記念碑 - 撰は土方久元・書は田中光顕

    [ 高知県南国市上末松 ]池知重利とは、土佐勤王党血盟同志の一人、池知退蔵の事ながです。生家の近くに、頌徳記念碑が建てられちょります。撰文は土方久元(土方楠左衛門)、題字は田中光顕(浜田辰弥)。 池知退蔵 - 土佐勤王党に178番目に加盟 2017-07-23 田中光顕墓 - 中岡慎太郎亡き後の陸援隊を率いた一人 2010-11-24 土方久元邸跡 - 土佐勤王党に21番目に血盟 2013-09-09 MapFan地図へ ...

  • 春野神社 - 山田堰を築いた野中兼山を祭る神社

    [ 高知県香美市土佐山田町小田島 ]春野神社山田堰を築いた野中兼山を祭る神社である。文化3年(1806)に現・高知市春野町森山の春野神社の分霊を、堰をみおろすこの地に移し祭った。社殿右側の石は、山田堰が明治24年(1891)7月に災害をうけ復旧に際し、「水門と水越し」の高さ基準点として設けられたものである。昭和62年3月土佐山田町教育委員会【 参考・引用 】 説明板より 「野中兼山」に感謝して - 春野神社 2009-09-25...

  • 琴ヶ浜松原 - 野中兼山によって砂丘に植林し護られた松林

    [ 高知県安芸郡芸西村 ]琴ヶ浜松原は、東は安芸市赤野川河口から西は夜須と芸西村の境に近い辺りまでの、東西約4Km程の海岸と松林が続いちょります。因みに、写真は東端の安芸市赤野の自転車道休憩場辺りから撮影しちょります。日本の白砂青松100選琴ヶ浜の松原 (由来)かって、太平洋の海水と和食川とが対面して約1キロにわたる自然の砂丘を形成させた。この砂丘全体にわたって松の老木や若木が数多くあり、高知市以東では最...

  • 弘光明之助利条 - 土佐勤王党に173番目に加盟

    [ 高知県南国市前浜) ]墓石の周辺は、雑草に覆われ、イヌザンショウの仲間じゃろうか棘のある細長い枝に阻まれ、傍まで近寄る事が出来んかったけんど、弘光清水墓と刻まれちょります。清水は後年名乗った名で、元の名は明之助として土佐勤王党にゃ173番目に血盟同志になっちょります。村田忠三郎の兄・村田馬太郎(帰本)と国暇の許可を得ないまま、京都・摂津・九州の情勢を探索して追込の刑(刑罰の一つで、一定の部屋に閉じ...

  • 仁井田五社神社 - 佐川の勤王五士、勤王の大願成就の祈願をして脱藩

    [ 高知県越知町横畠東・堂ノ岡 ]以前ご紹介しました浅尾沈下橋の近くの、県道18号・伊野仁淀線の仁淀川に架かる鎌井田大橋を越知町方面に約2Kmほど行ったバス停「堂ノ岡」の近くに、仁井田五社神社が鎮座しちょります。 浅尾沈下橋 - 仁淀川河口から三番目に架かる沈下橋 2018-09-01 由緒は不明じゃけんど、神社名からして現・四万十町にある高岡神社(別名・仁井田五社)を勧請したがじゃと思いますき、御祭神は高岡神社と同じ...

  • 国指定史跡・谷重遠墓 - 土佐南学を再興し日本の「尊厳」を教えた

    [ 高知県香美市土佐山田町 ]谷重遠は、寛永3年(1663)長岡郡岡豊村の岡豊八幡宮(現・南国市)の神主・谷神兵衛重元、島崎氏の3男に生まれ、通称・丹三郎、名は重遠で、秦山は号ながです。谷家は代々岡豊八幡宮の神職を務めちょりますが、野中兼山によって郷士に起用されちょります。幼少より聴明じゃったそうで、17歳の時上京し、野中兼山らと親交のあった山崎闇斎や、その高弟・浅見絅斎に朱子学・神道・儒学を学んだ。また、同...

  • 野中神社(お婉堂) - お婉さんが父・野中兼山や一族、旧臣の霊を祀る

    [ 高知県香美市土佐山田町中組 ]父・野中兼山や一族、旧臣の霊を祀った野中神社で、娘のお婉さんが建てた事からお婉堂とも呼ばれちょります。お婉さんは、この神社の建立にあたり先祖伝来の物を人手に渡したり、貴重な品は谷泰山が江戸に行く時、江戸で売りさばいてもらったりして工面し、宝永5年(1708)須江の旧臣古槇家の土地(現在地)を譲り受け小さなお堂を建てたがです。野中神社(お婉堂)土佐藩家老野中兼山の死後、野中...

  • 香宗我部秀通 - 香宗我部家養子問題で兄・親秀と爭い自刃

    [ 高知県香南市野市町東野 ]永正7年(1510)に土佐国香美郡東南部の国人・香宗我部通長の次男として生まれる。兄は香宗我部右衛門尉親秀。大永6年(1526)、兄・親秀の嫡男である秀義が安芸氏との合戦で戦死したため、親秀の養子に迎えられて家督を継いだが、香宗我部氏は次第に衰退していき、親秀は自家の再興を図るために長宗我部国親の三男・親泰(長宗我部元親の弟)を養子に迎えて長宗我部と香宗我部の連合体制を作り上げよ...

  • 善福寺 - 土佐七福神霊場・福禄寿を祀る旧札所

    [ 高知県土佐市本村 ]高知道・土佐PAの北側を国道56号が走っちょりますが、そこから西に1.2Km程の処の道路左側に「カロト生花エビネ寒蘭店」があるがですが、善福寺はその道路反対側にあるがです。善福寺は、土佐七福神霊場の福禄寿を祀る旧札所じゃったがです。福禄寿は「幸福」の福、「身分」を表す禄、「寿命」を表わす寿の三文字からなり、長寿の神さんで、阿弥陀堂に安置されちゅう御本尊の阿弥陀さんの左脇に安置されちょ...

  • 土佐十景・手結の碑 - 野中兼山の掘った手結内港銚子口先端に建つ

    [ 高知県香南市夜須町手結 ]土佐十景・手結の碑は、 承応2年(1653)に土佐藩家老・野中兼山が完成させた、わが国初の「堀り込み港」 手結内港の出口南の銚子口の先端に建てられちょります。手結港可動橋がある南側の一段下がった外側にありますき、車からはちっくと判らんかと・・・・・。昭和3年(1928)に建てられた碑の裏にゃ、下記の様に刻まれちょります。短歌 濱田春恵作地名 前田俊泰書篆額 和歌 脇字 田内道太郎書 土...

  • 徳弘土居城 - 城主・徳弘三郎左衛門は菅原道真の家系の一族

    [ 高知県南国市立田 ]土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の立田駅の直ぐ北側に、人工的に盛土されたような塁状地形があり、その上に祠がお祀りされちょりますが、ここが徳弘土居城の城八幡ながです。『南路志』にゃ、「城主・徳弘氏は菅原道真の左遷に連座して延喜年間(901-923)に立田庄に来て、戦国時代にゃ楠目城城主・山田氏に仕え、山田氏滅亡後は長宗我部氏に仕えた」とある。また、『高知県南国市中世城館跡』にゃ徳弘氏は...

  • 大平弾正光圀 - 元弘の乱で土佐に配流された尊良親王を守護

    [ 高知県高岡郡佐川町本郷耕 ]大平弾正光圀は、土佐南朝方の武将で、第4代・蓮池城主・大平敏国の弟になる。元弘の乱で、鎌倉幕府に敗れた父・後醍醐天皇は隠岐の島に配流され、第一皇子・尊良親王は土佐国幡多に配流されたとき、有井庄司らと親王を守護し尽くす。蓮池城 - 蓮池氏から長宗我部氏まで約430年幾多もの興亡を繰り返す佐川町・刊の『わが町の文化財と旧跡』にゃ下記の様に記されちょります。大平弾正光圀は、鎌倉か...

  • 会津若松・自在寺「西軍 戦死者墓」 - 土佐藩所縁の2名が眠る

    [ 福島県会津若松市相生町 ]会津若松の自在寺にある、「西軍 戦死者墓」と刻まれた墓に、如何やら土佐藩所縁の2名が眠っちょります。『志士は今も生きている その墓所をたずねて』によると、土佐藩の墳墓簿には会津若松の自在院に土佐藩2名の二人墓の記載があるけんど、その後の墓地の大整理等によって見つけることが出来んかったと記載されちょります。墳墓簿には土佐夫卒二人墓慶応四戊辰八月二十三日 忠兵衛打入ノ節戦死慶...

  • 大徳寺 - 「四国三十三観音霊場」・「土佐七福神霊場」の一つ

    [ 高知県南国市大そね ]南国市大埇の吾岡山の南東の麓にある、真言宗高野山派の吾岡山延寿院大徳寺。御本尊は波切り不動。剣は悪事を断ち切り縄は煩悩を縛り覚りをひらき火炎は世間の闇を照らし迷いや災難を焼き尽くす種々の煩悩を焼き尽くし悪魔を降伏し行者を擁護して菩提を得させる明王として信仰された 境内にある聖観音さんは四国ぼけ封じ三十三観音霊場の12番ながで、高知にゃ四国ぼけ封じ三十三観音霊場は6ヶ所あり、高知...

  • 田野八幡宮と丈六の仏頭

    [ 高知県安芸郡田野町 ]田野町の總鎭守として鎮座しちょります、田野八幡宮。写真の参道の先に赤丸で囲んじょります石段は、以前に御紹介しちょります国指定重要文化財にも指定されちゅう「旧魚梁瀬森林鉄道遺構」の一部になる、田野線の八幡山跨線橋ながです。ようは、参道の一部が森林鉄道の高架橋になっちょった部分ながです。 八幡山跨線橋 - 国指定重要文化財・旧魚梁瀬森林鉄道遺構の一つ 2016-05-17 田野八幡宮祭神は応...

  • 閼伽井水 - 四国八十八箇所霊場・第35番札所清瀧寺・奥の院

    [ 高知県土佐市高岡町丁 ]場所は、四国八十八箇所霊場・第35番札所清瀧寺の更に上になるがですが、高岳親王塔のある不入山を左に見て寺の裏手へ廻り、狭い道を林道を登って行った所に、この「閼伽井の泉(あかいのいずみ)」があるがです。 高岳親王塚 - 平城天皇の第3皇子で出家し空海の十大弟子の1人に 2018-08-26 閼伽井の泉の由来 この泉は、延暦十二年(792)室戸岬で修業し、伊予国へ向かう途中、この地に立ちよった弘法大...

  • 円行寺の薬師堂 - 朝倉神社に関わる怪異が本山氏の衰退に繋がる

    [ 高知県高知市円行寺 ]高知市円行寺の集落の奥に、日吉神社の鎮守の森があるがですが、元は医王山秘蔵院円行寺と言う真言宗の大寺で、御本尊は薬師如来(現・県文化財)と言う、奈良時代に行基が開基したとも伝わる由緒ある寺院じゃったそうです。長宗我部氏の興亡を記した軍記『土佐物語』にも、「七八町に作り並べたる寺堂・廻廊・鐘楼・経蔵・仁王門・工人妙を盡し(これ以上もない細工を施し)の丹青(赤・青の彩色)を飾り...

  • 花熊城址 - 横山友隆は大坂夏の陣で長宗我部盛親に従い討死

    [ 高知県高知市介良 ]花熊城址は以前にもご紹介しちょりますが、その折りは城八幡まで上る道が判らず諦めたがですが、その後、改めて散策に行った折り、ようやく上口を見つけ、城八幡にまで至ったがです。 花熊城址 - 城主・横山友隆は長宗我部国親に敗れ長宗我部に仕える 2015-02-02 花熊城は、別名・横山城・介良城とも称されちょりまして、これも以前ご紹介した朝峯神社の背後にある介良富士から西に尾根が続いちょりますが...

  • 大善寺 - 二ッ石大師遺蹟 別格二十霊場・第五番 高野山大善寺

    [ 高知県須崎市西町 ]須崎じゃ、西町のお大師さんと云われちょります入口脇にゃ二ッ石大師遺蹟 別格第五番霊場 高野山大善寺とあり、石段を数段上ると大師堂があり、その左手から石段を70-80段程登って行くと第五番札所の大善寺があり、上からは須崎湾が一望出来るがです。 四国の空海(弘法大師)の足跡は、四国八十八箇所以外にも沢山あり、番外霊場(後述)として信仰を集めてきたが、それらの番外霊場のうち20ヶ所の寺院が集...

  • 大川上美良布神社 - 延喜式社・土佐之國二十一座の一社で御祭神は大田々称古命

    [ 高知県香美市香北町韮生野 ]場所は、一番判りやすく言うと、香美市香北町にある「アンパンマン・ミュージアム」の北側約250 mの位置に遷座しちょります。 『続日本記』承和八年(841)八月四日の条に記載されちょるのが最古で、『延喜式神名帳』に大川上美良布神社とあり、土佐国香美郡四座並小の一座として記載され、韮生郷50ヶ村の総鎮守である。古くは「川上大明神」「大河上宮」とも呼ばれており、『長宗我部地検帳』にも...

  • ツカアナ古墳神社と須江の供養塔 - 消滅した古墳は土佐有数の規模だったと

    [ 高知県香美市土佐山田町須江 ]此処に、ツカアナ古墳神社と土佐山田町史跡の須江の供養塔があるがですが、最初にツカアナ古墳神社から。「ツカアナ古墳神社」と、ちょっと変ったネーミングの神社じゃと思って調べたみたがですが、具体的な事は判らんかったけんど、如何やら写真の祠から南西に300m程の所にあった須江ツカアナ古墳の発掘調査が終わった平成14年(2002)頃に、元々、須江の供養塔があったこの場所に古墳被葬者の供養...

  • 神峯神社の燈明巌 - 巌が光ると数々の困難や異変が起ると伝わる

    [ 高知県安芸郡安田町唐浜 ]この燈明巌は、四国八十八箇所27番札所・神峯寺から更に上に鎮座しちょります、奥の院になる神峯神社まで登って行かんと見れません。 神峯神社 - 四国八十八箇所27番札所・神峯寺の奥の院 2019-03-06 神峯寺 - 四国霊場第二十七番札所 2015-08-28 燈明巌・・・燈明巌と呼ぶ巨岩がある。太古から夜半になるとこの岩が青白く輝き光を放っていたのでこの名が起こったといわれる。また数々の困難や異...

  • 谷 正方 - 吉田東洋暗殺刺客第二班の一人で大石弥太郎の弟

    [ 高知県香南市野市町中ノ村 ]通称は作七という。天保2年(1831)に、香美郡野市村横井(現・香南市)の郷士・大石平右衛門元介の二男に生まれちょります。兄は、土佐勤王党結成に尽力し、盟約書の起草を手掛ける等、幹部として活躍した、大石 弥太郎(弥太郎は通称で、諱は初め元敬、のち圓)ながです。 大石弥太郎生家跡 - 土佐勤王党に2番目に加盟 2011-06-16 大石弥太郎 - 武市瑞山らの赦免を同志と共に藩庁に歎願するも叶...

  • 岡村十兵衛住居跡 - 飢餓に苦しむ浦人達を救い死をもって責めを負った義人

    [ 高知県高知市布志田 ]参勤交代・北山道沿いの山側の道路端に、「岡村十兵衛先生住居跡」の説明版が建てられちょります。藩の米蔵を許可なく開き、飢餓に苦しむ浦人達を救い、罪に問われ謹慎処分となり、浦人達に累が及ぶことを恐れ自害して果てた岡村十兵衛の住居跡とか・・・・・。..十兵衛は通称で、名は輔之(すけゆき)。 岡村十兵衛先生住居跡岡村十兵衛の先祖は、戦乱の京を逃れて土佐に下向した一条教房の従者として土...

  • 田辺島神社(隼人神社) - マムシ(ハミ)も恐れる福留飛騨と隼人を祀る

    [ 高知県高知市大津 ]前回の記事の鹿児神社から北西に約1Km、岡豊城址からじゃと南西に約4.2Kmの、国分川の左岸の川岸傍に標高が約10m弱の小山があるがですが、通称・田部島と呼んじょります。陸の上にあるのに「島」と付いちゅうがは、昔はこの辺りまで浦戸湾が広がっちょり、この田辺島も浦戸湾に浮かぶ島の一つじゃったがです。この小山には田辺島神社(隼人神社)が鎮座しちょりますが、元は田部島城址で築城年代は定かじゃ...

  • 鹿児神社 - 紀貫之が都に帰る際に船出した舟戸に近く住之江三神を祀る

    [ 高知県高知市大津 ]土佐電鉄後免線の田部島通駅から線路に沿いに土佐中道路(国道195号)を東に約180m行った、国道と後免線線路を南に渡った場所にある鹿児山に鎮座しちょります。土佐には珍しい、社殿が北を向いちょる神社ながです。 昔は、この近くまで浦戸湾の入江が広がっちょり、船着場があったようで、紀貫之も都に帰る時は、この近くかの舟戸から船出しちょります。 紀貫之舟出の地碑 - 土佐で亡くした娘の死を悲し...

  • 桑名古庵 - 桑名丹後守・五百蔵佐馬之進を先祖に持つ・ころびキリシタン

    [ 高知県高知市西久万 ]慶長17年(1612)及び翌慶長18年(1613)徳川幕府は、キリスト教を邪宗として禁止令(キリシタン禁制、禁令)を発令し、以後、キリスト教徒は弾圧・迫害を受ける。幕府は、切支丹信徒に対し強制改宗策を取り、様々な拷問を考案・実行し、拷問に耐えかね棄教した者も多いが、殉教した者も多かった。拷問の一つに、京都所司代・板倉氏が考案したとされる「俵責め」がある。首だけ出した状態で、切支丹信徒を俵に...

  • 朝峯神社 - 延喜式社・土佐之國二十一座の一社で御祭神は木之花咲耶姫

    [ 高知県高知市介良 ]朝峯神社は、高知市介良の介良富士(鉢伏山)の麓に鎮座しちょります。介良川に架かる赤い橋を渡り、朝峯神社の参道を進むと、「式内 朝峯神社」」と刻まれた社号碑があり、石段を上ると拝殿があるがです。 主祭神: 木之花咲耶姫命 (このはなさくやひめ)相殿神: 爾爾伎之命 (ににぎのみこと) - 木之花咲耶姫命の夫神 大山祇命 (おおやまつみのみこと) - 木之花咲耶姫命の父神神紋は、...

  • 布志田御殿跡 - 参勤交代・北山越えルートの藩主の本陣跡

    [ 高知県高知市布志田 ]参勤交代制度は徳川幕府第3代将軍・徳川家光の時代の寛永12年(1635)に武家諸法度が出され制度化されたもので、土佐藩じゃと1500~2700人程の行列で、約30日程かかったとの記録があるようです。当初は浦戸からの海路じゃった様ですが、其の後は、陸路で東部の甲浦まで行き、そこから海路を使ったようです。ただ、如何せん天候に左右され、海が荒れ遭難する事も多々あったという。享保3年(1718)、第6代藩主...

  • 幻の元号『天晴』 - 慶応3年の土佐にだけ残っちゅう私年号

    [ 高知県高知市春野・高知県安芸郡安田町 ]今日は、新天皇が即位され、元号が改元された初日、令和元年5月1日。新しい令和の時代の幕開けながです。ってな訳で、ちっくと、元号に関するお話を・・・・・。政府が、平成31年(2019)4月1日に新元号を発表すると報じてから、ネット検索してみると高知でも新聞や個人のブログ等でも、既に土佐の幻の元号が取り上げられちょりましたき、ご存知の方が多いかと思いますが、オンちゃんなり...

  • 西島観音堂 - 土佐西国三十三観音霊場第9番

    [ 高知県南国市廿枝下掘 ]国分寺の南を流れる国分川の南の田園の中に、然程大きゅうもない鎮守の森があり、第九番・西島観音堂がある建立されちょります。 西島観音堂の由来当観音堂は 土佐西国三十三ヶ所霊場の九番目に当たり 聖観音を祀られる抑々 この霊場は 約三百年前 土佐四代藩主山内豊昌公の母堂善光院のご慈悲により 人々の幸福を願わる御心から 霊験あらたかな西国三十三ヶ所霊場のみ霊をお迎えして 各地に観音堂を建...

  • 郡境碑 - 長岡郡と土佐郡の郡境の碑2基

    [ 高知県高知市布師田・南国市岡豊町中島 ]以前、吾川郡と高岡郡の郡境碑を御紹介しましたけんど、今回は土佐郡と長岡郡の郡境碑を2基御紹介します。 郡境の碑 - 「従是東吾川郡」「従是西高岡郡」 2008-10-30 1基目は、現・高知市布師田と南国市岡豊町中島の境になる、南国市側に建っちょり、「是東長岡郡」・「是西土佐郡」とある。因みに、正面の山は布師田金山城址ながです。 布師田金山城 - 長宗我部に降った後は久武内蔵...

  • 南学発祥地碑 - 昭和6年に建てられたもう一つの南学発祥地碑

    [ 高知県高知市春野町弘岡中 ]南学発祥地碑と言えばば、昭和35年5月(上の写真)に史蹟南学顕彰会によって建てられた記念碑がある場所が、「南学発祥地」として指定されちょりますが、実はもう一つ、これよりも古い碑があったがです。 南学発祥の地 2009-10-10 見つけた切っ掛けは、高知におった時、新旧の地図を見よって何かありそうやと思うて散策に行って、何度か目で見つけた碑ながです。 小高い丘の上に祠がありその前に...

  • リョーマの休日像 - 受け狙いか?、客寄せパンダか?龍馬さんも辛いねー

    [ 高知県南国市大埇乙 ]南国市の、とある道路を走りよったら、龍馬さんが肩肘付いて寝そべりちゅーやいか。「龍馬さん、こんな所で如何いたがぜよ。」と聞くと「わしぁー、疲れたぜよ。龍馬、龍馬ゆうて、方々で扱き使われて休む暇もないがよ。まっこと、たまらんぜよ。そんで、ちょっくら抜け出て来て、此処で息抜きをしよらーよ。」と言っているような・・・・・。南国市のとある某レストランの敷地内に設置されちょります。横...

  • 小篭土居 - 長宗我部初代・能俊の三男・宗貞が分家して江村氏を称す

    [ 高知県南国市岡豊町小篭字西土居 ]上の写真は、熊野神社の北東から見た、小篭土居と思われる周辺。長宗我部氏の始祖・秦能俊が信濃から土佐国長岡郡宗部郷の地頭となり長宗我部氏を称する。その 三男・宗貞が分家して江村氏を称したとも、又・江村氏の養子になったとも伝わるが詳細は不明ながです。熊野神社の北側、東西100m・南北100m部程の平地が、小篭土居(江村土居)と推定されちょりますが、遺構などはその後の開墾等で...

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